奄美の旅ファイナル

(1)プロローグ
@加計呂麻人情バスに乗る
とびうお1号は,14時20分に加計呂麻島に滑り込む。入港するのは瀬相(せそう)港。古仁屋からは西南の位置にある。ここともう一つ,真南の生間(いけんま)港が島の玄関口だ。古仁屋から前者に1日4往復,後者に同3往復の都合7便,フェリーが運航している。
港といっても,シンプルにコンクリートの護岸がしてあるってだけの素朴な印象の場所だ。まして,いま停泊しているのは小さい海上タクシーが1台だけ。なおさらシンプルさが際立って,人がまったくいなければ少々貧相さすら感じてくる。待合室らしき小さな平屋の建物はあるが,民家らしき建物はほとんどないと言っていい。
この瀬相で目立つ建物は二つ。まず,陸に向かって右にあるコンクリートの横長な建物には「加計呂麻徳洲会病院」とてっぺんの出っ張りに書かれている。そして,もう一方の左には海にへばりつくように3階建ての公団アパートのような建物。少し距離があるせいか,建物じゃなくておもちゃのブロックが水の向こうに置いてあるような感じだ。その隣には青い大きな方向板。数m四方はある,都会でよく使われている大きなヤツだ。この島にそれがあるとは,ちと驚いた。
さて,港にはその狭さに反比例して,実に多くの乗り物やらが並んでいる。右サイドには5台整列して並ぶ,黄色地に赤いストライプのマイクロバス。これが加計呂麻バスだ。今回この島で私が乗るのはこれである。たとえボディは小さくても,島の中をくまなく走っている,島にとっては欠かせない交通機関である。来るときからも想像できたが,小さいバスで十分なのだろうし,小さくないと小回りが効かないってのもあるだろう。バスのそばにはブルーグレーの男性が数人たむろする。彼らがおそらく運ちゃんであろう。あの運ちゃんも,もしかしたらいそうな気が……。
なぜこれに乗ろうと思ったか――それは「管理人のひとりごと」Part24にも書いたが,フジテレビの「めざましテレビ」で現在やっている“ワールドキャラバン”のコーナーで,この加計呂麻バスが取り上げられたからである。番組では台風で破壊された家を修復している場面,島の物品輸送のかなりがバスに支えられていること,しかもそれがタダであることが紹介されていた。
そして,最後に島でバスを走らせて20数年という中年男性が登場。上述の私が気になった運ちゃんとは,このテレビに出た運ちゃんだったのだ……ま,たかだか数分のコーナーだったが,上手いこと観られたこともあり――厳密には会社に行かなくてはならなかったので,ビデオに撮っておいた――,これに乗って島をめぐろうと思った次第だ。その運ちゃんの姿を見たような気がするが,はっきりとは覚えていないし,別に声をかける必然性もないから,とっとと乗るバスを探そう。
ホントは,フェリーに車を乗せて島内を旅しようかとも思った。そのほうがバスが通っていないところも行けるし,バスの時間に左右されずに済むためである。小回りもバス以上に効く。しかし,瀬戸内町のホームページに出ている加計呂麻バスの時刻表を見たところ,それなりに接続が上手く行くことが分かった。しかも,主要な観光スポットに結構回れそうだ。車は往復でフェリーに乗せるだけで数千円かかるので,値段的にも圧倒的にバスのほうがトクだし,都合により歩く区間も出てくるが,そもそも旅の原点は歩くことである。急ぎ足でいろいろ見るよりも,場所は限定されても集中して1カ所を見るほうが,いろいろと“発見”ができるかもしれない。そんな当たり前のことをやってみる……もっとも,結局は今日フェリーがドック入りで動かなかったから,バスに乗るしか選択肢はなかったということになるが,ほぼ事前に気持ちは固まっていたのである。
――話を戻して,これから乗るバスはもう一つの玄関口・生間行きのバスだ。これも2種類あって,今まで見てきた大島海峡側の海岸沿いを走るバスと,その逆の南側の海岸沿いを走るのとがあり,いま私が乗りたいのは後者である。そして生間まで行ってからは前者のバスでここ瀬相に再び戻って,18時5分発の海上タクシーで古仁屋に戻るのだ。間隔が1mも離れずにキレイに整列している中の真ん中,フロントグラスの上のほうに「生間―瀬相」という小さな方向板がある。これだけでは分からず,脇にあった細長い方向板に“秋徳”という文字が書かれていた。これが乗るべきバスである。車内は誰もいないが,ひとまず乗って待っていよう。
中は1人席と2人席が通路をはさんで並んだ,ホントにマイクロバスである。20人も乗れないと思う。そして,いくらもしないうちにオジイやオバアが続々と乗ってきた。私と同世代か,あるいはもう少し上という人の姿はまったくない。すべて65歳以上,年金生活バリバリ(?)って感じだ。しかも,1人を除けば80歳以上と思われる。最終的には私を含めて10人が乗車。そして,ブルーグレーの作業服を着た運ちゃんが一斉に自分のバスに移動。後で確認したら,船に合わせてバスも各方面に散っていくようだ。その一斉に散っていく様が何となく面白い。14時25分,出発。あれ,たしかこのバスって14時半発だったような……。ま,そこは“融通を利かせた”のかな。

バスは海岸沿いを東進すると,早速狭い山道へ入る。無論,マイクロバスが1台通れる程度の広さだから,その辺りは押して知るべし。カーブもあり,勾配もあるとなれば,バスは当然ながら揺れる。「キコキコ…」という音がしたと思えば,溝でも越えたのか「ガタン!」となる。ふと,波照間島で溝を渡るときにワゴンを減速したアンちゃんを思い出すが(「沖縄はじっこ旅U」第9回参照),こっちの中年運ちゃんは豪快に走り抜けていく。捉え様では,こういう狭路は“腕の見せ所”とも言えるだろうが,毎日運転しているから,その辺りは慣れた手付きなのだろう。何しろ客を乗せているわけだし,こういう山道は中途半端にノロノロ走っていては,いろいろとよくないのかもしれない。
そして,車内ではドアそばに座ったオバアとオジイが何やら会話をしている。狭い車内の誰もが聞き取れる大きな声だが,残念ながら内容を聞き取ることができないといった状況だ。多分,それは私だけだろう。いかにも年寄り特有の方言丸出しの会話だからだが,単語がたまに出てきてそれは聞き取れても,文章としてはまったく分からない。方言で会話するというのは,彼らが同じ場所の出身でつながっていることの証みたいなものだし,そこによそ者が入り込む余地はない。だけど,同じ日本人がしゃべっているのに聞き取れないというのが,どこかもったいない気分というか,ネガティブな言い方をすれば“排他的”なんじゃないかと思えてくる。
そういや余談だが,学生時代に英語が結構得意――それが“受験英語”であることは言うまでもないが――だったが,ヒアリングだけはなぜか苦戦した。英検2級を高校3年のときに受けたときも,恥ずかしながら筆記試験は受かってヒアリング試験で落ちた有様だ。大学に入ったその年の夏に,ヒアリング試験だけを受けに隣の市(このときは埼玉県在住だった)の学校に行った覚えがある。日本語でさえヒアリングできないのだから,いわんや英語をや…ということだったのか。
話を戻して,小さい山を貫くトンネルを抜けると,海沿いの集落に入った。於斉(おさい)集落である。数軒の家があり,道は“路地”という言葉がぴったりの狭さ。やがて,防波堤に沿った通りにぶつかるところでバスは停車。脇には巨大な数mの高さがあるガジュマル。その下がバス停だなんてシャレている。あるいは,バス停があったのかもしれないが,それらしきものは確認できなかった。でも,目印としては一番分かりやすくていいだろう。
バスはここを右折。花富(けとみ)集落に向かう。ふと,ケータイで時間を確認すると,通過時間が4分早いがいいのか?……左に連なるジャリ浜を見ながらの走行。進行方向右側に座席を取ったのが惜しまれる。さらにはコンクリートの護岸が余計っちゃ余計だが,台風銀座ゆえに仕方ないのだろう。「めざましテレビ」でもやっていたと思うが,家は道路から1段低いところに建っている。これもまた台風と高波対策である。次の集落・伊子茂(いこも)もあっという間に通過。でも集落…って,家がそもそもあったがビミョーだ。
ちなみに,この辺りは「ちょうきく女節」という島唄の舞台だそうだ。何でも,集落には“ちょうきく”という女性と“活国(かつくん)”という男性がいて,相思相愛の仲だったのだが,ちょうきくが親の勧めで他の男性と婚約させられたため,活国は心中を決意。1人で出かけたちょうきくを刀で刺し殺したのだそうだ。で,面白いのは,普通こういうのって言い伝えや伝説が多いのだが,明治6年(1873年)に起こった実話だと言われている点。ま,「面白い」はいささか不謹慎だが,こういう悲恋話が歌になるというのは,どこの地域にも共通なのかもしれない。そして,多少は脚色されたりすることも。
14時35分,花富バス停に到着。道はそのまま右に折れて続いていくが,そのカーブがちょっとロータリーっぽく広くなっていて,そこがバス停だ。乗っていた乗客が,私以外すべてここで下車する。ある意味,送迎バスっぽかったと思う。そして,運ちゃんは中に積みこまれた荷物を下ろす。運ちゃんの“運”とは,無論“運転”の頭文字であるが,この島では“運搬”も兼ねているというわけだ。
さて,全部荷物を下ろし終えたはずだが,なぜか大きな袋1個余っている。中にいるのは私だけ。運ちゃんは「多分,違うだろうな」と思っていただろうが,その荷物を掲げて少し恥ずかしげに私にアピールする。もちろん,違うことは言うまでもないが,間もなく降りた客のうち1人のオバアが,あわてて戻ってきて一件落着。時間にしてわずか数分だが,これまた“人情バス”の光景の一つだろう。こういうことや,あるいは下車・乗車にかかる時間のために,バスは通過できるところはバンバン通過して時間を稼いだりもするということか。ま,バンバン通過するのはどこの路線バスもそうだろうが,都会では大抵渋滞予測とか,目的が若干異なるだろう。はたまた,運ちゃんが単純に早く行きたいからなんじゃないかということもあろう――ちなみに花富は,朝崎郁恵(あさざきいくえ,1935〜)という女性唄者(島唄を唄う人)の出身地とのこと。名前は聞いたことがあるが,いまいち……。
バスはここで転回し,再び於斉に戻ることになる。イラストっぽい地図だと,ここで道が終わっているように描かれているが,それはこのバスの転回が影響しているのではないかと想像する。おそらく…いや,間違いなくこの先も道が続いて,西阿室(にしあむろ)という集落に辿り付けるはずだが,あるいは落石だとかジャリ道で,さしもの人情バスも命までは危険にさらせない……かどうかは知らない。西阿室へも瀬相からバスが別途出ているが,どうせならばぐるっと二つの集落を一気に回ればなんて思ってしまう。ま,そんなルートは欲張りな私の頭の中だけで走らせれば十分かもしれないが。
行きは残念だった座席は一転,海を臨むいい席に変わる。海は何もないシンプルなだけの穏やかさだ。少し翳り加減の太陽に水面が輝き,たまに船が置かれているのが,いかにも「地方のシンプルな海」って感じを思わせる。そして,あっという間に於斉に到着する。ガジュマルの下で,男女1人ずつが乗車。多分,瀬相からバスが来たときにすでにいたんじゃないかと思うが,ガジュマルの木の下で気長に戻ってくるのを待っていたりしたのだろう。無論,2人とも年金生活をしているであろう年齢であることは言うまでもない。

於斉からはまっすぐ進んで,しばらく見ていた海と一旦お別れで,山道に入る。カーブと坂道が交互に続き,ふと正面にある「急停車に注意」の赤いランプが何回も点滅しているのに気づく。別に,スピードはそこそこあるとはいえ,“急停車”しなくちゃいかんほどではないのだが,対向はさすがにできないから,それだけ神経を使ってブレーキを踏んでいないといけないということだろう。そして,車は常にモーターの音が“ウンウン”とうなっている。これまた常にギアはローかせいぜいセカンドだろう。
14時45分,勢里(せり)バス停。狭い道の脇に藁葺きで高床の家。21世紀にこういう建物を見ると,はて展示用かと思ってしまうが,はたして実際に使われているのかどうか。ここで於斉で乗った2人が下車し,また車内は私1人となる。ドアが開くと,外からは大きなカエルのようなセミのような鳴き声が。右には再び海。こっちの動物の鳴き声は何だか自然な感じがする。
さて,そろそろ運ちゃんに確認したいことがある。実は終点・生間の一つ手前の集落である諸鈍(しょどん)で降りたいのだが,その諸鈍から生間まで歩いていけるかどうかである。事前に地図で確認したところでは,1kmもないような感じだったので,歩いて行けるかなとは思ったのだが,そこはやっぱり地元の人間に確認しないと不安というものだ。
とはいえ,運ちゃんとは物理的にも心理的にも少し距離があって,声をかけるにも道が険しく,パトカーをもどかすほどの権威がバスにはあるようだし……というのはウソだが,ハンドルに集中していかざるを得ないし,こっちも動いている中で席を移動するのはちと避けたい。刻々と時間は過ぎていくし,いい加減どこかで前に移動したい。
再び海から離れて悪路を爆走。「ギコギコ」「ガタン」「ギー」を何回も繰り返すこと数分,再び海が見えて集落に辿りつく。14時58分,秋徳バス停に到着である。バス道を少し外れて,集落の中にて転回。ここで少しバスが停車したので,このスキに移動する。そして,早速に運ちゃんに,
「すいません,諸鈍で降りたいんですけど,瀬相
まで歩いていくことできますか?」
と聞く。すると,後ろ髪が俳優の田村正和氏みたいに長く,顔は藤岡弘氏を平べったく崩したような顔をした運ちゃんは,何とも言えない苦笑いをして,吐くようにこう言った。
「ハハハ……そりゃ,いままで来た道がそうだよ。
ま,1日かけて歩こうと思えば歩けるけどね」
ん? あ,そうか瀬相ではなくて生間と間違えた。だって,先述の通りフロントグラスの方向板には「生間―瀬相」と左から右に書かれているからだ。これがバスの中からは左側に「瀬相」の文字が見えることになり,それが目に入ったために間違えたのだ。でも,普通これから行く方向が方向板には出るべきで,ホントは「瀬相―生間」となるべきなのに,まったく紛らわしいったらありゃしない……と思うのは,都会のバスに乗っているからだろうか。こっちじゃ生間に行こうが瀬相に行こうが,方向板は一つで十分。そもそも地元民しか乗らないのだから,そんないちいちどっち方向に行くなんて最初から分かっているということか。
ま,それはどーでもいい。再び「あ,すいません。生間です。生間まで歩いていけますか?」と聞き直す。すると,「ああ,そうだったのね」という感じで,
「ええ,歩いていけますよ。800mくらいですかね。
ただ,一山越えますけどね。一山越えることにな
るから,誰も歩きたがらないけどね」
と言った。どうやら歩いては行けるようだ。諸鈍の予定通過時刻は15時19分。生間からは大島海峡側の海岸沿いを走るバスに乗るわけだが,このバスは生間・15時45分発である。諸鈍集落を見られる時間はせいぜい10分程度とほとんどないが,ひとまずは諸鈍で降りることにする。ちなみに,いま乗っているバスが再び同じルートで戻ると,諸鈍は15時55分通過。30分は集落を見られるわけだが,もう一つ大島海峡側の海岸沿いで見たい場所があるので,ここは致し方ない。「あ,じゃ諸鈍で降ります」と,ひとまず運ちゃんに宣言しておく。
目の前には路線バスにつきものの運賃箱が目に入る。もちろん,最新鋭の機器なんてわけがなく,透明なプラスティックの箱に赤い字で「料金箱」と書かれたものだ。その脇に円柱形の金属製で「バス用両替機」と書かれた器具がくっついているが,上にフタがされている。はたして今でも機能しているのだろうか。ハンドルの下に袋があるから,結局手渡しなんじゃないのか。
少しの間があってから,運ちゃんに「…で,諸鈍と言っても広いですけど,どこで降りますか?」と尋ねられた。そうだ,このバスはフリー乗降バスなのだ。「めざましテレビ」の若い男性レポーターが,「乗った人の数だけ停留所がある」なんて言っていたが,まさしくその通り。とはいえ,どこと目星をつけていたわけではなく,答えに窮していると,たたみかけるように「観光ですか?」と聞いてくる。「あ,はい…」とこちらも何となく答える。すると,
「観光っていうと……ま,デイゴ並木とか“寅さん”
のロケ地とかくらいでしょうかねぇ」
と言ってきた。そうだ,たしか諸鈍って「男はつらいよ」のロケ地だったのだ。後は何かで有名だったような……ま,いずれにせよ降りて損はなさそうだ。「じゃあ,その辺りでお願いします」。これで後は運ちゃんに託すのみである。

@加計呂麻人情バスに乗る
15時19分,予定時刻に諸鈍に到着。集落に入ってすぐ,左上に上り坂が見えるが,運ちゃんは「あれを上がっていくと,生間ですから」と言ってくれた。そして,家が立ち並ぶ集落らしい集落の端っこ,護岸された防波堤への入口でバスは停まった。「ここから右に入ると,デイゴ並木とか“寅さん”とかありますから」と言われて運ちゃんと別れる。740円。ちなみに,バスはもう少し先に転回場があり,そこで転回して上り坂をそそくさと上がっていった。
さて,あちこち見回す時間がもったいない。看板も出ていたが,とっとと防波堤のほうに向かうと,目の前にシンプルで静かなジャリ浜が広がる。両端で数百mはある広さだ。白砂というわけにはいかないが,遠浅の海とジャリ浜というのも渋い感じがあっていい。そして,右側にはきれいに整備された公園があって,デイゴの木の下に大きな碑が鎮座する。これが「男はつらいよロケ地の碑」である。ストーリーやセリフが書かれていたり,一緒に山田洋次監督の文章なぞが彫られている。1995年秋にこの地で撮影された作品「男はつらいよ 寅次郎紅の花」は,マドンナを浅丘ルリ子氏にして,同年12月に公開されている。
――相変わらず放浪の旅に出ている寅次郎。倍賞千恵子氏演じるさくらたちが捜索願いを出していた矢先,ふと何気につけていたテレビに映った阪神大震災のボランティア特集で,寅次郎が神戸市内を東奔西走しているのがバッチリ映った。「ちっとはボランティアの人たちのツメの垢をなめさせたいね」と皆でぼやいていただけに,家族一同その姿に驚いてしまった。それから間もなく,神戸のパン屋の主人(宮川大助)が,お礼方々柴又の「車屋」に訪れる。何でも震災時に寅次郎に世話になったという。そしてその後,寅次郎はある女性を追って姿を消したそうだ。
一方,東京では吉岡秀隆氏演ずる寅次郎の甥っ子・満男が,アレジ…もとい後藤久美子嬢演じる泉を想っていたのだが,久しぶりに彼女と会ったその場で,見合い結婚することを打ち明けられる。すなわちフラれるわけだが,初めは「なーんだ,そんなこと」と嘯いていた満男も,我慢ができずに彼女が嫁ぐという岡山県は津山に乗り込み,彼女の結婚式を妨害してしまう。その場で結婚式は中止――その後,傷心の満男はさらに漂流し続けて,辿りついたのが奄美大島。そこからさらに南下して,彼は加計呂麻島に漂流していく。海上タクシー「デイゴ」が古仁屋から出ていくとき,バックにかかる元ちとせ嬢の島唄が印象に残る。
船内で偶然そんな彼をみつけ,その思いつめた表情に助けの手を差し伸べる1人の女性。それがリリーだ。彼女は加計呂麻の港で満男を誘って一度車に乗せる。ちなみに,その港とは瀬相港。港から道路へのアプローチでピンときた。そして,しばらく走ると,「ここで降ります」と満男は断崖絶壁の海辺で車を降りる。一度別れたリリーだが,放っておけずに引き返し,満男の後をつける。崖の先端まで来た満男は一瞬にしてその姿を消した。手前には「早まるな 考え直せ もう一度」と書かれた白い棒。もしや……しかし,満男は立ちションをしていただけ。リリーはホッと胸をなでおろす。
そして,海岸べりのレストランでメシを食わせ,金を払おうとする段,満男は自分で出すと言ったが,それを引きとめるリリー。その財布には……「これでどこに泊まろうっていうの?」。そう言うと,彼女は満男を自分の家に招き入れることにした。その家があるのがここ諸鈍である。さっき入ってきた防波堤のそばに彼女の家はある。身の上話をあれこれ満男に話すリリー。過去のシリーズに登場していた彼女もまた放浪の身。元々は売れない歌手。その後結婚と離婚を繰り返し,前から気に入っていたこの土地に“最後の旦那”に先立たれた後に棲みついた。
「それじゃ,お姉さんは独りで暮らしてるんですか?」
「そう…あ,でも1カ月ほど前から1人居候がいるけど
ね。アンタと同じで文無しなの。でも,遠慮はいらない
のよ,気軽な人だから……寅さんー,ただいまー」
「あーい,お帰りー」
琉球石灰岩の石垣の向こうから,ムックリと姿を現したのは紛れもない寅次郎。タオルを頭にバンダナ風に巻き,手に持っているのは黄緑色のパパイヤの身だ。彼もまたそのままフラフラと南へ流れついて,ここ奄美の土地に辿りついていた。
「あー,こんちは」
低い塀越しにお互い面食らった表情で,しばしの沈黙。そして,寅さんから出た言葉は,
「……お前,誰だっけ?」
満男は塀に駆けよって,塀の上に半身で乗っかり,
「誰じゃないよ! オレだよ,伯父さん!」
「あ!……満男かぁ……」
「会いたかったんだ。どうしたんだよ,こんなとこで」
「お前こそ何してんだよ,こんなとこで」
「死のうと思ったんだぞ,崖から飛び降りて!」
「ほほー……」
そこにリリーから「ね,寅さん……もしかして,この子……」というセリフ。「そうだよ,オレの甥っ子。さくらの息子だよ」「じゃ,満男くん……!?……いやだぁ,どっかで見たような顔だと思ったのよー!」と,思いっきり満男のケツをはたくリリー。「満男,ほら,リリーだよ」。そして感動の再会を果たし,リリーは満男を抱擁――件の碑に書かれているセリフは,この感動の再会の場面である。
リリーというと,私は実はこの「寅さん紅の花」以外は観ていないのだが,最も「男はつらいよ」シリーズでマドンナとして登場している女性。初めて寅次郎と会ったのは北海道。そのときから今までストーリーはつながっているという設定だ。再会の日の夕飯で寅次郎の印象的なセリフ。「オレとこの女は,生まれる前から運命の不思議な赤い糸に結ばれているんだよ」――そんなしんみりした夜半,開け放した窓辺には海岸から島唄が聞こえてくる。その内容とは,とある女性を想う男性の心の叫び。そのココロは「たとえ亭主がいても,ソイツと別れてこのオレと結婚してくれ」。対する女性の返事は「あなたにも奥さんがいるはず。彼女と別れられるならば結婚してあげる」。
……この続きはビデオでも借りてご覧あれ。私は初め借りる気なんぞなかったのだが,どうにも気になってこの旅行記を書くために借りてしまった次第だ。ちなみに,これを見て思い出したのが,前回書いた,名前が思い出せなかったライベストイン奄美の女性が似ている男性俳優のこと。笹野高史氏である。津山でのゴクミの義父役で出てくる。

さて,渥美氏は通算48作目のこの作品が,「男はつらいよ」シリーズでは最後の作品となった。世間的にもこれが最後になるのではないかという噂があったようだが,翌1996年8月,渥美清氏は肺ガンのために死去する。享年68。車寅次郎というキャラクター,そして渥美清という俳優は,この瞬間に伝説となった。そして,件の碑の山田洋次氏の言葉は,この渥美氏の死に対してのコメントである。
ちなみに,この映画では神戸でのボランティアのシーンは当初予定がなく,被災地・神戸から山田洋次監督へラブコールがあって急遽実現したものだという。さらに,作家・小林信彦氏が書いた『おかしな男 渥美清』(新潮社)という本に,この「寅次郎紅の花」撮影時の渥美氏の話が書かれているが,この頃には渥美氏の身体は限界に達していて,付き人に「生きているだけで精一杯。仕事をするのが辛い」とこぼしていたという。医者からも撮影できたのが奇跡だと言われたそうだ。
例えば,映画では首にマフラーを巻いているが,それは身体の衰えを隠すためと言われている。なるほど,加計呂麻島のシーンではさすがにマフラーをしていないが,それを聞くと首筋のシワがどうしても目立ってくる。それは全盛期のころの寅次郎ではなく,60代後半のジーさんの姿に近いだろう。そして映画の津山での撮影時,温泉につかっていた彼は付き人に「ああ,イヤだ。死ぬのはイヤだ」とつぶやいた後,「オレは先に行くよ」と言って風呂を出たそうだが,付き人はこれを「オレは先に“逝く”よ」の意味に捉えて,衝撃を受けたという。
さらには,この映画の撮影と並行して,NHKが渥美氏に密着取材してドキュメンタリーを作成しようとしていた。今でもやっている「クローズアップ現代」で放映されたようだが,普段から人一倍神経質という性格ゆえに誰もが断るだろうと思っていたこの企画に対して,渥美氏は「もう,いいんじゃないかな」と言ったそうだ。小林氏はこれを「もう,寅さんを自分から開放してもいいんじゃないかな」と捉えたそうだ。いわば,諦めというか達観の域に渥美氏が達していたのでは,ということだ。
その反応に周囲が驚く中で,取材が始まった。60日に渡って続けられていったが,そこに映っていたのは,明らかにテレビの制作サイドが期待した「寅次郎としての渥美氏」ではなかったという。加計呂麻島に降り立った渥美氏が,差し出された色紙に目もくれず,愛想なく桟橋を後にしたり,加計呂麻島で昔の話が聞きたいと言ってきたNHK側の依頼を断ったりと,NHKが意図した趣旨から大きく外れてしまったそうだ。小林氏いわく,番組としては年老いた渥美清氏の印象しか残らなかったという。中には,病気が影響して何度もセリフをNGしてしまったシーンがあって,NGなどめったになかった渥美氏を知る役者仲間が激怒したなんてこともあったようだ。「あまりに酷ではないか」と。
――あまり書いているとキリがなくなるから,あとは上記の本を読んでいただこう。公園とは反対側にはデイゴ並木が続いていく。85本もあって,入口にはなぜかたこ焼き屋の出店がある。この並木道の奥にどうやらリリーの家があったようだ。数百m離れているどんづまりには車が数台あって人影も見えたから,あるいはあの辺りだろうか。
とはいえ,時間は15時半。そろそろ生間に向かわないと,次のバスに間に合わない。ここは引き返すことにしよう。あまりよくは見られなかったが,テーブルサンゴの石垣の家が1軒,路地の入口から見えた。それ以外には特に普通の田舎の光景だったが,この他にも大屯(おおちょん)神社というのがあって“諸鈍シバヤ”という芸能が奉納されるとか,集落共同の井戸があるとか,つくづくここ諸鈍で時間が取れなかったのが惜しい。あるいはまた機会があれば来てみたくなる場所である。
そして,急坂にさしかかる。どのくらいの山か分からないから,足もかけ足交じりとなる。脇から軽トラックが通り過ぎていくたびにうらやましく思うが,仕方があるまい。後ろを振り返れば諸鈍の集落が見下ろせる。翳りゆく陽に照らされた静かな海岸と集落は,まさしく「日本の原風景」って感じがする。
だんだん遠ざかる諸鈍を尻目にそのまま頂上に上がると,今度は目の前に生間の集落を見下ろし,大島海峡をはさんで向こうには古仁屋の街中が見えた。古仁屋と生間との距離は5km足らず。目の前にあるのはごくシンプルな平屋の小屋がいくつか。対して海の向こうには白いビルがいくつも連なる。古仁屋がまるで憧れの大都会に見えてくる。その坂を下りる右手には少しばかり崖崩れの跡。路肩に赤土が少し散乱しているが,片づけされる感じはない。もっとも,それほど車が通るわけでもないし,車が走るには支障はない。それに数日して台風が通過したら,せっかくの補修もムダになってしまうかもしれないし。
そのまま坂を下って,十字路を越えれば生間港。時間は15時40分。ちょうど,古仁屋からの海上タクシーが港に滑り込んで,客が上陸して荷上げが行われているところだった。いろいろな乗り物の中,停まっているマイクロバスは3台。見れば,私が乗ってきたバスの運ちゃんが,他の同僚と一緒にその荷上げを手伝っていた。運転するだけでなく運搬することも兼ねることを象徴する光景だ。でも,恥ずかしいから声はかけない。そもそも向こうだって私の顔は覚えていないだろうし。
とりあえず,瀬相…ではなくて押角(おしかく)行きのバスに乗車。たまたま運転する運ちゃんがいる。今度は細面でメガネをかけた“神経質”を絵に描いたような顔だ。「どこまでですか?」と聞かれ,「押角まで行って…」という私の声にかぶせるように,「あ,押角ですね」と言ってきた。「瀬相まで」と言われたら,あるいは私が諸鈍まで使ったバスを案内したのだろうか。
押角とは瀬相とのちょうど中間に位置する集落で,大島海峡沿いを走って瀬相に行くバスはここで一旦終点となる。到着時刻は16時6分。ここで1時間以上の待ち合わせの後,17時20分・押角発瀬相行きというバスに乗ることになる。ちなみに,逆に瀬相から生間に行くバスは,便によって押角での待ち合わせが0〜20分という感じである――あるいは,私が本土からの観光客に見えて,この接続の悪さを説明するのが心苦しかったりしたのだろうか,と言ったらあまりに自意識過剰か。
で,この押角から次の集落である呑の浦(のみのうら)までが,最初に書いたところの本日「都合により歩く区間」となる。この呑の浦は,私がこの島で一番観たかった場所であるが,それは改めて書いていくことにする。「瀬相―生間」という逆ルートでは,呑の浦でバスを降りたら,次のバスは3時間半待たなくてはならないし,バスに乗って生間に着くのは18時半。フェリー代わりの海上タクシーは,すでにいま着いているこの便が最終。でもって,たまたま生間港にいて古仁屋に帰るなんて海上タクシーに出会えるかどうかは分からない……いずれにせよ,私にとっては1時間余りの“空白”は好都合なのだ。呑の浦までは歩いて2〜3kmありそうだが,歩いて行けない距離ではあるまい。

さて,押角行きのバスは私1人を乗せて,定刻の15時50分に出発。車内ではNHK大阪のラジオがかかる。この辺りで大阪のラジオとは,ちと驚いた。鹿児島だったら分かる気がするが……たしか「オヤジ川柳」とかいうコーナーをやっていたと思う。ラジオの女性の声は,最近テレビでよく見る友近嬢の声にそっくりだが,どうやら俳人だか歌人だかのようだ。そして,16時前にニュース。明日の名瀬市は最低気温が23℃で,波は「うねりを伴って4mのち5m」とのことだ。
道は相変わらず,崖ギリギリに這わせるように造った狭い道で,カーブも勾配も大いにある。ただ,右手にはひたすらジャリ浜と静かでシンプルな海を見ながらの走行となる。島で有名なスリ浜という海岸には,コテージがあったり,土産屋もあった。上記「寅次郎紅の花」でリリーが満男にメシを食わせるのは白いデッキがある海岸沿いの店だが,見た感じはここのビーチハウスではないかと思われる。
16時2分,予定より4分早く押角に到着。小さくまとまって集落がある向こうに,大きくて古い校舎が見える。押角小・中学校だ。何か敷地内に大きな石碑があったが,呑の浦にどれだけ時間がかかるか分からないから,とっとと先を急ぐことにしたい。
目の前に立ちはだかるのは結構急な坂。右に大きくカーブしたその先は見ることができない。はて,どのくらい時間がかかるか不安っちゃ不安だが,陽が翳って涼しくなった潮風を浴びて歩くのは悪くない。そして乗ってきたバスは,私とは逆の方向にとっとと走り去っていった。(第3回へつづく)

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