沖縄はじっこ旅V
@“ホテル”という名の民宿
しかし,その前に今日の昼飯を確保しておく必要がある。マーチに乗り込む前に,ちょうど目の前にある前泊スーパーに寄ることにしよう。こちらも軒の緑が印象的だ。裏手にある前泊公民館とともに一体感を出したデザイン…かどうかは知らない。今朝からスーパー脇の駐車スペースや建物の前には車がよく停まっているのだ。多分,今日のフェリーの欠航で食べ物なり何なりを確保しておこうということだろう。明日は正月で店は確実に閉まるだろうし。
スーパーの中は,ほぼ日用品がそろっている。生鮮食料品もあれば乾物も洗剤とかもある。とりあえず菓子パンのコーナーから,地元沖縄のメーカー・オキコの「クリームパン」(105円)と,JA伊平屋が出している「伊平屋島産・一口黒糖」(200円)を購入する。私の前にレジに入った中年女性は,生鮮食料品を6000円相当購入していた。はて,彼女もまた民宿か何かを経営していて,フェリーが欠航になったために急遽食糧が必要にでもなったのだろうか。
さて,私が買ったものは,前者は12〜13cm×10cmくらいの角丸なヤツ。後で食べたが,まあフツーのクリームパンだ。後者は,レモン色のパッケージの中に,3cm×1cmくらいの一口サイズの黒糖が袋詰めされて大量に入っている。この袋がピンク・オレンジ・黄色・緑色・青の5色に,前から順番に緑色のカーサー・灰色のハリセンポン・茶色のイヌピ・緑のピタロー・群青色のミーバイがそれぞれプリントされたもの。伊平屋島で獲れたさとうきびだけを原料として炊き上げたと書いてある。彩りが実にカラフルで,かつこんな手軽な値段――というか安すぎるような気もするが,そもそもさとうきび自体の価格もかなり安いのか――なのだから,島の土産には最適だろう。
ま,これでメシが足りるかどうか分からないが,クリームパンが350〜400kcalと仮定して,黒糖はすべて食いきると366kcalと書かれている――ま,後者は間違っても今日1日ですべて食えないだろうが,そもそも昨日も今日も白飯を2杯食べてカロリーオーパーしているし,どこかで調節しないと今日の夕飯とかでまた気まぐれに多く食べたくならないとも限らないし,って結局食べちゃうから意味がないのだろうが,気がついているときにダイエットというのはやっておかないといけないものなのだ。
とりあえず,昼の食糧を積んでマーチを出すことにする。空は今にもまとまって雨が降り出しそうな感じだ。風は相変わらずの強さ。片道1車線の立派な道の周囲は,あっという間に何もなくなり,畑地ばかりになる。奥に広がる山並みが,たかだか標高230m程度らしいのにかなりの高さに感じて,それこそ麓にある集落が立派に“麓”のように見えるほど,広大さを感じる。小さい島なのにもかかわらず見える景色を“大陸的”に感じるのは,ある意味離島の大きな特徴と言えやしないだろうか。
そして,海沿いのにしえも遮るものがなくて,突風をモロに浴びてしまうのだが,それは内陸に入ったこの辺りの畑地でも同じで,車を停めているときに風が来ると少し揺れてしまう。ふと,さる10月の台風による突風で,横浜のトラック会社のトラック数台が根こそぎ倒されていた光景を思い出す。そんな中に出かけること自体,そもそも正しいのか分からないが,かといって部屋に留まっていて,ベッドメイクだので片づけをやるから出て行けとか言われたら,それはそれで凹みそうな気もするし……。
さて,その麓の集落である田名(だな)集落の手前で道を右折する。これから行こうと思っている場所への看板が,手前で右折する旨出ていたからだが,それを進むこと5分で最初の景勝地「念頭平松」(ねんとうひらまつ)に到着する。山並みに向かってなだらかに登り傾斜になった芝地のど真ん中に,大きく傘を張ったようにこんもりとした松が1本そびえている。
入口には10台ほど停まれる駐車場があり,トイレもきっちり完備していて,東屋が三つに遊歩道まである立派な公園仕立て。なのに,今ここにいるのはこの私1人。車から降りると同時に雨が落ちてきた。しかし傘をさそうとすると,そこを突風が襲うから,根元を持たなくてはならない。無論,この時期だったら厚手のシャツ1枚で大丈夫か,はたまたTシャツでもいられるはずだが,到底耐えられない寒さだから,ジャンパーをきっちり前ボタンとチャックまでして装備しなくてはならない。
そんな中,平松のほうに向かうと周囲は柵で囲われていた。伸びている枝はいずれも支え木がされており,おそらく何もなければ重みでバランスを崩してしまう。そのヘンの危険を防止するための柵と思われる。そばにある案内板によれば「高さ7.8m,枝張14.5m」とあった。
さらにそれによれば,今から約500年前,この松よりも美しい松がこの地に植えられ,それは“兄松”と呼ばれ愛された巨木になったのだが,あるとき隣の伊是名島の山太築登(やまたちくどん?)という者に盗伐されてしまった。しかし,彼は聖なる松を伐った崇りで病気になり亡くなったという。その後,山太築登の弟や親類がそのおわびとして植えたのが,この念頭平松だとされている……とあった。
ちなみに,念頭平松は樹齢200年とも300年とも言われているが,ここにもまた伊平屋島と伊是名島の“ビミョーな因縁”が流れているのだ。“兄松”が今の時代まで生きていたらどうなったのか。しかもタイミングとしては,伊是名島の金丸が第2尚氏の“尚円”として,伊平屋島出身の第1尚氏から王朝の座を奪って間もないタイミング……さすがに,二つの村が2005年7月に合併することに反対する意見の中に,この念頭平松のエピソードはなかったのだろうか。

さあ,道はそれてもいいが,だからといって話はあんまりそれてはいけない……次はそのまま北上して「クマヤ洞窟」に着く。防風林のような緑を右に見ていたのが途切れて砂浜になると,左に大きな三角の断崖が見えた。看板らしいものはない。何となくその断崖の中腹よりやや下あたりに向かって上り階段が続いているだけだ。
脇にある,駐車場というよりもとりあえず少し広めになったスペースに車を停める。無論,誰も来てはいないのだから,このくらいは大丈夫だろう。モロに海を目の前にして,突風の洗礼を早速受ける。一体,気温は何℃なのか。沖縄では気温が“1ケタ”になることが年に数回しかないようだが,今日はその数回のうちの1回ではないか。あるいは,風の強さで体感温度が低いだけなのか。
早速,階段を上がっていく。50〜60段はあり傾斜も急であるが,手すりがしっかりついているので安心だ。とはいえ,寒風吹きすさぶ中を上がっていくから,身体を取られないかちと不安になる。そして,ここで一つ気になっていたことがあるのだが,それは洞窟の入口のことだ。カベルナリア吉田著『沖縄の島に全部行ってみたサー』(「参考文献一覧」参照)を読むと,著者がこの入口でたくさんの“ゲジゲジ”に足元に擦り寄られて怖くなったというのがあったのだ。ウジャウジャしていて,たまらず逃げたというのである。はて,少し…というかかなり寒くなっているといえど,まだ虫が生きていても十分な環境なわけだし,吉田氏が訪れてから数年経っているが……。
しかし,洞窟の入口にはゲジゲジはもちろん,他に生き物らしき姿は何もなかった。これは私にとっては一安心であった。それよりもその入口の狭さといったら,人がギリギリ通れるかどうかの隙間しかない。それも,私のように少し“厚み”がある人間は,間違いなく身体のどこかをこすっていかなくてはならない。岩が自然のまま不規則にあちこちから隙間に向かって出っ張っているからだ。ちなみに,帰りは岩に前頭部をぶつける失態をしてしまった。
とりあえず,ジャンパーの襟のあたりとズボンのどこかをこすりつつ中に入ると,湿気を帯びてムワッとする。外の寒風との温度差は明らかだ。中は大きな洞窟で奥行き・高さとも数十mはあるだろう。上にも大きく伸び,下にも大きく伸びて,すり鉢をたてかけたような形状になっている。外の“三拍子”がそろった喧騒とは裏腹に,中はシーンとしている。
入口付近はゴツゴツと岩が露出しているが,だんだんグラデーション風に岩が少なくなり,途中からは砂しか見えない。まるで巨大なアリ地獄のようだ。奥には祠がある。はて,奥まで行こうか迷ったが,時間は有にあるのだし,とりあえず足を取られながらも下に降りていく。振り返れば,上には亀裂のように開いた幾つかの空間から漏れる天然の明かり。たとえ空が曇っていようが,頼りになる明かりはこれしかない。夜は間違っても,いまの私のように何も持たずに入れそうにない。
“アリ地獄”の中に入っていくこと1分,意外や意外あっさりと祠に辿りつく。トタン屋根の軒の下に,高さ・幅1mほどの木製のものがあり,みかんが供えられていた。真上は漆黒の闇である。その隣には,ここにもあったか「世界人類が幸せでありますように」と書かれている白い棒。そして,壁際にはなぜかたくさんのバケツが。音がしているから水が鍾乳石から垂れ落ちているのだ。建物じゃあるまいし,別に水がいくら垂れ落ちたって差し障りなどないはずだが,どうして置かれていたのか謎だ。
この洞窟は,何でも“天の岩戸(あまのいわと)伝説”の最南端の場所とされているそうだ――日本最古の歴史書『古事記』に書かれたものによれば,太陽を司る女神であった天照大神(あまてらすおおみみかみ)は,父・イザナギの尊(みこと)からの命で,天上の世界「高天原(たかまがはら)」を支配していた。そして,彼女の弟であるスサノオの尊は,同じく父の命により嵐の発生しやすい海原一帯を支配するよう言われていた。
ところが,このスサノオの尊は言うことを聞かず,すでに死んでしまった母親・イザナミの尊が住む黄泉の国に行きたいとひどくダダをこねた。それが父の逆鱗に触れてしまい,追放の目に遭ってしまう。しかし,スサノオの尊はあきらめがつかず,黄泉の国に行こうとした。その前に「挨拶をしておこう」と思って寄ったのが,姉である天照大神がいる高天原だった。
ところが,単なる挨拶のはずが,思わぬ争いに発展(経緯は長くなるので省略する)。スサノオの尊はその果てに高天原のあちこちを破壊する暴挙に出る。やがて,天照大神は弟の度重なる悪行にあきれ果て,岩戸の陰に姿を隠してしまった。すると世の中は暗闇に包まれてしまった。困った他の神々は集まって天照大神に出てきてもらえるよう策を練ることになった。
そこで最も美しい女性の神・天鈿女命(あまのうずめのみこと)が,岩戸の前で面白おかしく踊り,それを集まった神々がはやし立てることにした。外の様子が気になる天照大神が岩戸を少し開いて外の様子をうかがったところを,最も腕力のある神・天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)が岩戸をなんとかこじ開け,天照大神を誘い出すことに成功。世の中は明るさを取り戻したそうな……。
この伝説にまつわる史跡は,三重県志摩市,鳥取県と岡山県の県境にある蒜山高原など,至るところで“全国展開”されている。そんな中で「発祥の地は沖縄だ!」という大胆な説を唱え,このクマヤ岩戸こそが天照大神が隠れた岩戸だと発表したのが,18世紀の国学者・藤井貞幹(ふじいていかん? 生死年不明)という人物。同時代の高名な国学者であり,『古事記伝』を発表している本居宣長(1730-1801)と,大論争を繰り広げたそうだ。「神武天皇(天照大神の孫とされている)は,琉球の恵平屋島(ゑへやしま→いへやじま)に生誕あそばされたり」という藤井説は,現在もたびたび大学の国学関連の研究機関,沖縄史跡研究者が調査に訪れているという。

さて,寒風吹きすさぶ中,再びマーチを走らせる。すでに次の場所は見えている。島の最北端にある伊平屋灯台である。白いてっぺんが緑がこんもりと生い茂る中からのぞいている。岸壁沿いの道は,やがて左にカーブして上り坂となる。間もなく「→久葉(くば)山」「→伊平屋灯台」の看板。車が1台通れる程度の上り道の周りは,山の名前のとおり,沖縄の方言で“クバ”ことビロウの木が生い茂っている。琉球舞踊の一流どころが小道具として使うクバ笠は,ここクバ山のクバを使って伊平屋の職人が編んで作ったものなのだそうだ。39.5へぇ〜。
そして,どんづまりにある白い灯台が伊平屋灯台である。ま,何がどうスゴいってわけでもなく,フツーの白亜の灯台。で,岬地形なものだから,とにかく風が強いのなんの。雨も降ったり止んだりで不安定。崖の下が少しのぞけるが,白波が荒れ狂う以外は何も見ることができない…というか,見る余裕がないのかもしれない。この場所は,沖縄本島の北にある鹿児島県の与論島(「ヨロンパナウル王国の旅」参照)よりも実は北に位置しているという。晴れていればあるいはその与論島が見えたかもしれないが,今はそれどころではない。
ちなみに「伊平屋島最北端」ということは,同時に「沖縄県最北端」……かと思ったら,そうではなかった。さらに北には「硫黄鳥島(いおうとりしま)」という島があるのだ。ちなみに,管轄は久米島町で,位置としては徳之島(「奄美の旅アゲイン」参照)とほぼ同じ位置。ただし硫黄鳥島は無人島であるから,「沖縄県の有人島最北端」という称号は,この伊平屋島に間違いなく与えることができよう。釣り舟か何かをチャーターすれば硫黄鳥島にも行けるようだが,フツーでは公共交通機関を使ってしか行かないわけだし,いま行き得る限りでは沖縄の一番はじっこに,現在立っているということになる。
そんな感慨にふけるにはあまりに天候が悪い。仕方なく来た道を戻って,今度は島の西側を北から南に向かって下っていくことにする。道は再び片道1車線のいい道となる。左にはなだらかな緑の上に無骨に露出した灰色の岩が大きくはだかっていく。そして,右手に見る海は,それまで見てきた海岸よりも波が高くて激しい。何たって,この向こうには中国や韓国・北朝鮮,もっと大げさに言えば“ユーラシア大陸”しかない。それまではひたすら東シナ海が広がるのみである。
そんな高く激しい波に洗われていた景勝地が二つ。「ヤヘー岩」「無蔵水(むぞうみず,んぞうみじ)」である。前者は烏帽子岩のような形の岩で,築城の跡があって干潮のときは渡れるという。そして,後者は夫婦岩のようにある二つの岩の片一方のてっぺんにある,周囲6m・深さ50cmの不思議と決して涸れない水たまリのことを指すそうだ。砂浜があるが,いずれも海に下りていくのはしんどいので遠くから眺めるにとどめた。それにしても,後者はそばに行くかホームページとかで調べないと,単なる岩をどうして“水”というのだろうかと,ひたすら悩んで終わってしまいそうである。
ちなみに,後者はこんな言い伝えのある場所だそうだ――すぐ南にある田名集落にいたとある若い夫婦の話。ある夏,夫がくり舟で沖へ約りに出たところ,荒波に流されてしまった。2〜3年間行方が分からず,周囲の人々はもう死んだものとあきらめた。集落一の美人だった妻は,再婚話がひきもきらず,両親も再婚をすすめたが,妻は「夫はきっと生きている。帰るまで待ちます」と言って,断固断り続けた。そして,毎日夫が消えた沖合の見える岩の上で帰りを待ったという。
この岩こそが“無蔵水”があった岩とされている。そして,夫への愛を“涸らさず”に待った甲斐があって,数年後夫は元気で妻の待つ島に戻り,その後2人は仲睦まじく家を興してめでたく立身出世したという――妻の貞操を称えた言い伝えであるが,現実はどこかの国で2年間の“男子兵役”の間にカップルが破局するケースが少なからずあるがごとき,といったところだろうか。ましてやある意味“浮草家業”的な芸能人が,続々と兵役逃れのためにいろんな工作をしてしまうことくらい……。
さて,これで一通り島の北部に集中する名所を見て回った。後はテキトーに海岸線を下っていく。この先で海岸線の見所といったら,木々に漂流物らしきものでデコレートしたオブジェくらいか。しかも名前も何もないから,個人でやったものだろう……それはそうと,もしかしたらフェリーが13時に急に出るんじゃないだろうか。というのは,ちょうど念頭平松を見ていたときに,放送が流れたのだ。しかし,折りからの風でまったく聞こえなかった。こういうミスが後で“大きな後悔”につながりかねない。
あるいはもしかして…と思って,途中から左に曲がってターミナルに向かうことにした。一つ大きな集落を通り抜けたが,ここは我喜屋(がきや)集落。いくつかの民家で見たテーブルサンゴの石垣と,大きな木がエントランスにある個性的な御嶽が印象的だったが,降りて見るほどの余裕はなく,そのままターミナルに向かう。また,この集落の奥には「神アシャギ」というのがあるようだ。地図で確認する限りでは,これも御嶽のようだが,かなり奥のほうに入っていくようだからあきらめた。
そして,11時35分にターミナルに到着。しかし,どんよりとした空の下にあったのは,明かりのついていないターミナルの建物。人気もまったくなく,欠航を知らせる張り紙が玄関に貼られたのみだった。岸壁に停まっていたフェリーや,近くにあるJAの女性共同作業所には明かりがついていたが,どうやらフェリー自体は予定通り欠航で間違いないようだ。ま,そりゃそうだろうな。
――再び気を取り直して(?),今度は島を西南方向に進んでいくことにする。先ほど通過した我喜屋集落を通り過ぎると,「←屋蔵墓」という看板があった。早速,そちらの方向に入っていくと,どんづまりにあったのは台風か何かでだろうか,無残に割れた遊歩道の石盤と東屋だけが虚しく残っていただけだ。案内板が一応はあったが,どこに墓があるのか分かりゃしない。
もっとも,後でホームページで確認したら,洞窟地形の中に小さい拝所があるだけの質素なものみたいだが,それにしても扱いがひどい。単なる海岸というか,それ以下かもしれないひどさだ。この“屋蔵”とは何を隠そう……と部外者の私が興奮するのもヘンだが,第2回でもちらっと名前を出した第一尚氏の先祖・屋蔵大主(やぐらうふぬし)の墓とされているのだ。
さらには,その王統の流れを汲む子孫が,約30年余前までは沖縄本島南部の知念村・玉城村・佐敷町に在住しており,代々この墓の管理をしていた我喜屋集落の西銘屋(にしめや)という家に,祭りに必要な線香その他を届けていたというエピソードがあるのだが,この由緒正しき場所の何という無残さ……第二尚氏の祖・尚円を生んだ伊是名島の人間がこれを見てどう思うか,なんてことは殊更部外者の私の知ったことではないが,片や伊是名島では尚円の銅像が立ち,立派な公園として整備されているというのに,この差が第一尚氏と第二尚氏の,いろんな意味での“差”なのだろうか。

ここからは一気に南へ走り抜ける。途中まで通ってきた島の西側を走る道が,島の端の一歩手前にある製糖工場のそばで合流。そして,いよいよ島の最南端・米崎を通過して野甫大橋を渡る。全長62mの少しアーチがかかった立派な橋だ。両側に遮るものは何もない。風の強さを最も感じる場所と言ってもいいだろう。渡っている間にもブルブルと窓を風が打ちつける。
外洋すなわち東シナ海へとつながっている進行方向右手からは,容赦ないと言っていいほど白波が押し寄せてくる。橋を覆い尽くすなんてことはさすがにないが,ちょっとした恐怖心すら覚えてしまう。ちなみに,伊平屋島側の欄干に「25年間(はっきりした数字は覚えていない)ありがとう」と書かれていたので,何なのかと後で調べたら,つい最近橋を新しく架け替えたのだそうな。ということは,今回渡った橋は新しい橋。実際はもっと海すれすれに架かった橋だったようだ。
そして野甫島だが,橋の付近に集落がちょこちょことある。道はそのまま少し中に入った野甫小・中学校のところで終わる。後はログハウス風の「倶楽部野甫の塩」(「塩夢寿美(えんむすび)」という塩を製造)という建物と,丘の上にあって階段を上がっていく御嶽が見どころだろう。いずれも“三拍子”のせいで素通りしてしまった。そうだ,たしか「野甫の塩」はどこかのテレビに出ていなかったか。

@“ホテル”という名の民宿
こうして一通り見て,にしえに戻ったのはまだ13時ちょっと前。宿へ帰ってきてすぐ,食堂でまた電話を借りる。ちょうど,地元のオバちゃんらしき女性が数人“ゆんたく”しているところだった。あるいは,顔をよく見ていなかったので分からないが,宿泊していたオバちゃん2人もいたのだろうか。電話は無論,JTAにキャンセルの電話をするためだが,これまた2回かけて2回とも話し中だった。
すると,話を聞いていたのか,オバちゃんの1人が「兄さん,これ食べてー」と,3〜4cm大のサータアンダギーを1個くれた。さらに今度はキッチンからメガネのオバちゃんが,キッチンペーパーに包まれたビニール袋をくれる。中はこれまたサータアンダギー5個。いずれもかなりの大きさだ。なんていいタイミング。もちろん「ありがとうございます。いただきます」と礼を言っておいた。
部屋に帰って,テレビを見ながらサータアンダギーを食べる。クリームパンと一口黒糖数個だけで十分と言ったらウソになる。いずれも出来たてで温かい。“サータアンダギーミックス”なんてのが最近は売られているから,あるいはそれで作ったものかもしれないが,“好意”という名の調味料が旨みを引き出して,とても甘くてホクホクした味となる。その美味さで食欲が結構進む。自販機で買った冷たいペットボトルのさんぴん茶とともに,あっという間に三つ一気に平らげてしまう。残り二つも,その後気が向いた時に平らげてしまった。
そして,しばらく経ってまた食堂に行くことにした。今度は,宿のオバちゃん家族らがメシを食べている中だったが,思いきって「差し障りがないようでしたら,パソコンをお借りしてもいいですか?」と聞くことにしたのだ。しかし,返ってきたのは意外にも「壊れている」という答え。たしか,くっついていたサーバーの中には赤い明かりがついていたが,あれは単なる明かりだったのか? もしかしたら,貸し出せない事情があったのかもしれないが,ま,こちらとしてはそれ以上追求しても仕方がない。
とりあえず,部屋に戻ってテレビをつける。そして,何気にケータイをいじっていたとき,ふと思いついたのは「ケータイからJALのホームページにアクセスできないか?」ということ。別段,そんなの当たり前じゃないかと思われてしまうだろうが,私は自慢じゃないがあまりケータイというヤツを使いこなせないのだ。インターネットは今までやったことがないし,メールもほとんど使わない人間なのである。
そうとなれば,経験がてらインターネットにチャレンジしてみる。そして……見事にアクセスでき,キャンセル成功。実にバカバカしい結末っちゃバカバカしい結末だが,これに気がつかなかったら永遠に電話を借りに行っては,つながらないで最後は4万円をドブに捨てるハメになっていたかと思うと,やっぱり神様は私を見捨てていなかったのだと,都合よく解釈してしまったりする。
そうとなれば,この勢いで……そう,念には念を入れて1月2日の飛行機を押さえようと思ったのだ。とりあえず順番通りにやってみたのだが,3回ほど「日付を正しく入れてください」という冷たいテキストが返ってくるのみ。もしかして,年が変わらないとダメとか?……何度か思考錯誤しつつ,それでも一度,何となく予約まで漕ぎつけたような気がしたが,「完了」のところのボタンを押したときに出てきたのが「ブラウザが容量を越えました」という,これまた残酷なテキストだった。
やれやれ,これは明日の元旦の朝,あらためてトライしてみるしかないのか。ふと,バッテリーのところを見れば一番少ないところを指している。何回もケータイをいじくっていると,こういうことになるのだろう。はたまた,ボロすぎるのか。いずれにせよ,明日万が一のことを考えればあまりここでムダ使いはできないわけで,しばらくの間電源を切っておくことにする。
そして,ひとまず安心したのか,しばらくテレビを観ていたらついウトウトしてきて,次に目が覚めたのは16時ちょっと前だった。今まで沖縄奄美…いや日本全国を旅行していて,昼寝なんてしたことはまずなかった。いつも“充実したスケジュール”の下,あるいは仕事をしているとき以上に忙しく動き回っていたかもしれない。ある時は十数kmのサイクリングをしたり,またある時は猛ダッシュで高速をすっ飛ばしたり……それから比べると,こんなスカスカ…いや“ゆったりとした”と言っていいだろう。実にいい感じにまったりとした,初めての旅先での休暇である。もっとも,これこそが旅先でのホントの休みの過ごし方なのだろうが。(第5回につづく)

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