沖縄はじっこ旅W

D“幕の上下”に製糖会社の影響
勢いよく下っていくチャリは,ハマユウ荘の前をあっさり通過する。ハマユウ荘のレストランでの昼飯もOKではあるのだが,何となくこの下っている勢いを一旦止めるのがもったいない。一気に下ってそのままJAの建物に滑り込んで,チャリを軒下に停める。時間は11時45分。昼時だからか,ちらほらと車が出入りしては,そそくさと出ていく。
中で早速,昨日見たパンのコーナーに行くと(第3回参照),田芋パンがそのまま残っていた……いや,昨日あったヤツがほとんどそのまま残っていたのではないか。多分ロールケーキもそのまんまじゃなかったか。「いいのか,翌日になっても売っていて?」と思ったが,逆に言えば当日の作りたてしか出さずに,売れ残ったのは処分するというほうが当然もったいないし,衛生的に問題がなければ,翌日も売れたほうが効率的ではある。ちなみに,じゃがいもパンはこの日もなかった。残念。
そして,その隣にはパックに入った大東寿司があった。577円。あれ,たしか「お休みします」という張り紙がしてあったのでは(第4回参照)? あるいは,急遽作られることになったのか。ま,いずれにせよ昨日の魚と違って白身の魚だ。違う味を楽しむべく手にとって,プラス何気に食べたかった田芋パンも購入する。都合682円。どこで食べようかと考えたが,結局は軒下に出ていた白いプラスティックのテーブルで食べることにする。日陰だとグッと涼しく,たまに吹き抜ける風が心地いい。
大東寿司の魚は,おそらくアカマチあたりだろう。3cm×2cmくらいの大きさのが10カン,ビッシリと入っている。少しコリコリとして,味付けはやっぱり薄味である。とはいえ,さすがにしょうゆがないから,そのまま食べるしかない。パックには生産者の女性の名前が記されていた。もちろん,地元の人間であろう。調味料としてアミノ酸が入っている旨記されていたが,味の素あたりか。一方の田芋パンは,直径7〜8cmほどの“カニさん”の形になったパンの中に,藤色のアンが入っている。どちらかといえば甘さは控えめだが,2時間走って多少なりとも疲労している身体に染み入ってくる。少し分量が多いかと思ってしまったが,すべてが胃に入ってほどよくなった。
再びチャリを走らそうと思うが,その前に目の前にある北大東小中学校に寄ってみる。100m×70mほどの広い校庭に,ありきたりな鉄棒やうんていなどの遊具。駐車場は,普通は四角形をしているはずだが,円形となっている。あるいは,ここにヘリが下りてきたりするのか。そして肝心の校舎は,クリーム色に黄色のストライプが入った2階建て。一昨日落成式だったとあって真新しい。でも,その奥にはコンクリートの古い旧校舎らしき建物がそのまんま残っている。いずれは取り壊されるのか。
とはいえ,今にもどうにかなりそうなほどの古ぼけた建物ではなかったと思う。離島はいくつも行っているが,もっと古いあるいはボロい校舎をいくらても見ている。キレイな環境で仕事でも勉強でもやることを否定はしないが,役場といい校舎といい,わざわざ作り直すだけの予算があるなら,もっと別のところに使えないのかと,余計なお世話的勘ぐりをしてしまう。
さて,北大東島での小学校の始まりは,1918年6月のこと。それも,先に開拓が行われた南大東島の分校という扱いである。それまでは,玉置商会の社員が事務所で数人の子どもに読み書きを教えた程度で,結局“玉置時代”には教育らしきものはほとんど施されなかったという。玉置氏が1910年に亡くなって,その後に玉置商会自体が経営譲渡をしたりして,少なからぬ混乱があったのが要因の一つとされている。その後,1921年に正式な独立した「私立北大東島尋常小学校」となり,1927年には「私立北大東島尋常高等小学校」に名称を変更している。
さて,ここに“私立”という言葉を書いたが,その母体は島のすべてを取りしきっていた東洋製糖社であった。北大東島では,この製糖会社が島の病院・交通機関・郵便通信まで一切の公共機関をすべて経営するという,離島らしいと言えば離島らしい体制を敷いていたのだ。しかも,お金までが島で作られた紙幣ならぬ“私幣”だったのだ。すべてが“私立”というか,要するに「1社独裁によるコミュニティ」なのである。
小学校の場合,それを象徴するように学用品購入はすべて伝票制だった。代金は,親の給与や砂糖代から差し引いていた。小学生のころから,いわゆる“ツケ”がきく社会だったのだ。自分でお金をもらって物を買わないから,その結果「大切に使おう」「ムダ使いしないようにしよう」という精神が,なかなか培われなかったという。そういや,昨日の立て替え(第3回参照)なんかも,こういう過去の歴史の名残なんだろうか…って,そりゃ違うか。
その代わり,児童の小学校卒業後の進路については,とかく干渉する立場となっていた。島は常に人手不足なので,小学校を卒業した児童は貴重な労働力とみなされたのである。結果,製糖社に働いている親の児童は進学できたものの,農家の子どもは農家を手伝うことを半ば強制されることになるという不条理な現実にさらされた。農家出身で進学をさせたいならば,島を出ていくことになったか,はたまた土地を一定分取り上げられたという。この“仕打ち”によって,進学を断念した農家はかなり多かったそうだ。しかも,こんな不条理が結果的には1946年,すなわち終戦あたりまで堂々とまかり通っていたのだ。これ以外にも,この島は“独裁コミュニティ”ゆえの不合理な事象が起こっていたのであるが,それは後述しようと思う。

北大東小中学校を後にして,チャリは南に向かう。建物らしきものは,農家の小屋以外はほとんどなくなった。そして,右手奥には10階建てビルぐらいの山並みが広がってくる。面積にして約12平方km,周囲も13.5kmと狭く小さいはずのこの島が,何度か書いているように,この山並みのせいでどういうわけか大陸的・牧歌的に思えてくる。当然だが海は見えない。いま走っているこの道路から直線距離にして海までは1kmもないと思うのだが,そのことが信じられないくらいである。
この山並みは「長幕(ながはぐ)」と呼ばれる大東諸島特有の地形である。名前の通り,「幕(はぐ。八丈語の読み方)」と呼ばれる岸壁が,距離にして約1.5kmも連なっているのだ。一部崩れ落ちている箇所もあるが,それは「岩錐(がんすい)」と呼ばれ,ともに島の天然記念物とされている。サトウキビ栽培のために次から次へと島が開拓されていく中,この長幕周辺だけは,その地形ゆえに開拓をされずに済んだ。ま,「手が回らなかった」というのがホンネだろうが,結果として島の貴重な原生林が残っているのだから,ある意味「不幸中の幸い」だとも言えようか。
――そもそも,今から4800万年前,いまのニューギニア諸島で火山島として誕生したとされる大東諸島。そのとき島の周囲にくっついていたサンゴ礁は,火山活動が止まって島が沈んでいくと,真ん中を凹ませた格好で入れ替わりに成長していった。やがて,これが海面スレスレにリング状に隆起して環礁となり,その中に礁湖が出来上がったという。これが今から4200万〜1700万年前のこと。フィリピン海プレートに乗っかり,いまのフィリピン東部を北上していた時期とされる。
その環礁と礁湖がともに隆起し,現在のような地形を生み出したのが約600万年前。まだ現在よりも,島が南東に位置していたころだ。その隆起は,フィリピン海プレートの運動が途中で西に方角を変え,沖縄本島の下にある琉球海溝にもぐり込んで,“たわみ”が生じた結果だとされている。よって,プレートが方角を変えていなければ,海に沈んだまま北大東島は“成立”しなかったと言われている――ま,所詮素人の私に地質学は難しすぎるが,ざっとこういう経緯で現在に至っているらしい。
となると,この「幕」はかつての環礁,私が走っているこの付近,はたまた中心部のある一体の盆地は,かつて礁湖だったということになる。この盆地一体は,その位置から「幕下(はぐした)」と呼ばれる。一方,丘陵地帯となっている辺りは「幕上(はぐうえ)」と呼ばれている。こちらは,先ほど行ってきた西港や燐鉱石貯蔵庫跡付近(第5回第6回参照)が該当するだろう。
なお,南大東島もまた同じ火山島であり,二つの島の頂上は約4000万年前から分かれていったと言われている。まさしく,双子の兄弟のような島なのだ。また,約100km離れた沖大東島も同じプレートに乗って隆起した島である。これら三つは「大東諸島」として括られるにふさわしい,長く長く同じ運命を辿ってきた,まさしく“同志”なのである。たとえ,人間が文明の利器でもって開拓してからの“わずか100年”は,それぞれ違う運命を辿っていったとしても。
そして,驚くことに北大東島は,いまもまだ沖縄本島に向けて移動を続けている。その速度は「年間5cm」。第5回で書いたように,北大東島と沖縄本島の距離は百三里=412km。計算をすれば,824万年後(=412÷0.00005)には,沖縄本島にくっつくことになる。もっとも,その頃この地球自体が存在しているのかすら分からないのであるが,仮に存在していたとするなら,どんな様子になっているのだろうか――と,いかにも優等生的な問いかけをして,とりあえず締めようか。
この長幕が途切れた辺りに,右へ曲がる道がある。この道をまっすぐ行くと,南部の江崎港に行く。とりあえず港という港は全部押さえたくなった。長幕の外周を1周するような道を過ぎると,海に向かって下り道となる。車が数台ある一番下の広場まで行きたかったが,当然この道を帰りは上がっていかなくてはならない。途中でもう1本横切る道があったが,それを過ぎたすぐ辺りの広場で,とりあえず止めておくことにしよう。そこからも海上の様子は十分見える。ま,あいかわらず岩場に波が打ち寄せているといったところか。ほら,こんな程度の感想なら,一番下まで行かなくて正解だ。
次は島の東部…いや,最東端に向かうことにしたい。長幕の外周道路が一番確実だが,1本横切った道もきちんと舗装されている。地図には全く載っていない道だが,多分地図はかなり前にできたもので,道は最近できたものだろう。一番海に近い道であることは間違いないし,とりあえず行けるところまで行くことにした。何たって救いは,道がひたすら平坦であるところだ。多少の起伏がひたすら続いてきただけに,スイスイと風を切って走れるのはいい。そして,あいかわらずすれ違う車も人間もない。もしかして,私のようなルートで行きたがる観光客のために作ったのだろうか。
しばらく走っていると,ガチガチにコンクリで固められた岸壁の中に脇道らしき道が出てきた。目の前にはちょっと高台になった芝地。北の方向に向かって長く続いている感じだから,多分これが北大東空港の敷地であろう。となると,この道が最東端への道なのか。ひとまず,その道を進むことにする。ここで久しぶりにワゴン1台とすれ違ったが,そのワゴン1台がギリギリ通れる程度の幅だ。これまた平坦な道が延々と北に向かって続いている。おそらく,この道で間違いないだろう。

脇道を走ること数分,「最東端の碑」が現われる。三つのアーチが“マトリックス”のように海に向かって傾いていると言うべきか,あるいはアニメーションで超音波とか電波を示すような“ワッカ”と言うべきか,そんなオブジェである。日時計を意味するらしい。2002年3月にできたばかりの新しさ。そして,宝くじ普及の宣伝がなぜかされていた。実際には,もう少し北の「真黒(まくろ)岬」が正真正銘の最東端なのだが,道はこの一帯でプッツリ切れてしまって,その先には残念ながら行けない。なので,この場所に碑が建ったようだ。
ちなみに,ここは北大東島最東端であるとともに,沖縄県の最東端でもある。日本の東西南北のはじっこは,昨年9月の波照間島の最南端にてすべて制覇したが,これにて沖縄県の東西南北のはじっこも制覇したことになる(「沖縄はじっこ旅」第4回「沖縄はじっこ旅U」第11回「沖縄はじっこ旅V」第4回参照)。誰に尊敬されるわけでもないのだが,こうやって端っこを制覇することにロマンを感じる人間は多いらしい。いや,ロマンなんていうとカッコいいのだろうが,単なる執着心からかもしれない。当然,現実的な女性よりも男性のほうが圧倒的に多いだろう。
この碑のそばから,岸に向かって小道がある。申し訳程度に整備されたその道を下ると,潮溜まりの25mプールがある。天然かと思ったら人工だったそうだが,これは「沖縄海」と呼ばれている場所。ほとんどが岸壁の島の中で,唯一というくらいに沖縄っぽい海岸の様子をしていることから名づけられたようだ。潮溜まりとはいえモロにすぐ海なので,波が激しく打ち寄せていた。ちょうど,小さい子ども3人を連れた家族がそこから引き上げてきたところらしく,近くにあるシャワー・トイレ施設らしい建物を入ったり出たりしている。でも,このカンカン照りの中でハダカで大丈夫なのだろうか。特に一番下の2〜3歳らしい男の子は。
来た道を戻る。さすがに空港を突っ切るようなルートはない。そして,空港に向かう道に入る。考えてみれば,あと数時間後にまた空港へ行くことになるのだが,島をぐるっと1周していくためにはやむを得まい。そのまま行くと,左手に小山が現われた。地図を見ると,小山の名前は「天狗岩」らしい。岩の裂け目を利用して上に上がれる道がついていて,そのてっぺんに拝所があったそうだが,たかが標高10m程度でも,3時間以上チャリを漕いでいる私にはものすごく高く思えてあきらめる。
その下には赤い鳥居かあった。こちらは行けそうである。早速,鳥居をくぐると,低いブロック塀に囲まれた20m×10m程度の広場がある。今は草がさらっと生えただけの更地であるが,一応は例祭が開かれるようだから,ここに人が集うのであろう。その奥にこれまた赤い鳥居があって,10段ほど階段を上がると小さい祠があった。「ことひら宮」同様(第5回参照),こちら秋葉神社も全国的に展開されている神社だ。こちらは火の神を奉っている。元々八丈島出身者で奉っていたものを,1983年にこの場所に移したらしい。上記「ことひら宮」といい,あるいは「地蔵さん」(前回参照)もそうだが,これもまた私物が公のものになった典型である。ま,小さい島とはいえ,いろんな場所の出身者がいるわけで,こうすることで一体感を保たせる効果があった(今もある?)とも言えるだろう。
そのまま北上すると,北大東空港である。時間は13時半過ぎ。中は誰もいないで静か…と思ったら,チケットカウンターの奥の部屋にRACのユニフォームを着た男性が座っていた。何かコンピュータに向かって作業をしている感じだ。背中越しだったので,向こうは気づいていなかったかもしれない。土産屋とレストランが中にあるが,14時半〜16時半の営業で現在は開いていない。その時間帯に到着も出発も集中しているから仕方がない。トイレに入って飲み物を買うと,再びチャリに乗り込む。
ここから島の北へは,細く曲がりくねった畑の中の道を行くことになる。次に見たいのは北港。地図に太い線で描かれた道を行くのが一番効率的なのだろうが,それだとどうにも損した気分になりそうで,ミョーに外へ外へと行きたくなってくる。別に何があるわけでもない。そういや,別のイラスト地図にはカエルの絵が描かれていて,どうやら夜な夜なカエルが頻繁に道端に出てくるらしい。だからか,この辺りでやたらと“カエルセンベイ”を見た気がする……合掌。ま,当然マジマジと見るべきものではないから,それ以上のコメントは差し控えたいと思う。しかも,その末に見た北港は工事中のトラックが頻繁に行き来していて,港を見学できるような状態ではなかったと来たら,何のために走っていたのか疑問を自分で自分に投げかけたくもなってくる。
さて,再び幕下に戻ることにする。南側はビル10階建てくらいの高さだったが,北側はゆるやかな丘のようになっている。それを越えると,製糖工場の煙突が見えた。あとはこの周辺をグルグル巡ることにする。まずは「潮見橋」という橋……って,フツーの橋じゃん。下の川は木の枝に隠れてよく見えない。どうやら,この川が潮の干満に反比例して水位が上下するらしい。で,島の土壌が石灰岩でできていて,海水が染み込む形で海とつながっていることを裏づける現象なんだそうだ。へぇ〜。
次は「大池(おおいけ)」。しかし,そこに行く道がどこにあるのか分からず,あきらめる。その代わりというか「赤池(あかいけ)」という池は,島の中心を走る道路から見ることができた。この一帯は湿地帯となっているが,標高はいずれも0。すなわち,外洋の高さと同じなのである。環礁の名残である。そして,潮の干満でもって潮位が上下するそうだ。何気に文字にしてしまったが,考えてみれば,すぐそばにある海と高さが同じだというのは,やはり不思議な感覚を覚える。
島の中心部に戻り,製糖工場「北大東製糖株式会社」と村役場の前を通過する。村役場は窓が開いており,中で仕事でもしているようだった。その玄関前には垂れ幕が下がっていた。いわく「生産目標3万t」「高品質・高反収は土づくりから」「肥培管理と潅水は早めに」――どこの地方でも見られる光景に見えるが,この村が自治体となったのは1946年のことである(第3回参照)。それまではこの“ハコモノ”は存在すらしなかった。既述のように,すべては製糖会社の管轄下に置かれていたからだ。その歴史を知っていると,この当たり前の光景もどこか不思議なものに思えてくる。

前回書いたように,この島は当初「燐鉱石の島」だった。戦前はそれによって大きい隆盛も経験した。しかし,1950年に燐鉱石産業は廃業に追い込まれる。そこからこの島は南大東島と同様,「サトウキビの島」となった。北大東製糖株式会社は,そんな最中の1958年に発足され,工場は翌1959年に建てられたものである。工場発足当初は季節労働者を沖縄本島や台湾から募集していたが,沖縄では基地経済の拡大が起こった。一方の台湾では日中国交正常化による台湾との国交断絶があった。これらによって労働者募集は困難になった。その後も紆余曲折を経て1971年,ついにキビ収穫機「ハーベスター」を導入するに至った。これは沖縄県で初めての試みだったという。
しかし,何事にもメリット・デメリットがあるもので,機械導入によって労力が楽になった分,その機械の重みで土壌が固められたり,雨の中や雨後の作業だと,茎を切断するためのカッターが消耗しやすくなる。はたまた手作業で丁寧に刈っていくのに比べると,キビに余計なものがくっついたりして,製糖に悪影響を及ぼすのだそうだ。そして現在――そういや「サトウキビだけでは食べていけない」(第3回参照)という言葉を聞いたけれど,それでもこの島で産業の中心をなしているのがサトウキビであることは間違いないのである。
思うに,この島でサトウキビはどーゆーわけか「困難を伴わせる存在」になると言える。その最たるものが,このサトウキビを作るための土地ではなかろうか。これまた相当の紆余曲折があったりするのだ。当然,農民が自分の手で一から開墾し,先祖代々耕作していったわけだが,この土地がある意味当然である「自分の所有物」となるまでに,開拓から60年以上の時間を費やしているのだ。なお,この土地の問題については,隣の南大東島にも同様に言えることである。
あるいは,北大東島については,最初に燐鉱石に島の活路を見出したときからの宿命だったのかもしれない。決してないがしろにしたわけではないのだろうが,島の歴史を見ていると,常にサトウキビ産業は“2番手”に位置付けられていた印象を持つ。そして,もしこの島が現在も「燐鉱石の島」として生き続けていたら,はたしてどうなったのだろうか。沖大東島での燐鉱石発掘が,現在の「ラサ工業株式会社」の礎になっているように(前回参照),この島の燐鉱石が,例えば「ボロジノ(→第5回参照)株式会社」なんて会社の礎になっていたならば,1人1人の“細かい問題”ならどこにでもあるにせよ,“大枠”のところでは燐鉱石の繁栄に隠れて(あるいは“隠されて”?),ここまで大きな問題として浮き彫りにならなかったのではないかと思えるのである。
――さて本題。その土地の話は開拓当時の,これまた玉置氏の口約束である「30年耕せば,耕した者のものとする」がすべてのキッカケであった。しかし,前回書いたように,玉置氏は1910年に亡くなってしまう。彼が亡くなっていくらも経たないうちに,開拓事業は玉置商事の不振によって東洋製糖社に引き継がれる。当然,小作農からはその約束が継承されるのか不安の声が挙がったのだが,結論は「会社の指図に反せずかつ小作地を荒廃させることなく,また島の秩序を乱す行為がない場合は,子々孫々まで小作地の継続をなす」。土地に縛り付ける以外の何物でもないものであった。1927年に会社が大日本製糖社に引き継がれても,その状況は変わらず続いた。
かといって,この“絶海の孤島”の外に出ていくことは,経済的にも物理的にも容易ではない。そうとなれば,いまできることをする,すなわち目の前にある土地を耕すしか術はないのだ。しかも,南大東島ではサトウキビを生産するだけで済んだが,北大東島では製糖までしなくてはならなかった。そして,小作料の3割を製糖会社に納めることも余儀なくされた。それでも「いずれ,この耕した土地は自分のものになる」という玉置氏の言葉を,島民は心の拠り所としたのではなかろうか。
だからこそ,何事にもイビツな体制下だったこの島で生活することに耐えられたのかもしれない。上述の小学校のことも一つだが,郵便通信もすべて製糖会社の管轄下に置かれた。たかが一つの荷物や手紙を取りに行くのに,12km離れた隣の南大東島にまで行かなければならない。それ以前に,島に来る船自体,東京―門司間のフェリーを会社がチャーターして,年に12〜13回来させるという有り様だった。でもって,沖縄本島に行くとなれば,一旦門司を経由することになったという。当然,乗船許可証を製糖会社からもらわなくては行かれない。はたまた,片や製糖会社の社員は発電機による電気が灯る生活,片や農民はランプによる生活という格差もあった……。
しかし,明けない夜はない。1946年6月11日,第2次世界大戦で日本が敗戦。沖縄県が米軍施政下に置かれるようになると,大日本製糖社のすべての土地や資産が米軍の管理財産となり,大日本製糖社は北大東島から引き揚げることになった。その翌日には北大東島に村制が敷かれることになった。すなわち,ここに「北大東村」が誕生することになったのだ。今から59年前のことだ。敗戦がきっかけという皮肉なオチがあるとはいえ,これによって「いびつな時代」は終わりを継げたかに見えた。
ところが,1951年5月,大日本製糖社は「大東島調査団」なるものを南北大東島に送り込んできたのだ。「これでは戦前と同じことになる」――北大東村の村長と村の代表団は同年7月,当時の琉球政府に陳情書を提出することとした。これが「土地所有権獲得闘争」の幕開けである。この闘争の先頭に立った1人が沖山守身氏。そう,過去に天災によって牛や豚に不運にも怨まれる存在(?)となってしまったあの人物である(第5回参照)。
村の言い分は「公租公課」というものであった。すなわち,自分たちは島のために会社のために,やるべきことはしっかりとやり納めるべきものはきっちりと納めてきた。これに対して村民に見返り(行政や教育・医療などの提供義務)を与えるのは当然のことだった。しかし,市町村制が敷かれて自治制度が確立したのだから,双方の義務は必然的になくなったものである。“会社支配”そのものにも正当性はないし,そんな誤った行為をしてきた会社に,農民の土地をとやかく言う資格はない。よって,会社の土地だけではなくて,すべての土地を島民に無償で開放すべきである――。
これに対して,大日本製糖社の言い分は「口約束は意味をなさない」というものだった。あるいは妥協策としても,「土地は部分的に開放する。賃借料は別途設定」という感じだった。半世紀近い間に経営母体が3度代わったこともあり,1959年7月から1961年4月まで4度にわたって行われた琉球政府・大日本製糖社・村による“三者会談”は,平行線を辿ったまま時間だけが流れた。議題の俎上に乗るまでにもかなりの時間を要しているわけだが,闘争の長期泥沼化はいよいよ必至となっていた。
しかし,同年7月に当時・琉球列島高等弁務官であったポール・キャラウェイ中将(1906-85)による南大東島視察で,事態は解決の方向に発展していった。村の代表たちがこれをチャンスをとらえて,直接弁務官に土地問題への協力を直訴したのだ。「もはや“ヤマト”と政府には頼れない」――そう思ったかどうかは分からないが,これが奏効して,弁務官の命令による土地問題解決最高機関「米琉合同土地諮問委員会」が,早速発足されたのである。三者会談が2年間で4回しか行われなかったのに対し,委員会は1963年1〜8月の8カ月の間で10回行われた。この中では,玉置氏の未亡人であるヒデ氏による証人尋問も行われ,彼女は「島民の正当な要求」を認める旨の発言をしている。
そして,闘争開始から13年後……いや「開墾から60年以上が経った」1964年7月17日。土地問題解決最高機関の「米琉合同土地諮問委員会」によって,はれた島民の土地が自分のものになる判断が下された。当初,態度を保留した会社側も,2週間後の同年7月30日に採決を受諾することになった。島民は旗行列をし,花火を打ち上げて祝ったという――なお「土地所有権認定記念碑」と,問題解決に大きな力を与えたキャラウェイ高等弁務官を称える記念碑は,ともに南大東島に建てられている。

(5)エピローグ
ハマユウ荘には14時45分に到着する。レジで精算して1000円となった。5時間も走って,さすがに日に焼けすぎたようで,空調から「強風」で吹き出る冷房が心地いい。そして,頭に巻いた熱射病避けの手拭いは,腕と首筋を冷やすためのタオルに化け,そのままゴミ箱行きとなった。15時,たった1人ワゴンに乗せられて出発。さっき通ってきた北港方面をぐるっと回って,15時10分北大東空港着。
しばし,空港にたたずむ。昨日のツアーの人たちもいて,ロビーは混雑している。プラス,もうすぐ飛行機が到着することもあって,地元民の姿も多い。多分,こんな日はそれほどないだろうと,勝手に想像する。そんな中,地元の人らしき中年男性がチケットを買っていた。その隣に若い学生のようなヤツがいたから,親子だろうか。どうやら,隣の南大東島まで行くらしい。チケットの値段を聞いていた。「正規だと6000円だってよ!」と中年男性が言うと,仲間内から笑いが漏れた。そう,離陸してたった3分で南大東島に着くのにである。シートベルトなんか締める必要がない気もするし,わざわざ滑走路の端まで行って助走しなくてもいいじゃんと思えてしまう。さすがに,上がる高度は高くなかったが。
でも,この飛行場が1978年6月に開港するまで,北大東島の人たちは一足早く1965年に開港していた南大東島の空港まで,サバニかボートで行かなくてはならなかったのである。もちろん,那覇との間に船による定期航路は1951年に開設されてはいたが,島は台風の通り道であるがゆえに欠航に悩まされた。ある時は台風が相次いで1カ月南北大東島が孤立し,当時のエアーアメリカ社が特別機を飛ばして物資を運んだこともあったそうだ……いや,欠航はまだいいかもしれない。せっかく航海に出ても,途中で遭難沈没するという痛ましい事故も何度か起こった。
南大東島に自分の船で漕いでいくか,あるいは船を操れる人に頼んだにしても,それほどの費用はかからなかったと思うが,それでも「海に相談しないと分からない」という状況は変わらない。また,那覇から南大東島まで飛行機で辿りついても,今度は北大東島まで行くのが一大事である。結果,1週間とか10日間も,自分の住む島を前にして南大東島での不毛な滞在を余儀なくされることもあったのだ。その後,1974年に南北大東島間で3人乗りのセスナ機「トンボ飛行機」が飛ぶようになった。その当時の空港は幅20m・長さ700mほどで,粟石を敷き詰めてサンゴを上からかぶせた簡易なものだった。それから本格的な飛行場の開設まで4年かかったのは,やはり離島ゆえの哀しい現実だろう。
前回の“水問題”の項で触れたが,その水問題の解決に次いで“島で最も重要な出来事”の第2位だったのが「飛行場の完成」となっている。「好きなときに好きな場所に行ける」というのは,やはり人間にとって必要なことである。ただでさえ絶壁の離島ゆえに外へ出づらかったのに加えて,製糖会社による監視で,土地にがんじがらめに縛り付けられていたのである――って“がんじがらめ”からは,もう飛行場完成のかなり前に解決していたか。でも,この二つの問題の解決は,「日ごろ当たり前のことと思っていたことが実はとても恵まれたこと」がよく分かる事象と言える。

さて,飛行機は予定通り,16時5分に北大東空港を飛び立ち,16時10分には南大東空港の滑走路にあっさり着陸した。それでもマニュアル通り流れる「どうぞおくつろぎください」という,お決まりのアナウンス。「たった3分で」と機内のツアー客からまたも笑いが漏れる。CAも心の中で笑っているかもしれない……そして,同じ飛行機に乗るのが分かっているけど,荷物を持って外に出なくてはならない。16時35分の出発まで,北大東空港の3倍の広さがあるロビーで待つことにする。
ところが,ここで「ただいま,那覇地方で天候不良のため,離陸が17時半の予定となります」とのアナウンス。手荷物検査場を通過していた私は,アナウンスでもってチケットカウンターに呼ばれることになった。那覇からは19時20分発の羽田行きで帰京するのだが,それに間に合わなかったときのために,次の20時20分発の便を予約することになったのだ。「とりあえず大丈夫だと思いますけど,念のため入れさせていただきます」とのことだった。これでもし飛び立たなかったら……。
結局,那覇行きの飛行機は無事,17時半に那覇へと飛び立った。予定通り飛んでいれば,那覇空港で1時間あまり時間ができたので,メシをどっかで食べてラウンジでくつろごうかと思っていた。ラウンジにはビールがある。火照った身体にはビールが染み入る。あるいは,メシを持ち込んでビールでも飲みながら……まあ,たしかに18時45分に着いたので「大丈夫」ではあったが,ダッシュで搭乗口に行ったときはすでに機内への搭乗を開始していた。「ゆったりと,ラウンジでビール(と食事)」は,「狭い機内で,売店で売れ残ったサータアンダギーの小さい袋」に取って代わったのであった。(「沖縄はじっこ旅W」おわり)

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