サニーサイド・ダークサイド(全4回予定)

@適当にアメリカン
照太寺からはそのまま海岸線に向かって南下する。突き当たったところにあるニヤティヤ洞は,これまた第2次世界大戦時に人々が避難したガマである。1000人もの人が入れるくらいに大きいことから“千人洞”とも呼ばれている。駐車場からはコンクリートのしっかりした階段が通じていて,下に降りることができる。洞窟はその下にあるようだ。
下に降りてみると,地面が砂地となった大きな洞穴がパックリと開いていて,すぐそばには海も迫っている。中からは波の音が聞こえるが,穏やかである。そして当然だが薄暗く,ポタポタとあちこちから水が垂れてくる。いわゆる鍾乳洞なのだろう。初めは20〜30m四方かと思っていたが,ズンズンそのまま進んでいくともっと奥行きがあり,40m四方はあったかもしれない。千人洞と呼ばれる理由がよく分かる。あるいは骨の一つも…などど縁起でもないことを考えてみたが,感触ではそれらしきものは見られなかった。
その洞の中心辺りには“ビジル石”という石が置かれている。30cm×20cmくらいのだ円の石だが,これを持ち上げたときに軽かったら女児,重かったら男児が生まれるという言い伝えのある石だ。早速持ち上げてみるが,非力なせいもあってか持ち上がらなかった。おそらく30kgほどはあろう。持ち上がって性別が決まるってことだから,持ち上がらなかったってことは……そして,海側の岩壁を目をやると,ゴツゴツした“壇上”の形の岩に“戌亥方神”と書かれた立て板。「五臓六腑を与えられる男神・女神がお立ちになる」と書かれているが,意味はよく分からない。ただ,元々ここは御嶽だったようだ。どおりで神様がまつられていたわけである。
上に上がると,午前中に出会った(第5回参照)伊江小学校のガキどもが来ていた。それぞれにメモを熱心に取っているようだが,家に帰って作文か日記にでもするのだろう。あるいはクラス単位で“特別研究”名義の活動でもするのか。私は実にこういう“半強制的”な学習が大嫌いであった。テーマは自由だが,とりあえずはやらなくてはならないという“半強制”――まあ,別に彼らが今どういう状況に置かれているかは知らないし,そもそも小学生だから単位もクソもないのだが,それでも何とか形にしていったような記憶がある。
ニヤティヤ洞を後にして東進する。後は島の中心部に向かうだけだが,その途中,右手に“ミンガザントゥ”と呼ばれる石を発見する。岩盤の形を利用した露天タンクだ。大きさは5m×3mほどで,前方後円墳みたいな形をしている。その一角に40〜50cm四方に切り取られたような穴があって,そこに水を溜めたという。1940年ごろに作られたとされ,ここで水を飲んだりして渇きを潤したそうだ。湧出(前回参照)という水源があったとはいえ,島には川がない。だから,こうして知恵をしぼって水を確保したということだろう。今でもその穴には水が少し残っている。
さらに東進すると,これまた右手に一面芝生のスペース。30〜40m四方はある広さだ。真ん中には白い角錐の碑。そしてバックには旗を掲揚するためのT字型のポールがある。ここはアメリカ従軍記者であったアーニー・パイル氏(1900-45)をまつる記念公園だ。1943年には有名なピューリツアー賞も受賞していて,著書もいくつか残している。伊江島に上陸したアメリカ第305連隊と行動を共にしていたが,上陸2日後の1945年4月18日,日本軍の機関銃弾に倒れた。ヒューマニズムにあふれ,戦場にあっても,一般の兵士の不安や怒り,喜びや悲しみを報道しつづけたという。
遺体は初め粗末な木製の十字架の下に埋葬されていたが,後に沖縄本島の陸軍墓地,そしてホノルルの国立墓地へ移されたという。そして,この島には米軍によって彼に敬意を表する碑が立てられたというわけである。碑には“AT THIS SPOT,THE 77th INFANTRY DIVISION LOST A BUDDY ERNIE PYLE 18th APRIL 1945”(この場所で1945年4月18日,第77歩兵師団はアーニー・パイルという仲間を失った)と書かれている。ちなみに,パイル氏が自ら見てきた戦場をモチーフに,リアルなタッチで描いたドラマが,私も名前だけは聞いたことがある『G.I.ジョー』である。

いよいよ,村の中心部に入る。あと見たいと思っているのは,地図に載っている「芳魂(ほうこん)の塔」と「公益質屋跡」である。サイクリングマップを見ればもっと内陸にあるようなので,適宜左折すると,急にハードな坂が立ちはだかる。とりあえず自転車を押して上っていくが,海から見るとホントに城山だけが盛り上がって見えても,いざ近くに来るときちんと城山に向かってだんだんと勾配がきつくなっていくのだ。よく「城山以外は平坦だ」と言われる伊江島だが,それをコメントした人は車に乗っていたのではないか。自転車に乗って移動すると,それなりにアップダウンがあるじゃないか……などと,汗をかいて自転車を押しながら思ってしまう。
坂の周囲はおおむね住宅街となっていて,観光客の姿はあまりいない。私はもっとそれなりに店があるのかなと勝手に思い込んでいたが,ホントに勝手な思い込みであった。そして,自転車を押し続けること10分,左に公園らしき広場と黒っぽい大理石が見えた。ここが「芳魂の塔」である。近くに寄ってみると,黒い台の上に角すいの碑があり,その右隣には人々の名前が書かれた黒い大理石が幾重にも連なっている。沖縄戦で犠牲となった島民と軍人約3500人の墓碑である。うち,純粋な伊江村住民だけで2800人余りに上る。
ちなみに,伊江島では外部からと思われるが,地区隊(少佐指揮の下,第2歩兵第1大隊,独立機関銃中隊,速射砲中隊,野砲小隊)が編成されたようだが,そのほとんどが戦死し,地元住民もまた女子救護班,女子協力隊,青年義勇隊などを編成して戦闘に参加して犠牲者を出したそうだ。彼らの埋葬など満足にできなかったであろううちに,生き残った島民はこの島を2年以上離れることを余儀なくされる。それはホントに“身を引き裂かれる思い”だったに違いない。ここでは,毎年4月21日には平和祈願祭が行われているという。
さて,いよいよラストは公益質屋跡である。事前に調べていたのだが,公園の斜向かいにある島村屋観光公園の近くにあるのは知っていた。しかし,例によってこちらもその部分をプリントアウトしていたわけでもなく,またはっきり覚えているわけでもない。その観光公園に隣接する平屋建ての売店が営業しているようだが,例によって何も買わないで聞くのも気が引けてしまう。チビチリガマに行くときも,ろくすぽ調べもしないで結局聞くことになったし,しかもタダだったくせに(第3回参照),やはりここも初めは自力で行きたかった……が,路地をさまよってもそれらしき場所には辿りつけず,建物かと思ったら小屋だったとかいうオチに遭遇するのみだったので,結局売店まで戻ることにする。まったく,バカバカしい限りだ。
中に入ると,12〜13畳程度の広さに,地元の名産物やTシャツだとかが陳列されている。中でも,伊江島名物・伊江食品「ピーナツ糖」はかなり数が多い。朝食はかなりとっているが,これだけ動いたせいか,少し空腹らしきものも覚えている。せっかくだし,昼飯兼観光記念にどれかを買おうか……ホントならば100gとか携帯タイプとかがあればベストだが,最低で200g以上のようだ。事あるごとに食べている黒糖もいいが,ここは「ピーナツ白糖」を購入しよう。200円。早い話が,落花生の中に水あめがまぶしてある代物。白くなった水あめがピーナツ同士をくっつけていて,それが私に「食ってくれないか」と誘いかけている。お茶請けにはもってこいであろう。
40代後半くらいのおばちゃんがレジにいたので,ついでに公益質屋跡のことを聞いてみると,
「この道をまっすぐ(注・東進)行くと,中央公民館とい
うのがあります。その向こうに衛生センターというのが
ありますが,そっちへ行かずに左に曲がってください」
という。やれやれ,素直に聞けば1分足らずで済むところを,あちこちさまよったおかげで,10分のロスである。
ちなみに観光公園は,現在は庭やら民俗資料館やらがある,ちと中途半端な感じのテーマパークだが,元々は地頭代の家だったようだ。この家のカーナヒーという男性が本島に旅行に行ったときに,旅先でハンドーグヮーという女性と恋仲になった。しかし,カーナヒーは元々伊江島に妻子がいる身。当然だが,伊江島に連れ戻されてしまう。そのことで思いつめたハンドーグヮーは,真意を確かめるべく伊江島に渡るが,返ってきたのはカーナヒーからの冷たい仕打ち。それにショックを受け,自らの髪を首に巻きつけて自殺してしまうというエピソードがある。一応「沖縄三大悲劇」というやつの一つらしい。

おばちゃんの言うとおり,中央公民館の角を左に曲がりわずかに坂を上がると,その建物はあった。一瞬,大きい公民館にくっついているのかと思ったが,別棟であった。1929年に建ったというその建物は,政府の融資を受けて設立された村営の金融機関だった。当時は世界大恐慌期で,損財政や村民の生活も苦しかったため,個人高利貸の暴利に泣く貧民を救うための福祉施設だったそうだ。当時としては珍しかったというコンクリートの建物である。
建物は2階建て。何が見たかったかというと,壁一面に蜂の巣のように穴が開き,一部は崩れかけて鉄骨が露出し,特に2階の南側にはパックリと無残に大きな穴が開いている――紛れもない60年近く前の沖縄戦の爪痕が見たかったのだ。ここ伊江島の戦いでは,島の建物という建物を破壊し尽くしたと言われるが,それでも奇跡的にここだけが残っている。
建物の裏から入れるようだが,その前にピーナツ白糖を数個食す。甘い落花生といった感じで,何が特別に美味いというわけではないのだが,水あめの甘さでバクバク食が進みそうだ。こんなところで食べ過ぎて鼻血を出しても仕方がない。とりあえず,五つほど食べた後に開けた袋を丸め込む。
裏の通路は陽も当たらず,加えて水たまりがある。そのまま公民館の建物との間に入るが,1mもない幅である。そしてぐるっと回って,南側に入口があるので入ってみる。石垣の土台の上に建っていて,階段を3段上がる。中はがらんどうで,天井まで3mほどある。2階まで合わせると6〜7mくらいになるだろうか。下はここもまた水たまりがあるが,いつごろできたものだろうか。
この空間だけは,外の空間とは明らかに異にしているのがヒシヒシと伝わってくる。1985年に補修工事が行われたそうだが,60年近くもの間には台風なり強い雨風が何十回,何百回と来ているはず。にもかかわらず,いまだ全壊していないのが不思議だ。それだけコンクリートが頑丈なのか。はたまた,建物の中で人が死んだとかまでは分からないが,霊が成仏できないまま,さまよってでもいるのだろうか――いずれにせよ,これからも末永く沖縄戦を語り続けてほしいものである。
さあ,これで見るべきものは見た。しかし,時間はまだ14時半をちょっと過ぎたくらい。あわよくば城山の頂上へも行きたかったが,登山道があるとはいえ,さすがにそれは時間的にも,そして何より肉体的にキツい。でも,このまま港に行って1時間以上待合室だかで待つのもアホらしい。折角なので近くまで行くことにする。
ということで,再び上り坂を上ると数分で突き当たり。そこを右に折れて間もなく左に登山道が見えてくる。その上にはタコの頭みたいな,はたまた烏帽子のような形をした城山の岩肌が見える。階段が整備されていて,足元は悪くなさそうだが,鬱蒼とした樹木の中を上がっていくようである。あるいは先に行ったらけもの道か。残念だが,今回ここは通り過ぎる。
一方の右には,4階建ての白いそっけない建物。これは「ホテルヒルトップ」である。ホームページによれば1泊2食つきで7000円ながら,食事がなかなか充実していて,また“味噌ピー”という食べ物(その名の通り,ピーナツに味噌を和えたもののようだ),にんにくの黒糖漬けなどといった特産品もあるようだ。ここに泊まることも考えたが,それは那覇から伊江島までチャーター機で行っていたらの話。あるいは次回来る機会があったら,検討してみようか。
時間はまだ14時45分。夕飯は本島に入ってからのバスの接続いかんだが,最悪とても混んでいてあまり空港で時間がないケースもあり得る。少し小腹も空いてきたことだし,どっかの店が開いていれば軽く済ませようか。いま手元にはピーナツ白糖が200gマイナス5粒分ほどあるが,こいつは昼飯が食えた場合は夕飯に回してもよし,あるいは食べきれなければ明日以降に食べてもよし,というようにしたい。とりあえずは,狭い路地をクネクネしながら,港に向かって下りることにする。

クネクネすること数分,広い通りが横切る。周囲には一応店っぽいものが点在する。一応,これが村のメインストリートとみた。が,店はおおむねスナック系統である。あと,美容室もあった。あとは……ない。近くに村役場があったり,公共施設もあることだし,人口もそれなりにあるし,村のホームページにある店舗一覧での店の多さからも期待したが,やっぱり“離島の村加減”が思いっきり露呈されている。所詮そんなものなのだ。
そのメインストリートを途中で左に折れて,港に向かって下り加減になったそのとき,右側に2階建てで白壁のそっけない店が見えた。「すずらん食堂」と黒い太文字で書かれている,いかにも地元民用の店って感じだが,中は明かりがあって営業しているようだ。軽自動車と自転車が1台ずつ,店の前の駐車スペースに停まっている。何があるかなんてもちろん下調べなんかしちゃいないが,まあテキトーに何かを食おう。
中に入ると,出入口から向こう側に向かって,右に4人用のテーブル席が四つと,左には必ずと言っていいほどある座敷。座敷にもテーブルが三つある。その座敷側には小学生くらいのガキが2人,食い物を食い散らかしてマンガ本を読んでいる。真ん中をはさんで,その向こうには私より少し若いくらいの男性1人が,カレーライスでも食べているようだ。私はとりあえず,出入口のすぐ脇にあるテーブル席に座る。私の座った隣のテーブル席にも若い男性が1人座っている。多分,若い男性2人は,私と“同類”であるとみた。中ではテレビがかかっていて,偶然なのか地元沖縄のそばのレポートが始まっている。
さて,注文だ。壁にかかったメニューには,沖縄そば,チャーハン,ポークたまごなど,いかにも地元民用のラインナップ。その脇にある小さいホワイトボードには,日替りランチだかでゴーヤチャンプルーとカレーライスの文字。こちらにはコーヒーがつくようだ。うーん,何にしようか……と選択するほど選択肢はさしてないのだが,「ある程度腹持ちがするが,でも思いっきり満腹になるわけでもない。でも何となく沖縄の食べ物を食べた気分になれる」という“最大公約数的選択”から,「沖縄そば・大」(500円)をチョイス。ちなみに「沖縄そば・小」というのも400円であるが,これは別の定食ないしチャーハン類を頼んだときのオプションであろう。
中では,あいも変わらずガキどもはマンガを読みふけり,座敷にいた若者の1人が一足早く出ていった。と,別のところから母親らしき女性とその娘らしき女性が出てきた。で,そのガキどもと話をしだした。そのうち,50歳くらいの店の女将とも話をしだした。「今日,帰るの?」「何時の船?」「ホントは那覇行きの船があるんだけど,ドックに入っちゃっているから今日は出ない」「あれがあると便利なのにねー」――どうやら,みんなで1組の親子,さらに店の女将とは知り合いのようだ。間もなく,その親子らも会計を済ませて出ていくと,テーブル席の若者も出ていった。いよいよ私1人である。
6〜7分すると,沖縄そばが出てきた。直径15〜16cmくらいのどんぶりに,3〜4cm角の甘辛い味付けの三枚肉が3枚と,さつまあげ2枚,紅生姜,あさつきに,3〜4mm幅の平打ち麺というスタンダードなラインナップ。味もスタンダードな薄味。そして,分かっていながらここに入れてしまうのが,テーブルについているコーレクース。あまり入れ過ぎないように毎度調節はしているつもりだが,何となく軽い“ドボッ”の音がしないと入れた感触が湧かないわけで,そうなると,一口食べれば当然刺激的な辛さで汗を確実にかくわけで……って感じである。10分ほどで汁まで飲んで完食。時間は,ちょうど15時を回ったあたりである。
外に出て,後は港までラストスパート。風をしっかり浴びながら街中を進む。「アイラブバーガー」という名前の小屋風のハンバーガー屋,24時間営業のファミマとホットスパー,マルイストアという,東京では郊外の外れの団地に行かないと見ない平屋建ての商店,そのストアになぜか隣接する,品揃えがたかが知れてしまうレンタルビデオ屋,営業所がプレハブ小屋みたいに小さい伊江バス営業所を通り過ぎ,15時15分TAMAに到着する。
周囲は誰もいない。事務所に入ると,相手をしてくれたのは中年のおじさんだ。4時間以上乗っていると1日にカウントされるようで,1500円。相当に日に焼けて見えたのか,私に「海に潜ってきたんですか?」と聞いていた。いやいや,おじさん,地元民のあなたの肌には到底かないませんよ。どうせ,家に帰ってしばらくしたら,ひと皮もふた皮もむけて色が薄くなっちまうんだから……。

(1)プロローグ
16時,伊江島を出発。船内は行きと違って人が多い。前日からおそらく滞在しているのも含めて,この最終便で帰ろうということだろう。行きと同じく前方に座ったのだが(第5回参照),どっかの親子連れと相席になってしまった。何だか居づらくなってしまったので,帰りはずっと外に出て,潮風を浴びることにする。
初めは進行方向とは逆のベンチ席に座る。目の前から遠ざかっていく伊江島が見たくなったためだ。あらためて城山がシンボルになっているのを認識する。あと,学校の建物も比較的高いので目立つ。そして,山の麓に建つ白いノッポの建物は,ホテルヒルトップであろう。山の3合目辺りだろうか。あの辺りまで上がったり下がったりしていたのだと思うと,ミョーな感慨が湧いてくる。別に感動でもなく,ひどい疲労感でもなく,ホントに“ミョーな感慨”である。
進行方向の先頭に回りこむ。「これから行くところはどんなところか興味があるから見たいが,帰ってくる場所はどうでもいい」ということだろうか,先頭には誰もいない。なので,このスペースを1人占めだ。思いっきり向かい風なので,天然のクーラーでとても心地よい。とはいえ潮風だから,帰ってからベトベトするのは確実だ。できることなら家に帰ってシャワーでも浴びたいが,時間も遅いし迷惑がかかるから,明日の朝に思いっきり浴びることになるだろう。
同じルートを辿って,予定通り16時半に到着。行きは6台しかなかった自動車は,帰りは16台になっている。出入口が開くと,いっせいに車が出ていき,そして私はというと,ダッシュする。直線コース,風はややあり,地面は良好。予定通り,待っているバスに向かうためだ。脇ではフォークリフトが動いている。いくつか積み重なったダンボールなどを運ぶためだが,あらためて旅客船であるのと同じくらい貨物船であることも認識する。
バスに乗ると,中には20代前半くらいのカップル1組のみ。あるいは沖縄記念公園にできた「美ら海水族館」にでも行った帰りだろうか。一体ここで何分待っていたのだろう……まあ,いいか。続々と人が乗り込んできて,結局12〜13人ほどが乗っただろうか。3分ほど待って,人の波が途絶えたのを確認すると,運ちゃんが出入口の扉をクローズする。ちなみに,ご丁寧に走ってバスに向かっていたのは,私だけであった。そりゃ,歩いていったって待っていてくれるのが普通だわな。

名護市内までほとんど渋滞することなく,バスを降りたのは16時55分。下車したバス停は,宮里バス停。多分,他の(アホな)観光客はぐるっと街中を一周して,630円取られたに違いない。私はといえば490円。時間が10分ほど節約のうえ,140円も浮いた。ま,バスターミナルまで路地をくねくねしたので10分ほど歩いたが,それくらいはいいことにしよう。
名護バスターミナルには17時5分到着。事前情報では那覇空港行きの高速バスは17時25分発と,抜群の接続のはずだったが,あらためて昨日バスターミナルで確認したら17時55分発。ってことは,ここで50分近く待つことになる。その前のバスの時間を,曖昧に16時25分発か16時55分発かで覚えていたので,あるいはそのままバスに乗って,高速バスが停まる名護市役所前バス停まで行こうかと思ったが,念を入れてそれはあきらめた。そして,あらためて時刻を確認すると,16時25分発。念を入れて正解であった。別に市役所付近で見るべきものはないし。
さて,何をするか。近くに居酒屋があるが,15時に沖縄そばをしっかり食べたので,さして腹は空かない。なので,先述のとおりここでピーナツ白糖を“処理”していくことにする。もちろん,それだけではノドが渇くし物足りないから,バスターミナルに隣接するホットスパーで,オリオンビールの「麦職人」(146円)と,サラミソーセージ(105円)を購入する。そして,屋根がついたベンチにてつかの間の“打ち上げタイム@誰もいない番線”である。
オリオンビールはいろいろと種類を出しているようだが,単なる他のメーカーの受け売りじゃないかと思ってしまう。これといって美味いも不味いも分からない。確かなのは,暑さで水分を欲しがっているのが勝って,グングン身体の中に入っていくことだけである。あっさり飲み干して,まだ30分以上の時間。ターミナルの一番端にある高速バス乗り場が見えるが,すでに女性ばかり4〜5人が立ったまま待っている。そこは屋根もベンチもない。だから,私はこうしてここにいるわけだ。
那覇行きの高速バスは,私を含めて10人ほどを乗せて出発。那覇市内での渋滞など,どこ吹く風。結局,予定より10分以上も早い,19時25分に空港に滑り込む。なーんだ,心配して損したぜ。外はまだ明るいが,さすがに空にはパープルとオレンジが混ざっていた。(「サニーサイド・ダークサイド」おわり)

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