奄美の旅(勝手に)アンコール

Aとりあえずは“県道沿い”から
ミラは島を東進するルートを取る。加計呂麻島の道は,都内の“1本入った道”よりも幅が狭い。でもって,たまーに勾配が急になる。フェリーから見える緑だらけの島の光景は,決して見かけだけではないのだ。こういう島には,本格的な乗用車よりもよほど軽自動車のほうが合っている。島はそれなりに大きな島ではあるが,大型車なんてのはすれ違えるかどうかなんていうことより,島の“素朴さ”から生まれる“簡潔さ”みたいなものと,どうにもミスマッチな感じがしてくるのだ。
だからかどうかは分からないが,どうにもこのミラはスピードが出ない。いや,出す気がしないというべきなのか。「馬力がない」という物理的なものだけではあるまい。そりゃたまには出したくなって実際に出したりしてしまうが,それでもせいぜい40km/h程度。「そんなに急いでどこへ行く」って感じで,トコトコと走らせていったほうが,何となくしっくり来るような気がする。
さて,何度目かの坂を登りきった頂上あたりに赤い鳥居が突然現われる。昨日の請島で見た美ら島神社(第3回参照)と似たような光景だが,こちには「ムチャ加那節の碑」とそばの案内板にあった。見れば南国の木が生い茂る森の中を階段が走っており,それをひたすら上がっていくようだ。ま,旅はまだ始まったばかりだし,とりあえず最初の見所ということで,ミラを降りて見に行くことにする。
……とはいったものの,相当な道のりがあるし,勾配も結構急である。救いなのは木で組みたてられた階段がついていることか。それでも相当登ったと思った。「足腰の弱い人ならムチャ加那道」などと,くっだらない一句が浮かんだ。結構な早足だったから3分ほどだったか。10m四方ほどのスペースの端っこに金文字の大きな石碑と,高さ1m×50cm四方くらいの小さい祠があった。祠には榊とロウソクと香炉に一升瓶まで供えられてあった。あるいは沖縄風の「御嶽」みたいなものだろうか。樹木が邪魔であまりよく見えなかったが,奄美大島との間を走る大島海峡を見下ろす位置にあって,景色を見下ろす丸太棒1本のベンチもあった。
『ムチャ加那節』とは,絶世の美女・ムチャ加那と,その母親でこれまた美女だったウラトミの悲劇を唄った島唄のことで,別名『ウラトミ節』とも言われる。喜界島・小野津(おのづ)にもこの『ムチャ加那節』の石碑があって,見に行ったことがあるが(「奄美の旅ファイナル」第5回参照),ここ生間は母親・ウラトミの出身地であると言われていることから,碑が建てられているのだろう(そのことから『ウラトミ節の碑』とすべきではという説もある)。ちなみに,祠はこのムチャ加那節とは関係がないらしい。あるいは元々祠のほうが先にあって,後からテキトーに観光協会が碑を建てたというのか。
概略を言えば,「ウラトミが両親の手でここ生間から海に流され,流れついたのが喜界島は小野津の地。そこで生まれた子どもがムチャ加那で,そのムチャ加那がこれまた,母親の運命をそのまま受け継ぐがごとく悲劇に襲われる」ということである。ただし,この人物の相関関係にもいろいろと諸説があって,はっきりしない部分があったりする。詳細は「奄美の旅ファイナル」第5回を参照されたい。
ミラに戻って東進を続ける。すると間もなく,砂浜が見えてきた。渡連(どれん)海岸と呼ばれる辺りである。ここには「プチホテル加計呂麻」「来々夏ハウス」などというペンションがある。海沿いに建物がありウッドデッキなどもついていて,リゾートしている感じだ。レストランもあったが,弁当を買ったので用はなくなった(前回参照)。季節外れにこーゆーリゾートホテルに泊まるのも,なかなか面白い気がしてくる。もちろん,天邪鬼的視点からではあるが。
その少し先に防風用の生垣の隙間から砂浜に出られる小道があった。一旦降りてそこから砂浜に出る。砂は黄色かったし,海もどっちかというと南国独特のマリンブルーっぽくない。ただ,人がまったくいないのが,奄美らしい“愁い”のようなものを醸し出している気がする。シーズンになれば陽射しももっと明るくなってイメージが変わるのだろうが,雲の隙間から青空がのぞいている程度の空の下だと,かえって寂しさのほうが前面に出てくるものだ。
その先には渡連集落がある。島を東西に結ぶ県道から分かれて,海岸沿いの道を入っていく。ごくごく海辺の集落といった感じで,どんづまりでとっとと折り返す。特に降りて見たものはない。海岸まで行けば何か浮き桟橋みたいなものがあったらしいが……県道との二股のところには「集落全体が貴重な文化財」と書かれてあった。残念ながら失念してしまったが,歴史上でも重要な場所らしい。看板に土俵の絵が描いてあって,相撲の神様がいるとかあったっけ。
再び県道に戻り,そのままさらに東進する。目指すのは島の東端にある安脚場(あんきゃば)である。くねくねした道をしばし通り抜けると,「←安脚場戦跡公園 1.2km」という看板があった。しかし,そちらを見れば,わずか先にあるどんづまりに低い防波堤しか見えない。はて,このまま行っていいのだろうかと思いつつも防波堤まで出ると,今度は右に向かって防波堤の下を道が走っている。もちろん,車が1台通れる程度の幅しかない。ますます不安になってきたが,どうせこっちが正しくなければどっかで折り返せば……今まできちんと舗装されてあったのが,ここだけガタガタ道。それでもしばし我慢して抜けて右に道が折れると,また舗装道路に戻った。まったく,ややこしいぜ。
いよいよ道は山道となってきた。勾配の高いところに公園があるのだろう。F氏には「林道や裏道に入るな」と言われていたが(前回参照),こーゆーのは「林道」「裏道」って言わないのだろうか。ま,県道レベルだったらば多少のガタガタ道は許そうってことか。そのまま進んで最後のスロープを越えると景色が大きく開ける。10台は停まれる立派な駐車場。ここが「安脚場戦跡公園」である――そういや,この安脚場まで路線バスが通っていたはずだが,どっかのホームページにあったこの公園へのアクセスでは「バス停から徒歩20分」とあった。あるいは,あの防波堤の手前あたりで折り返すのか。

公園の入口には大きな看板がある。見れば,さらにスロープを上がって,一帯の岬地形をぐるっと回るようなコースらしく,見所もいくつかあるらしい。通路はレンガ敷きでしっかりとしたもの。加計呂麻島の戦跡というと,呑の浦の特攻艇格納庫などがある戦跡も有名だが(「奄美の旅ファイナル」第3回参照),こちらはさらに本格的なもののようだ。島はリアス式海岸の複雑な地形をしているため,その地形を利用して第2次世界大戦時には陸海軍の要塞とされていたのだ。
まずスロープを1分ほど上がると左右に道が分かれる。たしか,地図では右のほうに行くような雰囲気だったので右に行くと,弾薬の格納庫跡があった。人の背丈よりやや高めの“∩”型の入口が二つある。そのまままっすぐ中に入れるのではなく,わざと左右に折れる(左の入口は左に折れ,右の入口は右に折れるような造り)のは,簡単に入ってこられないようにするためか。中は真っ暗だったが,5m四方ほどのスペースがあった。ちなみに,お互い同士は中ではつながっていないようだ。
さらに進むと,頂上らしき芝地がある(この途中に水を溜めておく井戸のような跡があったらしいが,見事に見落としていた)。展望台のようになっているが,かつてここには砲台があったらしい。それらしきものはよく分からないが……空は雲が広がり出して,風が強く吹きつけてきている。あるいは,これが“雨マーク”の前兆なのか。この芝地がちょうど岬の突端のようになっていて,散策道は反対側に抜け方角的に戻る格好となっている。岬の左は大島海峡,右は太平洋である。
その戻ってくる道の途中に見えたのは,ガマのような穴が二つ。自然にできたのか。あるいは人為的に造ったのか。謎ではあるがわざわざフタのようなものがあったのを見ると,何かを隠すために造ったのだろうか。周囲はすっかり南国の樹木が覆い被さって見えない。崖沿いに走る道は途中から,下り坂となって内陸へ続いていく。
そして,下り階段のようになったところの途中で,これまた二股に分かれる道。片やそのまま下っていって鬱蒼とした中に入りこんでいく道。もう一方は右手に登っていって岬っぽいところに出そうな道だ。当初,登っていく道を選んでひたすら上がっていたが,どうにももう一方の下り道が気になって,来た道を戻って下り坂を下がるとビンゴ。砲弾格納庫跡だった。
木々に囲まれた――というか,元々樹木が先にあったところにそれを強引に作った感じか――中,静かに佇むそれは石造りだ。地面のラインは地形そのままで,上部は上部で曲線を描いているから,全体を見ると横長の楕円形,ちょうど人の目のような形に見えてくる。はたまた沖縄の亀甲墓の変形にも見えなくもない。高さは一番あるところで5〜6m,幅は10mほどになろうか。
あとは「“∩”型の入口が二つある。そのまままっすぐ中に入れるのではなく,わざと左右に折れる(左の入口は左に折れ,右の入口は右に折れるような造り)のは,簡単に入ってこられないようにするためか。中は真っ暗だったが,5m四方ほどのスペースがあった。ちなみに,お互い同士は中ではつながっていないようだ」――と,上述の文章を引用しておく。要は同じ造りをしているということだ。
そして,さっきの階段を再び上がっていく。緑の中を抜けていくと,コンクリート製で窓が四つ開いている建物の跡があった。「金子手崎(かねこてざき)防備衛所」と呼ばれ,周辺海域の潜水艦の侵入を防ぐための基地。もし侵入が確認されれば,その場で機雷で爆破したそうである。先ほどの格納庫とともに,1941年に構築されたものだ。そばには展望台があって,5m四方程度のデッキが設けられている。この位置にはかつて灯台があったそうだ。
中に入れる――全部ガラスなどが取っ払われているので入り放題――ので入ってみると,改築でもしようというのか工事の道具があちこちに散乱していて,柱がいくつも組まれてあった。広さは畳20畳ほどの部屋と,8畳程度の部屋が二つほどといった感じ。どこが何だったかまでは分からない。たまにヤギがここを隠れ家にするらしいが,今回見ることはなかった。端が崩れかけた階段があったので,2階になっているのかと思ったら,ロフトのようなものがあるだけだった。この防備衛所から少し下がったところにも,もう一つ,平屋建ての弾薬格納庫がある。陸軍が大正時代に構築したものを海軍が兵器庫として使ったものとかいう説明書き。こちらにも窓が四つあって,広さは15畳程度だったか。
40分ほどかけてぐるっと見てきて,また駐車場に戻ろうとすると,最初の二股で7人ほどの団体の客とすれ違った。そばには路線バスである加計呂麻バス(「奄美の旅ファイナル」第2回参照)のマイクロが1台停まっていた。なーんだ,ここまで上がってこられたのだ。見れば,行き先案内板が出ているままだったが,紛らわしくないのか……男性の運ちゃんらしき人が案内している。たしか,観光コースをめぐるツアーもやっているというから,これもその一つということか。

B島の“裏側”にある観光地へ
来た道を戻って途中から左に折れる。次に向かいたいのは徳浜(とくはま)集落と,前回も行ったことがある諸鈍(しょどん)集落(「奄美の旅ファイナル」第2回参照)。すなわち,対岸の集落に出ようということだ。この左に折れる道は,F氏(前回参照)いわく「ここは比較的いい舗装された道」。いまいち,F氏の感覚というのが分からない。ま,ジャリ道を入らなければいいのだろうか。
二つの集落の間には山越えがある。この山越え。どこの集落同士でもそうである。大抵は一つ山を越える格好だ。すなわち,この島は谷間に点々と集落がある島なのだ。もっとも,一つ一つの集落自体はごくこじんまりとしたものであり,もしかしたら見過ごしてしまうかもしれない。それでも,公共のバスがきちんと行き来しているということは,言葉が適切か分からないが「認められている」ということであろう。本数は少なくとも,決してどこかが“陸の孤島”となることはない。加計呂麻バスを「人情バス」と喩えたことがあるが(「奄美の旅ファイナル」第2回参照),その人情バスの面目躍如であろう。
そんな陸の孤島ににりかねないような,島の端っこにある集落の一つが徳浜集落である。山越えをすると諸鈍集落の南端に出る。これを左折し,たまたま工事していて余計通りづらかっただけだろうが,すごく狭い道をまた山越えして進むこと数分。目の前に大きな空と海が広がると,道もそこだけだがロータリーのように大きくなった。このロータリーから五差路っぽく道が広がっている感じで,先にも入っていけそうではあるが,今までよりもさらに道は狭くなる感じだ。
「徳浜」と書かれたバス停がそばにあって,その下には「←諸鈍」とある。「→」の方角には,文字が入るべきところ,矢印もなく空欄のまま。すなわち,ここが終着点だ。それにしても,次のバス停が諸鈍というのは,随分バス停間が長い気がするが,たしか私がバスに乗っていた限りでは(「奄美の旅ファイナル」第2回第3回参照),「ここで降ろしてくれ」と指示したところで降ろしてもらっていた気がする。すなわち,バス停はあくまで“目安”っていうだけで,島全体が「自由走行区間」なのだ。
……ま,そんなことはどーでもいいとして,誰も来ないだろうからと片隅にミラを停めておく。ちょうど加計呂麻バスが1台,路地に入り込んで停車していた。ただいま,10時15分。次に出るのは11時55分。何とまあ,気の遠くなりそうな待ち合わせ時間ではないか。1日3往復しているようである。もっとも,こんな気の遠くなる待ち合わせ時間は,のんびりした南の島だからできそうなものだと思った。
海に向かって続く道を徒歩で入っていく。途中,あばら屋の中に木と白い物体が見えたので,「何だろう?」と思ってのぞいたら,白いのはヤギだった。目が合うと「メェ〜」と一鳴きした。すると,すぐ近くに佇んでいた犬が,突然「ワンワン!」と吠え出した。お前ら,防犯センサーか?――私を警戒したのだろうか,犬がしばらくこちらについてきた。うーん,少なくとも向こう側の認識としては,「めったに来ない輩」ということで“コンセンサス”を得ているのだろう。とはいえ,途中で面倒になったのか,はたまた私の“オーラ”が大したことないのにあきらめたのか,追ってこなくなった。
ロータリーから徒歩3分ほど,民家の間を抜けていくと,徳浜海岸に着く。さっき見た渡連海岸よりも規模はデカイし,晴れだしたからか,海の青のグラデーションが美しい。でも,ここに渡連にあったようなリゾートペンションは似合わないなーと直感する。この美しい砂浜に野暮ったいのは,防波堤のコンクリートか。ま,たかが防波堤ごときで不快になっていては元も子もないかもしれないが……なお,ここもまた『男はつらいよ』の最終第48作「寅さん紅の花」(以下「紅の花」とする)のロケ地となった。満男(吉岡秀隆)が泉(後藤久美子)にプロポーズする場面に出てくる。あまりに不器用すぎる満男のプロポーズが,かえって微笑ましくすら映る。
5分ほど砂浜にいて,ミラへ折り返す。さっき,道の途中までついてきていた犬は,いつのまにか,どっかに消えていた。南の島という場所はそののどかな雰囲気によって,人々の性格ものんびりとしてあっさりしたものになると思われる。あの犬もご多分にも漏れず,そうだったのかもしれない。再び集落にはのどかな時間が戻った。

再びミラを走らせて,10分ほどで諸鈍集落に到着する。今まで見た中では最大の集落だと思う。家の数もかなり多い。今まで見た集落の海岸よりも規模がでっかいからか,開放的な印象を持つし,観光地を抱えている集落の強みというのか,ヘンに「そのまんま」「汚れたまんま」にしておかないところがいい。もちろん,他の集落が汚れているということではないのだが,どこか漂ってくる“オーラ”が違う。「ここは観光地を持った集落なのだ」ということか。
はて,どこに停めようか……なぜか日曜日なのに開いていた郵便局を通り過ぎ,結局は「男はつらいよ」のロケ地という看板がある公園広場に停める(「奄美の旅ファイナル」第2回参照)。ここから続いていくデイゴ並木の中へも,このミラならば入っていけそうな雰囲気だが,どんづまりで転回できずに戻ってこられなくなる(ま,バックで戻ればいいだけだが,それはそれで辛い)のがイヤなので,ここで停めるのが賢明だろう。外はすっかり晴れ上がって,少し汗ばんできていた。
とりあえず,前回と同様にデイゴ並木を歩く。葉がすっかり落ちて,まるで白樺っぽいになっている。中には幹にぽっかりと穴があいているものもあった。たしか300〜500年という樹齢だと書いてあったが,その時間はダテではないのだ。これらの木々が海岸線&防波堤の孤と並行して走る。前回は時間がなくて途中で引き返してしまったが,今回は端っこまで歩いてみることにする。150mほどと言われる海岸線をトコトコと歩く。この途中に,「紅の花」のリリーの家(「奄美の旅ファイナル」第2回参照)があるはずだが,はて看板らしきものがないので,どれもがそれに見えてくる。いずれにせよ,この中のどこかで話が展開していったことだけはたしかだ。
5分ほど歩いて,どんづまりに着いた。小さい漁港のようなマリーナのような雰囲気だった。静かで素朴でいい。そして,意外と言っちゃ何だが,かなりキレイだったのが砂浜。実にきめ細かくて,足を踏み入れるのがもったいないくらいだった。そして,踏み入れると実にフカフカしている。寝転ぶことは今回しなかったが,クッションのように気持ちいいのではなかろうか。
また来た道を戻る。再びリリーの家を捜すことに。もしかしたら…と思って,1本狭い路地に入った家々も見てみる。ごくごくフツーで際立った家というものがない分,どうにもそれらしきものはない気がするし,はたまたどれもそれっぽく見えてくる。ま,今回は海岸線の端っこまで行ったということだけでも,よしとしようか。何となく車まで戻ってくると,たまたま軽のパトカーが停まっていて,そこからスマイリー・キクチ氏に似たような背の高い男性警官が降りてきた。何事ぞと思いきや明るい声で,
「リリーの家,見つかりました?」
「いいえ,どれがどれだか……」
「そうですか。たしか,緑色の屋根の家なんですけど。
あ,塀が台風で壊れたのかな?――やっぱり看板が
ないと不便ですよね? よく来た人に聞かれるんです
よ……看板早くつけろって,観光課には強く言ってる
んですが,いろいろあって……どちらからおいでで?」
「東京です」
「そうですか。それではお気をつけて」
こんな感じで話をして,再びパトカーに乗って立ち去っていった。巡回をしていたのか。それにしても,今回はいろいろ人と会話する機会が多いのは気のせいか――ま,それはいいとして“ヒント”をもらったとなれば,またそちらに行ってみたくなる。そういや,そんな家を見たような気がするが……と思い,再び海岸沿いを急ぐと,割と入口に近いところにたしかに,緑のトタン屋根の家はあった。しかも,端っこの塀が崩れたままだ。中に入ってみると,どうやら無人の模様だ。だから塀も崩れたままなのか。映画を見た感じでは,2部屋程度と台所の間取りだったと思う。
ちなみに,集落内にある諸鈍小中学校のホームページにある「校区のようす」というコーナーでは,しっかりと「リリーの家」と書かれた看板がある写真があった。映画のワンシーンのシナリオが書かれた立派な看板だ。(このときは泉にフラれて)傷心だった満男をリリーが家に招き入れるシーン。この家で満男は伯父である寅次郎(渥美清)と再会する。満男が驚きのあまりに半身になってよじのぼる石垣が,いまこうして崩れているわけだが,はて,今となってはあの家で正しかったのだろうかと,怪しく思えてくる。でも,路面は多分デイゴ並木の路面に間違いなさそうだし……やっぱり観光課さま,看板を早いところ取りつけてください。
その諸鈍小中学校へも,今回は時間があるので行ってみる。ま,中はさんざん見てきたものと変わりない昔ながらの校舎であるが,校門だけが違和感たっぷりに真新しくなっていた。開校120周年記念で作ったものとのこと。その間には第2次世界大戦で空襲で校舎が全壊。先ほど行った安脚場にあった軍の兵舎(の資材)を,皆で何度も往復して運んで校舎を作ったなんてエピソードもあるらしい。
そこから少し行ったところには,大屯(おおちょん)神社というのがある。重要無形文化財である「諸鈍シバヤ」という民俗芸能が上演される場所だが,いまの神社はどこにでもありがちな,神社らしい緑のシチュエーションの中にある「単なる神社」である。真ん中にたしか,土俵のように盛り土された場所があって,右手には小さい祠。奥には赤い屋根の社…いや,これが本殿なのだろう。そういうレイアウトになっている。本殿のドアには郵便受けみたいな細長い穴があって,中をのぞいてみると一升瓶と榊が見えたが,思いのほかがらんどうな感じであった。
この神社を有名にしている「諸鈍シバヤ」,まずは,網笠をかぶって紙の面をつけて白いズボンに黒の半纏といういでたちの男性が,「シバヤ」と呼ばれる草で作った楽屋(漢字で書くと「柴家」「柴屋」ということだろう)から杖をつきながら出てくる。私は土俵がステージにでもなるのかと思ったら,本殿寄りの平らな砂地が舞台になるそうだ。その舞台では杖をついた男性が,滑稽な動きで1人芝居を始める――ま,これは演舞のほんの一部だが,踊り手は男性のみで女人禁制だそう。元々は「平家落人伝説」に源を発していて,1185年に源平最大の合戦である「壇の浦の合戦」で敗れて入水自殺をした平家の1人・平資盛(たいらのすけもり,1161-85→「奄美の旅ファイナル」第6回参照)が,この諸鈍に流れついて島民に披露したのが最初という。諸鈍小中学校の男子生徒と,若手成年らによる「保存会」が伝承しているそうだ。

ミラに戻って,そろそろ昼なので古仁屋で買った弁当(前回参照)を食べることにする。メシはチャーハン。具はニンジン・キャベツ・タマネギ・卵で上にきざみのりがかかっている。おかずはフライドチキン焼しゅうまいエビウインナー卵焼きナポリタンサラダ(キャベツとレタス)に漬物(桜漬け・たくわん)というラインナップ。暑くなってきたので,エアコンをかけていたのだが,途中からどうにもうるさくなったので,エンジンを停めて窓を開けることにした。少し強くなっていた風が天然のクーラーになって心地いい。どこにでも売っていそうな500円の惣菜弁当ではあるが,厳密には車内とはいえ,屋外で食べると,何とも美味く感じるものである。(第6回につづく)

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