沖縄はじっこ旅W

@西港に向かう
早速,右手の生い茂った樹木の下に祠が見えたので,ここにチャリを停める。プリントアウトした地図に書いてある「観音さん」というヤツだ。なるほど,祠の中にチョコレート色の,背丈が60cmほどの小さい観音様が奉られている。1931年,当時北大東島出張所長だった山成不二磨(やまなりふじま?)という人物が奉ったものだとされる。
当時は別の場所にあったのが,沖縄戦時にそこに兵舎ができたために,別の場所にあった洞窟内に安置。そこもしかし,ヤギが放し飼いになって不浄な場所になったため,現在の場所に最終的に落ちついた――と,なかなか“ご苦労”が多かった観音さんだ。失礼ながら,その辺の寺院にあるような観音様よりも小さい感じだが,毎年例祭が行われて農家の人たちが参拝に訪れるというから,その辺の寺院の観音さんよりも,よほど有り難がられているのだ。
で,そのそばには「獣魂碑」と刻まれた石碑がある。こちらは,1933年に南北大東島から東京に向けて,牛90頭と豚100頭が移出された際,海上で大時化に遭って牛が多数死んでしまったため,それを供養するために建てられたものだという。その移出を行った人物である沖山守身(おきやまもりみ,1902-98)氏は,北大東島の歴史,特に後述する土地問題(注・第7回参照)には欠かせない存在であるのだが,石碑を建てたのは地元の農家の人たちだそうだから,さしずめ牛や豚からは相当怨まれるべき存在だったであろう……って,まさか。
ここから引き続き上り坂を行くこと数分,ようやく峠になった。だだっ広くて開放的な光景が広がる。やっとここからチャリに乗ることができるぜ……間もなく左右に大きな道が交差するが,そのまま真っ直ぐ行くことにすると,周囲は畑地となった。植えられているのは,冬瓜かはたまたジャガイモか,根菜のような葉の広がり方をしている。
そして,この辺りから再び建物がちらほらと現われ出す。右手に郵便局と「サロンみなと」というスナックがあった。地図で確認したところ,今まで通ってきたハマユウ荘や村の中枢機関がある集落は「中野」,でもって交差する道から西は,その名も「港」という集落となる。ひとまず,これまたベタな名前の西港(にしこう)まで真っ直ぐ行くことになる。
さて,その西港に行く道は左に大きくカーブする。家らしきものがポツポツ見えたが,とりあえず道なりに進む。すると,地元のガキが5人くらいでチャリで遊んでいる。こちらは白地に緑色で模様が描かれた,いかにもお茶のおまけっぽい手拭いを頭に巻いている。はて,珍しいものがヘンなものを頭に巻いてやって来たぞとばかりに,ジロジロ見られるのかと思ったが,向こうは向こうで自分たちの“ワールド”をしっかり築いていた。ま,私が自意識過剰なだけだろう。
この辺りで路地から奥のほうを見たら,商店っぽい建物が見えた。気になったので,一旦そちらのほうに入っていくことにすると,「浅沼商店」という商店があった。中にプラッと入ると“それなりの品揃え”だった。昼飯を買おうかと思ったが,菓子パンしかなく,まだ時間が早いと思ったこともあるし,飲み物もまだ残っているので,ひやかしただけで引き上げてしまった。店は2棟に跨っていて,もう一つには,飲み物らしきものがたくさん並んでいた。いわゆる「冷やし物」ってヤツか。
この他にもいくつか家らしきものが集中していたが,島で2軒ある宿のうちのもう一方,「民宿二六荘」であろう。なお,浅沼商店も実はオーナーが同じである――こちらは1泊3食つきで4500円。3食というからには当然昼飯もつくのだろう。さぞかしお得である。とにかく安いのがいい人は,こっちに泊まるといいだろう。ただし,どっかのページを見たら「ヤモリつき」とあったが……。ちなみに,もう一つの宿とは言わずもがなだが,ハマユウ荘のことである。
私が店から出ようとしたとき,地元の小学生ぐらいの男の子が「○○のクスリありますか?」などと,気軽に店のオバちゃんに聞いていた。何のクスリかは分からなかったが,こーゆー雰囲気がいかにも地元の商店らしくていい。東京では“薬局”というものがあり,そこでは大抵店員は薬剤師がいて,制服であるかのごとく白衣を着ている。子ども1人ではとても近寄れないだろう。ましてや“何とかキヨシ”とか“何とかドラッグ”なんて広いチェーン店では,迷子になること必至である。ちなみに「あ,そういえば商店でクスリを売っていいんだっけ?」なんてのも,こういう離島では愚問であろう。
さて,路地から元の道に出てきた辺りに展望台らしきものが見えた。「○○と煙は上に昇る」がごとく,私もその展望台に上がる。途中まではものすごい急なスロープ,後は階段を上がると,5〜6m幅くらいのコンクリートのそっけないスペースがある。北側を見ると,ピンク色の屋根が見えたが,あの辺りがさっき寄った浅沼商店&二六荘だろう。南に目をやれば,林などの生い茂った緑の向こう,遠くに南大東島の島影が浮かぶ。そして,西側には紺碧の海がただ広がっていく。
その一角に,私の背丈よりちょっと高い石碑が建っている。元々は木柱であったが,1957年にコンクリート製になったという。ま,それでも建立して47年。潮風にも強烈な雨風にもさらされているから,結構朽ちている。その碑には「開拓主玉置半右衛門君之碑」と刻まれてある。名前の通り,ここ北大東島と南大東島を開拓した八丈島出身の実業家・玉置半右衛門(たまおきはんうえもん,1838-1910,以下「玉置氏」とする)氏を称えるものである。第3回でちらっと紹介したが,島の中心部にある大東神社を建てた「玉置商会」の“玉置”とは彼のことである。なお,村のホームページには「堅忍不抜(どっかで聞いたような……)の精神に学び,その遺徳を偲んで,毎年11月1日には村役場を中心に村民が集まって祈祷祭を行っています」とある。
彼については,ホントはここで触れたいのであるが,その前提として,この島が日本国の領土になったところから始めたい。言わずもがなだが,日本国領土になったからこそ,彼が意思を持って開拓することになったのだから。それにはもう少し後で,ゆかりのある場所に行くことになったので,そこを書くときにまとめて触れたいと思う。ちなみに,玉置氏の“一団”が最初に上陸したのは南大東島のほうであることを最初に書いておこうか。

再び西港に向かうことにすると,今度は「ことひら宮」と書かれた学校の正門みたいな門柱。ジャリ道が奥に続いている。とりあえず入っていくこと50mほど,琉球石灰岩の石垣が囲んだアプローチの前に着く。ここからさらに幅1mもないアプローチを入っていかなくてはならない。とりあえず,この前でチャリを停める。目の前は平屋建ての民家。中から何かを復唱するような父と小学生の娘らしき声が聞こえる。“ドリル”でもやっているのか。ジャリ道と民家の庭先があまりに同化しすぎて,まるで民家の敷地内にチャリで乗り込んだような気分である。
狭いアプローチの両端は,先ほど書いたように琉球石灰岩の石垣となっている。今回の旅で最初に見た石垣である。距離にして20mほど。そこからは階段となるが,遠くから見ると木々が生い茂っていて見えない。樹木はビロウだ。この琉球石灰岩とピロウで,沖縄に来たぞと実感をする。木々に囲まれた階段を数段上がると“一の鳥居”。木を継ぎ合わせたような粗末な鳥居だ。そこは10m四方くらいのスペースとなっている。毎年10月10日にはここで航海安全と大量祈願の例祭があるというから,このスペースにたくさんの人が集まって祈願するのだろう。今は草がボウボウだが,祭りの前にはきっちり刈り取られるはずである。
ここからは二つの階段があって,その上にはいずれも社がある。奥には巨大な松が樹齢を重ねていた。でもって,一方の階段のところには“二の鳥居”らしき,これまた木の粗末な鳥居が建っている。スペースの端には一応,神社につきものの石造りの水洗い場があり,柄杓もちゃんとあったが,中の水は完全に干上がっている。こういうところからも,多分例祭以外の普段の日は,観光客以外の人は訪れないのではないだろうか。
ちなみに「ことひら宮」と書くからには,香川県の金刀比羅宮をまつったものだ。建立されるに至った経緯がこれまたユニークだ――当初,市場を経営し漁師の元締めでもあった菊池幸四郎(きくちこうしろう?)という人物が自宅にまつっていたが,第2次大戦中の,敗戦の色も濃厚となった1944年,北大東島出張所所長に任命された江越道孝(えごしみちたか?)なる人物が,「個人で金刀比羅様をまつるより,こういう絶海の離島であるから,島全体でまつるのが良いではないか」と菊池氏に相談。沖縄守備隊長の協力を得て建立したというのだ。金刀比羅様が“海の神様”とされていることが,まつった直接の理由だとは思うが,個人でまつられてしまうほどの金刀比羅様の存在って,一体……ちなみに,金刀比羅宮のホームページにある“全国の分社”というのを確認したら,ここ北大東村のはなかった……って,当たり前か。
来た道を戻って港方向に行くと,右手にコンクリートの建物。誰もいないだろうと思って入っていくと,セメントを流し込むようなスライダーがくっついていた。小さい看板に「製氷貯水施設」とあった。なるほど,スライダーは氷をトラックの荷台に流し込むためのものか。でもって,隣に建っている何でもないコンクリートの建物は……あ,テレビの声が聞こえてくるし,中に人がいるようだ。後で確認したら,ここは魚市場とのこと。市場というと,イメージとしては早朝にセリが行われるというのがあるが,ここでは正午を過ぎた頃に漁から帰ってきた船が自家用車などに牽引されてここに集まってくる。でもって,水揚げされた魚は漁師たちの手で捌かれて,その日のうちに販売されるそうだ。昨日出た魚料理(前回参照)も,やっぱり捌きたてなのだろう。そう信じておく。冷凍じゃないことを。
さあ,いよいよ西港である。岸壁に近づくと,ものの見事なコバルトブルーをしている。こんなに鮮やかなコバルトブルーを見たのは久しぶり…というか,初めてかもしれない。すぐ数mであっという間に濃い青になってしまうが,その差もまたはっきりしている。遠くには小さい船がいくつも出ている。この付近はいい漁場だというから,釣り舟だろうか。波の音がかなり騒がしいし,波がひっきりなしに打ち寄せるが,風そのものは大してない。船がいるということは,これでも波は穏やかなほうなのだろう。
そして,岸壁の下は……おお,15〜20mくらいはある高さだ。まさしく「断崖絶壁」の四字熟語(?)そのもの。もちろん,港はコンクリートで護岸されているのであるが,まるで木綿豆腐を直角に切った切り口みたいな姿をしている。北のほうを見ても,やはりそのまま断崖が続いている。南北大東島とも,海岸線はこのような高い断崖となっているため,週に1回やってくる定期船は,港に接岸できずに沖に泊めて,そこからクレーンでもって人なり物なりを吊り上げることになる。正直,そんなことってあり得るのかと思ったが,なるほどこの高さは,大型船の高さに匹敵するくらいだろうから,クレーンにせざるを得まい。南大東島では,行った当日にフェリーが入ったものの,タイミングが合わず見られなかっただけに,この島で一度観てみたかったのであるが,残念ながら今回も観られることはなかった(「沖縄・遺産をめぐる旅」第3回参照)。
道は引き続き,左にカーブしてかなり低いところへと続いている。そして,その途中からは新しく取り付けたような階段が崖の上に向かって伸びており,何か棒みたいなものが建っている。見る限りは公園っぽく整備されている感じだ。道の両際に「通行止」とか「徐行」という看板が出ていて,その低い辺りからは工事の音が聞こえるし,たまに大型トラックが砂煙を上げて通り過ぎていく。でも,途中の階段辺りまでは行っても大丈夫だろう。
坂を下って階段の下にチャリを置き,かなり勾配のある階段を上がること30段ほど。そこは新しい整備された公園となっていた。「西地区緑地」という。向こうには遊具があって,親子連れの声が聞こえてくる。そして海側を見下ろすと,何か土台工事でもしている感じだった。あるいは港の整備かもしれない。そして,その脇に数台の自家用車があった。(工事関係者にとっては)このクソ暑い最中工事をしているというのに,そばでは釣り糸を垂れる地元民が数組いる。とても対照的な光景である。まあ,今日みたいな晴れて穏やかな日は,釣り糸を垂れて1日を過ごすのがいいだろう。そして,日曜日にもかかわらず工事をしている関係者の方々,ご苦労様です。
さて,階段を上がってすぐのところに,新しい角材でもって「国標」と書かれている木柱がある。厳粛なものであることを示すように,しっかりと木の手すりで囲まれていて,下は玉砂利である。ちなみに,北大東村のホームページでは,
東側…沖縄県管轄北大東島距本廰大凡百三里沖縄県
西側…東西凡一里半南北凡四里 明治18年8月31日建立
南側…再建昭和12年2月11日
北側…奉命実地踏査者 沖縄県五等属石澤兵吾他5名
と書かれており,見たところコンクリート製だったが,ということは,もう1回再建したのであろう。なお,南側の「再建〜」と書かれてあるのは1度目の再建ということになる。当初は木柱だったそうだが,腐ってしまったための再建だったそうだ。ま,昭和12年=1937年だから,いくらコンクリートでも60年以上とか経てば腐食してしまうだろうから,再度建て直したってところだろう。

A沖縄本島より百三里・40フィートの絶壁
この南北大東島が最初に発見されたのは,1543年のこと。“デ・ラ・トーレ”というスペイン人だそうだ。そして,1595年発行『東洋航海記』には,琉球が「レキオ・グランデ」,南北大東島が「ラス・ド・ヘルマナス」,そして,大東諸島を形成するもう一つの島・沖大東島は,「マロスブリガ」と示されることになった。なお,その沖大東島は,17世紀後半から19世紀前半のヨーロッパの地図に「アムステルダム」や「ラサ島」という呼び名で紹介されたそうだ。
さらには1820年,ロシアの艦船「ボロジノ号」がこれら大東諸島を発見。船の名にちなみ「ボロジノ諸島」と命名。1853年,あの“黒船”ペリーが小笠原諸島調査の帰り,この「ボロジノ諸島」を確認し,位置を測定。当時の報告書には「サンゴからなる島で,最も高いところは海抜40フィート(メートル換算だと,12mちょっと。遠くから見たからではないか)であった。大きな樹木に覆われていることから,かなり古い島らしい。島の周囲の海岸には,安全な停泊場所となるような湾は見当たらなかった。人影も発見されないので,無人島と推察される」と記されていたようだ――なお,余談だが大東諸島は今から4800年前,いまのパプア・ニューギニアあたりに誕生したらしく,これがフィリピン海プレートに乗っかって,いまの位置まで北上を続けたとされている。
話を戻して,このように大東諸島は,現在の日本よりも沖縄よりも先に,欧米諸国に発見されていたのだ。「外国人に発見された」というのが,いかにも大東諸島の歴史らしいエピソードではないか。ま,最初に発見された年である1543年というと,日本の本土は戦国時代の最中だ。有名どころでは,種子島に鉄砲が伝来された年でもある(ああ,久しぶりに日本史の勉強だ)。日本総国民,食うや食われぬ,明日の命もどうなるか分からない時代だ。混乱の最中,間違いなくこの孤島なんか眼中になかったであろうことは,想像に難くない。その後の日本は,江戸時代になってから「鎖国制度」を取った。これもまた,大東諸島がさらに200年以上,縁遠くなった要因と言えるだろう。
一方,16世紀半ばの沖縄はというと,第2尚氏の琉球王国時代。まだ島津藩からの侵略を受ける前の話だ。当時の琉球王国は,中国の“冊封”と呼ばれる後ろ盾があったこと,一方で地理的には日本と東南アジア諸国との中間地点にあったことなどから,“大交易時代”として繁栄していた。いろいろと入ってくる物資や原料を加工するなり何なりして,中国・朝鮮・日本など関係諸国に売りさばいて大儲けしていたのだ。また,この頃の有名なエピソードとしては,タイ(シャム)からタイ米が持ち込まれ,それを原料にした沖縄を代表するアルコール・泡盛が生まれたというのもあったりする。
とはいえ,いつごろからか定かではないが,琉球ではすでにこの大東諸島の存在は知られていて,その位置から「遥かなこと」を意味する“うふ”(英語の“Great”あたりの意味か)と,「東」を意味する“あがり”で,「うふあがり島」と呼ばれていたそうだ。ハマユウ荘(前回参照)や,この旅行記でも使っている“うふあがり”とは,ここから来ているのだ。
そんなことはともかく(だったら書くなよ…),南に位置するアジア諸国には利益も絡むから関心があったとしても,国標にも書かれてある「百三里=412km」も東にある遥か遠い島の無人島のことは,まったく気にも留めていなかったのではないか。せいぜい,そのアジア諸国に出かけた帰りに「あ,そういやそんな島を見たさー」「あの島,誰も人がいないさー」という印象を持ったぐらいではないのか。
――そんな縁遠かったはずの大東諸島が注目されるようになったのは,19世紀の後半になってからだ。日本は明治時代となって,徐々に世界の中で頭角を表し始めたころである。そして,琉球王国はといえば「日本国・沖縄県」となっていたころだ。当時,この無人島の領土権をめぐっては,中国(清)と対立していた。そこで日本国として自国の領土に組み入れるべく,1885年8月28日,時の沖縄県令(後の「県知事」)・西村捨三(にしむらすてぞう,1843-1908)氏が当時の内務省の内命を受け,石澤兵吾(いしざわへいご?)氏ほか5人を現地へ派遣。実地調査に当たらせたのである。
これが,日本国兼沖縄県として初めての正式な“大東諸島上陸”である。もっとも,このときも上陸には一苦労。調査報告書には,断崖絶壁で船を寄せることができず,やむを得ず進路を南にとって,島を一回りしてしばらく,その北岸で上陸したそうだ。おそらくは西側から上陸しようとして,それが叶わなかったため,反時計周りで島をほぼ1周することになったのだろう。
そして,絶壁をやっとのことでよじ登ってみれば,草木が鬱蒼としていて,所々に岩石が切り立っているのが見えたほかは,土もどこにあるか見ることができないほどだった。内部に入れば,クバの木で覆われ、藪の中は昼になっても暗く,もとより人跡がないから小道すらもなかったという。
それでも派遣から3日後の同年8月31日,調査を終えた一行は無事に国標を建てることができた。そして,日本国としても両島を「大東諸島」と公称して,日本の領土であることをはっきりさせることができたのである――これが「日本国沖縄県に属する」大東諸島誕生のいきさつである。すなわち,日本国(および沖縄県)としての最初の大東諸島上陸は,北大東島であったということになる(はずな)のだ。当然だが,この国標とやら南大東島にはなかった。
さて,大東諸島は晴れて日本国沖縄県に属することになった。さらには,実地調査が繰り返された結果,島の中は平坦で土壌が肥沃であることが分かった。そこで,大東諸島の開拓に期待が高まり,沖縄県内から数人の開拓希望者が出てきたが,そのたびに“百三里”の距離と“40フィート”の断崖が,彼らの上陸を阻んでいた。“ウフアガリジマ”は結局,ウフアガリで手の施しようがない島のままで終わってしまうのか……。

その開拓…いや,それ以前に上陸がかなったのが,19世紀最後の年である1900年。日本のあらゆる土地が有するであろう歴史の長さから想定すれば,わずか105年前のことだと言えよう。そして,気がつけば,スペイン人のデ・ラ・トーレの発見から350年以上も経っていた。その人物こそが玉置氏なのである。ここから玉置氏の紹介がしばらく長くなるが,ご辛抱いただきたい。
玉置氏は,郷里の八丈島で回漕業を成功させているとき,当時の東京府に許可をもらい,小さい頃からとある縁があって興味を抱いていた,無人島の鳥島(とりしま。八丈島と小笠原諸島の間にある)に上陸する。1887年のことだ。たまたま南方に探検船が出ることになったため,それに便乗。帰りもその船に迎えに来てもらう約束まで取り付けたというから,大したバイタリティの持ち主である。
早速,数人の仲間とともに調査開始。当初は6日間の滞在予定だったが,何と約束したはずの船が,鳥島に寄らなかったのだ。このアクシデントのため,44日間の滞在を余儀なくされるが,そこは並々ならぬバイタリティでもって,自身で井戸などを掘って水源を発見することに成功している。まさしく“ケガの功名”かもしれない。そして改めて東京府に「鳥島拝借願い」を提出。何とタダで10年間の貸借期間をもらい,1889年に正式に移住することとなる。そして,この鳥島に生息していたアホウドリの羽毛で羽毛布団を作り,その骨粉・糞土で肥料を作った。これを売るために「玉置商会」という会社を設立し,10年の貸借期間でもって,莫大な富を手に入れることに成功した。
ところがその代償は,島に100万羽以上いたとされるアホウドリの絶滅,さらには自腹を切って鳥島に住まわせ面倒をみてきた同じ郷里の労働者(およびその家族)を,1902年に突然の火山爆発で全員亡くすという悲劇であった。まず前者に関しては,莫大な富を得ているにもかかわらずタダで島を貸していることを,東京府もどっかで後悔していたのだろう。貸借期間が切れる頃,府の職員を派遣させて調査したそのときには,アホウドリはすでにかなりの数激減していた。当然,府としては乱獲中止の警告を出す。とはいえ,その警告は「このまま玉置氏を放っておくわけにはいかない」という思惑があったことは想像に難くない。にもかかわらず,アホウドリを絶滅をさせてしまったことで,さすがの玉置氏も,鳥島での“サクセスストーリー”にピリオドを打つ方向に追い込まれることになる。
そして後者については,実は口約束ながら,15年鳥島で開拓事業に従事したあかつきには,開墾した土地を労働者各自のものにすることにしていた。当然ながら鳥島での生活は,玉置氏が面倒を見るといっても,これまた想像がつきそうな「過酷な労働に安い賃金」である。いまさら八丈島にも戻れない……それでも,労働者が我慢して働いた結果が「自然の猛威の犠牲」とはあまりに残酷である。にもかかわらず,その翌年に玉置氏は別の労働者を鳥島に送り込んだのである。これを「残酷だ」とか「意地汚い」と非難すべきか,「大した商魂だ」と感嘆すべきかは意見が分かれるだろう。
しかし,こういうバイタリティある人物は,まるで自分を中心に世界を回す強運を持ち合わせているのだろう。実は鳥島の開拓に行き詰まる数年前,これまた“たまたま乗り込んだ”遠洋漁業の漁場探しの船で,フィリピンなどに赴いた帰り,遠方に浮かぶ断崖絶壁の二つの島を見つけていた。そう,それこそが大東諸島なのだ。まったく,おあつらえ向きとも言うべき出来事ではなかろうか。
天賦とも言える商売感覚,莫大な財産,鳥島での開拓経験――そうとなれば,こういう人物は素早く行動に出る。1899年10月,玉置氏は沖縄県に「南北大東島拝借願い」を提出し,貸借期間30年の許可を見事にゲットすることに成功したのだ。まるでこれ,前の恋人から次の恋人に乗り換えるのに,恋人がいないという“空白期間”ができるのがイヤだから,多少なりとも“二股”にする期間を作るかのようである。でも,それも才覚のうちなのだろうか。
さあ,同年11月23日,いよいよ大東諸島へ出発……しかし,このとき玉置氏はすでに還暦を超え,その顔(写真)は伊藤博文のようになっていた(って,顔はどーでもいいか)。なので,自身は船に乗り込まず,玉置氏所有の「第一回洋丸」船長の小島岩松(こじまいわまつ)氏らにすべてを託した。小島氏ら23名は「八丈島→鳥島(開拓経験者をピックアップするため)→油津(宮崎県)→鹿児島→伊江島(給水)→那覇(12/22着。1週間停泊)→慶良間諸島(年越し)→馬天(沖縄本島・佐敷町)→南大東島」というルートで,見事に南大東島に辿りついた。そのとき,1900年1月23日。気がつけば八丈島を出てから丸2カ月,61日も経過していた。
しかしながら,想像に難くないが上記の行程も実に厳しいものだった。油津に着いたのは時化で9日間漂流した結果だった。鹿児島港入港も時化の中をくぐり抜けてのこと。彼らがどこまで意識したかは分からないが,19世紀最後の大晦日は慶良間諸島で鹿汁と泡盛で迎えた。そして,20世紀になって2日目の1月2日に,慶良間から一気に南大東島へ…・と行きたかったが,またも荒天で馬天で足止めをくらった。しかも2度も。それでもあきらめずに東進。それから3週間後の「島が見えたぞ」――声が聞こえたのは紺碧の海の上に朝焼けが出始めたころだ。とはいえ,もちろん目の前に迫るのは絶壁である。いまの西港(南大東島のである。念のため→「沖縄・遺産をめぐる旅」第3回第4回参照)からの上陸を果たしたときには夕方となっていた。
当然だが,上陸してすべてが終わったわけではない。むしろ,上陸してからこそが“本番”である。61日間の厳しい航海は単なるプロローグに過ぎないのだ。恐怖心と葛藤しながら,原生林の中で道を切り開き,テントを張る。極度の疲労に達した身体に襲いかかる無数の薮蚊。加えて,突然の天候急変による暴風雨にさらされた。水などないから入浴は海水浴で済ませる。そして,家屋を次々と建設し,土地を開墾して作物を植える。いよいよ飲料水が尽きかけたころ,仲間の1人が淡水湖を見つけ歓喜の声が上がった――こんなエピソードで始まった大東諸島開拓の第一歩。しかし,北大東島への上陸は,それから3年後の1903年。本格的な上陸となると1910年まで待たなくてはならない。
すなわち,北大東島についてはまだ開拓して1世紀経っていない計算となるわけだ。ちなみに,北大東島で最初に上陸したのは,ここ西港から1kmほど南下した辺りだ。そこは「上陸公園」として,ちょっとした広場となっている。「開拓百周年記念碑」なんてのもあった。ちょうど,その付近だけ入江になっていて,木が階段のように置かれた急勾配のスロープを下りていくと,潮溜まりのようになっていた。岩場には激しく波が打ち寄せている。小船はここに何とか着岸できそうだが,大型船はとても着岸できそうもないほど狭い場所である――北大東島の話なのに鳥島や南大東島のことにさんざん触れといて何だが,この後の北大東島での開拓話については,次回改めて触れたいと思う。

ところで,ここ北大東島に行く直前だったか。とある小島をめぐって,100年前と同様に中国と日本が対立していた。排他的経済水域とかいうヤツだったか。はたまた「“島”ではなく“岩”じゃないか」なんてのもあったか。その島とは沖ノ鳥島である。東京都・石原慎太郎都知事が,遠路はるばる船を乗り継いで,護岸されたその岩…もとい小島に乗りつけていた。日の丸を掲げ,いわば国標とも言える三角点「沖ノ鳥島日本国」と書かれた石碑にキスをし,周囲の海域をシュノーケリングして「活動」をしていた都知事の姿が印象的だった。
また,これは昨年だったか。大東諸島の調査とメンバーも同じ,時期は大東島調査の前後であるが,かつて日本国が調査派遣を行って自国の土地と宣言していた尖閣諸島をめぐって,これまた中国と領有権で対立をしていたことは記憶に新しい。そして,歴史認識をめぐって起こった最近中国での反日デモ(「管理人のひとりごと」Part42Part43参照),はたまた靖国神社参拝をめぐっての対立…と,日中間の対立についてニュースでは話題に事欠かない今日この頃となっている。
うーん,日本と中国でどちらの言い分が正しいかということはともかくとして,日本と中国は,どうやらお互いに対立するためにでき上がった国同士なのかもしれない。「日出づる国から日没する国へ」とかいうメッセージで始まった聖徳太子時代の外交,モンゴル民族による支配だったとはいえ,鎌倉時代には中国(元)が九州を襲う「元寇」があった。いずれも,元々は中国への冊封下になることや朝貢することをはねつけてのことである。豊臣時代に朝鮮出兵をめぐって対立したこともあった。その後も,日清戦争だの太平洋戦争だのと,事あるごとに日中間は対立する歴史を紡いできている。
その一方で,仏教文化が入ってきたり,鎖国下で貿易を続けたり,“華僑”なんて人たちが日本で活躍したり,一番の影響力が中華料理だったり,日本の企業が中国に進出したり……と,たとえ自国流にアレンジをしているとしても,日本が中国の影響をかなり受けていることも,また事実である。それでも,これからも中国とはさまざまな事象で対立を続けていくことになるのだろうと,勝手に想像してしまうのだ。そういう運命の下にあるのかもしれない,と。まあ,さしずめ中国との関係においては「仲良くケンカしろ」っていうことなんだろうか。(第6回につづく) 

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