沖縄はじっこ旅(全4回予定)
@初夏のサイクリング  
嘉保根御嶽を後にして,のどかな畑の中をさらに北に向かう。次に行きたいのは既出の大岳である。たかだか標高100m程度でも,島で一番高いところに向かうからか,微妙な上り坂となっている。加えて陽射しも気まぐれに出てきて,それは東京の比ではないくらい強いものだから,汗が次から次へと吹き出る。それを適宜拭っていかねばならないから,いい加減,持ってきたハンカチもびしょびしょになってくる。
その坂の途中で右に石碑が見えた。そこだけ芝生が整っていて目立つのだが,これは昨年11月に建立された「山の子守唄碑」である。南側には歌詞が書かれていて,裏手の北側にはエピソードが書かれている。そのエピソードが書かれた面の向こうには,嘉保根御嶽のこんもりした森が見える。前回の最後に書いた御嶽のこんもりした森とは,ここから見た光景のことである。
さて,エピソードによれば,作詞者の宮良高司氏(1905-91)は,1929〜32年の小浜尋常高等小学校勤務時に,この御嶽を見ながら故郷の風情を詩にしたという。詳細は実際見ていただくとして,歌詞の中に「鎮守の森」という言葉が出てくるのでピンときたら,案の定であった。もう一つ「小山」という詩も出てくるが,それはこれから行く大岳ということだろう。そして,この詩に曲をつけたのが,高司氏の恩師である宮良長包氏(1883-1939)。石垣島出身,沖縄民謡の作曲を多く手がけ世に広めた功労者で,この長包氏の生誕120年を記念した碑であるようだ。
ちなみに,長包氏が作曲した中には『えんどうの花』というのがあるが,これは「ヨロンパナウル王国の旅」第3回に出てくるザ・コプラツイスターズの川畑アキラ氏が,自身のソロアルバム『誠の島』でカバーしている。ストリングスアレンジの賜物かもしれないが,結構この歌はしみじみ来るので好きである。そのほか『安里屋ユンタ』なんてのも,名前だけだが聞いたことがある。
いよいよ大岳である。交差点を左に入ると上り坂。右側奥手に早速公衆トイレらしき建物と駐車場っぽいスペースが見えるが,見上げればかなり距離がありそうなので一旦通過する。すると,右に上り坂があったので入る。勾配がきついので自転車を降りなくてはならないが,頂上からの景色を期待して,吹き出す汗にも耐えることにする。左には斜面を利用した牧場があり,牛舎に牛が数頭。土曜日だが人が忙しく働いているようだ。高台だから,その向こうには海と西表島の島影も見えている。ここも絶景…とまではいかずとも“ちゅら光景”である。
しかし,大岳の駐車場らしきところには着いたが,遊歩道というよりは登山道である。草木で鬱蒼としていて,足元は不安定そうだ。時間はたっぷりあるとはいえ,早くもスタミナが“下り坂”になってきている。サイクリングなんて久しくしていないことをすると,やっぱり30歳にもなれば身体にこたえる。ということで,展望台からの絶景はあきらめることにして,来た道を戻る。その途中,一旦通過したもう一つの駐車場も見てみたが,案の定もっと傾斜のきつい登山道であった。

次に目指すのは「和也くんの木」である……といっても,この名称でピンと来る人はそうはいまい。でも,この島で事実上のメインスポットであろう。上ってきた道を下って右に曲がればまっすぐその木が辿りつけるのだが,せっかくなのでもっと大回りしたい。ということで,既述の交差点まで戻って左折して北進する。周囲は見渡す限りの畑になっている。
そしてまた交差点。右に行けばスタート地点の小浜港。左に行けば件の「和也くんの木」である。そして直進すると,なだらかな坂道の向こうに防風林があって,向こうに海が見える。再び“ちゅら光景”である。ここで私がここで選んだ道は,もちろん直進である。風を切って,颯爽と道を下ってみたくなったのである。200mほどあるだろうか。陽射しもあって湿度の多い中では,この風が天然のクーラーとなるわけだ。わずか1分ほどだが,つかの間の快感を味わう。
しかし残念ながら,防風林の向こうに海岸への入口は見当たらなかった。左右に道は分かれるが,いずれもジャリ道だ。そして,下りに下って帰りもまた下ればいい……って,そんなムシのいいことがあるわけもなく,帰りは地味ーに上ってこなくてはならない。下りの反対はやはり上りなのだ。たとえ坂自体はなだらかでも,途中でやっぱり自転車を降りて押していかなくてはいけなくなる。まったく,恥ずかしくて人には見せられないかもしれない。
交差点に戻って「和也くんの木」を目指す。が,実は先ほどのなだらかな坂の左側に,赤茶色の屋根を持つ白いコテージ群も見えていたのだ。何ともヨーロッパっぽい雰囲気だ。もらった地図によれば,会員制別荘「サンゴ倶楽部」という施設。その入口まで近づくと,門があってコンクリートのスロープが中に向かって伸びている。でも,別に荘厳な門構えがあるわけでもなく,普通に入って行けそうである。当然,こちらの別荘も海岸に向かって下り坂。しかもウネウネしていそうだ。ということは,帰りは間違いなく“恥ずかしい思い”をすることになるのだろうが,もしかして施設専用の海岸が見られるかもしれない。ここは入っていくことにしよう。
……で,5分後。ギリシャ建築風の白亜の建物,その名も「CORAL ISLAND RESORT」という“器”を途中見届けて,見事に目の前には海岸が広がった。レンタバイクらしき男性3人がいる。ごくスタンダードな遠浅の海岸で,小浜島に来るときのうねりなんてウソだったくらいの穏やかさである。右手には小島がポッカリ浮かんでいる。これは加弥真(かやま)島という名前のようだ。ビーチは概ねきれいだが,道路に近づくほどゴミが少し散乱してくるのが残念だ。
そして帰りは……やっぱり上り坂である。しかも勾配はきつい。そんな私をあざ笑うかのように原チャリはクールに上がっていく。結局,帰りは倍かけて戻る羽目になる。ちなみにこのコテージ,平屋立てではあるが,広さは80平米前後で2LDKの間取りというから,かなり広いサイズである。一般客でも泊まれて,たしか1人でも7000円ほどだが,残念ながら…というか当然ながらだろうが,メシは自炊しなくてはならない。なので,集落の食堂で適当に食べることになるか,売店で買うしかない。でも,酔っ払ってはたしてここまで辿りつけるかどうかは保証できない。
さあ,いよいよ「和也くんの木」である……と,その前に「私のふるさと果実園」という場所を通る。苗木と一緒に小さいプラカードが100本ほど縦に並んでいる様は,それなりに壮観である。観光客がバナナもしくはパイナップルの木のオーナーになれるというもので,バナナは1本5000円,パイナップルは3本で3000円。きちんと木の形になっているものも何本かある。会員証とTシャツがもらえるそうだし,当然バナナやパイナップルも食い放題だろうが,いざ持ち帰るとなると,検疫とかって関係ないのだろうか。日本だから平気なのか……そのうちに,果実園の家主の建物から汚らしいバイオリンの音が聞こえ出したので,とっととずらかることにする。

……お待たせ(?)したが,「和也くんの木」である。何の木かは分からないが,うちわみたいに枝葉が広い木が遠くに見える。周囲はひたすら牧草地――それもそう,その木はこの一帯を管理する大石牧場という牧場の敷地の突端にあるのだ。当然私有地なので,勝手に木には近づけない。その木に向かって轍ができているが,ゲートっぽい2本の立て木付近には牛が数頭いた。よって,その木から多分100mは有に離れているであろう所に設けられた「ちゅらさん展望台」という小高い丘から見下ろしているのである。その木の向こうには海を挟んで,空気が霞んでいるが西表島の豊かな緑をはっきり見ることもできる。
一応,その展望台のたもとには,多分牧場用と兼用だろうが,車が数台停められる駐車場もあり,自販機もある。「サンゴ倶楽部」で見送ったバイクの連中も来ていた。周囲を囲う柱にはなぜか山羊が2頭くくられていて,規則的に「メェ〜」と哀愁たっぷりな鳴き声を発している。展望台へは丸太の階段に手すりまでついていて,ホント観光客のために作られたスペースであることがよく分かる。多分,小浜島に入ったときに大量にいたじーさん・ばーさんたちもここに来ているかもしれない。牛が数頭いる牛舎の脇には荷台もあったが,あるいは観光客を乗せるためのものなのか。
この木が一躍有名になったのは,もうお分かりだと思うが『ちゅらさん』での名場面である。この木の下で文也が恵里にプロポーズをしたのだ。ちなみに,その場には真理亜という小説家の女性(菅野美穂)が少し離れて立ち会っていたことも知られていよう――当初,恵里の古波蔵家は小浜島で民宿を経営していた。その民宿をたたもうかと思っていた頃に東京から遊びに来たのが,文也のいる上村家。文也はたしか次男坊。兄貴の名前こそが,この木の名前にもなった和也である。同世代ということで皆で仲良くなったのもつかの間,和也がこの小浜島で不治の病で息を引き取ることになる。やがて失意の中,上村家は小浜島を去るのだが,その帰り際に恵里は文也に,求愛のシンボルでもあるミンサー織を渡し,文也からはスーパーボールを受け取る。島から離れていく船に向かって,恵里は「いつか大人になったら,必ず結婚しようねー」と叫んで見送る。
それから年月が経ち,漠然とした思いのみで大学受験のため東京に行く恵里。その受験の上京中,どこかの交差点で成長した文也と運命の“すれ違い”をする。受験には失敗するが,これがきっかけで彼女は東京行きを決意。で,下宿先で自殺未遂を起こした老人男性(北村和夫)を献身的に看病しているうちに,看護婦として生きていくことを決心する。でもって,その病院には文也がたしか研修医だかで働いたんだっけ?――ストーリーはうろ覚えでしかないが,彼女の一途な思いは文也の心を動かして実を結び,感動的なプロポーズへとつながっていく……。
まあ,誠に出来過ぎな話ではあるが,もう一つ出来過ぎた話がこれに加わる――東京で医師・看護婦として暮らす2人の間には男の子が産まれるが,その子に名づけた名前は「和也」。その和也が,幼くして不幸にも心の病にかかる。いろいろと思案する中で「小浜島に行ったら治るのではないか」と考えた恵里は,そのとき自身の身体に急性のガンを抱えていたのだが,ムリを承知で息子の和也を連れ,休暇を取って小浜島に行く。しかし和也は一向によくなることはなく,口がまったく聞けないまま滞在最終日を迎える。
そして,その最終日に2人が向かったのが,この「和也くんの木」だ。様々に去来する思いを1人息子に語りかける恵里。ところが,この木の下で彼女は突然倒れてしまう。母親がうめき苦しむ姿を見た和也は,幼いながらも来た道を集落まで戻って,世話になった家の人に「助けてください」という言葉を発する――恵里の切なる願いは,最後の最後にこういう形で和也に通じることになる。こっちのエピソードも実に感動的だと思うのだが,なぜかこっちのエピソードは語られず,「和也くんの木」は“愛の象徴”として語られているのだ。

@初夏のサイクリング
ひとまず目的を達したが,どうにもあの木に近づけそうな気がしてならない。どっちみち島の輪郭に沿って南進するつもりなので,ついでにあの轍に向かって行こうではないか――そう思って,バイクの連中らが走って行った集落に向かう大きな道から外れて,ジャリ道の中をもがいていく。が,結局目算から大きく外れて「和也くんの木」は右上のほうにポツリと見えたのみだ。やはり,あの木の下には“それなりのルート”でないと行けないのだろう。ということで,ひとまずは島の輪郭に沿って南に進んでいき,細崎(ほそざき)という地区を目指すことにする。南東に向かって細い岬地形になっている辺りである。
道のアップダウンは相変わらずで,少し走って少し押すの繰り返し。時計を見ることを忘れてしまうくらいだ。何となく走っているうちに,地図に“トラバーチン”と書かれていたので,その辺りに行こうともしたが,結局分からずじまい。どうやら沖縄特有の石灰岩で,磨くととても高級な大理石になるもののようだ。それとマングローブスポットなんてのも書かれていたが,これは後で高台からそれらしき光景を発見することになる。唯一,面白かったのは馬が当然道に出てきたこと。ひもが馬の後ろにくっついていたので,安全は安全なのだろうが,何ともといった光景だった――このころは,疲れもピークになってきて,ホント“移動していた”だけ。さらに2〜3時間も外にいて,ある程度の陽射しを浴びていれば,いい加減顔が潮焼けしてしまったようだ。ハンカチで汗を拭おうと触れると,少しヒリヒリ感もある。100円ショップで買った薄っぺらいハンカチだが,もはや役目を果たせなくなってきている。
やがて標識がある分岐点に出た。左手は「はいむるぶし」の文字。島の有名なリゾートホテルだ。そして,右手遠くには海岸線が見える下り坂が続く。こっちが細崎方面である。走るには何とも“魅力的な下り坂”である。結構距離がありそうだし,もちろんこの道を戻ってこなくてはならない。すでに書いたように,下りの反対は上りである。すなわち,間違いなくこの自転車を押して戻ることになるのだ。
それでも,もうどうでもよくなっていた。時間も何時だか分からなくなっていたが,それだってどうでもいい。レンタサイクルの受付の女性には3時間程度と話したが,「ちゅらさん展望台」の時点で13時近かったから,もういい加減3時間近くは経っていよう。船の時間は14時35分,15時35分となっていて,ホントは前者に乗ろうかと思っていたのだがムリだろう。後者になったからって,もちろん石垣で何か困ることなんてない。船が動いてくれれば時間は……ま,実は石垣での夕飯の予約が18時半からなので,それには間に合わせたいが,まさかそこまではかかるまい。
ということで,颯爽とその長い坂道を下る。何だかオフコースの『愛を止めないで』でも聴きたくなるような坂道だが,意外と長くは続かずに再び上りになる。もはや,申し訳程度に漕いではみるが,いくらも進めずに押して歩く羽目になる。そんな私をよそに,たまに「わ」ナンバーの車とすれ違い,でもって,ソイツは何でもなくホントに颯爽と走り抜けていきやがる。レンタバイクだってそれに近い。この道を走っていたときほど,レンタサイクルにしたことを後悔したことはない。たまに牛や馬や山羊に出くわすことがあったが,彼らが私にとって何の癒しになってくれるわけでもなかった。
それでも細崎の港に何とか到着。護岸工事がされていて,人工だか天然だかよく分からないビーチが広がっている。シュノーケリングと思われるカップルが,遠くで戯れている。停めてあった「わ」ナンバーの軽自動車は,ひょっとして彼らの車か。ますます恨めしいぜ……ウッディで新しく建てたばかりのようなゲストハウスと,「海人」という文字が強烈な食堂っぽい店はあった。その「海人」の敷地内では,外に出したテーブルで食事をしている6人組がいて,一瞬目が合った。脇に自販機があり,入りたくなったが,メシはすでに食べていることだし,「すいません,自販機いいですか?」とも聞きづらかったので,やむなく通過する。
ちなみに,この細崎港は『ちゅらさん』で使われたとのことだ。多分,上村家が失意のうちに小浜島を後にしたときの港での場面だろう。時代の設定もたしか1980年前後だろうから,いま玄関口になっている小浜港の雑踏には,あの「必ず結婚しようねー」の純朴なフレーズは不釣合いだろう。こっち側の何もなくごく素朴な海岸だからこそ,あの時点での“別れの切なさ”が効果的に演出できたのだろうと思う。もっとも,そんな雰囲気を消すように,いまは工事が行われている音がしていたが。

来た道を地道に戻り,分岐点に再び辿りついたのは13時50分。これで石垣行きの船は15時35分発で決まりだ。あと1時間もあれば,島で見たいところはほぼ周れるだろう。料金も4時間だから1000円で,キリもいいだろう。とりあえず,次はこの島のリゾートホテル「はいむるぶし」だ。名前は兼ねてから聞いていたし,最近リゾートづいている私としてはどんなところか興味深い――それに気をとられて,実は途中にあったらしき「オヤケアカハチの森」というのを見逃してしまった。右手に森らしきものが見えたような気がするので,多分その辺りにあったのかもしれない。ちなみに,オヤケアカハチについては「宮古島の旅アゲイン」後編「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回で取り上げた八重山拠点の武将だが,反乱を起こしたのちに追われてその森に逃げ込んだという言い伝えがある。反乱とは,おそらく1500年の仲宗根豊見親(なかそねとぅみや)との戦いのことだろうか。
そして「はいむるぶし」には14時10分に到着。名前を漢字に直せば「南群星」,すなわち南十字星を意味している。敷地に入ると同時に,送迎バス3台とすれ違った。いずれもじーさんばーさんでほぼ満員である。時間は14時ちょい過ぎ。彼らは私が当初乗る予定だった14時35分発にでも乗るのだろうか。となれば,彼らとは多分かちあわずに済む。ちとホッとする。
場所的には島の東端に位置して,大きさは東京ドーム40個分と,約8平方kmある島の5分の1ほどを占めている。入口からメイン棟までも長い長い。敷地内を自由に走れるカートがあるようなので,そこからも敷地の広さをうかがい知ることができる。でもって,アプローチもなぜか微妙な上り加減だから,自転車でも5分ほどかかってメイン棟に到着することになる。途中には5部屋で1棟くらいの平屋のゲストルームをいくつか通過するが,エキストラルームとスタンダードルームがあるようだ。ホームページで調べていたら,ツインのベッドにエキストラベッドが2台ついていて,よって4人まで泊まれるようだ。2人は当然エキストラベッド行きになるわけだが,時期によっては4人だとスタンダードルームは1人1万円強(1泊朝食つき)なので,ベッドの差に耐えられれば(?)かなり得かもしれない。
さて,メイン棟は赤瓦の平屋建てに壁も琉球石灰岩と,いかにも“THE 沖縄”の雰囲気ってヤツを出している。なぜここにわざわざ来たかといえば,何のことはない。飲み物が買いたかったのだ。細崎の「海人」で買い損ねたのが大きく,かといって店らしきものは,地図を見る限りはなさそうだ。頼りは「宿泊施設だから自販機くらいあるだろう」。しかし,必ずこの施設で買いたかったわけではない。自販機があれば確実にそれで済むというものである。道中に自販機があったら,入口はちらっと“確認”したとしても,確実にこのメイン棟まで来たかどうかは分からない。
中に入ると,右にはシックな色調のフロント,左にはゆったりめの低い1人用ソファが数十脚。まるで私に座ってくれ……とは言ってくれず,どうやらティーラウンジになっていて,多分何か注文しないと座らせてくれないだろう。飲み物が目的ではあるのだが,ふと奥を見ればギフトショップがあるではないか。周囲を見る限りは自販機はなさげだし,売店だから確実に飲み物は売っていよう。しかもティーラウンジよりも安価で。
ということで,ギフトショップに入ると,一番奥にガラス張りの冷蔵庫。とりあえず,沖縄に来たからと買ったのは,さんぴん茶の500mlペットボトル。しかし値段は200円。東京より…いや,下手したら石垣より50円高いのは,輸送料かはたまたリゾートの“ショバ代”か。仕方がないのでこれは購入するが,レジの近くまで行くと,ハンカチがいろいろ置いてあった。上述のとおり,ハンカチは大分役目を終わろうとしている。100円だから捨てるのは惜しくない。本格的に織られたものもあるようだが,緑色の“ミンサー織”の柄が入ったミニタオルで630円のものがあったので,これを購入する。
ちなみに,上述『ちゅらさん』の一場面にも登場するこのミンサー織だが,市松文というのを五つと四つにデザインした柄が交互にならぶのが特徴。これには「いつ(五つ)の世(四つ)までも末永くいっしょに」という意味がある。そういや,そんなことを恵里が言っていたような気がする。もっとも,630円のタオルでは効果は半減かもしれないし,だいいち女性から男性に贈るものだよな……。

さて,サイクリングの最後に訪れたのは“シュガーロード”である。気まぐれにそそぐ強い陽射しの下,500mlのさんぴん茶をガブ飲みし,ヒリヒリになった顔をタオルで癒しながら辿りついたのは,ここが小島であることを忘れさせる,ゆるやかな勾配の長い一本道だ。刈り入れがされてしまったからか,名前のように,さとうきびがこれでもかと生えていることはなかったが,それでも「これぞ小浜島」と象徴するかのような光景だ。たしか,テレビでもこのカットで見たことがあるような気がする。
見ている限りは,下りだけでなく上りもそれなりにありそうだが,どうでもいい。またあの“快感”を味わうべく,シャーッと勢いよく駆け抜けていく。畑の周囲を見れば,牛が十数頭のどかな時を過ごしている。長さは500mほどで,下りはそのほぼ半分くらいか。
やがて時間にして1分ほどだろう。勢いはあっという間に停まって,ペダルは次第に重くなる。そして……これで何回目だろうか。そのたびに汗は吹き出し,ノドは渇き,後に不快さが残るのはホトホト分かっているのだが,それでもあの“快感”は実に魅力的であるのだ。ペダルが重くなってから数分,“ジ・エンド・オブ・シュガーロード”では,鶏が小屋から飛び出して私を迎えてくれた……ってそんな訳はない。ただ単に小屋の網がボロく破れていて,そこから好き勝手に出て走り回っているだけである。ある程度は鶏も心得ているかもしれないが,細崎に行くときに路上に突然出てきた馬といい,この島では実に動物が天真爛漫である。もちろん,それを許容している島民の心もあってのことだろうが,それでも車だったらヒヤヒヤものだろう。
でもって,ここから再び小浜の集落に入る。その入口=ホントの“ジ・エンド・オブ・シュガーロード”には,暦の代わりに使われたという“節石(さだめいし)”がある。横1m×縦30cm×高さ30cmほどの楕円の石。石の表面にある干支の穴と群星の光によって,種まきの時期を判断したといわれている。そのまま集落の中心部に行くと,軒並み琉球石灰岩の石垣と,昔ながらの赤瓦の平屋の民家が続いていく。この集落でも1軒見てみたい家があるのだが,その家かと思った何とも印象深い家は「うふだき荘」という民宿だった。2階建ての大きい建物だが,敷地にある大きな樹木がいい感じで木陰になっている。食堂もやっている一方,アイスキャンディーなんてヤツも売っている。ちょっと惹かれたが,500mlのさんぴん茶で腹がある程度冷えているので,我慢して買わずに通り過ぎる。
そして,その先に肝心の見てみたかった家。「こはぐら荘」と木の板に可愛らしく書かれた看板がヒンプンにかかっているその家は,ちょっとしたスポットとなっている。名前でピンと来たら鋭いが,ここもまた『ちゅらさん』に民宿時代の古波蔵家として出てきた家である。「ウェルカムですぅ」と書かれてはいるものの,立派に人が住んでいるのでヒンプンの奥は立入禁止である。のぞいてみると障子で完全に閉ざされているが,私みたいな人間は少なくないだろうから,オチオチ障子も開けられないのではなかろうか。それを考えると,ちょっと心が痛くなった。
集落,いや島に1軒しかないガソリンスタンド…というよりは,給油器がただ置いてあるだけのスペースって感じのところを通り,路線バス…というよりは,路線マイクロバスらしきものを走らせているコハマ交通の事務所というか車庫,黒ずんだ昔ながらの製糖工場を通過し,風と汗とたまに動物に翻弄されたサイクリングは,小浜港に15時ちょい前に到着して終了。よりによって,到着寸前に空には今日一番の鮮やかな青空が広がった。(第3回につづく)

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