神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター 中国のホットニュース 2007年
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2008年

中国のHotNews(2007年1月〜)

 

2007年11月号

 

【 中国の民間療法 】


 
 数日前、白い乗用車が我が家の前に止まり、中から出てきた中年の女性がリンゴ一箱とたばこ2カートンを置いて行きました。夫の父に訳を聞くと、「なにね、私のあの『秘方(ミーファン)』を伝授してやったのでね・・・。」ということでした。その女性は近所の鉄工所の社長夫人で、ご主人の肝臓病が悪化して腹水がたまり、病院で治療してもなかなか治らず困っていたので、義父が『秘方』を伝授し、社長さんがその通り実行したところ、すっかり腹水が抜けて、元気を取り戻したのだそうです。
 その『秘方』というのは、まだ成長途上にある小さい冬瓜(トンクワ)を丸ごと、水で湿らせた紙で何重にもくるんでさらにその外側をわらの混じった泥で固めて密封し2時間ほど弱火であぶり、すっかり中身が煮えた頃に泥を割って冬瓜を取り出し丸ごと食べる、それを毎日1個づつ、1〜2ヶ月間続けるというものです。その『秘方』を伝授された社長さんの奥さんは、近所の農家から小さい冬瓜を分けてもらい、40日間毎日それをやり抜きました。社長さんも大人しくそれを毎日食べ続けたところ、腹水がだんだん収まり、穿けなくなっていたズボンも穿けるようになり、疲労感もすっかりなくなって元気を取り戻し、とても喜んでいるそうです。
  

 

小さい冬瓜

 

 今から約40年前、義父は肝臓に悪性腫瘍ができ、西洋医学の病院であと半年の命だと宣告されたことがあります。当時義父の職場では、新中国の建設に必要な若い人材だから何としても義父の命を救いたいと考え、ある漢方医学(中国医学)の名医を探し出し治療を命じたのだそうです。その頃は文化大革命の最中で、伝統的な漢方医学は否定されましたから、その名医は既に相当の年配でしたが、労働による思想改造と称して毎日トイレ掃除をさせられていたところを呼び出されて義父を診察しました。その結果、この方法しかないと言って伝授してくれたのが、その名医の家に代々伝わるこの『秘方』でした。義母が言われた通り毎日小さい冬瓜をあぶって義父に食べさせるのを2ヶ月ほど続け、元気を取り戻してから、病院で検査したところ、悪性腫瘍がすっかりなくなっていたので、担当した西洋医学の医師がどうしても信じられないと言ったそうです。


 私の夫が1〜2歳で歩き始めたばかりの頃、近所のおばさんの家でふとした拍子に熱湯を浴び首から胸にかけて大火傷を負ったことがありました。病院で治療を受けましたが効果がなく、皮膚がただれて化膿し義父も義母もおろおろするばかりだったところ、やはり近所に住む、ある漢方医が『秘方』を教えてくれたそうです。それは、石灰を水で溶くと反応してぶくぶく泡が出ますが、それがすっかり収まって冷めてから上澄み液を別の器に取り、そこへごま油を少量加えてかき混ぜ、粘りが出てくれば出来上がりで、柔らかい鳥の羽毛を使ってそれを患部に塗るというものでした。これは即効性があり、言われた通りにして塗り始めるとすぐに化膿していた患部が乾き始め、炎症も徐々に消え、2〜3日でほとんど治りその後カサブタが取れて完治したのだそうです。夫はもう50歳を過ぎましたが、今でも首と胸にその跡がはっきり残っていて、かなりひどい火傷だったらしいことがうかがえます。
 前に住んでいた団地の隣人―ワンさんは70歳を過ぎた女性ですが、彼女にも先祖代々受け継いだ『秘方』があります。それは虚弱体質で食が細く発育の遅い乳幼児に対し、針と薬草を煎じた飲み薬を使って元気にするというもので、その団地の中で小さい時にこのワンさんの「治療」を受けたお陰で食欲が出て元気になり今は無事に中学生や高校生に成長している子が6〜7人はいると聞きました。
    

 

 もっとも、こうした不思議な民間療法についてどう思うか、その恩恵を受けて育った張本人の夫に尋ねたところ「そういう話には関わらないことにしている。」とのことでした。つまり科学的な根拠がないので、そういう民間療法に頼るより西洋医学の病院できちんと診療を受けた方が確かだと考えているようで、これは大部分の中国人の常識でもあるようです。先祖代々の『秘方』を受け継ぐワンさんにしても、その息子や娘は『秘方』に反対し誰も跡継ぎがいないと聞きました。 
 中国でも病気になればまずは西洋医学の病院に行くのが普通で、病院に行けば今では日本の病院とほとんど変わらない条件で医療が受けられ、特に上海のような都市部では、分野によっては日本よりレベルの高い治療が行われている病院もあるそうです。事実私の知人の中にも乳がん、皮膚がん、すい臓がん等と診断され、手術を受けたり放射線治療を受けたりして、その後もう何年も普通の家庭生活を続けている人たちが何人かいます。


 一方、メイさんという30歳代の女性は、高熱が出て近くの病院へ行き4日間にわたる点滴を受けましたが熱が一向に下がらないので、思い切って漢方医学の病院へ行ってみました。そこで病状に合わせて処方してもらった漢方の飲み薬と浣腸によって、メイさんの熱は徐々に下がり2日後には完治したという話も聞きました。
つまり漢方医学の本場である中国でも、病気になった時の対処の仕方は日本とあまり変わらないようです。西洋医学の病院のほかに、大きな漢方医学専門の病院が各地にある点は日本より恵まれているように思いますが、実際に病気にかかった時に、針灸や指圧、気功などの本格的な治療を受けている人は案外少ないそうです。
 義父がもう1つ『秘方』を知っていると言いました。それは痴呆症に効く薬で、作り方は簡単、蟻(大小を問わない)をたくさん捕まえてきてスープにして飲むとよいということでした。「これは効果てきめんだよ。だけどくれぐれも頼んでおくけど、私がボケてもこれだけは飲ませんでくれよ。」義父はけっこう神経がデリケートで虫が苦手らしいのです。
 
  

 

 

市場の冬瓜

 

2007年10月号

 

【 中国上海の結婚事情 】


 昨日友人の息子さんの婚礼に参加してきました。錦江飯店という上海の代表的なオールドホテルの宴会場を一つ借り切って、最近流行している新式で行われましたから、上海の一般家庭としてはハイクラスの婚礼だと言えるそうです。伝統的な婚礼ですと、花婿側と花嫁側の双方でそれぞれ最低3日間は祝宴が続くそうですが、新式の場合は日本の結婚披露宴と大体同じように思われました。

 日本との明らかな違いと言えば、披露宴の前に神前で誓いをするといった儀式的なものがなく、仲人さんもいないことでしょうか。事前に結婚届を出し、婚礼の席では仲人の代わりに「証婚人(結婚立会人)」といわれる人が新郎新婦について、いつどこで結婚届を出し正式に結婚が成立したかを報告します。もし日本のように結婚式を挙げて、披露宴を済ませてから届を出しに行ったりすると笑いものになるといいますから、届け出て役所から結婚証明書を出してもらうことが儀式の代わりになっているようです。そのほかの違いとしては、スピーチや挨拶が少なく、厳粛さや緊張感も全然なく、終始ざわざわとにぎやかな話し声が飛び交っていることでしょうか。司会者がいるのは日本と同じですが、日本のような仲人の長い挨拶はなく、新郎新婦の経歴紹介や両家の紹介などもありません。「証婚人」による1分間ほどの報告と、途中で新郎のお父さんの挨拶、後半で新郎自身の挨拶がそれぞれ2〜3分ほど簡単にあっただけでした。その他ケーキカットや、指輪の交換、花嫁さんのお色直し、抽選会などがあり、それは日本とほぼ同じです。歌の得意な人が2〜3人お祝いの歌を歌ってくれました。主なお客さんは、日本と同じように家族や親戚、本人たちとその両親の職場の上司や同僚、友人たちですが、人数が日本よりはずっと多く、中華料理の丸テーブルが合計22卓ありましたから、200人以上が出席していたことになります。日本人の私たちが人数の多さに驚いていると、まだ今日の場合は少ない方で、500〜600人ぐらい集まる婚礼も珍しくないということでした。また、招待状に書かれていた開始時間は夕方の5:30からだったのですが、実際に司会者が司会を始めたのは6:30頃から、みんなが帰り始めたのが9:00頃からで、日本のようにきっちり時間が決められているわけではありませんでした。こうやって見てくるとやはり日本の結婚披露宴とはずいぶん違いますね。

     
新郎のお父さんが挨拶

 

 新郎のお父さんが挨拶の中で、自分たちが結婚したのは1980年のことで、まだ計画経済の時代で物がなく、地下室にあった食堂で披露宴をし、残った料理を持って帰って夕食に食べたのと比べると今は大違い・・・と言っていたのが印象に残りました。そう言えばその頃は、上海の母なる河といわれる黄浦江のほとりの外灘(バンド)が夜になるとアベックでいっぱいになっていたことを思い出します。なぜかというと、上海市内では住宅事情が極端に悪く、住む家がないから恋愛して何年待っても結婚できないカップルがたくさんいたからだと聞きました。その時代は、まずほとんどすべての職場が国営で、働いても働かなくても一般市民の月給は30元台とほぼみんな同じ程度で、子どもが多い家庭はその分生活が苦しく、また家は職場が割り当ててくれるものと決まっていて、自分で家を買うといった概念がなく、売りに出される一般の住宅もなかったそうです。したがってなかなか家の割り当てがなくどちらの両親の家も狭いため結婚できないという人達は珍しくありませんでした。

 
1930年代の衣装でお色直し

 

 

 結婚についてもう一つ日本と中国の大きな違いとして、婚礼を執り行い、新居を準備するのは新郎側の両親の責任だということがあります。それは昔から今まで変わっていません。この点は先月ご紹介した中国の農村でも、上海のような都会でもまったく同じです。今回も、昨日の婚礼の費用と、新郎新婦が住む新居の費用一切を私たちの友人である新郎の両親のロンさん夫妻が負担しています。ロンさんが息子夫婦のために準備した新居は3LDKのマンションで、その内装費用や家具類を含め約200万元(約3,000万円)かかったそうです。上に述べた1980年代以前に比べると全く大きな変化ですね。そして昨日の婚礼には少なくとも10万元(約150万円)はかかっているでしょう。相当重い負担ですが、中国人にとって自分の息子の婚礼は一生に一度の大事で、そのためにどれだけの費用をかけ、婚礼にどんな同僚や友人を招いたかは、その人の社会的地位や実力が評価される一つの重要な目安になっているようです。それは中国人が最も重んじると言われている「面子」の問題に関わってくるため、婚礼に誰を招き、席順をどうするか、誰に「証婚人」になってもらうか等々にものすごく気を使い、何ヶ月も前から根回しをすると聞きました。自分の婚礼よりも息子の婚礼の方が重要だと言えるほどだそうです。一緒に昨日の婚礼に出席した上海人の夫によれば、「ロンさんはこれで生涯の大仕事が果たせた。今日の招待客の席順やその他の段取りは非常に周到に考えられていて、充分ロン家の面子が保てた。」ということです。

 息子のために親がどれだけの仕度をしてやれるかが、結婚の条件になるのは農村の結婚事情と同じことで、上海市民の場合は、まず上海市内に新居が準備できていることが、同じ上海出身のお嫁さんをもらう大前提になるそうです。上海人は上海人同士で、それぞれの家庭の条件もほぼ同程度の人同士が結婚するのが一番いいという考えは、親たちはもちろんのこと今の若い世代の人達もまったく変わっていません。今回の新郎のロン君と新婦のチェンさんは、高校時代のクラスメート同士で今年27歳、10年間の恋愛の末に結ばれたとのことでした。もちろんどちらも上海の出身で家庭の条件にもそれほど大きな差はなさそうです。
 中国には「いつ飴を配ってくれるの?」という言い方があり、これは「いつ結婚するの?」という意味になります。結婚したカップルは「喜糖(シータン)」と呼ばれる飴やチョコレートを親戚のほか近所の人や職場の同僚たちに配って結婚したことを知らせる習慣があるためです。日本でいう内祝いのようなものですね。下の写真が今回ロンさんたちからもらった喜糖(シータン)です。この次日本へ一時帰国した折に、ロン君を昔から知っている私の実家の母と妹に上げてロン君が結婚したことを知らせるつもりです。


  

 
喜糖(シータン)

 

2007年9月号

 

【 中国農村の結婚事情 】

 我が家のお手伝いさん―ハオさんには明確な目標があります。それは今年16歳になる息子に4年後お嫁さんをもらうことです。なぜそれが彼女の目標になるかと言えば、一般に中国では息子の婚礼を執り行うことが親の責任だとされているからです。これはハオさんの故郷である河南省の王窪(ワンワル)村でもそうですし、上海のような大都市でも同じです。とにかく子どもが結婚するまでは親が全面的に世話をするのが中国では常識になっています。
 そしてハオさんたちのワンワル村では息子に嫁をもらうための条件も具体的に相場が決まっています。まず4部屋以上ある二階建ての家、四輪車1台(トラクターやトラックでもよく、乗用車ならなおいい)、二輪車2台(オートバイと自転車)、家具一式、家電製品(カラーテレビ、洗濯機、冷蔵庫各1台)、花嫁が日常着る服一式(または現金8,000元=約12万円)、以上は最低限用意すべきものだそうです。もちろんお金に余裕があり用意できる物が多ければ多いほど有利になります。そして花婿本人は20歳程度で(20歳が節目でそれを過ぎるとお嫁さんの来手がなくなる)、背が高くてスマートで、賢そうな顔をしていると、大体いいお嫁さんがもらえることになっています。背が低く太っている場合は致命的な欠点となります。それでハオさんによると、息子さん本人の条件は一応満たしているので、あとは両親が必要な物を揃えてやればよいことになるそうです。ですから目標は非常に明確でそれまでに貯めるべき金額もはっきりしてきます。

 

 今、ハオさんのご主人も広東省へ出稼ぎに行っていて、18歳になるお嬢さんも同じ広東省で働いています。この娘のためにハオさんはそろそろいい相手を見つけてお見合いをさせ、今年中(旧暦の今年中、つまり来年2月の春節まで)になんとか婚約にこぎつけたいと考えているそうです。私たちはもう今の時代、親が結婚相手を決めるなんて封建的過ぎるから、本人に任せておけばいいのにと言っているのですが、本人はまだ頼りないし、相手は同じ村かその近くの村の出身者でなければだめだから、母親である自分がまず見つけてやらなければならないのだとハオさんは主張します。もちろん本人の意志を尊重し、無理強いはせず、本人の気に入る相手が見つかるまでお見合いは何度でもしていいのだそうです。 娘を嫁にやるために用意すべきものは通常、布団を8組以上というだけで、息子に比べると負担はずっと軽く、それ以外に本人がこれまでに貯めたお金はそのまま持たせるので、それで充分だといいます。

住宅の取り壊し作業をする出稼ぎ労働者

 

 それなら負担の軽い娘が一人居れば充分なのではないか、なぜ農村ではみんななんとしても息子を欲しがるのかと言えば、とにかく跡継ぎがいなければ話にならず、息子が一人もいない家は、けんかをしても勝ち目はないし、人から馬鹿にされ、まともに扱われないからだそうです。ハオさんも、先に女の子が生まれた時は、お姑さんの機嫌が悪く、その子も全然可愛がってもらえず、2年後に息子が生まれてからようやく機嫌が直り、ハオさんも嫁として認めてもらえるようになりました。一人っ子政策を実施する中国で、どんなに罰金をとられても息子が生まれるまで子どもを生み続ける人が多いのはそのあたりに理由があるようです。
 それでは、息子や娘が結婚してしまえば、親の役割はそれで終わりであとは楽に暮らせるのかな、と私は思っていました。ところが、ハオさんによると、孫が生まれたらその世話をして、年老いて身体が動けなくなるまで野良仕事もやり続けなければならないのだそうです。今、一人田舎に残るハオさんの息子さんも、そのお祖母さんが世話をしてくれています。ワンワル村では、最近の都会人のように旅行に行く経済的な余裕などなく、大部分の時間はその村の中で過ごし、娯楽と言えば、たまに自由市場が出る日にその場所まで遊びに行くぐらいが普通だといいます。

 

 でも今年、胡錦濤主席が農民年金を設立すると約束したのだから老後はそれで生活できるのではないの、と私が言うと、「それは中央政府が勝手に言っているだけでしょう。私らワンワル村とは関係ない。」と、あっさりした答えが返ってきました。我が家の近所の農村では既に農民年金が全員に支給されているのですが、それは上海の豊かな農村部だけのことで、内陸部の事情は全然異なるのだそうです。
 中国の人口は約13億人、そのうち農民が9億人で、農村の余剰労働力は1億5千万人はいると言われ、そのうちの少なくとも1億2千万人ぐらいは、農村を離れて都会へ出稼ぎに出ているだろうと推計されています。上海でも今の急激な経済成長をその底で支えているのは、数百万人にのぼる出稼ぎの人達です。
 ハオさんの息子さんと娘さんも、故郷で結婚して子どもが生まれた後は、また都会へ出稼ぎに来て、それぞれの息子を結婚させるために資金を貯めることになるのでしょう。このように簡潔明瞭な中国農民の人生はまだ当分繰り返されるものと思われます。


出稼ぎ者が朝食を売る屋台。豆乳、油条(揚げパン)、油餅(お好み焼き)、麺類等なんでもある。公安局が立てた右上の立て札には「屋台厳禁」と書かれている。

 

2007年8月号

 

【 上海の昼食事情 】

 昨日の夕刊で「オフィスビルで上海アーイに料理を頼む」という記事を見ました。アーイ(阿姨)とは、本来は叔母さんという意味で、叔母さんの中でも母親の妹を指すことばです。そして実際に使う時は、自分の本当の叔母さんに対してはもちろん、見知らぬ女性に対しても、近所の女性に対しても、年齢に関係なく親しみを込めて呼びかけることのできる便利なことばです。お手伝いさんのことも、幼稚園の先生のことも「アーイ」と呼びます。この記事の中で紹介されているのは、最近上海の地元のアーイに頼んで、オフィスビルで働く社員のために昼食を作って届けてもらう会社が増えてきたという内容でした。
 

上海の銀座「南京東路(ナンチントンルー)」

 

 「百葉包(パイイエパオ/豆腐皮というしっかりした薄い豆腐で豚肉のミンチと野菜を混ぜたものを包んで煮たもの)」「巻心菜(チュアンシンツァイ/キャベツの炒め物)」「炸猪排(チャツパイ)豚肉の唐揚げ)」「酸辣海帯(スアンラーハイタイ/昆布のピリ辛酢の物)」「菌俣(チュィンクタン/きのこスープ)」・・・これはあるマネジメント会社の人たちが昨日のお昼に食べた献立です。こうした「上海アーイ」の料理は、若いサラリーマンやOLたちからもあっさりしていて中味が充実していると喜ばれています。この会社でマネージャーをするティンさんの話では、「当社の社員は大部分が上海人で、以前は1日10元(約150円)の昼食手当を支給して自由に食事をさせていたところ、会社の近くにあるのはラーメン屋とフライドチキンの店だけで、時にはお腹をこわす人もいるなどして、いつも色々文句が出ていました。そこで近所の家政サービス会社に頼んで地元のアーイに昼食を作ってもらうのを2ヶ月試したところ、評判は上々で、みんな大満足しています。」とのことです。このアーイは毎日昼食後にみんなの意見を聞いて翌日のメニューを作り、それに基づき予算を立てて会社のマネージャーの承認をもらい、翌朝早く市場へ材料を買い出しに行き、週末になると1週間分の費用をまとめて精算します。通常、ご飯とスープはオフィスのキッチンで作りますが、その他の料理はアーイが自分の家で作って、お昼になると運んでくることになっています。彼女たちは大部分が50歳から65歳ぐらいの上海の主婦で、子どもたちが独立し、家にいてもすることがなく、こうやって会社員たちの料理を作ることで人生の「余熱」を発揮できるのだそうです。それにアーイたちは若いサラリーマンやOLたちを自分の家の子どものような気がするとも言っています。

「百葉包」

 

 また、別の会社に昼食を届けているチーアーイは「私たちの間では不文律みたいなのがあり、料理の分量が20人を超えるとみんなやりたがりません。だって需要が多過ぎると家のお鍋では作れないし、もうけの方もなくなるからです。」と言います。チーさんはお昼前に料理を届け、みんなが食べ終わるとその部屋を掃除し、食器類をきれいに洗ってから、次の日のメニューをみんなと相談して決めることにしているそうです。これで毎月の給料は600元(約9,000円)、彼女は「とても充実していて満足しています。」とのこと・・・
 ここまで読んで私は、えっ、待てよ、と思いました。だってそうでしょう。毎週5日間で1ヶ月にだいたい20日間、毎日昼ごはんを作ってですよ、それで手間賃600元で割が合うのでしょうか。上海人である私の家族たちにそう言うと、「これには裏がある。」とのことでした。つまり、20人分ぐらいの食事を作ると自然に夫婦2人分ぐらいの分を取っておいても全然かまわないし、夕食もそれで済まそうと思えば済ませられるから、自分たちの食費もほぼいらなくなるということなのです。ですから600元の手間賃と言っても実際にはその2倍以上の値打ちがあることになります。なるほど。そう言われてみれば、このシステムはまったくうまくできていて、アーイとしては、自分たちも食べるのだからできるだけ新鮮で安くて栄養のバランスもよく美味しいものを作ろうと一生懸命になるに違いなく、また雇う側も最初からそれは充分承知の上なのだそうです。こういうことを上海語では「揩油(カヨウ/油を擦りつける、の意)と言って、「くすねる」とか「不正をはたらく」などという深刻なところまでいかない、誰もが黙認する行為だとされています。例えば、会社の事務用品の中で消しゴムや紙などをちょっともらって帰って私用に使うことも「カヨウ」といい、全然問題ないのだそうで、そういうことでいちいち小言を言う上司がもし居たら、みんなからけちんぼだと馬鹿にされるぐらいなのです。


 話がちょっとそれましたね。元に戻しましょう。会社側にすれば、これまで1人1日10元の食事手当を20人に出していたとすると1ヶ月では、10元×20人×20日=4,000元の出費だったものが、この「アーイ」システムに変えるとアーイの給料600元+食材費3,000元強=4,000元弱となりまだお釣りが来るぐらいだろうと私の家族は見積もっています。しかもこれまでより新鮮で美味しく衛生的にして栄養のバランスも取れているから社員も大喜びというわけでしょう。
 それならどこの会社でもこのシステムを採り入れればみんなが喜んで素晴らしいのではないか、と私は思ったのですが、このシステムに適応できるのは社員が20人以下の規模の会社に限られるということでした。それから外資系企業などでは食事手当が1日30元ほど支給され、実際にはその会社があるビルの食堂だと8元から10元程度で定食が食べられる場合も多いので、毎日20元ぐらいが自分のふところに残るけれど、それを「アーイ」システムに変えられてしまい、食事手当が出なくなると逆に文句が出るだろうともいいます。なるほど。さらに、近所の奥さんにこういうアルバイトのチャンスがあればやってみる?と尋ねたところ600元ぐらいでそんなしんどい、体裁の悪いこと誰がするもんですか、との答えでした。

 さて、日本ではどうでしょう。ボランティア活動の一環としてはなかなかいいのではないでしょうか。私もあと数年経って、もし家の近所に適当な会社があれば、こういうアーイになってみてもいいかな、と思っています。

上海の旧市街区のオフィスビル

 

2007年7月号

 

【 中国の立退き(続) 】

 今日はこのホットニュース5月号でお話しした、大衆村での立退きのその後についてご 報告したいと思います。
 結局、立ち退きに同意すれば、建築面積1uあたり平均4,000元台(6万円台)の立退き補償金が支払われ、この地域の新しいアパートが市場価格の6割から半額程度で分譲されることが明らかになりました。またこのほか立ち退いた人は全員、生涯にわたり、生活手当と医療費補助が受けられ、さらにこれ以外に新しい住居が整って住めるようになるまでの過渡的な住宅費補助として、立ち退いた家の建築面積1uあたり毎月8元が支給されるということです。平均的な農家の面積は300〜400u程度ありますので、1軒につき120万〜160万元(1,800万〜2,400万円)程度の立退き補償金と、家を借りている間は毎月2,400〜3,200元(36,000〜48,000円)の住宅費補助、ならびに生涯にわたり毎月一人当たり数百元(大衆村で農民として働いた年数やその他の条件により異なる)の生活手当が支給されるはずです。したがって立ち退いた人達の生活は一応安泰と言えるでしょう。また例えば70歳以上の高齢者だけの世帯は立退き補償金が平均より2割程度上乗せされ、特別一時金として20万元が余分に支払われるなど、個別の条件に応じた配慮もされているようです。


 

 以上は大まかな内容ですが、立退きになる地区の掲示板に正式な説明文書が貼り出され て詳細が公開され、すでに補償金を手にした人もいますから、今度は一応信頼できる情報のようです。これを聞いた内陸部の農村出身の人は、自分たちなら大喜びですぐにも立ち退くと言っていました。
 もちろんこれらの補償金で元の家と同じ大きさの新しい家はとても買えません。ただこうした農家の場合、立ち退いた家が仮に数年前に新しく建て替えたものだとしても、建て替えにかかった費用はせいぜい20〜30万元(300〜450万円)程度が相場ですから、それに対する補償金として見るとその金額は充分なようにも思えます。中国では土地は国有であり、そこに住んでいた農民所有の土地ではないからです。この国では、日本のように、正式に土地を買い取ってそこに家を建てて住むということはできません。不動産会社が住宅地を開発する場合でも、50年間なり70年間なりの土地使用権を買って家を建てるということになります。ちなみに上海では1戸建住宅もマンションも、買う(厳密に言えば建物の所有権と土地使用権を買う)となると日本並みかそれ以上の価格になりますが、借りる場合は、高級マンションでなく、普通のアパートですと、2LDKが月1,500元〜2,000元程度でも借りられます。


取り壊しが始まった家々

 

 5月号で私は「住民たちの意向を聞いて、1uあたり平均5,000元から6,000元、最高8,500元の補償金が支払われることで、全員折り合いがついた」と申しましたが、これはあちこちで飛び交う「小道消息(シアオタオシアオシ)」と呼ばれる口コミ情報、つまり噂話の一つに過ぎなかったようです。申し訳ございません。
 では、5月号で出てきた、上級部門へ直訴しに行った人達はどうなったでしょうか。結局、地元政府側の条件を承諾できなければ、契約書に署名しなくてもよい、と言われてそれもそうだと帰って来たそうです。このほかに、一人で派出所へ訴えに行き、冷静に話さずに大声で罵り、暴れたりしたため、一晩留置所に留め置かれたという50歳代の女性もいました。
 またある人は、まだ契約書に署名していないのに留守中に家が取り壊され始めていた、と私の夫に言うので、夫は「もし自分なら却って喜ぶくらいだ。それは明らかに違法行為だから、まず警察に通報して合理的な権利を主張し、最終的には裁判所へ訴えるといい。」とアドバイスしたそうです。ところがその後、その家はその人のお父さんの名義になっていて、お父さんが自分の家と同時に息子が住んでいる家の分まで契約書に署名してしまっていたということがわかりました。
 要するに、家々に配布され、公共掲示板に貼り出された、公告や説明文書をきちんと読まないで色々な噂に振り回される人が大騒ぎしているらしいということもだんだんわかってきました。


 

 立退き要請に応じた家から順に取り壊しが始まったのは約1ヶ月前のことです。最初に取り壊された家は、ちょうど私が住む家と川をはさんで向かい合っているのですが、そこのご主人のヘイさんは役場で移転推進業務に携わっているため、自らが率先して立ち退くことにしたようです。以前はよく川に小さなボートを浮かべて魚を捕っていて、私が網でザリガニを捕るのを手伝ってくれたこともあります。家の取り壊しが始まった朝、ヘイさんはわざわざ川のこちら側へやって来て、自分の家が壊されていくのを遠くからじっと見守っていました。
 その後、次々と契約に応じる家が増え、立ち退き計画の対象になっている約1,000戸の農家のうち、この1ヶ月間に立ち退いて行った家はすでに約半数に達しています。その間毎日のように夕方になると、三々五々村の人達が川辺に集まってきて名残を惜しんで話し合う声が聞こえました。今後アパート住まいになるとこうした機会は望めなくなるでしょう。中国の伝統的な農村の共同体がこうしてまた一つ減ることになります。ある人は「蒋介石でさえ追い出されたのだからね・・・」と言っていました。
 中国の農民には太刀打ちできないと私はかねがね思っていましたが、その農民たちを治めている政府はもちろん、さらにそれを上回るというわけでしょう。上級部門へ直訴に行った人達も、今はまだ頑張っているようですが、やがて1軒また1軒と条件を呑んで去って行くことになりそうです。我が大衆村が完全になくなる日が、まもなくやってこようとしています。

 


家が取り壊された跡(左端)

 

2007年6月号

 

【 「高考」 】

 「高考」とはどういう意味か、中国語になじみのない人にはクイズのようなものでしょうか。「高考(カオカオ)」とは「高等院校入学考試」を2文字に省略したもので、つまり大学入試のことです。「中考(ツンカオ)」は高校入試を指します。中国では9月が新学期ですから、6月中ごろまでが入試のシーズンで、ちょうど今頃は入試が終わったばかり、受験生がいる家庭はホッと一息というところでしょう。

      

中国の大学(1970年代)

 

 今年は中国の大学入試復活30周年にあたります。中国では1966年から1976年までの文化大革命(中国全土を巻き込み、政治、経済、社会、思想、文化、市民生活等あらゆる分野に及んだ改革運動ですが、実態は内乱状態に近かったと言われています)の間、10年間にわたり正常な学校教育というものがほとんど行われず、大学入試も中止されていました。1977年5月になってから、それまで政治闘争の中で失脚を繰り返し3度目の復活を果たしたばかりのケ小平さんが「知識を尊重し、人材を尊重する」と言って大学入試復活をほのめかしてから、激しい論争を経て、ついにその年の暮れに大学入試再開が実現したのです。
 復活後初めて1977年の大学入試には中国全土で下は13歳から上は37歳まで570万人の受験生が挑戦し、そのうちで合格したのは27万人、合格率はわずか4.7%でした。これら「77級」と呼ばれる幸運な27万人の大学生たちは、ある老教授が「私の生涯で77級の学生たちほどよく勉強した学生は他に見たことがない」と言われたように、中国の失われた10年間を取り戻し、国の復興に役立ちたいと懸命に勉強したそうです。今と違って大学生はそれだけで貴重な人材でしたから、卒業後の就職先も保証されていました。

    


中国の大学(現在)

 

その後、大学募集定員は毎年増え続け、特に最近は1998年108万人、2002年275万人と急激に増加し、今年2007年は募集定員570万人に対し、ついに1,000万人を超える受験生が入試に挑みました。全体の合格率で見ると、30年前の4.7%から2006年度は56.85%にまで上昇し、大学生と言ってもまったく珍しい存在ではなくなっています。
 今年の受験に関する話題をちょっとのぞいてみましょう。
 まず上海では市内の五大タクシー会社が、大学統一入学試験の行われた6月6日〜8日の3日間に合計延べ5万台のタクシーを動員し、受験生とその父兄のために専門の送迎サービスを提供し、事故が1件もなく安全に、予約された時間通りに務めを果たしました。今年から試験開始後15分以上遅刻すると試験場に入ることが禁止になったため、タクシー利用者が特に増えたと言われています。これらタクシーの予約がなかなか取れず、多くの受験生の親たちは、試験の前日ほとんど徹夜で予約の電話をかけ続けたと聞きました。

 

 新しいビジネスチャンスも生まれています。「高考保姆(カオカオパオム/受験対応家政婦)」とは、大学受験の数ヶ月前になると、特に受験生専門に世話をするお手伝いさんを雇う家庭が出てきました。ある家政婦派遣会社では「高考保姆」についての問合せの電話が1日平均10数件はあったそうです。そして受験が終わった後は、「陪玩保姆(ペイワンパオム/遊び相手役家政婦)」の問合せが増えてきます。長い間受験で苦労した子どもをねぎらうために家族旅行をしたいけれど、その暇がない親がお手伝いさに頼んで子どもを旅行に連れて行ってもらうというものです。本人は自分たちで旅行したいと言うのに対し、ほぼ全員が一人っ子ですから、親としては心配でたまらず、急遽家政婦派遣会社に旅行の付き添いのためのお手伝いさんを頼んでくる親がここ数日増えています。何と言っても受験生はもう18歳ですから、それに対して、断固自分たちだけで行くと主張する子もいれば、飛行機で遠くへ長期旅行させてくれるならお手伝いさん同伴でもいいと条件をつける子など、反応は色々のようです。



 

 上海っ子のルー君(26歳)とリンさん(24歳)に、こういう状況についてどう思うかと聞いたところ、次のように話してくれました。「今中国はものすごく発展し、大金持ちも結構出てきています。私たちの受験時代と比べても一般市民の生活はかなり裕福になりました。もともと視野があまり広くない人が一旦お金を手にすると、自分のことよりもまず子どものことを考えるだろうと思います。こうした親たちの気持ちはよくわかります。心配するのはわかるけど、ずっと10歳ぐらいの子どもと同じように扱うのは、やり過ぎでしょう。心配を抱えつつも適度な行動の自由を与えた方がいいと思います。お手伝いさんを付き添わせて監督させるのは逆効果になるでしょう。外国人はたいてい子どもが18歳になったら自立させようと考えますね。中国の子どもが甘やかされて育っているのは中国人としてちょっと恥ずかしいです。これまで家の中の皇帝みたいに生活してきて、いきなり自分たちだけで旅行したいと言っても、両親に反対されるのは当然でしょう。車を運転したこともないのに、急に運転すると言い出すのと同じことだと思います。自分が親だったら、やはり反対しますよ。でも18歳ぐらいになれば、ある程度自立させて、壁にぶつかったら自分で対応策を見つけ出す経験ができるようにしてやりたいですね……。」
中国の若者がこんな風に常識的に考えているのなら、一応安心できますね。

 

 

2007年5月号

 

【 中国の立退き 】

 経済発展の途上にある中国では、各地で大規模な土地開発が行われています。当然その土地に住んでいた人達やそこにあった建物は立退きを迫られるわけです。先日も広東省の農村部で地元政府の土地開発を巡って住民が反発し、村の元幹部の自宅を襲ったり、幹部を政府建物に閉じこめたりしたという香港メディアからの情報が日本でも報道されていました。
 上海市の統計によると上海で2006年度中にもとの住居を立退きになった市民の家は76,900戸にのぼりました(大まかに言って上海の人口は1,900万人強、そのうち約70%が上海市に戸籍がある人、残りの30%は他の地方からの流動人口だと言われています)。

 

立退き間近の家々

立退き間近の家々


 

 私が住んでいる場所も上海郊外の農村部で大衆村というところです。ここでは1990年代の終わり頃から大規模な開発が進みハイテク基地が建設され、それに伴う各種の生活施設やその他のインフラがどんどん整備されています。4年ほど前に我が家の川向こうにある数軒の農家が一斉に家の建て替えを始めたことがありました。事情を聞いてみると、このあたりの家がまもなく立退きになるらしいという情報が入ったからだというのです。立退きになるのになぜまたこれから家を建て替えるのでしょうか。さらに理由を聞いてみるとそれまで立退きの補償金は「按人頭算(アンレントウスワン/人の頭数に応じて計算する)」だったのが、今後は「按磚頭算(アンツアントウスワン/レンガの数に応じて計算する)」へと政策が変わるからだということでした。つまりそれまでの立ち退き補償金は一人当たりいくらと決まっていたものが、1uあたりいくらかへと変わり、レンガの数つまり家の建築面積により計算されることになったというのです。
こうして4年ほどたった最近、いよいよ川向こうのその地区の家々が立ち退くことになりました。ここ数ヶ月間をかけて地元の役所が何回もヒアリングを行い、住民たちの意向を聞いて、1uあたり平均5,000元から6,000元、最高8,500元の補償金が支払われることで、全員折り合いがついたという話を聞きました。このあたりの農家はたいてい1軒で300〜400uほどの建築面積があるので1戸あたり150万元から240万元程度の補償金が手に入る計算になります(1元は約15円)。ちなみに上海のサラリーマンの平均月収は2,000元台です。
 中国の農村では昔からその土地に住み着いて代々農業をやっている家が大部分で、一つの村はみんなが知り合いという地縁血縁でつながった共同体であるのが普通です。そして村長や村の共産党委員会書記もその共同体の一員であることが多く、そういう村では大きなトラブルが起きることはあまりありません。したがって立退きになるにしても、何年も前から情報が広まり、村民たちの反応を確かめながら徐々に具体策が固まってくるようになっています。もちろんそれぞれの村民は内心不満ややっかみを持っている場合も多いのでしょうが、少なくとも表面的にはそのようにして丸く収まるのが普通です。

 

 ですから冒頭に挙げたようなニュースを聞いて私は、そこの幹部たちはよほどひどい汚職をしていたか、あるいは他の地方から派遣されて来て、地元の事情を調べず村民たちとの関係を築く地道な努力などもせず、型通りの政策を強行しようとしたのではないか、などと想像をめぐらせていました。
内陸部の農村出身者の話によれば、村の共産党書記は皇帝と同じで、彼自身が法律のようなものだと言います。しかし中国では北京の中央政府から各地の農村部の役所に至るまで必ず「信訪弁公室(苦情受け付け事務局)」という部門があり、住民は誰でも役所の仕事についての不満をその上級部門の「信訪弁公室」へ訴えることができるようになっているはずです。もし自分の村の共産党書記が暴君のようであったとすれば、なぜその「信訪弁公室」へ訴えないのでしょうか。農村出身者の説明によれば、そういう暴君は上級部門にも強力なコネや後ろ盾があるので直訴してももみ消される、逆に後の報復が恐ろしいという話でした。また小学校を中退する人や文盲が珍しくない内陸部の農村では上級の役所へ直訴するための手続きを自分でこなせるだけの人も少なく、直訴しようという発想自体が芽生えにくいのかも知れません。
 そして丸く収まっていたはずの我が大衆村でも、今日になって聞いた話によると一時的な補償金の額には合意したけれど、その後立ち退いてどこに引っ越すのか、また農地がなくなり農業ができなくなるのだから今後毎年生活保障金がどれだけ支給されるのかについて、村の幹部が明言しないので、何軒かの農家がまとまって上海市浦東新区の人民政府、つまり村の上級部門へ直訴しに行くことになったそうです。村の人達は「ワンさんがいた時ならうまくまとまっていたはずなのに・・・。」と言っています。
ワンさんはこの村の共産党書記だったのですが、2年前に自分が喉頭癌であることを知り前途を悲観して自殺してしまいました。なかなか開放的な考え方をする人で、以前道路を作るために村の一部が立ち退きになった時、村の土地に70戸ほどの一戸建ての住宅地を建て、その半分は立ち退いてきた農民に安く分譲し、残る半分を一般に売り出してその代金を村の事業の資金に当てたり、村営の衣料品工場等を経営してかなりの利益を上げたりして、村の経済活性化に貢献したと聞きました。その2〜3年後には専門の不動産会社がこのあたりに一戸建ての高級住宅地を次々と開発するようになりましたから、ワンさんのこの発想は相当先進的なものだったと言えるでしょう。村民からの人望も厚く、もともと地縁血縁でつながった間柄ですから、これまで何か新しい政策が実行される場合もこのワンさんが村民たちに根回しして合意を取り付け、無事に切り抜けてきたのだそうです。
そのワンさんが自殺したのを受けて、近隣の村の幹部が大衆村の新しい共産党委員会書記として派遣されて来ました。彼はもともと上海以外の地方の出身者で、ここの村民との個人的な関係も親戚関係もなく、要するに気心が知れ合っていないということになるのでしょう。この新しい書記の下に大衆村で生まれ育ったクーさんというアシスタントがいるのですが、彼は今回の直訴の話を聞いても、恐らくそれを止めたりはせず、知らなかったことにするだろうと言われています。
 さて我が大衆村には今後どのような事態が起きるでしょうか。何か新たな展開があれば、またみなさんにご報告したいと思います。


       

ハウス栽培の農地

 

2007年4月号

 

【 金猪年 】

 
 中国で今年は600年に一度しか来ない「金猪年(金の豚の年)」で、この年に結婚して子供を生むと金運に恵まれ、縁起がよいと言われているそうです。もっともこれは数年前に誰かが言い出したことで、易経にそういう記載があるわけでもなく、古くから伝わるような根拠は特にないとも言われています。けれどもとにかく、若い人の間でも同じ結婚するならなんとか今年中にという人が多く、今年は一種の結婚ブームが起きているのだそうです。

 

 



上海のデートスポット―外灘(ワイタン)から対岸を望む

 

 1949年に新中国が成立するまでの封建社会では、結婚相手は親が決めるのが普通で、結婚式の当日、初めて相手の顔を見るというのが当たり前だったと聞きました。よく中国の映画やテレビドラマの中で昔の結婚式があると、花嫁さんが顔に赤い布をかぶっていて、クライマックスで花婿がその赤い布を持ち上げるシーンをご覧になったことがある人も多いことでしょう。もう正式に縁組が決まっているのですから、その時に本人同士が相手のことをどう思うかなどは問題にならなかったわけです。もちろんそれは昔のことで、今では親に絶対服従するなどということはなくなりましたが。
 では今はどんなふうになったでしょうか。北部の農村出身の人に聞いた話では、普通は男女ともに20歳近くになるとそろそろ本人も周りの人も相手を探すことを考え始めます。内陸部の農村ではごく少数の大学出の人などを除けば、25歳を過ぎたりするともう完全に貰い手も来手もなくなってしまうのだそうです。そこで多くはお見合いということになります。まず例えば村長さんのような人や親戚の人などが、話を持ってきてくれて、双方が会ってみようということになり、大体の時間と場所(田舎ではレストランや喫茶店などがない所も多いので、道ばたとかちょっとした広場のような所で)が決まると、そこへお互いの家族や親戚など普通は20数人ぐらいがついて行き、遠巻きに相手側を眺め合います。その日はそれで別れてから、紹介役の人が双方の意向を尋ね、どちらもOKとなれば普通は男性側から酒や煙草やその他の贈り物を女性側へ届けて意思表示し、そこから縁組の準備段階となり、本人同士や家族同士の交際が始まります。その場合も今は本人の意向がまず尊重されるようになったということです。


 これに対して都市部の事情は全く異なります。上海などの都市部では、日本と同じように30歳を過ぎてもなかなか結婚しない人が増えています。仕事が忙しくて適当な異性にめぐり合うチャンスがない、親元に居る方が楽でいい等々、その理由も日本とほぼ同じです。そこで結婚紹介所ができたり、公共団体や民間会社などが主催する各種お見合いパーティ、お見合いツアーなど、さまざまな試みがなされています。

そんな中、最近では「追求(・・)専門会社」というものまで現れました(中国語の「追求」には日本語と同じ意味のほかに「意中の人を追っかける」といった意味があります)。先日そういう会社が経営する店に行った34歳の王君の話によれば、そこのスタッフはとても親切に対応してくれたそうです。
「ガールフレンドをさがしているんですが。」と言うと、
 「では、もし意中の人がおありでしたら、私どもが全プロセスにわたる追求(・・)サービスをご提供させて頂きます。どなたかおいででしょうか?」とそのスタッフ。
 「いません。」
 「そうですか。では、なんでしたら先にお探しになってみて下さい。もしお目にとまった方があれば、その方の大まかな状況をお聞かせ下さい。当社のあらゆるルートを通じて、その方の趣味や通勤時間など詳しい状況をお調べ致しまして、それからお二人が『偶然』出会う機会を何度か設定して差し上げます。その場合は、あたかも運命の糸で結ばれているとしか見えないようにお取り計らいさせて頂きますので・・・」
 「それで料金は?そこまでうまくやってもらえるのなら、相当かかるでしょう?」
 「それは難易度によって異なります。普通の女の子なら4,000元(約6万円)ポッキリでお引き受けしましょう。成功しなければ料金は頂きませんので、ご安心を!」
 店を出てから王君は、これはラッキーだね、がんばって探して、いい子がいたらこの店に頼んでみよう、どっちみち成功しなければタダなんだから、と思いました。
 数日後王君は、バスの中で出会った女性に一目惚れし、何とかしたいと思って再びあの店へ行ってみました。店で事情を話すと、そのスタッフは、わかりました、調べがつき次第ご連絡させていただきます、と言いました。
 半信半疑で待っていると、さすが専門会社だけあってか3日もたたないうちに、お越しいただきたいとの連絡がありました。
 「彼女の名は、林静香さん、28歳、○×△株式会社にお勤めです。もし追求(・・)業務の展開をご要望でしたら、契約書にご署名いただきまして、追求(・・)に成功致しましたあかつきには、手数料として8,000元頂戴することになります。何かご質問は?」
 「この前、4,000元で話がついたじゃないですか。それがどうしてまた8,000元なのですか?」
「ええっと、それはですね。この方の場合は特別な事情がございまして・・・。」
「特別な事情?」
「はい、つまりこの方にはすでにボーイフレンドがいらっしゃいますので、自動的に追加業務が発生致します。」
「追加業務と言いますと?」
 「ええ、つまりですね、『ぶち壊し』業務です。」スタッフの人はすました顔でそう言いました。
 さて、王君がその後契約したのかどうかは、まだ確かめていません。ともあれ、金猪年の今年、中国でも日本とほぼ同時にやってくるゴールデンウィークには例年より多くのカップルが式を挙げることは間違いないそうです。

       

披露宴があるレストランの前にて(上海郊外)

 

2007年3月号

 

【 中国のお手伝いさん 】


 今年の元宵節(ユアンシアオチエ/旧暦の正月15日)は3月4日でした。この日は提灯を灯し、上海など中国の南方では家族団らんの象徴である湯団(タントゥアン/ゴマ餡の入った白玉団子をゆでたもの)をみんなで食べてお祝いします。中国のお正月はこれでようやく終わりを告げ、農村では翌日から農作業が始まるわけです。ただ、農村で農業をしていたのでは現金収入が少ないので、今は多くの人達が都会へ出稼ぎに出ます。何らかの技術を持っている人や、運がいい人は、工場に就職できることもありますが、多くの場合、男性なら土木工事やビルの建設現場などで肉体労働をし、女性なら誰でもできるのはお手伝いさん、ということになります。


 中国の都市では共稼ぎが普通ですから、お手伝いさんを雇っている家が日本よりはずっとたくさんあります。住み込みのお手伝いさんもあれば、例えば、食事の支度と食器洗いだけとか、掃除だけとか、1日に1〜2時間程度のパートで来てくれるお手伝いさんもあり、またベビーシッターをしてくれるお手伝いさんもいます。どの地域にも民営の「保姆(パオム/お手伝いさん)紹介所」という機関があり、またハローワークのような公営の機関でも紹介してくれます。


 今年の2月の春節前には、お手伝いさんの給料の相場が普段の2〜3倍に跳ね上がりました。農村から来ている人達が故郷へ帰ってしまうからです。上海の一人当たりの平均給与は月2,000元弱といったところですが、春節前には3,000元以上出してもなかなかお手伝いさんは見つからないほどでした。それが元宵節が過ぎた今頃は農村から出て来た人があり余るほどいるため、住み込みで三食付きだと400〜500元ぐらいでも喜んで来てくれる人がいると聞きました。


 さて我が家にもハオさんという住み込みのお手伝いさんがいます。ここは上海の郊外で二世帯住宅のようになっていて、同じ敷地内に2軒の家があり、1軒に夫と私が住み、もう1軒には夫の両親が住んでいたのですが、母が亡くなり今は父だけになって、お手伝いさんはその1軒の家事をしてくれています。私は自分が住んでいる家の家事は自分でするのですが、夕食は毎日父の家でお手伝いさんが作ってくれた料理をみんなで一緒にいただきます。ハオさんは、半年前に河南省の農村からやって来ました。その前に居たチェンさんが都合で辞める時に「私より力持ちで働き者をお世話しましょう。」と言って自分の義理の従妹を紹介してくれたものです。ハオさんは35歳、ご主人と17歳のお嬢さんは広東省で働いていて、小学生の坊やが田舎に残ってご主人のお母さんに世話をしてもらっています。ハオさんはこれまで2年間だけ広東省の玩具工場で働いたことがある以外は、ずっと河南省の家で農業をしていて、お手伝いさんをするのは今回が初めてだそうです。


 



ハオさんが花壇で育てた芹、今が旬

 確かにハオさんは力持ちで働き者らしく、我が家では74歳になる父も健康で、毎朝10時頃からどこかへ遊びに行って夕方まで帰りませんから、ハオさんは結構ヒマそうにしています。いつも力が余って手がむずむずすると言い、朝起きるとさっさと掃除を済まして、5〜6kmぐらいジョギングをします。少林寺がある河南省出身のせいか、武術の心得もあるそうで、雨が降ってジョギングできない日は家の中ででんぐり返しをしていることもあります。毎朝ジョギングする彼女のことは近所でも評判になっていると父が話していました。


 そしてついに数日前、お隣のクーさんがハオさんにアルバイトの話を持って来ました。つまりそれだけ元気が余っているなら・・・というわけでしょう。近所の家を借りてソフトウェアを開発する会社を始めた人がいて、その会社で掃除をする人を探しているからやってみないかというのです。ハオさんが私たちにやってもいいかと相談してきたので、そりゃ、うちの仕事をしていてもまだそんなに手がむずむずするほどなのだからやってみたらいい、ということになりました。こうして3日間の試用期間に合格したハオさんは、正式採用になり、先週からその会社の掃除係の仕事も兼務しています。それでも毎朝5時に起きて、必ずジョギングは欠かしません。これでハオさんの収入は一気に2倍になったわけです。その会社は3階建の家を2軒借りているので、私もそのアルバイトを1軒分やらせてもらえないかと思いましたが、ハオさんと競争しても勝ち目はないので断念しました。


 今の家に引っ越して来てから、お手伝いさんが何人か変わりましたが、これまでの人はみんな午後からやることがないと昼寝をするのが常で、力を持て余してジョギングしようという人はなかったせいか、アルバイトの話が来たためしはありませんでした。ハオさんは、勉強が嫌いだったので小学校を卒業しておらず、字もほとんど読めませんが、それでも無意識のうちに、先進的な間接広告の手法を実践していたと言えるのではないでしょうか。五千年の歴史を誇る中国の農民には、とても太刀打ちできないと思いました。



ハオさんが新たに掃除係を引き受けた家

 

2007年2月号

 

【 年夜飯−中国の年越し料理 】

 年夜飯−中国の年越し料理
 今年の春節(旧正月)は2月18日でしたが、中国でも全国的に暖冬で、いつになく暖かいお正月でした。元旦におせち料理を頂く日本とは違い、中国では大晦日の夕食がお正月料理のクライマックスになります。中国の人達は1年を1日に見立て、1年の夜の食事という意味を込めてこれを「年夜飯(ニエンイエファン)」と呼んで大切にし、家族や親戚が集まってご馳走を頂きます。
 今年の大晦日、我が家では合計28人が集まって、大きな丸テーブル2つを囲みましたが、それでもあぶれる人が出たほどでした。どんなご馳走が出たかご紹介してみましょう。

 

 まず冷菜(ロンツァイ/オードブル)として、
爆魚(パオユィ/青魚という大ぶりの淡水魚を切り身にして、から揚げしてから、醤油、酒、砂糖などで味付けしたもの)
白肚(パイトゥ/調理して塩味をつけた豚のモツの細切り)
鹹鴨枕(シエンヤーチェン/あひるの砂ずりの塩漬け)
門腔(メンチアン/豚の舌の塩漬け)
白切鶏(パイチエチ/蒸し鶏)
鴨(カオヤ/ローストダックのこと、北京ダックはパリッとした皮を主にいただくのに対し、この上海ダックは皮と肉全体を味わいます)
(ハイチョ/塩漬けのくらげをもどしてゆでて、醤油とごま油のタレで頂きます)
琥珀桃(フーポータオレン/くるみをローストしてカラメルで味付けしたもの)
鳳爪(フォンチュア/鶏の脚を醤油味でやわらかく煮たもの)、
糖醋排骨(タンツパイク/骨付きの豚スペアリブのぶつ切りをから揚げして醤油、酢、砂糖のあんかけにしたもの)などが出ました。
次に熱菜(ローツァイ/温かい料理)の中の大菜(ターツァイ/メインディッシュ)として、
紅焼蹄胖(ホンシャオティパン/豚の骨付き腿肉を醤油味で煮込んだもの)
清蒸鱸魚(チンチョンルユィ/鱸に似た淡水魚の蒸し物)
八宝鴨(パパオヤ/筍、豚肉、ハム、栗、鶏の砂ずり、椎茸、蓮の実、干し海老、もち米を混ぜ合わせ紹興酒、醤油、砂糖などで味付けし、あひるの腹に詰めて、3〜4時間じっくり蒸したもの)
紅焼草鶏(ホンシャオツァオチ/地鶏を丸ごと醤油味で煮込んだもの)
走油肉(ツォヨウロウ/豚の皮付き三枚肉をサラダ油で素揚げし、湯で油分を洗い流して乾かす、これを3回ほど繰り返し、冷めた後、醤油味で煮込んだもの)
扣三鮮(コウサンシエン/塩漬けの豚肉、生の豚肉、冬筍、卵餃子、爆魚などをそれぞれ一口大に切り、下味を付けてから大碗に入れて蒸し、蒸し上がったその大碗を大皿の上に伏せて中身を碗型に抜いて盛り付けたもの)、以上6種類が出ました。
 これら大菜の合間に次のような炒菜(チャオツァイ/炒め物を中心にしたサブディッシュ)が出ます。
炒魚片(チャオユィピエン/白身魚の切り身の炒め物)
炒魚塊(チャオユィクアイ/うなぎのぶつ切りの炒め物)
筍焼海参(スンシャオハイシェン/干しなまこと筍のあんかけ炒め)
清炒蝦仁(チンチャオシアレン/むき蝦の炒め物)
宮爆鶏丁(クンパオチティン/鶏肉の賽の目切りと落花生、松の実、グリンピースの炒め物)
清炒魚(チンチャオヨウユィ/するめイカの炒め物)
青椒肉絲(チンチアオロウス/ピーマンと豚肉細切りの炒め物)
花菜魚肚(ホアツァイユィトゥ/カリフラワーと青魚の腹肉の干物のあんかけ炒め)
清炒豆苗(チンチャオトウミアオ/そら豆の若芽の炒め物)
古老肉(豚肉の切り身をから揚げにし、香酢、砂糖、醤油のあんかけにしたもの、酢豚の原型)などが次々と出てきました。
 前半と後半にスープが出ます。
老鴨湯(ラオヤタン/あひる1羽と里芋のスープ)
雪菜肉絲湯(シュエツァイロウスタン/青菜の漬物と細切り肉のスープ)
 甜点(ティエンティエン/デザート)も前半と後半にそれぞれ出ました。
水菓羹(シュイクオコン/温かい白玉団子入りフルーツポンチ)
酒醸圓子(チウニアンユアンツ/米麹と白玉団子を甘く煮たもの)
 

 

 以上の料理は主に、今年73歳になる夫の父が作り、ほかの人が横から手伝いました。父は毎年春節の1ヶ月ほど前から材料の買出しを始めます。中国でも普段は主婦が料理をする方が多いのですが、春節など何かの行事で人が集まる時には、特に上海では、料理の得意な男性がやってくれることがよくあります。
 一通り食べ終わったところで、お客さんのうちの何人かが持参した大きなデコレーションケーキ(直径30cmくらい)のうちの2つをみんなで切って頂きました。中国では年齢を言うのに数え年で言う方が多いのですが、父は旧暦の大晦日の生まれなので、いつもこの日には誰かしらケーキを持ってきてくれます。また数え年ですから、お正月にはみんな一緒に年をとることになるので、そういう意味から、この時特に誕生日の人がいなくてもデコレーションケーキを食べてお祝いするのだという人もいます。
 「年夜飯」を食べ始めた頃から、近所では爆竹の音が始まり、12:00前後には一番にぎやかになって、戦争でも始まったかと思うぐらいになります。
 いかがですか。みなさんも一度、中国のお正月を体験しにいらっしゃいませんか。


 

2007年1月号

 

【 中国の一人っ子政策 】

 中国では1979年から一人っ子政策が実施されていますが、このほど、その後に生まれた一人っ子が1億人になったことが報じられました。この政策が実施されるまで、毛沢東が健在であった時代には、全く逆に人口が多いほど国力もつくと言われ、人口抑制を主張した学者が迫害されたこともあったのとは大違いです。
 この一人っ子政策に関連して、当の中国の一人っ子はどんな風に考えているのでしょうか。今年26歳になるある上海の一人っ子は次のように話してくれました。
 「一人っ子(独生子女)政策は中国の重要な政策の一つです。もともと人口が多い中国では、人口を抑制することにより教育や生活環境、成長空間など子ども達に関わるすべてのものを改善することができます。この政策のおかげで、1980年代に生まれた子ども達は確かに70年代に生まれた子ども達よりも良い生活を送ることができました。さらに近年の中国経済の猛烈な発展によって、90年代以降に生まれた子ども達は物質的には以前に比べずっと豊かな生活を送っています。親達がすべての物や希望や力を自分の子に注ぎ込もうとするのも理解できます。中国の大都市では一人っ子政策がすでに定着したので、今は一人っ子が普通です。しかし物事には両面があり、一人っ子政策には悪い面もあります。例えば最近離婚率が上昇を続けていますが、親が離婚した家庭の一人っ子は悲惨です。兄弟がいれば少なくともその悲惨さを分かち合うことはできるでしょう。また一人っ子が成長する過程では物質的には豊かでも精神的には寂しい面があると思います。一人っ子だと自分の考えや理想、計画などを相談できる相手は親か友達しかいないのが普通ですが、子供と親の間には必ず壁が存在するし、友達に話せることにも限りがあるからです。一方、親としては一人しかいないのだからすべての愛をその子に捧げなければならないと思い、その結果、一人っ子の依頼心とわがままが助長され、それが現代中国の一人っ子の最大の特徴になってしまいました。」

 


   彼が話してくれたことからも伺えるように、中国で一人っ子政策が実施されている最大の理由は、少なく生んで健康に育てることにより、人口が多すぎることが原因の貧困から脱け出すためだと言えます。しかし、さまざまな弊害が出てきているのは確かですし、当然ながら、子供を生むという基本的な人権を侵害するものだとの批判は中国内でも普通に出されています。また広大な中国のことですから、一律に政策が適用されていいわけではないところにも大きな難しさがあります。沿岸部の都市と内陸部の農村地帯ではずいぶん事情が異なってくるのも自然なことでしょう。

 

 例えば、ある農村出身の友達は「先生小孩、後結婚(先に子供を生んで、後から結婚する)」といいのだと言っていました。彼女は十数年前に17歳でお見合いをして嫁入りし子供を一人生んでその子がある程度大きくなり、自分も20歳くらいになってから何食わぬ顔で結婚届けを出しに行き、その後2人目の子を、初めてのような顔をして生んだので、罰金は払わずに済んだそうです。一つの村ではみんなが顔見知りで内情は知れ渡っているから隠しようがないのではないかと私はたずねたのですが、一人目の子がもうそんなに大きくなっていることだし、まあいいじゃないかということになったのだそうです。そのあたりの論理が何度聞いても私には納得できないのですが、中国の農村ではお役人も独特の融通性をもっているのでしょうか。いずれにせよ特に農村では老後の保障を得るためにも子供が多い方がいいという伝統的な考え方は根強く残っています。ただし息子に農業を継がせるという考えはあまりなく、自分が出稼ぎに出るなどして何とかして現金を得て、無理をしてでも子ども達に良い教育を受けさせ、将来は豊かな生活を送らせたいと考える親達が増えてきているのも確かです。

 

 一方の大都会、上海では2004年に一人っ子政策の緩和措置が示されました。夫婦ともに自分たち自身が一人っ子である場合、再婚した夫婦の場合、第一子が障害者である場合、夫婦のいずれかが上海市の農村戸籍を有し、しかもいずれかが一人っ子である場合等13種類の基準のどれか一つを満たせば二人目を生んでもよいという内容です。その後主に高学歴高収入の夫婦たちと、郊外の農村部に住む夫婦たちの中に、この措置を利用して二人目の子供が欲しいという人たちが現れてきてはいますが、全体的に見て、特にこの措置によって二人目の子供を生む夫婦が急に増えるかというとそうでもありません。上海ではこれまでの政策が定着し、今では結婚適齢期に当たる人口の90%以上が一人っ子だという統計が出ています。このため今後結婚する夫婦は大部分が緩和措置の基準に適合すると考えられますが、この措置を制定する際の参考として上海市の市街地と郊外の農村部全体から無作為に抽出された約2万人を対象にして行われたアンケート調査によれば、生みたい子供の数は夫婦一組あたり平均1.1人にとどまり、子供を生まない夫婦4.48%、1人だけほしい夫婦81.7%、2人ほしい夫婦13.7%、3人以上ほしい夫婦0.35%という結果が出ました。1983年の調査で一組の夫婦が生みたい子どもの数の平均が2.04人であったのに比べると心情的に少子化の傾向が明らかにうかがえます。一人だけでよいとする夫婦の半数以上が、教育費やその他子供にかかる費用負担が大きいことをその理由の筆頭に挙げているそうです。

 以上のような状況から、上海に限って言えば、今後も子供の数はあまり増えず、2030年には65歳以上の人口が全体の半数以上になるという試算さえあり、少なくとも28.8%にはなるだろうと予測されているため、このまま進めば若年層の社会的経済的負担が大きな問題になるだろうと言われています。
 このように見てくると、中国の一人っ子政策が実施されている背景は別に特殊なものではなく、日本人にも容易に理解できるように思います。そもそも国民が生き抜いていくための経済基盤を確保するのにやむを得ない措置であり、ある程度の経済基盤ができれば、自然に人口が抑制されるようになるということでしょう。今は上海などの大都市圏においてそういった傾向が見られるわけですが、いずれ中国全体が経済発展を遂げるのに伴い、日本と同様の高齢化社会としての問題が、日本よりもずっと大きな規模で徐々に深刻化するものと心配されてもいます。



 
祖父母と孫


親戚の集い

 

 



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