西表リベンジ紀行

B“秘境”集落を歩く・午前の部
ジャリ道を歩くこと2分ほどで,トンネルにさしかかった。ここで早速,懐中電灯のお出まし……といっても,向こうに出口がすぐ見えるし,電灯なしでも歩こうと思えば歩けてしまいそうだが,一応つけてみることにする。ちなみに,長さは73m。第2次世界大戦時に軍が掘ったものだという。たしか「陸軍が掘って,実際に使ったのが海軍でした」とか言っていたような気がする。もっとも,実際に掘ったのは炭坑夫とのこと。なるほど,「餅屋は餅屋」ってことか。
その道中,トンネルが海に向かって分かれるところがある。この先が舟浮に来るときに見えた,米軍機を撃ち落とした穴なのだ(前回参照)。もちろん,中に入ってはいけないから,入口で感心をするだけだ。再び歩き始めると,進行方向左下にはパイプが伸びているのが見えた。水源から水を引くためだという。そのままでも飲めるそうだが,小学校での給食などに使う手前,一応は塩素消毒をして配されるそうだ。集落の宝である子どもに何かあっては,集落の存続にもつながりかねないということか。
5分ほどかけてトンネルを出ると,右手に二つ大きな穴がある。一つは発電所跡――何か真ん中に物体があったと記憶するが,すっかり消えつつある。ちなみに,いまから20年前の1985年までは発電による生活をしていたそうだ。北大東島が20年前まで水道がなかったってのと同じぐらいに(「沖縄はじっこ旅W」第6回参照),文明生活から隔離された場所だったのだ。いや,でも「水vs電気」だったら,やっぱり水道がないほうが“勝ち”か?……って,こんなことに勝負を持ち込むのはナンセンスか。
ここからはしばらく藪の中を歩いていくことになる。田中さんが気を利かせて虫除けスプレーを2本持ってきていた。しばし立ち止まる。普段あまりこーゆーのはつけないタチだが,何となく振りかけたい気分になる。先頭を歩いていた1人旅の女性から1本もらって振りかけようとするが,あまり液体が勢いよく出てこない。そうこうしているうちに動き出した。私が貴重なスプレーをずっと持っていてもしょうがないので,とりあえず周辺に声をかけたが,いらないそうだ。つれないというか……って,今から考えれば大して出てこないスプレーをかけても仕方がないって思ったのかもしれない。
そして,もう一つ。弾薬庫があった穴に辿りついた。ここでこっちのルートは折り返しとなる。この穴へは,実際に入っていくことになる。暗い方向に向かって入ることになるから,当然懐中電灯が必要だ。と,ここで田中さん。「奥にコウモリがいますので,それを見てもらいます。で,くれぐれも奥に向かって懐中電灯を当てないでくださいね。まだ弾薬が残っていますから危険です。この間も軽く爆発を起こしたんですよ。私の注意を聞かなくって」――おいおい,そいつはこわいぜ。
ということで,田中さんの忠告通り足元を照らす形で進むことになる。なぜか今度は私が先頭になって入っていく。下は木の板が敷かれている。30秒ほど歩くとそれが途切れた。はて,ここから先へ……すると「あ,そこで終わりです」と田中さん。なーんだ。何も見えなかったぜ。すると,田中さんが「ほーら,上のほうを照らしてみてください」……そこには,ウジャウジャと細かく動き回る無数の黒い物体。すなわち,これこそがこの洞窟のメインのコウモリだ。思わず「いやー,気持ち悪い〜」と若い女性陣。私だって,もちろん気持ち悪い。そして,あんまり照らしつづけないでほしい。名前は残念ながら忘れてしまったが,この西表島でしか棲息していないコウモリだ。ちなみに,コウモリは超音波で障害物を察知するそうで,こちらから何かしない限りは人間を襲うことはないようだ。ホッ。
再びトンネルをくぐって,出たすぐ左の建物の中に入る。何の変哲もない2階建ての古ぼけた建物は,この目の前の海で養殖されている黒真珠(または黒蝶真珠)の工場・琉球真珠舟浮養殖場がある。でかいバケツがいくつも並べられていたり,はたまたいくつもの水槽では,1カ月ごとに成長の度合いが分かるようになっている。すべての始まりは,肉眼でやっと見えるか見えないかのツブツブで,これが次第に大きくなっていくと,貝殻の形になる。そして“核入れ”とかがあって……詳しく田中さんが説明してくれたが,ほとんど忘れてしまった。覚えているのは1997年10月に,いまは亡き“きんさん・ぎんさん”が石垣島の琉球真珠に引き回されてきた…もといご来店した写真ぐらいか。
そう,元々は石垣島は川平湾で1951年に創業した琉球真珠。「採算度外視」「夢追い物語」的にスタートしたのだが,案の定会社の倒産・人員整理による1人1人への負担・台風による被害・養殖自体の試行錯誤……など,いろいろな困難に見舞われる。ようやっと良質の黒真珠がぞくぞく採れるようになったのは,創業から20年目の1970年のことだ。でも,この成功から後は一気に上昇気流に乗っていき,たまりにたまった借金は2年で返済。1972年には舟浮の養殖場を設置。1980年には黒蝶貝の人工採苗の技術開発に世界で初めて成功。1984年には国内初の白蝶真珠の養殖成功。2000年には九州・沖縄サミットで,G8首脳夫人への公式プレゼントとして琉球真珠の黒蝶真珠オリジナルデザインが選ばれる……という輝かしい功績を残すまでになった。
ちなみに,台風の被害においてはこんなエピソード――1963年9月,猛烈な沖縄の台風は川平湾に浮かべた養殖いかだを跡形もなく消し去ってしまった。普通ならばここであきらめであろうところ,「もしかしたら生き残っている貝があるかもしれない」と,荒れ果てたいかだから1個ずつ丁寧に貝を回収していった。結果,当初8000あったという貝は700弱まで減ったものの,その中からいくつもの美しい真珠が採取されたという。自分が育てたがゆえの優しさなのか,はたまた成功への執念なのか,真相は分からないが,ここにもまた一つ,「神は一生懸命な人を最後は見捨てない」という“法則”が存在したことだけは事実であろう。
なお,5万円にてオーナー制度が取り入れられており,田中さんいわく「必ず,良質の黒真珠は保証されます」とのこと。5万円ならもしかして安い……ただし“核入れ”のときには立ち会いを義務付けられている。その往復の旅費は…さすがに本人負担だそうだ。ってことは,自分の人件費込みでは10万・15万…,さらに養殖場に通えば通うほど,エンドレスにふくらんでいくってわけだ。

ようやく…といってもまだ12時10分だが,昼飯だ。これもまた,このツアーの何気に“目玉”である。指定された一番奥の座席(前回参照)に座る。隣は私よりは明らかに年上の男性。「いただきます」を何となくつぶやいて,がっついていく。さすがにみんなで「いただきまーす」ってのはないらしい。当たり前か。壁にかかった「掲示板」と書かれたコルク板には,いくつもの手紙や写真やサインが。でも,かつみ&さゆり,渡辺正行では,ちと寂しすぎるか…って,それはさすがに失礼だろうか。あと,聞いた事も見たこともない女性のサインもあった。
さて,今回の食事は@グルクンの唐揚げA天ぷら(ゴーヤ,紅芋),BパパイヤチャンプルーCワカメと若筍の和え物Dもずく酢Eおにぎり(ひじきとプレーンが1個ずつ),Fアーサ汁Gシークワーサーゼリーというラインナップ。味もさることながら,その入っている器がいかにも舟浮まで来た…って感じにさせてくれる。バックではゆるやかに島唄がかかる。クーラーとともども心地いい。もしかして,地元ならではってことで池田卓氏あたりだろうか。
まず@ACは,幅10cm×長さ40cmほどの半分に輪切りになった竹筒にバランスよく入っている。あわせてハイビスカスがあしらわれ,@の下には殺菌効果があると言われる月桃(げっとう,別名“サンニン”)と呼ばれる笹の葉みたいな葉っぱが敷かれていて,彩りにも細やかな気配りがされてある。ACは,昨日食べた天ぷら(第4回参照)よりも衣が薄くて,本土の天ぷらっぽい食感があった。
Bは,直径15cm×高さ3cmほどの竹の桶に入っている。ただし上げ底であって,深さは1cmもなかったと思う。取っ手も一応はついている。細いパパイヤとにんじんが入っただけのシンプルなヤツだ。沖縄の言葉で“下し金などですりおろした”ことを意味する「シリシリー」である。味付けはおそらく,塩・コショウだけだと思う。それでも味がしっかりついて美味い。このほかDは,直径3〜4cm×深さ5cmほどの竹筒の中に,Eはビロウの葉っぱを組み合わせたカゴに入る。FGはさすがに竹やビロウというわけには行かず,前者は普通のお椀,後者はガラスの器にそれぞれ入っていた。
とりあえず,全部をとっとと食べきったが,時間はまだ余っている。まさか,月桃やハイビスカスを食べるわけにも行かない。@が三枚に下ろされたうちの骨のところだけ残っていて,カラッと揚がっているから食べようと思えば食べられる。貴重なカルシウム源だし,味も美味いのだが,“バリバリ…”という音は避けられない。意外や意外,みな静かに食べていて,若い女性3人組も静々と食べている。小さい子どもたちも,とても大人しい。はたして,こんな静けさの中で“野蛮な音”をたてていいのか……いいや,もったいないし食べちまえ。
すると,後ろのほうからも小さめに“バリバリ…”という音。たしか,後ろは1人旅の女性だったと思う。なかなか勇気のあるヤツだ。すると,私の隣の男性も“バリバリ…”という音を立てはじめた。若い男性の声で「これは骨まで食べられますよ〜」と言っていたが,ひょっとして1人旅連中の“暴挙”への温かいフォロー?――いやいや,食べられる部分はすべて食べて差し上げるのが,お亡くなりになったグルクンさまへの礼儀ってものだ。とはいえ,結局骨まで食べきったのはこの3人だけだった。
でも,食べ終わっても時間がまだ15分ほど余った。ということで,この時間を利用して,さっき(第5回参照)買いたかった『西表炭坑写真集』(「参考文献一覧」参照)を購入。女性陣はさすがにアクセサリーのほうに目が向いていたが,多分,この店でこの本を買った人間は,私だけかもしれないだろう。でも,これで内離島のことが書けそうなので(注・第5回参照),上製本で厚い紙を使用しているゆえの重さは,この際よしとしよう。
その後で外をプラプラしたりしていると,ようやっとと言うか,今回のツアー料金を徴収される。「あの…ツアーの料金をいただいてないもので……」と,さっきの若い男性が声をかけてきた。いやいや,徴収するなら堂々としてほしい…実はどのタイミングで徴収されるのか,こちらは少しドキドキして待っていたのだ。たしか,平田観光は17時で閉店してしまうと思ったし(後で確認したら18時半だったが…),これからまた来た道を50km近く,大原まで戻らなくてはならない。もしかして,最後まで9500円もの“大金”を支払わずに行けてしまうのか。かといって,あまり余計なトラブルは起こしたくないし…って,単純に後で金を送ればいいだけか。いずれにせよ,「白浜」と書かれた半券をもらって,とりあえず一件落着である。

C“秘境”集落を歩く・午後の部
さて,いよいよ“舟浮午後の部”である…というのは大げさか。ここからは田中さんに代わって,さっき一緒にいた制服を着た70歳ぐらいの小太りの男性が受け持つことになるみたいだ。三線をかついで,軽く鳴らして調律でも合わせている感じだ。「はい,それじゃあ行きますよ〜」とおっしゃるそのイントネーションは,完全にウチナンチュである。開口一番「私は生まれも育ちもここ舟浮です。さっき真珠工場を見てこられたと思いますが,あの隣に建物があったでしょう? あそこで生まれたんですよ」。そういや,そんなような建物があったようななかったような……。
で,実はこの男性,後日『沖縄スタイル08』(「参考文献一覧」参照)を買ったとき,その表紙に何と登場していたのだ。あるいは,ホームページ上の舟浮ツアーの案内にも,かなりの割合で出ている。三線はどこにおいても,彼のトレードマークのようだ。で,とりあえずそれらに共通して出てくる“三郎おじい“で,以下通させていただくことにしよう。もちろん苗字もちゃんとある方なので,念のため。
まず,テクテクと数分歩いて,とある木陰に連れて行かれる。目の前はすぐ海。公園っぽくちょっと広くなっているが,肝心のブツは“クバデサ”と呼ばれる1本の木の下にある,かなり古ぼけた石碑だ。そこには「かまどま之碑」と,手書きっぽく掘られてあった。この“カマドマ”とは女性の名前。でもって「絶世の美女」だった…というのは,何だかおあつらえ向きの設定のような気がするが,それは置いとくとして,祖納(第4回参照)から舟浮に派遣されてきた役人・石垣高端(いしがきこうたん?)のいわゆる“世話役”に任命される。でもって,甲斐甲斐しく働いていたら,いつの間にか2人は恋に落ちていた…というのも,これまたおあつらえ向きなところだ。
ところが,2人の恋はやっぱり長くは続かない。お役人…今で言う“公務員”には,必ずといって言いほど“任期”ってヤツがある。高端は,1年ちょっとで再び祖納に戻る辞令を受けたのだ。まさしく“泣く泣く別れた”2人。会いに行こうにも,陸続きには行けないし,2人の恋は引き裂かれたまま終わりに――と思っていたら,何と最後には高端が舟浮まで船を出してやってきて,白砂の上で抱き合ったという“ハッピーエンド”になる。
で,この碑がこの場所と何の関係があるのかというと,このクバデサの下で何度となく舟浮にやってくる船を見ては,「あれがもしかして…」という期待をして,そのたびに人違いで裏切られることが多々あって,しまいには気が狂いそうなほどに木にヤツ当たり…じゃなくて,木の下で涙したというのだ。その待ち方も「膝が痛くなるまで待った」という。正座しなきゃいいじゃん…というツッコミは,この際ナンセンスであろう。今では考えられないからこそ,伝説は伝説足りうるのである。
で,この一連のエピソードは,やがて民謡になった。高端の容姿が殿様のようだったところから,その名も『殿様節』という。ちなみに,その容姿とは「ハンサムだけど禿げていた」そうだ。「美男美女」,とある解説には「絵筆にも書けないほど」とあったが,それはもしかして顔と頭の“ギャップ”が“ハゲ”しすぎて,「頭さえ禿げていなければ…」という“良心の呵責”だったかも……って,そんなわけないか。でも,顔って普通“てっぺん”までトータルで見るものだろう。ま,昔だからちょんまげみたいになっていて,禿げていることが分かりにくかった…と,別に人のことなんてどーでもいいことなのだが,とりあえずはいい方向に解釈してやることにしよう。
――と,これはどっかのホームページで見た解釈だが,はたまた別のページには,離れ離れになったところで終わって“悲恋の恋”扱いにしているものもある。でもって,三郎オジイはあるいは別の説明をしたかもしれない。ま,所詮伝説なんだし……それにしても,彼の周囲を囲むように話を聞いていたわけだが,なぜか彼が1歩こちらに近づくと,こちらは1歩引いていたのが面白かった。みんな,恥ずかしがりやなのだろうか。私は彼の近くにいたせいか,何回も彼と目が合ったが,別に目をそらしたりはしなかった。えらいぞ,オレ。結構,眼光が鋭いのだ,三郎オジイは。キーも高くて声もデカかったし。多少こちらが迫力負けしていたのかもしれない。
で,一通り説明を終えると,早速三線のお出まし。三郎オジイがこの『殿様節』を弾き語りしてくれたのだ。やや声はしゃがれていながらも,腹の底から出ていて味のある島唄になっていた…って,民謡に疎いくせに評論なんかしちゃいかん。ま,昨日今日でマスターしたわけじゃないだろうことは確かだ。こーゆー味のある民謡が理解できるには,私は若すぎたのかもしれないと思った。でも,歌が終わるとちゃんと拍手した。えらいぞ,オレ……って,当たり前だ。それくらいエチケットである。
さて,次はそのまま集落を入って,とある家の入口に「イリオモテヤマネコ発見の地」という白い棒。三郎オジイの話によれば,この家で飼っていたニワトリがネコに襲われて騒がしくなっていたのを家主が発見して捕獲。で,見てみたらフツーの野良猫とはどうも違う感じの猫だった…というのが,すべての始まりである。普通の猫よりも黒い色をしていて胴長,額にアブドーラ・ザ・ブッチャーのような3本線が入っているのが,イリオモテヤマネコの特徴だ。ちなみに,天然記念物に指定されたのは1977年。さらに三郎オジイはこう続ける。
「僕なんかにとっては,ヤマネコなんて珍しくも何ともな
いよー。昔はそこら一体にいっぱいいて,よーく食べま
したよ。モモの部分なんかは例えば唐揚げにして,鶏
のモモの唐揚げと味比べしたら,絶対ヤマネコの方が
コリコリしていて美味いよー」
なにー,食ったー!? さすがに,苦笑いする参加者数人。ま,でも当時は貴重なタンパク源だったのかもしれないし,中国は猫を食べる文化があるから,その中国の影響を受けている沖縄で猫を食べる習慣があっても何ら不思議はないのかもしれぬ。そういや,イリオモテヤマネコ自体もいろんなものを食べていて,かなりのグルメだという記事を最近見た。
さらに奥に進むと,どんづまりに舟浮小・中学校。低い校門からだだっ広い校庭が続いて,奥に2階建ての校舎と体育館。三郎オジイがここの生徒だったときは,この校門のすぐあたりには,長屋があったらしい。で,すぐそばのスペースに屋根を設けて,そこが即席の教室になったようである。その名残みたいなものは今はない。これもまた“生き字引”がいてのトリビアである。「あんな体育館なんて,考えられもしなかったさー」と,三郎オジイ。たしか,小・中学生あわせて全校生徒は8人なわけだが(前回参照),いまの三郎オジイにはつくづく「もったいないハコ」に映っているのかもしれない。
次いで,海岸沿いに港に戻る格好で少し歩いて,小さい平屋建ての建物の中に入る。「西表館」と看板が出たいう建物。三郎オジイがカギで開けていた。普段は営業していないのか?――ま,いいや。それにしても狭苦しいし,クーラーなんてものはないから汗が吹き出てくる。三郎オジイはあいも変わらず元気に展示物を説明してくれる。「ほら,こちらにいらっしゃい」なんて積極的だが,どうにもこの辺りで素直に応じられない輩が約1名いたような気がする。ちなみに,私ではない。若い女性だった。

ここからは,どこを見るわけでもなく,たまに道端にあるいろいろなものを“体験”し,三郎オジイとしゃべりながら歩く。長細い葉っぱをおもむろにむしりとって匂いをかぐ。レモンのような香りのそれは,紛れもなくレモングラス。でもって,とある木になっている,緑色のゆずみたいな小さい実。沖縄でメジャーなシークワーサーだ。「その葉っぱの匂いをかいでこらん」と言われて1人1人嗅いでいく。あの柑橘系の匂いがした。「この葉っぱは何でしょう?」「これは有名な…」「あ,あそこにしっぽが紫のトカゲが……」と,Q&A方式も交えて次から次へと展開が早い。
そんな中,道はいよいよ内陸に入って山道となる。左には崖が迫って木々が所々垂れ下がる。右手にも木々が生い茂ってはいるが,地形的には大きく落ち込んでいる格好だ。歩く道は,今は1mぐらいの幅があるが,「昔はその幅しかなかったんですよ」。よく見れば,崖から3分の2ぐらいが少し盛り上がっていて,残り右手の3分の1ほどが少し低くなっている。三郎オジイが指したのは,3分の1のほうだった。こういうのもまた,生き字引がいて得られる知識だ。
さて,落ち込んでいく地形のほうの木々の中に,クバや竹がたくさんあった。で,遠くにはさっき見た校舎の裏側が見える。歩きながらも,三郎オジイは饒舌にいろいろと語ってくれる。
「あそこ(学校の裏手)には一通りの野菜が植えられ
ています。自給自足ですね〜。学年別に分かれて植
えられてますが,何分生徒が少ないと,余る学年のと
ころもあります。そういうときは先生方が持って行かれ
るんです〜」。
「さっき食事されたときの器があったでしょう? 竹筒
とかクバのカゴとか……あれは全部ボクが作ったん
ですよ〜。昔は急にお客さんが来たときなんかに『ち
ょっと行ってくる』なんつって,こういうところから木や
竹を採って,セッセと器を作ったりしたものです」
「私はここの子どもたちに,いろんな舟浮のことを教
えてるんです。器の作り方とかね。だから,他のこと
はどうだか分かりませんが,そういう即席でチャッチ
ャとやることに関しては負けないと思いますね〜」
そこには,勉強から得る知識だとか薀蓄とかトリビアとは全く違う,まさしく「生活の知恵」というヤツの重みが伝わってくる。それがなぜかうれしい。ここ舟浮で生きていくには,学校で教わる授業科目の知識なんていらない。受験なんてものはどーでもいい存在に違いない。私もどっちかといえば,前者のほうで頭のほとんどは占められているだろう。学生時代の工作でやったことは完全に頭から消えている。もしここの子どもたちと“器づくり競争”とかさせられたら,間違いなく年齢差関係なく私が惨敗することだろう。ちょっとばかり考えさせられる話でもある。
やがて,大きな井戸の前に着く。「上の川(うえぬかー)」という名前。古ぼけた石積みだ。今も水が湧いている感じである。丸いクレーターみたいなのもあって,そこはかつての洗濯場だったという。ちなみに,もっと集落に近いところにも井戸があるのだが,そちらは残念ながら塩水しか出てこない。ここの井戸は,さらに山の奥のほうから水が出てきているようだが,その源からは現在も水が引っ張られている。午前中に通ったトンネルの下に通っていたパイプがそれである。
そのパイプがなかったころには,オジイはここまで水を汲みに来たという。位置的には,狭いとはいえ一つの集落を横断することになるから,何往復もすることになると大変だったという。でも,そうやって自然と身体が鍛えられていったものではなかろうか……それにしても,こーゆーハードなのは,得てして田舎では子どもの仕事になりがちである。ま,育ち盛りにはいい運動だろう。この井戸のそばには,現在はフタがされている感じだが,洞穴がある。これは戦時中の避難壕だったという。オジイは当時小学生で,この穴に実際入ったそうだ。
すると,若い女性陣が軽くざわめく。戦争を知っているというのが何とも不思議だったようで,「え〜,おいくつなんですか?」と質問。三郎オジイ「いくつに見えます?」と,普段だったら「んなの,分からねーから聞いてるんだろ」と逆ギレ手前になるが(んなわけねーか),ヒントとして「この間の6月9日で,“ちょうど”になりました」。女性陣「60…70……70ですか?」。三郎オジイ「ハイ,70ですね,正解」。女性陣「えー〜若く見える〜」……って,こー言っては何だが,私には見たまんまの年齢だと思うぞ。
――でも実は,これにはこんな続き話があるのでついでに書いてみたい。何と,上記『沖縄スタイル08』では,三郎オジイの年齢が「67歳」と紹介されていたのだ。ん,自分の年齢って間違えるものか? あるいは誤植?……早速,『沖縄スタイル』のホームページにある掲示板に,その辺りのことを質問してみたのだ。
すると,その答えは「(前略)どちらも正しいようなのです。というのも,戸籍に登録されたのが生後数年経ってからで,戸籍上は67歳,実年齢はプラス数歳というのが真実だそうです。『昔はそういう子がたくさんいたよ〜』とおっしゃっていました。というわけで,誌面では戸籍年齢を掲載した次第です」。なるほど,こんな(失礼だが)僻地では起こりうることだろう。でも,自分の生年月日が分かるんだから,その生年月日を基にした年齢が真実なのではないか……って,そんな“些細なこと”はこの際どーでもいいくらい,三郎オジイにはどこか“謎めいてほしい存在”でいてほしいとか思ってしまう。
そして,こんなエピソードも語ってくれた。生まれて初めてここ舟浮を離れたのは19歳のこと。自動車の免許を取りに行くためだったという。ここ舟浮には,たしか軽トラックくらいは停まっていたと思うが,端から端までは歩いて行ける距離。だから,こうして我々ツアー客も歩いているわけだが,車なんてのはいらないものになる。信号だって必要ない。そんな環境で育ったせいか,三郎オジイは石垣島で信号を目にして,「はて,どうすればいいのか〜?」と思わず立ち往生してしまったそうだ。

いよいよ,山道を抜けると目の前に素朴な遠浅の海が広がる。このツアーの最終目的地でもある「イダの浜」である。子ども連れの家族は,小さいほうの女の子が眠ってしまったため,少し離れたところにある即席の売店に行って寝かせられることになった。後で知ったところでは,子ども2人が寝るのに十分なゴザのスペースがあったようだ。
一方,我々は取り急ぎ,すぐ脇のベンチに荷物を置いて思い思いに楽しむことに。ベンチといっても,流木がそのまんま置かれているとか,どっかから拾ってきたような板が置かれているとか,その程度だ。そして,食事の時に私の隣に座った男性は「ふねっちゃーぬ家」で水着に着替え,Tシャツのまま水の中に入っていった。後で出てきたら,大きなサンゴの塊を二つ抱えて誇らしげであった。
私はというと,どうにもこういう砂浜では海水浴なんかする気にもなれず,当然水着も持ってきていないから,砂浜にしゃがみ込んでヤドカリをつついて遊ぶ。昨年9月の竹富島や波照間島(「沖縄はじっこ旅」第8回第11回参照)以来だ。太陽が照っているときはこの上なく暑いが,日が翳るとこれまたすごく涼しい。それでも10分ほどで飽きて,ベンチに戻ってきた。若い女性3人組は日焼けを気にしてか,カーディガンを着て日傘を差してただ座っていた。
そして,三郎オジイはというと,ツアー客ではないが先にやってきていた60代後半ぐらいの男性に,三線のレクチャーを始めた。波の音以外は,自分で積極的に何か音を出さなければほとんど静かと言っていいぐらいだ。そんな浜辺にどこか感傷的に響く三線の音。かき鳴らすわけでもなく,ポロンポロンと音を確かめるように弾いている。
一方,沖のほうにはクルージングボートが漂っていた。波打ち際に行くとそのボートから聴いたことのあるメロディ。クリスタル・ケイ『ボーイフレンド』である。ボートとベンチとは200mほど距離があっただろうか。アコースティックな三線と打ち込みの美しいメロディ――その間には別に遮るものは何もないわけであるが,あたかも何か厚い壁でもあるかのように,ある種のギャップを感じてしまった。
さて,まだまだ素人で演奏も詰まり気味の男性に,どんどんダメ出しをしていく三郎オジイ。「私はとても厳しいですよ」「覚えるまでは帰さない」なんて会話が三郎オジイから出た。そして「どうしても早くなっちゃうんですよー」という男性に,「これで失敗したらどうしよう,とか思うとできないんですよー」と,あくまで「音楽」という字の通り“楽しむ”ことに重点を置くアドバイス。それでも,限られた時間の中でそこそこの合格点はもらったらしく,やがて2人や周囲の同世代っぽい人たちも交わってゆんたくを始めていた。男性は池袋あたりの人らしかった。
そんな中,何かの島唄の話題になったとき,そばで話を聞いていた女性3人組が反応した。どうやら,その歌をケータイに一部分だけ録音していたようで,早速それを流す。三郎オジイが特に敏感に反応して,2〜3回リクエストしていた。「これ,誰の声?」「あ,○○さん(名前忘れた)ですよー。昨日お店に行ったんです」「はえ〜,あの男が? ホントに?」「ええ,そうですよ。弾いてくれたんです〜」「は〜,そりゃびっくりした」……この会話から分かるのは,どうやら三郎オジイの知り合いが弾いていた音であることと,三郎オジイがその知り合いを見くびっていたことか。
さて,浜に着いたのが13時50分で,ここを出るのが14時40分というのは聞いていた。となると,白浜に帰る時間が気になったので,同行していた「ちむどんどん号」の若い男性に出発時間を聞く。「3時20分に船が出るので,3時半ごろに白浜ですね〜」……うーん,私は白浜でツアーからは外れるのだが,大原まで車を戻さなくてはならない。大原発の高速船の時間は16時半,17時,17時半だ。石垣空港出発が19時。ま,最終の17時半でも石垣港着が18時ちょい過ぎ。なので,間に合わなくもないわけだが,できれば17時ぐらいの便で出て,石垣港付近でメシを食える時間を取りたい。あわよくば16時半で帰れたならば……。

(4)エピローグ
こうやっていろいろと“邪念”が出てきてしまった途端,「早くこの浜を出たい」「ツアーから外れていいならば大歓迎」とか考え出して,この静かな浜辺を堪能することができなくなってしまった。ツアーでの50分という所要時間が,そもそも長いか短いのかは私には分からないが,もっとそれこそ1日いたって,飽きない人は多分飽きないであろうぐらい,プリミティブな美しさを持った魅力あるビーチだ。
結局,白浜から思いっきりダッシュして大原のオリックスレンタカーに戻ったのは,16時20分過ぎ。「しめしめ。16時半の便に間に合うぞ」と思っていたら,出がけに応対してくれた若い女性(第1回参照)が,クレジットカード払いの扱いが不得手だったのか,やたらとモタモタしてしまい,16時半ギリギリで大原港に送ってもらったのだが,ダッシュで桟橋に出たときは高速船は無情にも陸を離れていた――そばにいたオバちゃんが「急ぐなら八重山(観光フェリー)のもあるよー」と言ってくれたが,こちらはすでに平田観光のチケットを買ってしまっていたし,別段17時発でも間に合うから,結局は17時発の高速船で帰るというバカらしい結末となったのだ。
しかも,白浜に帰って車内に入ったら,ダッシュボードとかに入れず,助手席に置いて黒い袋に入れてその上からタオルをかぶせていただけのLet's noteが,ものすごく熱くなっていた。この待ちに待った旅路の最後に,パソコンがぶっ壊れたってか? でも,とりあえずは早いところ冷やさなくては……そう思ってクーラーをガンガンにして走っていたが,一向に熱くなりっ放しのままだ。
次第に気ばかりがあせって,ハンドルを握りながらパソコンを触っていて,ふと目の前を見ると,思いっきり車線を外れてしまって,何とまあそのまま路肩に思いっきり前のほうを「ガツ!」とこすってしまったのだ。後で見てみたら,前輪のホイールに1本横に傷がスーッと走っていただけだったが,これで反対車線に車がいたらもっと大事故になっていたかもしれない。嗚呼,でもこの傷だと奄美大島以来のノンオペレーションチャージか(「奄美の旅」第5回参照)。買った当時40万円近く出して買ったパソコンが熱でイカれて,あげくに5万円か(大原のオリックスレンタカーは5万円だったのだ)? せっかくの“リベンジ旅”が最後の最後で……。
かといって,凹んでもいられないからとりあえず大原まで必死で走って,オリックスレンタカーに滑り込むと,そのまんま何事もなくパス。こう言っては失礼だが,相手があのモタモタしていた女性だったのが幸いだったのかもしれない。やれやれ,これで不毛な金は取られずに済んだ。でも,パソコンは大丈夫か?……とりあえず,乗り遅れて時間に余裕ができたので,まだ“ホカホカ”のままスイッチを入れてみると,無事に起動してくれた。よかった,これで私の「舟浮リベンジ旅」が終結できる。16時半の高速船に乗り遅れたのは,あるいは最後の最後で不注意から「少しミソをつけた」ことへの,ささやかながらの神様からのバチだったのかもしれない……。

さあ,石垣港に着いてから向かったのはあやぱにモール。昨日,西表島に渡る前に寄ったとき(第1回参照)に気になっていた「あちこーこーのサータアンダギー/バクダンおにぎり」の店に行くためだった。しかし,私の前に来ていたよれよれTシャツ姿のアンちゃんのところで,バクダンおにぎりが売りきれてしまった。もはやノンオペレーションチャージを免れ,パソコンが無事であったからには,こんなことでへこたれるわけはなかったわけだが,後から振り返れば,舟浮に着いたところで完全に運がつきてしまっていたのだろうか。
仕方なく,来た道を戻って730交差点近くの「A&W」に入る。日テレのドラマ「瑠璃の島」で,主人公の成海璃子嬢と緒形拳氏,倍賞美津子氏が入った店だ(「管理人のひとりごと」Part43参照)。ここで「チキンサンドコンボ」なるものを注文。どこのファーストフード店にもあるフライドチキンバーガーに,ポテトとルートビアがついて605円。ポテトの多めの塩気に,ルートビアの独特の薬臭い甘ったるさがハマった。さあ,食べ終わった後は,空港まではタクって向かおうか。(「西表リベンジ紀行」おわり)

第5回へ
西表リベンジ紀行のトップへ
ホームページのトップへ