沖縄はじっこ旅(全4回予定)
@初夏のサイクリング
翌朝,空は曇りの多い晴れ。ただし風の強さは相変わらずである。本日は10時5分発の飛行機で,与那国島に向かうことになるのだが,昨日のように天候が心配だ。天気予報を見る限り,何と言ってもネックになるのは風だ。この風さえ治まってくれればよいのだが――9時20分。少し遅い朝の出発だが,石垣バスターミナル発の連絡バスにて石垣空港に向かう。中は3人しかおらず,途中ホテルなどを回っていくのだが,最後まで人が乗ってくることはなかった。
空港の搭乗ロビーに入ると,予感は的中。なぜか風のうなりがはっきりと聞こえてくる。滑走路で周囲が何も障害物がないから,モロに風が通り抜けるのだろう。滑走路脇に立つ木や芝生も揺れているのが見える。でもってボードを見てみると,何とまあ与那国島行きは「天候調査中」とあるではないか。ロビーには人がだんだん多くなってくるが,これは10時20分発の那覇行きの人間だろう。与那国からは那覇を経由して羽田に帰るルートとしているが,最悪の事態となった場合は,「石垣―与那国―那覇」を「石垣―那覇」に変えて,那覇あるいはその近辺で時間をつぶすしかない。もしかしてこの客らと一緒になると,多分3人席の真ん中とか,下手したら満席で相当待たされるとか,ちょっとややこしい話になりそうである……。
しかし,そんな心配をよそに,ボードには動きがない。動くのか動かないのか,とっととはっきりしてほしい。10分前に案内するとアナウンスしていたが,時間になっても何もない。係の人間が動いてはいるし,車イスを用意したりしているが,何がしかの結論も出ていないようだ。そんな中,100人以上は入れるロビーのイスがほぼ埋まり出しているが,この中に与那国行きに乗る人間は,私も含めて多分ほんの一握りだろう。でもって,この飛行機が仮に動いたとしても,那覇からの飛行機が動かなければ,別に喜んで会社に行きたいわけではないとはいえ,明日は会社に行けない――何だか,与那国に行くなんて後悔したくもなってきたが,ここまで来て引き返すのもバカらしい気も当然する。ただ単に準備に遅れているだけかもしれないではないか。
すると,10時になったかならないかだろうか。手荷物検査場のほうから1人の老婦人が,娘さんらしき中年女性に連れられて入ってきた。でもって,さっき準備していた車椅子に乗って,外に出て行った。もちろん天候調査もあったのだろうが,多分彼女を待っていて遅れた部分も少なからずあるだろう。まったく,車椅子の人間に飛行機に乗るなとは言わないが,あらかじめ手がかかると分かっているのならば,もっと早く来やがれって感じだ。健常者の私だって,30分以上前から来ているのだ。
……いや,こんな地方の空港で,まして与那国行きなんてマイナーな便じゃ,優先搭乗なんてものは存在しないだろう。そういう「時間にピシッと」とか「遅れないで現地に向かう」とかいう感覚を,地方のマイナー便に求めることが,むしろナンセンスなことなのかもしれない。この老婦人は見たところ,与那国の人間かあるいは石垣の人間って感じだ。そういう文化の中に育った人には,いろいろな私の思惑とはかけ離れた“悠久の時間感覚”が流れているのだろう。
それから数分してようやく案内され,歩いてタラップに向かう。雨は降っていないが,外に出ると風の強さをあらためて感じる。そして中に入って早速のアナウンス。「場合によっては引き返すこともありますので,あらかじめご了承ください」――やれやれ,これで引き返すこともあるってか。あらためてゴールデンウィークの頭にチケットが取れなかったことと,梅雨に入ってしまったことを恨みたくなる。これで与那国に行けなかったら,この旅行記のタイトルはどうすればいいのだ?

結局,飛行機は十数分遅れて離陸する。与那国島に行くのは10年ぶりである。真ん中の通路をはさんで3―3の席は,10年前と同じだ。あのときは真ん中当たりで右側の窓側だったと記憶する。そのときの機内はたしか満席で,帰りの石垣に戻る飛行機も同様だった――1990年,当時高校2年生だった11月,修学旅行で福岡から羽田まで初めて飛行機に乗ってから約3年数カ月ぶり,このときは人生2度目のフライトだった。離陸した瞬間小窓から見えた,遠ざかって行く石垣島の海の青さと赤土の茶色とのコントラストが,いまも強烈に印象に残っている。
その離陸のときに合わせ,カセットのウォークマンをスタートさせたのだが,そこに流れてきたのはXJAPAN『Tears』。ストリングス,YOSHIKIのリリカルなピアノ,TOSHIの切ないヴォーカルで始まるオープニングから,ドラムス・ギター・ベースも入って壮大なサウンドへと変化するその瞬間,上記の強烈な景色が目の前に広がったのである。景色と音楽がコラボレートして感動を呼び起こしたいくつかのケースの中で,おそらく1かもしれない。
惜しかったのは,それから間もなくCAに「離陸ですので切ってください」と言われたことだ。ちなみに,「離陸時はすべての電子機器の使用をお控えください」と,今では耳が腐るほど聞いているこのフレーズも,当時はまったく知らなかったのである。だからこそ生まれた感動(?)とも言える。10分以上ある曲のすべてを聴きたかったのだが,いまとは格段に純粋無垢だった(?)私は,逆に着陸までずっとウォークマンを聴くのを我慢していたと思う。
今でこそ飛行機をバンバン使う旅となっているが,10年前はこの石垣―与那国間の往復以外はすべて船便だったのだ。「沖縄標準旅」「沖縄“任務完了”への道」第2回に書いたことの繰り返しになるが,那覇―石垣間を往復したときだって船便でそれぞれ半日ずつかけたし,さらには本土とも,行きは36時間(大阪から乗ったため),帰りは60時間という長旅をしていたのだ。そもそもこの石垣―与那国間だって,船便だと4時間もかかるし,しかも外洋を通るから時化る確率が高いのだが,決め手となったのが週2便だか3便の運行だかで,自分の行きたい日に運行しなかったから――言わずもがな,船便よりも飛行機のほうが金はかかるのだが,「飛行機で行くと早く着く分,向こうでの宿泊費がかかって余計に費用がかさむ」という,今では「何でそんなこと考えていたんだろう?」と思うような理由から,たとえ行きの船便が2等船席が満室で倍額出して1等にしたとしても,トータルで見れば船便のほうが安いからと,あえて飛行機を避けたのだ。
さらには当時,列車はみどりの窓口に行って予約をできていたが,飛行機はそうは行かない。恥ずかしい限りだが,飛行機の予約をどうやってやったらいいか,まったく分からなかったのだ――もっとも,空港に行かなくても電話で予約すればいいのだが,どこにかけてどう話をしたらいいのかすら分からなかったのだ――。なので,上記与那国便も込みで某大手旅行会社に一括で頼んだくらいなのである。今ではすっかりネットからの予約に慣れた私だが,はたして今の時代だって,このネットを使えなかったら,沖縄はおろかどっか遠くに行くにしても,はたして飛行機を使ったかどうか。きっと,北海道だって新幹線や特急を乗り継いで行っているに違いないのだ。
――いかん,感傷にふけって長くなってしまった。で,今回は左側の窓側である。搭乗率は半分くらいか。でもって前から2番目で,CAからはほぼ丸見えだ。前回のようにXJAPANでなくとも,あるいは別の曲で似たような感動を味わいたかったが,さすがにそれは控えた。天候は離陸すると同時に青空が広がり,昨日行った小浜島,竹富島,黒島などが,地図で見るのとまったく同じ形でくっきりと見える。ただし,なぜか西表島に入ると急に視界が悪くなり,やがて霞んで何も見えなくなった。

(1)小浜島にて
@初夏のサイクリング
与那国空港には10時45分到着。タラップから降りると生暖かく強い風が駆け抜ける。そのままロビーを抜けて,建物の端にあるという米浜(よねはま)レンタカーのカウンターへ。本日はここで,那覇行きの17時5分発の飛行機まで,レンタカーを借りることになっている。
カウンターは3軒ある店の真ん中。私と同世代かやや上くらいの女性が受付に1人座っている。淡々と書類に必要事項を書き込むと,前金で5000円を支払い,カラーの地図とカギを渡される。ホームページもあって,そこにはスターレットもあるようだが,電話予約をしたところカローラしかないみたいな話をしていた。値段はたしかそのときに確認したのと同じだと思うが,そのへんのアバウトさは沖縄ならではということか。ちなみに売店も兼ねているようで,本や土産物なども置かれている。プラス喜納昌吉や柴咲コウのサインがあった。柴咲コウのはサインというよりは普通の字っぽいが,この島がロケ地になった昨年放送のフジテレビ「Dr.コトー診療所」のからみでだろう。
一般駐車場の端にレンタカー用だろうか,十数台停まっている駐車場があり,その中に今回乗る白のカローラがあった。でもって中のカーオーディオはというと……なんと何もナシである。いまどきカーオーディオすらナシとは。あらかじめ聞けばよかったとも思ったが,いまさら仕方ない。ま,小さい島だから別に支障はあるまい。ウォークマンを取り出してヘッドホンを耳に入れて出発する。

とりあえずは西進する。最終的に向かう先は西崎(いりざき)という岬で,与那国島で最西端,すなわち日本の最西端に当たる場所である。前回旅行でも訪れた場所である。その前に他にも寄っておきたい場所もあるので,あわせていくつか見ておきたい。
10分ほど緑だけの何もない景色の中を走る。地図で見る限り右側,すなわち海側は牧場のようだ。すると「→ダンヌ浜」という看板。一応地図に載っているので狭い道を少し入ると,幅30mほどの小さい砂浜だが,結構岩場が多い。波は,荒天ゆえにかなり荒い。間違いなく海路だったらアウトなくらいの白波である。トイレとシャワーがついたコンクリの古い建物があるだけの単なるビーチということで,とっとと後にする。
次に向かうのは久部良(くぶら)バリだ。その名のとおり久部良という日本最西端の集落のバリ(崖)である。間もなく目の前の道が通行止めになったと同時に,「→クブラバリ」という看板が出ていたので都合よく右折する。地図で見ると集落の北側を走る格好で,ようやく民家が見え出したが,赤瓦の家は皆無でみなコンクリの平屋ばかりである。空は微妙な曇天で,それが“最果て集落感”を演出する。途中,右にこれまた日本再西端の小・中学校である久部良小・中学校を見てどんづまりを右に折れると駐車場。道はその先も続いている感じだが,ひとまずはこの駐車場にて車を停める。
周囲は少し小高い丘になっており,下はほぼ草地である。車で入ってきた道は見事にその先まで続いていて,小さな工場があった。少し歩く感じなので,あるいは車に戻って最寄りまで行こうかと思ったが,思いとどまる。地図で見るとその工場は製塩工場であるようだ。「アダンの塩」というブランドの塩を作っているらしい。
緑の中にある遊歩道を,風の強さをマトモに感じつつ先に進むと,1頭の栗毛の馬がいた。何のためにつながれているのかよく分からないが,これが与那国馬であろうか。身体は小さいが足腰が強くて性格は従順だという。馬の専門家じゃないので,例えばその馬がメスかオスかなど,詳しいことは分からないが,私が近づいても怯える雰囲気はない…というか,私が怯えているだけか。ひもでつながれている感じだったが,近くにあるブロック塀にその元はあった。その馬が落とし主と思われる“落とし物”が広範囲に落ちていたので,この馬にとってはここは自分の庭みたいなものか。
その久部良バリは,全長15m×幅3.5mの楕円の亀裂断層のことを指す。ここだけがクレバスの“岩バージョン”みたいに,向こう側もこちらも荒涼とした岩場しかない。断層の終わりにはソテツなどの緑がごちゃごちゃ生えているが,それがかえって不気味でもある。間が空洞なのか,何がどうなっているのかまでは残念ながら見られない。足元が何分弱いので,思いっきり近づけないのもあるのだが。ちなみに,周囲は「久部良フルシ」という奇岩群となっている。
この久部良バリは,悪しき時代の悲劇の場所として知られている。それは“人頭税(にんとうぜい)”という,15〜50歳の男女すべてに頭割りに税を課す制度があった時代。島津・薩摩藩が琉球を支配下に置いた以後,1903年,すなわち100年前まで続いた税制度である。で,ここでは島の妊婦に断崖を飛ばせたという。幅3.5mということは最悪,子どももろとも断崖から落っこちて死ぬか,うまく飛べたとしても流産,ということだ。そんな非人道的なことを強いられた“人口淘汰の象徴”とされている。

人頭税は,八重山には1637年に宮古島とともに施行され,それは1659年に定額制になった。すなわち,人口の変動によらず一定額を納めさせることになったのである。また,身体が弱かろうが何であろうが年齢が来れば課せられたので,そういう人間の分は周囲が負担せざるを得ず,さらに過酷さを増すこともあったと言われている。言わずもがなだが,台風や旱魃があったとしても定額である。そんな時代に人が増えることがどんなことかは火を見るより明らか…ということだ。
さらに,今回の旅で見損ねてしまったのが悔まれるが,島の中央に「人升田(とぅんぐた)」と呼ばれる田んぼがある。ある日突然,すべての農民にその田んぼに集まるように召集がかかる。田んぼは当然,ある程度の大きさしかなく,来た人間からその田んぼの中に入っていく。すると,当然あふれる人間も出てくるわけで,そのあふれた人間を殺したという場所だ。「人(を入れるための)升(としての)田」――何だかいかにもって感じの名前であり,これまた“人口淘汰の象徴”である。
しかしながら,こういう人口淘汰の行為を生んだ背景は,税そのものが過酷だったというよりは,税を取りに来る役人自体が悪質だった節が強いとされている。たしかに,納税の条件が過酷でないと言えば大嘘になるが,おおむね“五公五民”だというから,特別この地方だけが過酷とは言えない。しかし,例えば織物を納付するときに,賄賂を持って来た者には簡単な模様,そうでない者には難しい模様を課したり,納税の際に役人が桝目を不当に大きくしたり,役人が百姓に不当に品物を貸しつけたりなどしていて,王府から戒めの通達がかなり出たというのだ。
そもそもよく考えてみると,この人頭税は“頭割り”なのである。ということは,頭数すなわち人数が多いほど有利なはずなのだ,もちろん人数が増えれば,それだけ全体で納税額の“ベース”も上がるのだろうし,人数が増えたら食わせなくてはならない数も増えるというのも,もっともな考えである。しかし,あえてこんな言い方をするが,例えば久部良バリを妊婦に飛ばせたとして,流産なら“理想”なのだろうが,母親が死んでしまっては,貴重な頭数がいなくなって残された者の負担が増すだけである。また人升田についても,そこからあふれてしまった人間が,例えば身体の弱い人間やヨボヨボ老人だったら“理想”なのだろうが,上記年齢の納税該当者だったら,やはり貴重な頭数がいなくなって残された者の負担が増すだけのはずである。
さらには,14歳以下と51歳以上は納税者から外されるわけだが,両方に該当する者が必ずしも納税能力に欠けるかと言えるだろうか。前者は10歳くらいからある程度働き手として機能しただろう。後者だっていまほど寿命が長くない時代だろうし,数十年労働に追われて精神的にさぞクタクタだろうとはいえ,例えば50歳の人間が51歳になったところで,即働けなくなるということもないであろう。ましてや,いまほど戸籍制度が発達していない時代だろうから,適当に年齢だってごまかせたのではないか。「五人組」という連帯責任制度の中に組み込まれたというから,百姓同士で「お前は何歳だ」という情報がある程度分かる状況とはいえ,いまの時代みたいに自動的に「ハイ,あなた該当者になりました」なんてことではあるまい。それこそ連帯責任を逆手に取ることも可能なわけである。
――ま,こんなことは当時の百姓でも考えついただろう。それこそ知恵を働かせて,あらん限りの“税金対策”は行ったに違いない。ただでさえ,地理的にも“島ちゃび(離島苦)”が多かったはずの与那国島である。自らの島の力のみでできる限界というものはイヤというほど分かっていただろうし,台風や旱魃は自然が相手だからどうにも仕方ない。でも,どこの誰とも知らない役人の言うことは,何でもかんでも聞いていたら,正直やっていられないはずである。
ただ,かといって先のことを見据える余裕もまた,なかなか持てなかったのだろうと推測する。「子どもが増えれば,いずれは働き手が増えていいのでは」という考えは,あくまで先が見越せて辿りつく考え方だと思う。明日の我が身がどうなるかも分からない状況だからこそ,また不当に税を取りたてられる現実があったからこそ,上記のような悲劇が起こってしまったとは言えるだろう。もちろん,2箇所ともある程度言い伝えの域は出ないが,もしホントだとすれば,あらためて“役人による人災の象徴”と言えるはずである。

@初夏のサイクリング
久部良バリを後にして,本日昼食を取る場所に向かうが,ちらっと先述の久部良小・中学校に立ち寄る。もちろん外から眺めただけであるが,校庭はそれこそ野球ができるくらいに大きい。建物も壁を隔てて別棟になっており,2階建てである。島の大きさにも比例するのかもしれないが,小浜島の小浜小・中学校よりもずっと大きい(第1回参照)。あるいは,昔はもっと人がいたので大きくしていてちょうどよかったのだが,人口が減っても建物はそのままとなっているのかもしれない。ちなみに,小浜島と同様に,この島にも高校はないから,ここの中学校を卒業したら,そのまま親の手伝いでもするか,高校に行きたいならば,石垣島で当然だが下宿生活となる。あるいはもっと遠く,東京や大阪に出る者だっているかもしれない。
学校を後にして,地図で場所を確認しつつおもむろに狭い路地を下る。と,急な坂の右側,斜面を利用して建っているその店「ユキさんち」はある。「美ら島物語」などで前から目をつけていた店であり,たしか柴咲コウもこの店に食べに来たと聞いている。そばに駐車場を探したがなさげなので,いくらもない坂の下まで一度下りきる。と,いま下ってきた道に沿うように川がそばにある河口へ流れているのだが,その川岸にあったちょっとした草地に車を入れることにした。近くにトラクター,トラック,フォークリフトがそのまま置かれていたからだ。工事用だろうが,日曜日だし人もいない。レンタカーを少しくらい置いたって罰は当たらないだろう。
店の外観は,緑が適当にからまってナチュラル感たっぷり。中に入ると,曇天の天気も手伝ってか,かなり薄暗いが,風が吹き抜ける構造となっていて,バリ島など東南アジアあたりのアバラ小屋……もといリゾートホテルのエステを思わせるような作りだ。そして“そっち方面”のヒーリング系の音楽が,おしゃれなバイオレットと銀のCDコンポからかかっている。天井はかなり高く,白い羽の巨大扇風機がゆるやかに回っている。屋根や壁は何かテントの生地っぽく,暗いからなのか薄汚れた印象を持つ。案外,外側や裏側に回ったら,ホントかなりちらかっていて汚かったりするのかもしれない。
時間は11時半前。中には,20代前半くらいの女性が1人座って本を読んでいる。中はトータルで約20人以上は座れ,外にも斜面に突き出るようにデッキがあって10人くらいは座れるだろうが,客は彼女と私のみである。とりあえず,カウンターの真正面にある細長い木のテーブルに腰掛ける。自然の木をそのまま引っ張り込んだ感じで,数十cmに渡ってえぐれた跡があり,そこに貝殻がたくさんつめ込まれている。
さて,店内に入ったとき,入れ違いでカウンターにいた若い女性が奥に引っ込んでしまった。明らかにガサガサとカウンターの壁――というか,生地か――の向こうで作業をしている音がするのだが,一向に出てこない。声をかけること何回かして,ようやくそのガサガサしていた付近から,中年くらいの女性が出てきた。気がついてとぼけていたのか,ホントに分かっていなかったのか……まあ,いい。さっき奥に引っ込んだ若い女性に「メニューはどこかしら?」と呼びかけると,その若い女性が出てきて,すでに座っている女性のところから,ペラペラな紙のメニューを持ってきた。こういう紙の体裁もまた,南国風である。
ここのメニューで有名なのはカレーである。もちろん,日本最西端のカレーショップでもある。取りたててすごいものが出てくるわけでもなく,中でも“日替わりカレー”は,その日の材料で決まるという。成り行き任せといっては言葉が悪いかもしれないが,そのあたりは沖縄らしいっちゃらしい。今回は,その日替わりカレーと,ピクルス・ドリンクがついたセットを注文する。カレーの種類によって値段は違うようだが,今回は1100円。別途,紅芋・ココナッツ・さとうきびのアイスクリームもあるようだが,スーパーホテルでの朝,おにぎり・ソーメンチャンプルー・サラダ・味噌汁・コーンフレークwithミルクなどの軽食を,がっちりからやや多く食べて“重食”にしてしまったので,ここは自重する。

しばし日替わりカレーを待ちながら,周囲を見回してみる。この手のコンセプトにありがちな「雑然,混沌。それもまたアートさ」的に,いろんなものがディスプレイされている。上述の貝殻の詰まったテーブルもそうだ。また,ある一角は4畳程度の上がりになっていて,そこにはビンやガラスが置かれている。また,ある一角には写真が額に入って飾られている。ひょっとして「Dr.コトー診療所」のでは…と思って近づいてみると,どっか外国の子どもの写真であった。また,漫画本や写真集が大量に置かれた一角もあり,釣りに使ったと思われる透明な緑色の球体が大量にある一角もある。そして私の目の前やや右には,数十cmはある巨大でこげ茶色になった植物の鞘がぶらさがっている。触らなかったが,かなり固そうな雰囲気である。何かを入れるケースにでもなりそうだ。
それにしても,ものすごく静かな日曜日である。この島の日曜日なんて,こういうものなのだろう。私の住む東京某地区の日曜日は,商店街の中に住んでいることもあってか,とても賑やかで人の行き来も多いから,ものすごく対照的である。さっきから座っている先客の女性も,もちろんおしゃべりなどしないし,別に調子が悪いわけでもないだろうが,ほとんど身体も動かさない。音と言えば,上述のヒーリングのCDから出る幻想的な音楽と,吹き抜ける風の音くらいしかない。湿度はかなりジメジメ状態なのだが,風のおかげでどうしてクーラーは必要ないくらいだ。あるいは風が強いことを感謝しなくてはならないのか。
10分ほどして日替わりカレーが出てきた。本日はポークカレーとのこと。20cm大の陶器に盛られている。中身はポークとにんじんと青菜。ゴハンに赤い粉がかかっているが,多分パプリカであろう。味はかなり辛いがまずまずである。お好みということで,10ml入りのミニサイズのビーカーに赤い液体が入ってついてくるのだが,若い女性は「島とうがらし」と言っていた。入れると辛さが増すそうなのだが,試しにちびっと入れてみると,なるほど汗がどっと吹き出る。でも,明らかにタバスコの味である。なるほど10mlすべては入れられないが,辛いものが好きな人にはいいだろう。
ちなみに,ピクルスはきゅうりが小皿に数個あったのだが,このきゅうり,実家にいたときに母親がよくスーパー買ってきたヤツと同じ味・感触がする。1個1個がゴロゴロしていて,味はちょっぴりすっぱいのである。たしか透明な袋に入っていたと記憶しているが,名前が思い出せない。そして最後,ドリンクが出てきて締めとなる。頼んだのはチャイ。直径5cm×高さ10cmほどの寸胴で青い陶器に入って出てくる。この陶器もまた“コンセプトの一環”だろう。布のコースターなんかをさりげに敷いてくれたのだが,吹き抜けた風に見事すっ飛ばされていた。
せっかくなので,食べ終わってから付近をブラブラしてみる。まず,車を停めた草地の反対側には,まだ建って新しいと思われる3階建ての建物。地図には「多目的集会施設」と書かれていた。そして,その裏になるのか隣になるのか,ガジュマルに覆われて鬱蒼とした場所。地図には何も書かれていなかったが,入口に白い鳥居があり,その奥に幅1m×高さ1.7m程度の祠があったので,間違いなく御嶽であろう。近くには月桃の木らしき下にコンクリートの台が設けられ,供え物がしてあった。地図に書かれていないのが,何とも控えめな沖縄人らしいっちゃらしい。そういえば,スーパーホテルの脇にも同様の体裁の御嶽っぽい場所があったが,名前はやはりなかった。
車に乗り込んで久部良港に入り,停泊中の石垣島とのフェリーを眺めたり,あいかわらず国民宿舎以下っぽい造りの与那国観光ホテルを眺めながら,次に向かうのはいよいよ西崎である……が,その前に,島の南部・比川(ひかわ)地区方面に行く道との分岐点の手前に,地図によれば「テキサスゲート」と書かれた場所がある。道がそこだけ点線で描かれているのだが,なるほどそこを通るとガクガクと音がする。間近で見なかったが,1mほどの幅で格子状の溝になっているようだ。島の至るところにいる馬が,このゲートの外に出られないようにするための工夫であるという。この溝に蹄を取られるのを嫌がるのだそうだ。

さて,西崎の駐車場は車1.5台ほどの幅がある道の突端に位置し,その先は芝生のある公園として整備されている。ちょうどマイクロバスが停まっていたが,公園の中に入ると,20人ほどの団体客がガイドから説明を受けている。私はその脇を抜けて,スロープ状に舗装された坂道と,公園の中にある木の階段のうち,後者を選んで上に上がり,その先にある白い灯台を目指す。
歩くこと数分。日本最西端の場所は,猛烈な向かい風が吹きつけていた。灯台の下に,石で囲われた何気に御嶽っぽいものを発見しつつ,海の向こうを眺めてみる。ここから先に日本の土地は一切ない。あるのははるか遠くに台湾の大地があるのみだ。1段下りたところには「日本国最西端之地」という石碑がある。石垣島と与那国島とは127km離れているそうだが,ここ与那国島から台湾までは125km。わずか2kmの差だが,台湾のほうが近いという地理条件にある。快晴だと台湾が見えるそうだが,この曇天ではわずかにぼんやりとした物体しか……まさか,それが台湾なわけはないか。単なる雲か何かかもしれない。
さて,この場所では10年前の旅行時に思い出深い出来事がある。与那国空港に着いた後,速攻でロビーを抜けて,入口の目の前に停まっていたタクシーに乗車し,一路西崎を目指した。島内にはバスが走っていて,当時で100円という破格だったが,時間に確実性がないのでタクったのだ。そして10分ほど走って西崎の駐車場に着くと,別段「このまま待っていてくれ」とは言っていなかったので,当然タクシーは去って行き,私は私でそのまま1人で西崎を見ることになった。
駐車場にはレンタカーらしき車が置かれていて,記念碑のある辺りに向かうとき,その乗り主と思われる中年男性2人とすれ違った。もちろん,このときはすでに空港まで歩いていくことを覚悟していたので,「とりあえずここが見られればいいや」みたいな気分でいた。そして,西崎からの帰り,手にはガイドブックを持ち,先述のスロープ状に舗装された道を下ってそのまま車で上ってきた道に入った辺りでのことだ。
「君,ガイドブック持っているようだったら,案内して
くれるかな?」
声をかけてきたのは,上述のすれ違った男性2人だった。普段は,人見知りする性格なので,他人を思いっきり警戒する私である。ましてや,このころは「沖縄にはもう二度と来ることはないだろう」と思っていたし,「沖縄の人間だから……」という“気持ち”もあったことを正直に話しておく。
例えば,那覇に船で上陸したときも,声をかけてくるタクシーの運ちゃんの“波”を振り切って,近くのバス停からバスで市内に向かったくらいだ。そもそも,タクシーに関してもこういうヒッチハイクに関しても,場所柄にかかわらず,自分で乗ろうという意思がない限り,誘いには絶対乗らないクチである。しかし,このときはまた,お世辞にも空港までは近いとは言えない距離があることは分かっていた。この後,歩いて行ったところでどういうことになるかも分からない。なので,このときばかりは“渡りに船”と思い,彼らを信用して車に乗せてもらい,3人でしばしドライブすることになったのである。
この2人,残念ながらその後にもらったお1人の名刺を会社の名刺ホルダーに入れっぱなしなので,社名を思い出せないが,本島の中部辺りにある会社の従業員だと思う。ちょっと小太りの人と,痩せた感じの人,当時で40代半ばくらいに見えた。何でも,出張で与那国に来て,島の中心部である祖納(そない)で仕事があるのだが,それは午後からだという。なので,仕事の時間まで島内で観光をして時間をつぶそうと思っていたようなのだ。そんな中,この私を見つけてどう思ったのか,今では分からないが,島内で撮った写真を何枚かわざわざ送ってくれたりして,このときばかりは私も彼らに感謝の手紙を送ったりもした。
また,車内で何気にタクシーで西崎に来た話をしたのだが,「島に3台しかないらしいよ」とどちらかが話してくれた。そして,彼ら自身も「レンタカーは何とか借りられた」とのことだった。名刺の名前を見る限りでは,間違いなく沖縄の人間のはずだが,彼らもまたこの島にはめったに来ないのだろう……いや,あるいはこういう機会でもない限りは,二度と来ないかもしれない場所だろう。「なんくるないさ」でこの島に来たところ,危うかったわけである。島内にバスが走っている話もしたが,彼らはなぜか笑っていたと記憶する。

――あれから10年。車に再び乗り,ちょうど10年前に私が“ピックアップ”された辺りに来たとき,奇しくも大きいリュックサックを背負った男性が歩いて坂を下ろうとしていた。私はその男性のそばに近づき……そのまま黙って通り過ぎた。まったく,イヤなヤツである。(第5回につづく)

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