沖縄はじっこ旅W

B廃墟〜,残った!
再び国標下の階段に戻り,地味ーにチャリを押して戻る。そして,西港の岸壁から来た道を少し戻った辺りでチャリを停める。でも,道の両側にそれが広がっているから,どう停めようか迷ったが,結局北側のほうが中に入っていけそうな感じだったので,少しだけ中に入ってチャリを停めることにした。すぐそばには錆びついた車輪だのモーターだのが散乱している。
その場所とは「燐(りん)鉱石貯蔵庫跡」。こう言っては村に失礼だが,この島で唯一観光地らしい観光地だと言っていいだろう。その観光地――うーん,どう見ても「廃墟」だな。“オブジェ”なんて横文字なんか使わず,素直に「廃墟」だ。何たって海がすぐそばにあり,遮るものがないからモロに潮風を浴びる。夏の台風も冬の季節風も,数え切れないくらいにこの島を通ったであろう。だから,建物はボロく朽ちる。人間の筋肉が使わなければ衰えるように,建物も使わなければ朽ちるのみだ。でも,これでもかとばかりに,まるで誰かがそうやってジワジワとマゾヒスティックに,しかし最終的にはすべてが無くなって自然に同化してしまうことを望んでいるかのようだ。
ここまで廃墟っぷりが残っていると,ホントに感動ものである。おそらくすべてを取り壊せば,それなりに費用がかかることは明白だ。閉鎖当時は…いや,今でもその費用がままならないから,結局そのまま放置したのだと,勝手に想像してしまったが,そうでなければここは更地になって,立派な石碑の一つも建てて……という感じで終わるだろう。とにかく,廃墟が残っていることが「すべて」なのだと,自分のボキャブラリーのなさを嘆きつつも,その存在を絶賛しておきたい。
ちょうど,私の目の前には赤レンガ造りの建物が4分の3くらい壊れて建っている。燐鉱石を大型ドライヤーで乾燥させる場所だったそうだ。でも,今は天井がなくなって中は丸見えである。そして,レンガがまとまってブラーンと簾のように垂れ下がって,今にも崩れ落ちそうな状態で停まっている。風速50mぐらいの風が吹いたら,確実にアウトではないのか……でも,この状況ではたしてどれだけの時間留まっているのだろうか。あるいは,周囲は時計を動かしておいて,そのレンガ建築の周囲だけ時計を止めている感覚も覚える。当然元はきちっと積まれていたのだろう。ちゃんと建っていたころの様子が,これまた興味深く思えてくる。
そのちょっと高台に建つレンガの建物からは,幅の広いスロープが西港に向かって下っている。どうやら,これには線路がついていて,その上にトロッコを走らせ鉱石を運び出し,長い漏斗のようなものでもって艀のもっこに一旦積む。そこから沖に泊めた1000t級の大型船まで何往復もして運んでいたようだ。空港でゲットした北大東島のパンフレットに,セピア色になった写真(わざとそういう写真にしたのだろうか)で,そんな燐鉱石の運搬の様子が収められている。その艀の数は2ケタになっていて,請負制で競争をさせたとある。こんな小さい孤島でも,立派に「競争原理」が成り立っていたのだ。
一方,道をはさんで反対側には,いくつもの石積みのアーチが残る。奥にあったであろう,これまた石積みの建物に向かって,通路が伸びている。その中は当然ながらこちらも手付かずの廃墟のままである。奥に入っていきたかったが,行く手を阻むかのように雑草やら,どっかから飛んできたような枝やらが散乱する。こーゆーときにどっかから入れるような看板があったらいいなと思ってしまうが,それは観光客の勝手で気ままな要求だろう。どこの国に,廃墟にわざわざ案内板をつけているというのか。入りたければ自分で好きなだけ探検すればいい。そんな風に言われている感じだ。
とはいえ,その姿を見ていると,時に迷宮のようにも見えてくる。かつては,石が実に精緻に積まれていたデザインになっていて,さぞ過酷であったに違いない労働とは裏腹に,「高度に文化的」という言葉が似合ったかもしれないと勝手に想像してみる。そして,不思議とモノクロかセピア色が似合う。今は青空だが,案外曇り空のほうがこの廃墟は“廃墟足りうる”のではないか。そして,CHAGE&ASKA『迷宮のreplicant』が流れてきたらムードが出るだろう。

この燐鉱石は,北大東島の歴史における栄枯盛衰をはっきり描き出す“格好のアイテム”と言える。北大東島をはじめとした大東諸島は,その昔からアホウドリや海鳥たちの生息地となっていて,それらの死骸や糞,魚の骨が堆積して燐酸が豊富にあった。そして,海流に乗って軽石が打ち上げられ,これらの作用が時間の経過とともに燐鉱を形成していった。加えてアルミの原料となるアルミナ鉄を多く含有しているという,他では見られない特色を持ったものだった。燐酸は肥料や火薬の原料として,アルミは戦闘機の機体に利用されていたのだが,当時の日本は富国強兵を謳う時代。需要は大きかったが,外国からの輸入に頼っていたために,国内での生産地を求めているタイミングであった。
こんなグッドタイミングを,どうして玉置氏が逃すことがあるだろうか……とはいえ,即北大東島で燐鉱石の発掘に取りかかったわけではなかった。実は玉置氏は当初,この北大東島からさらに南方に行くこと150kmの,沖大東島で燐鉱石の発掘に取りかかろうとしたのである。1906年3月,またも沖縄県からタダで15年の貸借権をゲット。翌月には早速島内に探検隊を送り込んでいた。
一方,当時の農商務省肥料鉱物所長であった恒藤規隆(つねふじのりたか)氏もまた,この沖大東島の存在を知り,玉置氏の探検隊上陸に遅れること1年半,1907年9月に,調査団を派遣していた。実はその調査団には玉置氏の長男・鍋三郎氏もいたというが,後に玉置氏とこの恒藤氏とが利権をめぐって対立してしまった。開墾の権利を最初にゲットしたのはもちろん玉置氏。しかし,結局は裁判に敗北することになり。恒藤氏がすべての利権を玉置氏から買い取ることで決着する。
ちなみに,恒藤氏は1911年,この沖大東島に「ラサ島燐鉱合資会社」を設立。後に「ラサ工業株式会社」となって,現在に至っている……どーでもいいことだが,ラサ工業のホームページにある「社名の由来」のところで,この恒藤氏が沖大東島に燐鉱石があったことを発見して発掘したと書き記しているが,実はそうじゃなかったりするかもしれないのだ。あるいは,ラサ工業にいらっしゃる方は,ひょっとして玉置氏の存在や利権対立のことをご存知かもしれないが,こう書かれるということは,世の中は「勝てば官軍,負ければ賎軍」ってことなのだろうか。ま,第三者の私にはどーでもいい話ではあるし,今更100年近く前のことを掘り起こしてとやかく言ってもしょーがないのではあるが。
話を戻そう。この一件で燐鉱石の“魅力”を知った玉置氏は,南大東島の開墾を進める傍らで,北大東島での燐鉱石埋蔵調査を開始。発掘への準備を進めていた。沖大東島への派遣の4年前に当たる1903年には北大東島に上陸(前回参照)。とりあえず,現在の村役場前に8株のサトウキビを“形式的に”植えて,開墾のアピールは完了していた。そして,一足早く開墾された南大東島で製糖工場が稼動し,大東糖業専用鉄道として軽便鉄道が敷設される(いわゆる「シュガートレイン」のこと→「沖縄・遺産をめぐる旅」第4回参照)ことになり事業が軌道に乗ったため,1908年7月,北大東島に「玉置商会」を設立。燐鉱の試掘を始めることになった。そして,2年後の1910年に本格的に事業を開始。南大東島に遅れること10年,ようやっと北大東島が有人島となり得たのである。
玉置氏が燐鉱石の存在に注目していなかったら,北大東島はどんな歴史を辿ったのだろうか。南大東島はサトウキビによる製糖の島として成長することになったが,北大東島も同様にサトウキビの島にしていたら,はたして人が移住していたのか,微妙なところである。「そんなの“南”でやっているから,今から移住しても…」「改めて開墾するなんて…」となったのではなかろうか。あくまで“別のもの”を売りにしたからこその,北大東島の有人化だと言えはしないか。そういう意味では,島で基盤事業を別にした玉置氏の才覚は,改めて評価されるべきだと思われる。
さあ,いよいよ今度は北大東島で……しかし,玉置氏は同年11月1日,過労がもとで72歳の生涯を閉じてしまう。これにつられるようにして,燐鉱採掘事業は技術不足と経験不足によって,採算が取れなくなりわずか1年で廃止となる。島はサトウキビ産業への路線変更を余儀なくされた。もちろん,南大東島での経験者が乗り込んでいたとはいえ,苦難の道であったことには変わりあるまい。
加えて,玉置氏の後継者となった長男・鍋三郎氏,三男・伝氏がいまいちパッとせずに,玉置商会は経営難に陥ってしまう。結局,南大東島上陸から17年後,玉置氏の死から7年後の1917年,東洋製糖(あの「東洋製糖」ではないようである)という会社にすべての開拓事業を売り渡すことになった。すなわち「玉置時代」の終焉である。ちなみに,南大東島のそれもすべて売り渡されたが,天国にいる玉置氏は息子たちの不甲斐なさをどう見ていただろう……。
ちょうどその頃,玉置氏が争って負けた相手の恒藤氏はといえば,時代の流れに乗っかってラサ島で燐鉱事業を発展させ,価格を高騰されるまでになっていた。「いいタイミング」と言うには複雑だが,第1次世界大戦の只中にあって,おそらくは軍用機などに使うアルミの需要が高かったのであろう。「戦争景気」というヤツだ。そして,少なくとも玉置商会よりもこっちの東洋製糖社のほうが,経営基盤も経営方針もしっかりしていたのか。はたまたタイミングがよかっただけなのか。北大東島でも長らく手付かずとなっていた燐鉱採掘が再開され,翌1918年には鉱業所が完成している。
もっとも,その採掘方法は人手による露天掘りときわめて原始的で,落盤や爆発などの事故も起こったそうだ。水分を含んでいるために日光乾燥をさせ,牛に松板をひかせてかきあつめ,トロッコに積み込んで貯蔵庫に運び出される。この先の貯蔵庫からについては,すでに上述しているから省くが,これだけ大規模だと当然人手が必要になるわけで,沖縄本島・伊是名・宮古・八重山など沖縄の方々に加えて,台湾からも出稼ぎ労働者が流入。最盛期には島の人口は4000人にもなったそうだ――ちなみに,現在の人口は500人程度。そういや,さっき来る途中に「サロンみなと」なんていうスナックを見つけたが(前回参照),かつての西港あたりはそういうスナックがたくさんあって,いわゆる一大“社交街”を形成していたのではなかろうか。
やがて時代は昭和になり,1927年に東洋製糖社は世界恐慌のあおりを食らって大日本製糖社に合併されるが,それでも燐鉱事業は受け継がれた。やがて第2次世界大戦に入ると,2〜3万t級の大型貨物船が特別にチャーターされて,本土に直送されたという――このように栄華をきわめた北大東島の燐鉱業だが,1945年春,戦況の悪化で中座を余儀なくされることになる。実際北大東島にも空爆が行われ,特徴のある石積みやレンガの建物は軍事要塞と間違われて,毎日のように爆撃を受けたそうだ。なるほど,雨風にさらされる前に砲撃にさらされていたのだ。
そして,戦後米軍施政の下で再び採掘が行われたが,その方法はブルドーザーによるものだったという。いかにもアメリカらしい大雑把さである。結果,土や石が混じって品質が低下。1950年,完全に燐鉱採掘は廃止となった。南大東島上陸から半世紀,燐鉱採掘が始まってからは40年。そして,東洋製糖社―大日本製糖社で島の基盤産業として30年あまりで,北大東島からは約80万tの燐鉱石が運び出されたという。とはいえ,まだ島には30万tが埋蔵されているとされる。燐鉱石は色が黄土色をしているのが特徴だが,なるほど目に入った岩肌には茶色が混じっていた。でも,今となってはこれは単なる“茶色い岩”でしかないのであろう。

話を戻そうか。そんな歴史を持った「素晴らしき廃墟」であるが,私が訪れてからちょうど1週間後,テレビでも取り上げられたが“不幸な事件”が起こってしまった。当初は1週間予定を遅らそうかと思っただけに,もしかしたら私がその事件の「第一発見者」になっていたかもしれないと思うと,ちょっとゾッとした。おそらくは,迷宮のように見えた建物のあたりにいたのだろう。39人乗りの飛行機という小ささで,さらに北大東島に下り立つ人間の数となると,たかが知れている。もしかしたら,「あの人,空港で見たさー」「そういや,あの人は私の隣の座席だったさー」なんてこともあり得たのだ。
事件のことについては,テレビで何度となく報道されていることだし,これ以上私としては突っ込まないようにしたいが,正直自分の行った島で,しかも自分もいた場所でこういう事件が起こるのは,ショックでないと言ったらばウソになるだろう。そういえば,私も何度となくアクセスした北大東島のホームページの掲示板が,直後に閉鎖されて現在に至っているが,間違いなくこの事件による影響であろう。相当な書き込みがあって,村としてもかなりパニくったのではあるまいか。あんな穏やかな島だし――ちなみに“彼ら”が泊まっていたとされる宿は,映像を見る限りではどうやら「もう一方の宿」のようである……って,いまさら伏せてもしょうがないか。でも,一応は伏せておこうか。

Cブラックコーヒー? ホワイトスキン!!
さて,貯蔵庫の裏側からは北に向かってアスファルトのいい道がついている。地図でみる限り,この先は「黒部(くろぶ)岬」という岬だろう。道中の両側にはいくつもの石積みの小屋,柱だけのこっている廃墟がそのまま残る。過去にここが燐鉱石で賑わっていたことが分かる跡である。この朽ち果てっぷりもまた最果て感を演出する。それでも上空はどこまでも鮮やかで真っ青な空だ。おそらく,ここが出稼ぎの人たちで賑わっていた数十年以上前とまったく同じであろう真っ青な。
さて,道は延々とどこまで伸びていくのか――しかし,500mほどであっさりTHE END。その先は,草地→断崖→青い海へと続いていく。そして陸側を見ると,ぽっかりと大きな直径10mほどのクレーターっぽい穴が空いていた。遠くからしか見なかったが,その縁で黒い影がうごめいて,やがて上空へ飛んでいった。カラスである。クレーターの中にいろいろなものがあったが,どうやらゴミ捨て場らしい。燃えようが燃えまいが,ここに入れてしまえば済むのだろう。そんな気が勝手にしてくる。なお,名前の由来である“クロブ”とはアホウドリの意味。この付近にアホウドリが生息していたのだそうだ。
とりあえず,これにて貯蔵庫付近は見納めとしよう。次は島の一番外周を走る道を南に向かっていく。私の勝手な流儀として,島は極力輪郭に沿って1周してあげることにしているからだ。周囲は緑ばかりである。こういうのを“原生林”と言うのだろうか。勾配はなくほぼ平坦だ。ちなみに,すれ違った人間も車もまったくない。サイクリングでも,この道を通る人なんかいないのかもしれない――この後,北大東島で初めて人間が上陸したとされる「上陸公園」「上陸港跡」に行ったが,そのことは前回に書いているので,ここでは省略させていただく。
その上陸に関する史跡に行く途中,倉庫っぽい建物の前を通過した。「海水淡水化施設」という。隣には「海水プール」なんてのがある。前者は1986年5月落成というので,まだ20年経っていない。後者はそのまんま海水を使った村営プールとのこと。玄関をちらっと見たがドアが閉じられていて,営業している雰囲気ではなかったと思う。
それだけを聞けば「ふーん」で終わってしまうが,実は落成からの年数=島に水道が通ってからの年数となれば,驚きであることは多分間違いない。1986年といえば,私が小学校から中学校に上がる年。当然ながら,実家のある埼玉県川口市には上水道は普及していた。いや,これまた当然ながらというか,私は今までの人生で,水道で蛇口をひねっても水が出ないという経験をしたこともなければ,井戸で水を汲んでくることもなければ,自分の家や周囲の家が雨水を溜めておくための貯水タンクを設けている光景も,まったく見たことがない。
でも,この島では20年前,こんな喩えは何だが,阪神タイガースがバース・掛布・岡田のクリーンナップが“バックスクリーン3連発”してから始まった快進撃で,21年ぶりに優勝・日本一を獲得して日本中の“虎ファン”が感動していたとき,ここ北大東島の人たちは蛇口から真水が出てきてものすごく感動していたのだ。日本は常々「狭い国土」と言われるが,この格差はものすごくデカイものがある。「地域格差」って言葉も,ここまでくれば陳腐な表現にしか聞こえない。
それを裏付けるようなデータとしてこんなものがある――『大東島の歩みと暮らし』(「参考文献一覧」参照)に,北大東島の人たちの意識調査が載っているのだが,その中の「島の近・現代史でもっとも重要な出来事(複数回答)」の第1位が「水問題の解決」となっているのだ。男女あわせて80.4%がこれを挙げているし,年代別でもすべてトップである。2位に挙がった「空港完成」(注・第7回参照)の67.3%を大きく引き離していることからも,いかに島にとってものすごいエポックなことであったかが分かると言える。
1983年に建設が着工されてから3年。総額6億6200万円を投じての施設落成だ。今から考えれば,私が昨日泊まったハマユウ荘では,当然のごとくトイレに行ったり顔を洗ったりしたときにへーゼンと水を使ったが,そういう行為はまだこの島では日常として決して長くないのである。ましてや,風呂場の湯が出しっ放しになっていたってのは,もはや「奇跡の領域」なのである(第4回参照)――いや,さすがに出しっ放しは水が豊富な場所であっても,ケースによっては自重すべきかもしれない。
それまでの北大東島では,雨水を溜める鉄筋コンクリート製の地上タンクが主流だったそうだ。ちなみに,地下水は塩分が含まれていて飲み水には向かないという。で,トタン屋根の場合は問題がないのだが,茅葺き屋根の場合はどうしても薄茶色に染まって臭いが含まれてしまう。そういう場所では,島の教員が家庭訪問先で出された茶褐色の温かいお茶をブラックコーヒーと間違えたという「ブラックユーモア」が生まれたりもする。また,沖縄タイムズの記者のこんな興味深い分析もある――北大東島の人は肌が白くてきめこまかい。その原因に製糖の際に発生するサトウキビの蒸留水と雨水があるという。島では常に水不足のため,この蒸留水でシャワーを浴びていたそうだが,砂糖の漂白作用が蒸留水にも残っていて肌が白くなる。雨水もまた川や池の水よりも肌を細かくする……。
もっとも,かといって島の外から着た人にはどう映ったか――島の旅館に3泊した人間によれば,風呂に入れと言われて風呂場に行くと,浴槽には30cm程度のお湯が入っていた。ムダにしないように心がけた。当然,お湯は雨水を湧かしたものであるが,これが厄介なことに石鹸を落としてくれない。仕方なく,翌日からは洗顔と手足だけを洗うことにしたという……。
とはいえ,こんなことは客観的な立場でいられるから多少は面白く取り扱ったりもできるわけで,島民にしてみれば死活問題であったことは間違いない。水不足に伴って病気になっている人間も出ているのだ。しかも,当時の海水淡水化技術は,四国の小さい離島でのみ実用化されていたものだった。勝手にこう考えてはいけないのであろうが,島という社会はとかく保守的なものであろう。そんなある意味“画期的なこと”をしようという気によくなれたと思うし,ということは逆に,それだけ切羽詰まっていたということでもあるのだ。

上陸に関する史跡を見た後は,一旦内陸に進路を取る。時間が11時を過ぎていたので,中心部に戻ってメシを食いたいのだ。あるいは,どっかで買うのもいい。といっても,実質選択肢はJAに行くか,ハマユウ荘のレストラン(第4回参照)で食うしかない。ちょうど,位置としてはそのハマユウ荘の裏手に当たる。宿のそばにある,島で一番標高の高い黄金山に向かう形となるので,自ずと道は上り坂となる。地味ーにチャリを押し続けるしかなく,汗が次から次へと吹き出してくる。空が快晴なのはうれしいことはうれしいが,陽射しが強いのは,こーゆー場面に限っては恨めしい限りとなる。
やがて,黄金山の下で道が二手に分かれる。左に行くとさっき通過してきた道に行く。右に行くと,持っている地図に書かれているのには「地蔵さん」というのがあるという。そして,どっちに行くべきか迷う辺り――イラスト風の地図なので,曖昧なのだ――には山際には防空壕があり,これまた同じ理由でどこから入るべきか分からないが,黄金山の頂上にある灯台にも行けるようだ。
とりあえずは,地図で見ればいま走っている道路端にある,一番確実そうな「地蔵さん」を目指してみると,鬱蒼とした森の中にちょっとした広場らしきものが目に入る。少し高くなっているので,備え付けの階段を上がってみると,コンクリートのような石でできたような小さい祠があり,中にマリア像みたいな像が納められていた。マリア像が大げさならば,間違いなく女性の像である。「地蔵さん」なんて,ヤクルトの若松勉監督みたいな顔をした「実直」を絵に描いたような男性っぽい感じはない。柔かい女性の顔をしている。1930年ごろに島の女性が本土に注文したそうだが,そんな“私物”にもかかわらず,例祭が行われるそうだ。こうして公の施設のホームページに,観光案内として載せられ,しかも島を挙げて祝われていいのだろうかと思うが,小さい島だったらそれも悪くないかもしれない。
さあ,このまま真っ直ぐ行けばハマユウ荘やJAの方向に行けるのだが,灯台や防空壕も気になる。なので,来た道を引き返して二手に分かれていたところを今度は右折する。すると周囲は,右手が上り勾配の畑地となった。ところどころ右手に入っていく道があるが,いかんせん上り坂だ。多少気分が乗っていれば違ったかもしれないが,ちょうどタイミング悪く,上り坂を上がる気力がなかった。
ちなみに,北大東村のホームページで見る限りは,防空壕は軍の司令部が置かれたそうだ。そして,灯台は……1961年10月上旬,1週間の間に台風のために,島の東海岸にレバノンの貨物船とアメリカ貨物船が乗り上げたそうで,このため灯台の必要性が叫ばれ建設。10年後の1971年12月に点灯された。なるほどね。
――で,勾配の途中にある防空壕をあきらめたのだから,ましてや頂上なんてとんでもない。両方ともあっさり素通りと相成った。切る風は心地いいが,結局そのまま一番最初に寄った「観音さん」から少し上がった十字路(前回参照)に辿りつく。「まったく,我ながらバカらしい遠回りだぜ」と思いつつ,中心部に向かおうと,誰もいない下り坂を爽快に駆け下りてやったのであった。(第7回につづく)

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