沖縄・ミッションコンプリートへの道(第1回)

B普天間飛行場が見える場所?
さて,コザからはM氏にハンドルを交代してもらうことに。国道330号線を南下し,次に見たのは中城城跡と中村家住宅。どちらとも12月に行ったばかりの場所。詳細については「ヨロンパナウル王国の旅」第4回第5回を参照いただきたい。
次。これもH氏の「普天間飛行場が見たい」という意見を反映して,嘉手納基地におけるサンパウロの丘みたいな展望スペースを地図上で探すことになる。「よく,テレビで俯瞰で写しているのだと,横長に滑走路がある光景」という2人の記憶をヒントに浮上したのが,ともに宜野湾市にある,佐喜真美術館と森川公園。しかし,場所は飛行場を挟んで正反対である。北東に位置する前者と,南西に位置する後者。そして,ともに滑走路は左前方に見る格好になる。どっちにするか思案した結果,地図に“展望台”と記されていた森川公園に向かうことにする。
早速,カーナビで検索するが,無念にも「森川公園」では案内が出ない。それでは,と隣接する「宜野湾市立博物館」で再検索をしたらヒットした。地図でおよその場所は見当がつくが,やっぱり“精密機械”で改めて場所を知らせてもらうことで,安心感が一気に高まる。所詮は人間のナビなど役立たずである――そうグレてやると,2人はテキトーになだめてくれる。だれかといると,私は常にこんな調子なのだ。
国道330号線に出て順調に南下し,県道・宜野湾北中城線へ入る。道の分かれ目にある普天間宮も12月に見ている。この辺の記憶は鮮明だ。シェルの給油スタンドが置いてあるアンティークモールも,スーパーの「サンエー」も当然だが存在している(「ヨロンパナウル王国の旅」第5回参照)。しかし,今回はそれらを通過していく。
間もなく,カーナビが“口頭”で告げてくれた道を左折。その道はとても狭い道。それでもカーナビの示す通りのルート。素直に従って進むと,画面には「市立博物館」の文字。やがてその狭い道は,それよりも広い道と交差する。正面は完全に車1台くらいしか通れないような上り坂の路地。だが,その文字はグレーの地の中にポツンとあるだけだ。
これで道が完全に分からなくなってしまった。「展望台があるからには高台にあるんだろう」――我々の車は直進して,さらに狭い上り坂の路地に入り込む。“機会”がなければ入れない道だが,やはりというか,それらしき場所は見当たらない。結局,精密機械にも“限界”はあるのだ。
どっかの狭い駐車スペースで切り返して,来た道を戻ることに。その広い道を右折(=反対側からは左折)すると,右手にすぐ市立博物館はあった。駐車スペースがあることだし,ここで駐車して展望台に上ることにしよう。

その前に,せっかくなので宜野湾市立博物館を見学する。小高い丘の下にある白い体育館みたいな建物は,意外にも2人には好評。宜野湾の昔の集落および現在の市内のジオラマ,萱葺き家屋の再現など,結構金をかけている。別の会議室には,市の歴史を記した写真や書籍もあって,M氏とH氏は書籍をしばらく読み込んでいた。
また,一角には「宜野湾の未来を想像する」というコーナーもある。これは,現在基地として使われている土地が返還された場合,どういう街にしたいかというのをテーマに,小・中学生が「こうなったらいいな」という夢を白い画用紙に描いている。数年前の企画のようだが,「ディズニーランドのようなテーマパークができたら」と書いてあるのがあったのは記憶している。
でも,実際は飛行場がなくなってしまったら,彼・彼女の描く“理想”とは裏腹に,この街は一気に廃れてしまうのではないだろうか。ショッピングセンターにするにはあまりにデカすぎるし,プラス何か巨大な“ハコモノ”を作ったところで,そこに見込むだけの人が来てくれるか。何を整備するにしろ,莫大な金がかかるのはどうしても仕方ない。飛行場に土地を貸している人間への賃借料だってあるかもしれないし,基地があるということは,そこで働く地元民も当然いるだろうから,その人間の再雇用も考えなくてはならない。
もうこうなったら,この莫大な土地には緑を徹底して植えまくり,それが育つまで立ち入り禁止にして,人口の“普天間御嶽”を作り上げるのはどうだろうか。それでも土地が余るならば,残りはすべて,市営さとうきび畑にする(県・国でもOK。むしろ規模が大きいほうがいいか)。畑の収穫には少なからぬ労力が必要となるから,そこに新たな雇用が成立する。地主には賃借料が引き続き入ってくる。問題は,肝心の地元民にいわゆる“3K”になるかもしれない仕事が受け入れられるか。
あるいは,近ごろ増えているという県外からの移住者に任せるのも一案だ。いや,案外移住者のほうが目的をはっきり持ってやってくるだろうから,御嶽にしたってその移住者のほうが理解を示すかもしれない。やがて,外からの“風”が“ウチナーンチュ”の意識を呼び戻す……あまりに理想が過ぎるだろうが,決して誤った考えではないだろう。
さて,肝心の展望台。丘は見えるがはたしてどこから上がるか。受付で聞いてみると,駐車場の奥から上に上れるという。早速,土の階段をえいこらと上がっていくと,ちょっとした公園が現れる。奥手にはフェンスがあり,その先が多分,軍用地だろう。でも,高さは同じで俯瞰する格好じゃないようだ。近くでは中年以上と思われるおじさんたちが,ゲートボールに興じている。
結論。その展望台は軍用地とは反対側の海側を見下ろす形で備えつけられていたのだ。たしかに展望台には違いないし,眺望は悪くない。でも,それは我々の“望む”展望台ではなかった。とりあえず2人は記念に写真に収めている。ちなみに受付には佐喜真美術館のパンフが置かれていたが,そこには屋上の展望台に上がる階段の写真が。私はともかくとして,少なくともH氏が見たかったであろう構図は,佐喜真美術館にあるかもしれない。その“正解”は,時間があれば2月の旅行で確かめてみたい。

C世界遺産の“残り一つ”
時間は16時を過ぎた。国道58号線は少しずつ車が多くなってきている。このまま南下して素直にジャパレンに戻れば,早くても16時半。旭橋付近での渋滞を考慮して,もう少し遅くなるかもしれない。あるいは一か八かで,これまたH氏の希望だが,すべて行程を終えて,時間があれば最後に見たいと言っていた場所に行くか。
その場所とは識名園(しきなえん)という庭園。ここもまた世界遺産に指定されている場所だ。そして,実は沖縄の世界遺産の中で,唯一私がまだ見ていない場所でもある。ここを“制覇”すれば,沖縄の世界遺産はすべて制覇し,さらには秋田の白神山地を除けば,日本国内すべての世界遺産を制覇したことにもなる。
結局,とりあえず識名園方面に行くことにはする。で,時間に余裕があったら見る,ダメならそのままジャパレンへ直行というルートにする。ジャパレンへは一応,飛行機の出る2時間前を目処に返すように言われてきている。飛行機の時間は19時10分だから,17時台前半には返したい。もちろん「絶対に返せ」ということではないが,忘れちゃならない,一つ誰かさんの“重大な任務”が完了されていない以上,17時台前半には車を戻していないと不都合が生じてしまう。「何のために沖縄に来たのか。またはるばる来なきゃいかんのか」――そんな声が聞こえてきそうである。
車は国道58号線を順調に南下,カーナビが指示するまま,浦添市に入ってすぐ左に分かれる県道を左折,国道330号線へ再び入る。さらに那覇市に入ってすぐ古島(ふるじま)交差点にてまた左折。上にゆいレールを見ながら首里まで行くと,朝出発した道に戻る。那覇インターを通過して真地(まあじ)という交差点で右折。ここまで何の渋滞もなく来てしまった。結構奇跡に近いと個人的には思っているが,何はともあれ,16時20分過ぎに無事識名園に到着する。

識名園は第2尚氏の別邸として,王家の保養や外国人のお偉いさんの接待に作られた場所。造園は1799年。別邸は,市内にもう一つ,御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)というのがあったそうで,場所はいまの那覇インター近く。そこが首里城の東に位置していたため「東苑(とうえん)」と言われていたのに対し,ここは城の南に位置するので「南苑(なんえん)」と呼ばれたそうだ。
そして,敷地面積は約4万2000平方mと,王家最大の別邸だそうである。しかし,ここもご多分に漏れず第2次世界大戦で壊滅的にダメージを受けて,1975年から20年余りかけて復興がなされている。
入場口を入ると,鬱蒼とした緑の中に入る。もらったパンフの“順路”に従って進んでいく。周囲は住宅地になっていてそれなりに静かではあるが,また一段と静かで浮世離れした空間だ。そこを進むと右に正門が見える。さぞ豪華な門,と思ったら,屋根は赤瓦っぽいがこじんまりとした木造。入場口がしっかりしているからか,“裏門”と呼ばれてもしかたないような感じだ。
正門のところで左折。ガジュマルの木々を通りぬけると,次は育徳泉(いくとくせん)という井戸。水がしっかりあり,これから向かう池の水源にもなっている。その水源を越えると,いよいよ芝生の庭園。そして御殿(うどぅん)である。
御殿といっても,伝統的な平屋建て赤瓦の琉球木造建築。縁側には庭園を眺める人の姿があり,何だか落ちつく光景ではある。広さは525平方mと,同様の家屋で有名な中村家住宅(「ヨロンパナウル王国の旅」第4回参照)の3倍はある広さだ。部屋は15もあるという。もっとも,そこには王家と地頭というれっきとした差があるわけだが,部屋の広さもチマチマしていなくて,大らかな作りをしている。ただし,復元したものなので,歴史の重みみたいなものはいまいち感じられないのが欠点だろうか。
そして庭園は,和風の中に中国テイストを少しちりばめたような回遊式庭園。その中国テイストを演出するのが,石のアーチ橋と六角堂。アーチ橋は高さ1.5mほどのものと,ちょっと大きめの2m程度のものと二つある。六角堂は池の中に浮かぶ島にある東屋。てっぺんのトンガリからの屋根のカーブ具合が中国っぽい。ここにつながる橋もまた,ミニ石造アーチ橋である。
六角堂からの順路は,一段高くなったところを歩いていく格好に。途中,小さい滝が敷地の外に向かって落ちていくのを見るが,どうやら池の水が落ちているようである。後は,木々の中を黙々と歩いて,無事入場口に戻る。これにて私は沖縄の世界遺産・九つ,全制覇である。後で取ってつけたようだが,一応は“任務完了(ミッション・コンプリート)”としておこう。もっとも,感慨自体は湧かなかったが。

話を戻す。第2尚氏は明治の琉球処分により,東京に移住を余儀なくされる。しかし,引き続きこの邸宅は,第2尚家の所有物としてあり続けた。戦後の邸宅復興当時,尚家・第22代当主だった尚裕(しょうひろし)氏(1918-97)は,私財に加えて,国・県・市から公的支援を受けながら,着実に再現することに腐心したという。にもかかわらず,「わが国を代表する貴重な文化遺産であるから,公の機関で所管するのが望ましい」として,1992年11月に,玉陵や識名園,その他宝物などを那覇市に無償で譲渡することになった(その後,古文書なども贈与している)。
だが実は,遡ること4年前の1988年には,それらすべてを何と東京都台東区に寄贈して,保管をするための財団を設置する計画があったという。裕氏は東京都出身なので,それを考えればある意味当然の行動とも言えるが,その背景にはまた,沖縄県が文化行政に対して脆弱だったのがあったそうだ。このような動きを知って,沖縄県民の世論は“文化遺産の県外流出”を危惧する声となった。最終的にはそれらの県への移管に向けて資金造成運動を展開し,それが裕氏の心を動かして,台東区にも計画を断念させたということだ。
もしも,この時点で「沖縄にある東京都所有の文化財」というのが成立していたら,何だか安っぽい庭園になっていたような気がしてならない。やっぱり,その場所を管轄する都道府県が管理してナンボである。あるいは,今日の世界遺産という位置づけにもならなかったはずだ。いくら東京に移住してしまったといえど,それまで400年余り琉球を統治してきた名家。その歴史をコケにしてしまっては,ユネスコに推薦する資格すらないだろう。だらしなかった“官”を“民”が動かした,ある意味重要な出来事といえる。いまは亡き裕氏も,そこから十数年経って世界遺産に登録されるまでになったとなれば,私財を投じて長期間かけて復興させたのも浮かばれるというものだ。

(7)誰かさんの“重大なミッション”〜エピローグ
これですべての行程は終了。一路ジャパレンに戻る。日曜日の夕方ゆえに結構気にしていた渋滞にはまったく巻き込まれることなく,17時15分に営業所に到着。早いところ空港に行きたいが,カウンターでしばらく待たされる。何のことかと思いきや,どうやら向こう側の勘違いだかで,入会金が戻
ってくるようで,その金の手続を向こうがしていたみたいだ。結局,営業所で10分ほど待って,送迎バスで空港へ。
さて,すべての行程は終了したが,一つだけ誰かさんの“重大なミッション”がまだ遂行されていない。いや,厳密に言えば,「一部分が完了していない」と言うのが正しいか。
そう,H氏の“残された2駅間の処理”である。ホントは,ジャパレンの営業所からは空港まで戻るよりも,一つ南の赤嶺(あかみね)駅のほうが近い。もちろん,余裕で歩いて行ける距離である。しかし,M氏のボストンバッグの荷物が多く,たしかにそれをしょっての遂行は煩わしい。とりあえず荷物をコインロッカーに入れ,身軽な状態になったほうが,いろんな意味で楽である。
空港に着くと早速,コインロッカーを探し,2階の出入口近く,ゆいレールの乗り口に近いところに荷物を入れる。M氏のボストンバッグ以外にも,H氏のセーターと私のジャンパーも間借りさせていただく。
那覇空港駅ではちょうどモノレールが停まっていた。中はそれほど人はなく,3人とも無事着席して間もなく出発。時間は17時40分。とりあえず,目的地は美栄橋駅。18時前にはおそらく着くだろうが,国際通りを歩くのは,駅と通りの往復だけで10分はかかるため,とても不可能である。H氏と私は,とりあえず美栄橋までの往復のみにとどめる。
しかし,M氏は「それならば首里まで往復したい」と言い出した。携帯で早速時間を調べようとするが,何とまあそんな場面で彼の携帯の電池は切れてしまった。“知り合い”との連絡の取り合いが多かったからか。仕方なく,H氏の携帯で調べると,首里で3分の折り返しで間に合うとのこと。万が一アウトならば,そのときは仕方ない。
さらに小禄駅あたりで,突然「しまった!」とM氏。あわててゴソゴソしだしたが,何とコインロッカーのカギをつけたままにしてしまったという。まあ,3人いて誰も気づかないというのも呑気なものだが,大したものは入っていないはず。少なくともH氏はここまで来た以上は,引き返しづらい。M氏も首里行きの意思は崩れていないようだ。まあ,私もH氏と美栄橋までは行くことにしよう。
美栄橋には,17時55分到着する。M氏には緊急用のために私の携帯を預けることにし,H氏と私はここで下車する。改札を一度出て,我々2人の帰りの時間を調べると,18時3分発である。8分という中途半端な待ち時間では,ただボーッとするしかない。H氏はタバコを吸う。この駅のそばに土産屋というものは残念ながらない。その点はつくづくもったいない。
とはいえ,H氏の“重大なミッション”はこれで無事完了となった。いや,あるいは今回の旅行が催された理由自体がこれだ,と言ったら大げさか。何やかやと,3人それぞれに“重要なミッション”を抱えることになった(私はホントに思わぬところだった)ようだが,誰もとりこぼすことなく,無事に“コンプリート”と相成った。お疲れ様である。

我々2人は,先に空港へ18時20分に帰還。帰りのモノレールの中でM氏から電話が入り,「ミッション・コンプリート」とのこと。折り返しの予定のモノレールにも無事乗れたという。これで彼を置いてけぼりにせずに済んだ。しかし,彼までゆいレールで“ミッション・コンプリート”とは驚きである。ちなみに私は今回が8回目の乗車だが,いまだ那覇空港と美栄橋の間しか乗っていない。
さて早速,コインロッカーに向かったが,荷物はすべて無事だった。もしカギがかかっていなかったら,コインロッカー代はどうなるのか。一旦カギをかけてから開けないと“犯罪”になるのか――荷物が無事かというよりも,なぜかその方向で2人は話をしていたが,カギはしっかりかかっていて抜き忘れただけ。代金200円は,しっかりとコインロッカー会社に納められていた。(「沖縄“任務完了”への道」おわり)

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