神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンター 中国のホットニュース 2006年

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2008年

中国のHotNews(2006年1月〜)

2006年12月号

 

【 中国のボーナス 】


 日本では今年の冬のボーナスの平均は、去年よりアップしたと聞きましたが、みなさんのお宅ではいかがでしょうか。中国のボーナス事情は日本とはかなり違っています。各会社によって、給与体系もまちまちで、ボーナスの制度もさまざまです。金額の差も大きいせいか、日本のように今年の平均賞与がいくらかといったニュースはあまり聞いたことがありません。
 そういうわけで、今のところボーナスについての統計はほとんどないようですが、収入の差がどれくらい大きいかと言えば、例えば今年7月の一人当たりの平均収入は全国の都市のうち北京が1位で1,822元(1元=約15円)、次いで上海が1,809元、最下位は内陸部でも一番奥地の青海省の都市部で730元、これらは都市の間の差に過ぎず、現金収入の少ない農村地帯は比較の対象になっていません。しかもこれは統計上の数字であり、リストラされて失業した人も、収入がない老人や子供も含めた全体の平均ですが、実際には景気のいい会社とそうでない会社とで給与や賞与が大きく異なるのは当然でしょう。最近日本で格差が問題になっているそうですが、中国の格差とは比べ物にならないように思います。


 中国はほんの二十年ほど前までは計画経済の社会で、会社と言えばほとんどすべてが国営企業、給料もボーナスもみんなほとんど同じ、仕事ができてもできなくてもほとんど同じでした。計画経済とは具体的にどんなものかと言えば、「皇帝の娘は嫁入り先がないのではないかと心配する必要はない」という諺があるぐらいで、つまりどこのメーカーでも自社製品の販売促進などする必要はなく、国の計画によって生産する製品とその量、供給先、価格などがすべて最初から決まっていて、売れ残る心配などなかったということです。その時代には一般市民の生活必需品のほとんどすべてが配給制で、毎日市場へ買い物に行っても配給切符と現金を持ち長い列に並ばなければ野菜も肉も魚も、米やその他の穀類も、もちろんお菓子もパンも何も買えませんでした。食品以外でも例えば布や石鹸、鍋や食器類も何もかもです。

 それが1990年代に入って本格的な改革開放政策が実施され始め、「社会主義の特色ある市場経済」をめざしてさまざまな改革が進められているわけです。とは言っても面積は日本の25倍、人口は日本の10倍以上もある国ですから、地方による違いや農村と都市による違いの大きさは日本の比ではありません。改革の進捗状況についても、どの地方であるか、どの分野かによって全く異なり、同じ国の中なのに北京、上海、広州、深 などの発達した沿岸都市と内陸部の農村地域とでは、先進国と発展途上国ほどの違いが出てきています。計画経済から市場経済へとひとことで言っていますが、これほどの巨体が少し角度を変えるだけでも大変なことなのに、計画経済から市場経済へ180度の転換、天と地の差ほどもある転換ですから、色々な方面で急激な変化が起き、さまざまな影響が出て混乱しているのも当然のことでしょう。ちょうど日本の敗戦後に似たような状況がもっと大規模に、もっと極端に続いていることをご想像いただければいいかも知れません。


 そういうわけで、ボーナスについても中国全土の各地方で、どの会社もまだまだ試行錯誤している状況とも言えるようです。中国で今、景気のいい業種はおおまかに言ってIT、金融、物流の順だそうです。そんな中で例えば上海港は、今世界で最も注目を集めている港の一つだと言えるようになりました。上海港全体のコンテナ貨物取扱量は、香港、シンガポールに次ぎ世界第3位へと躍進しています。そこでその上海港の、ある物流会社の最近のボーナス事情をのぞいてみましょう。
 この会社は1993年に、物流分野では中国全土で初めて国営企業と、香港の国際的な物流会社とによる合弁で設立されました。現在社員は約1500人、企業経営の手法にしても給与体系にしてもそれまでの国営企業とは全く違う香港式の方法をどんどん採り入れた結果、この13年間でかなりの業績を上げています。香港側から派遣されている少数の高級管理職の報酬は通常の多国籍企業の管理職並みに年俸数十万ドルが支給されていますが、大陸側の社員の給与については、職種や技能等によって各社員に等級がつけられ、毎月の基本給はそれを基礎に決められています。若い新入社員の基本給月額は1000元台(約1〜2万円台)から、総経理(ジェネラルマネージャー)でも4000元(約6〜7万円台)台止まりです。日本の感覚では随分少ないとお感じになるでしょう。ところが、基本給のほかにこの会社では各社員の業務成績に応じて毎月ボーナスが支給され、それが基本給のざっと1.5倍から時には2倍以上にもなるところが日本と全く違っています。またインフレがかなり激しいとは言え、上海のような都会でも物価は日本の何分の一かですから、もちろんその分も考慮する必要があるでしょう。

 


   この会社で技術部の経理(マネージャー)として働く陸さんは、毎月給料日になると厄介な目にあっています。たいてい誰かしらの奥さんが文句を言いに来るからです。うちの主人のどこが悪くて今月のボーナスが減らされたのか、というわけです。毎月のボーナスには100点とか200点とか基本の点数が決まっていて、通常通りの仕事ぶりなら問題ないのですが、業務成績が良ければ1件あたりプラス2点、何か仕事上の失敗をすれば1件あたりマイナス2点というように点数がつけられるようになっています。2点が大体200元から300元(約3,000円〜4,500円)ぐらいになるそうです。上海の男性は気管支炎の人が多いと言われています。これがどういう意味かご存知の方もおられるでしょう。気管支炎は中国語では「気管炎(チクアンイェン)」、これは「妻管厳(チクアンイェン/妻の管理が厳しい、の意)」と同じ発音で、つまりカカア天下(注:この日本語は相当古いでしょうか、なにぶん10年以上日本を離れて生活しているもので、ご容赦を・・・)という意味をちょっとしゃれて言う言い方です。平均的な上海のサラリーマンの給与振込の銀行カードは奥さんに握られていて、旦那さんはそこから毎月のお小遣いをもらうのが普通です。そこで今月はいつもより200元ほど少ないとわかると、まず奥さんは旦那さんを問い詰めます。もちろん旦那さんはそこでおめおめと自分が犯した失敗を白状することはまずないので、奥さんとしてはそれを信じて、会社の上司に文句を言いに行くことになるわけです。上海の女性は弁が立つしねばり強い人が多いので、陸さんは毎月閉口しています。そこで今月はそういう奥さんが来た時、一通り話を聞いた後、「当社には規定があって、奥さんが文句を言いに来ると、それもマイナス2点として計算することになっています。」と言ってみました。効果てきめん、その奥さんは目をぱちくりさせて早々に引き上げたそうです。

 この会社ではかなり景気がいい模様で、利益を現金のボーナスだけで還元し切れないため、年に何度か現金以外の現物支給もあります。これまでに例えば、最新式の電気ストーブ、扇風機、オーディオミニコンポ、サラダ油1ダース、缶入ビール1ダース、果物、上海蟹、石鹸・洗剤類、美肌クリーム、タイガーバーム、紅花油(腰痛や捻挫等に効く)、USBフラッシュメモリ、MP3といった品々が社員全員に支給されました。日本風の横並びといった習慣は中国ではあまりないのですが、それでもまだ多くの国営企業で大量のリストラが続いている中で、一部の会社だけボーナスの額が多すぎて周囲の人に不公平感が広がらないように配慮した結果だといいます。
 これから元旦(今年は元旦から3連休)、春節(2月17日から7連休)と中国ではお正月が二度来るようなものですが、我が家でもこの年末、夫の会社から何がもらえるのか楽しみにしているところです。


1980年代前半の上海港の一角


2005年末から営業を開始した上海港最新の海上コンテナ埠頭―洋山埠頭

 

2006年11月号

 

【 古 玩 】

 上海はかつて中国最大の「古玩」市場だと言われていました。「古玩(クーワン)」とは骨董品のことです。多くの骨董屋が狭い路地に店を出し、ダイヤモンド、象牙、磁器、彫刻を施した箸、仏像、錦織の布地、その他ありとあらゆる不思議な珍しい物が並んでいました。そこでは眼力に自信のあるたくさんの人達が売ったり買ったりして相当の儲けを得ていたのです。今こうした「古玩」市場は、市民の間でいわば株式市場と同じように、一つの投資の場となってきています。
 もちろん骨董屋さんは骨董品を売買する中で一定の差額を得て商売が成り立っているわけですが、もともと神秘的な色彩に満ちた真贋ないまぜのこの業界は、運がよければ一夜にして莫大な富が得られる代わりに、ちょっと油断すると一文なしにもなりかねないリスクをはらんだ世界でもあります。



古玩店のショーウィンドウ

 上海の「古玩商」が扱う品物は、実は地元で代々伝わった物は少なく、山西省、河南省、河北省等の各地から「掘り出され」たり「拾われ」てきたものが大部分だそうです。古玩商たちはこのことを「淘宝(タオパオ/宝掘り)」とか「?漏(チエンロウ/こぼれ物拾い)」と呼んでいます。「淘宝」と言えば、古玩商の李さんには会心の思い出があります。数年前のこと、河南省のある小さい村で全く偶然に、一人の年老いた農民から200元(約3,000円)で青銅の燭台を譲り受けました。上海に戻ってから、ついでの折にそれを売り出すやなんと数十万元(数百万円)の値がついたのです。それ以来李さんは「淘宝」の楽しみを追い続けることになりました。

上海老街


 上海の古玩市場で手際よく儲けているのは、ほとんど全てが相当年配の骨董屋さんばかりで、通常彼らは本気で買いそうなお客さんが来ても知らん顔をし、それでいて目は休むことなくお客が最初に手にする品物を観察します。もしお客が手に取った物が本物なら、その人は骨董品について一定の知識を持っている証拠なので、騙すにしても相当慎重に構えねばなりません。もしお客が目的もなく手当たり次第いじりまわしている場合は、まず新米と見ていいので、騙したければ楽に騙せるということになります。また彼らは入って来るお客の一人一人を品定めし、お金をもっているかどうか判断しているらしいのです。同じ店の同じような商品でもお客によって値段がずいぶん変わることはよくあります。そして老練な骨董屋ほど話がうまく、聞いていると一つ一つの品物にそれぞれ不思議な物語や深い因縁を感じさせる歴史があるので、したり顔の「古玩虫(骨董マニア)」たちでさえ、「物語を聞くべからず」という古玩業界の鉄則をいつの間にか忘れ果て、まんまと騙されてしまうことが多いのだそうです。


 

 ある古玩商は「骨董というのは本来値があってないようなもので、好きなように値がつけられるのだ。買い手が300元のものを気に入って3万元でも買いたいと言えば、3万元で売れるし、逆に3万元で売りたいと思っていても、よく知っている人にかかれば最後は300元にたたかれても売るしかなくなることだってある。」と言い切ります。
 張さんは文物のコレクションが趣味です。数年前にある古玩商から、明代万歴年間の燭台だと称するものを5,000元(約75,000円)で譲り受け、貴重な拾い物をしたと喜んで大切にしていました。その後専門家に鑑定してもらったところ、この種のいわゆる文物は全て現代の模造品でせいぜい数十元(数百円)程度だと言われたのです。それでも張さんは骨董品が好きなので、一念発起して骨董品収蔵に関する多くの書籍を読んで研究を重ね、さらに全国各地の古玩市場を旅して周り、眼力を養う努力を重ね、そのために合計3万元(約45万円)余りのお金を使いました。自分では相当の眼力がついたと思い、最近また古玩市場で8万元(約120万円)の青銅器の香炉を買い、今度こそ本物を格安の値で買えたと喜んでいたのです。ところが今度も専門家に贋物と鑑定され、普通は300元足らずで買えるものだと言われてしまいました。




 

 
我が家の「古玩」(約200年前の品)

 張さんと似たような目に遭っている「古玩虫」はほかにもたくさんいて、数万元から、中には数百万元で買わされて喜んでいた「骨董品」が、実はせいぜい数百元の価値しかないとわかってがっかりさせられたという話は少なくありません。確かに玄人でも時には見誤ることがあり、この道十数年という古玩商の趙さんによると、古玩市場も株式市場と同じで、やはり「眼力」がものを言うのだそうです。
 また逆に「古玩虫」の中でも一夜にして巨額の利益を得た人も相当いると言われています。数年前から書画の値段が高騰を続け、誰もが古い時代の名家の書画に狙いを定めました。「古玩虫」の中には、山西省へ出かけて3万元から5万元ほどの書画を収集した人がいましたが、わずか2年ほどで一点が数十万元にも跳ね上がりました。


 さて、上海に来た外国人が必ずといっていいほど行く場所である豫園の近くに「上海老街」があり、数多くの古玩商が店を構えています。ある英国人の夫婦がそこでたくさんの花瓶、文具、玉の装飾品等のイミテーションを買い集めていました。流暢な中国語を操る二人は、ともに中国留学の経験があり、中国の文化に興味を持ち、帰国後中国のみやげ物店を開いたところ、非常に人気が出て大いに繁昌したため、こうして毎年中国の古玩市場へ仕入れにやってくるのだそうです。ここで100元(約1,500円)で買った物が、英国の店では100ユーロ以上で売れるので、旅費を差し引いても充分儲けが出ると言います。古玩商の劉さんは「今や外人さんも慣れたもんでね、最初から贋物を買いたいとおっしゃるので、随分安くたたかれますよ。」とぼやいていました。
 中国人のさらにうわてを行く外人さんもいるのです。あなたも負けずに「宝掘り」をしにいらっしゃいませんか。


 

道端の「古玩」

 

2006年10月号

 

【 黄浦江に跳び込む 】


 長江(チャンチアン/揚子江)が海に注ぐ河口の少し手前にある支流―黄浦江(ホアンプチアン)は、上海の母なる河として昔から人々に親しまれ、上海の発展にとっても大変重要な役割を果たして来ました。中でも市街地の中心部を流れる黄浦江の両岸は外灘(ワイタン)と呼ばれ、上海の近代史と現在のめざましい発展ぶりを象徴する、まさに上海の顔と言える場所でしょう。観光スポットとしても大変有名です。

外灘の夜景(現在)

 

 ところが、そうしたはなやかなイメージの裏で、この河に跳びこんで死のうとする人の数が、ここ10年間で以前の何倍にも増えています。数日前、この辺りの警備を担当する水上警察署の劉(リウ)さんは、また1人の自殺未遂者を助け上げました。劉さんの同僚で55歳になる于(ユィ)さんは、この20数年間に跳び込んだ人を何十人も救助して来ています。1980年代から90年代前半にかけて跳びこんだ人は、毎年10人から20人程度、そのほとんどが地元上海の人で、家庭内のトラブルがその主な原因でした。それが90年代後半以降どんどん増え続け、しかもその90%が他の地方から上海に来た人、そのうちの半数以上が40歳以下の青年という統計が出ています。就職に失敗、失恋、家庭内のトラブルなどが跳びこんだ主な原因です。同じく水上警察の厳(イエン)さん(36歳)は、これまでに何回も危険を厭わず自らも跳び込んで自殺未遂者を救助し、「全国優秀人民警察官」として表彰されました。厳さんによると、黄浦江に人が跳び込んだという通報が3〜4日に1回ぐらいはあるそうです。2004〜2005年の2年間に跳び込んで助けられた人は105人、今年の1〜8月では既に38人が救助されました。
 長江をはさんで上海の対岸にある南通(ナントン)の若者 周(チョウ)君は、「大上海は到るところ黄金がいっぱい・・・」と聞いてやって来たのですが、就職先が思うように見つかりません。やっと上海に住む従姉妹を探し当てて就職先の世話を頼んだところ、冷たく断られ、有り金も使い果たし、思い余って黄浦江にかかる有名な外白渡橋(旧名:ガーデンブリッジ)から跳び込みましたが、幸いにも水上警察に助けられました。
また、恋人同士の陳(チェン)さん(24歳/女)と、李君(28歳/男)は、ある晩大げんかをし、その後李君が陳さんの怒りを鎮めようと、外灘へドライブに連れ出しました。それでも彼女の気持ちは治まらず、「あなたが助けてくれるかどうか、跳び込んでやる!」と言うや、本当にそのまま真っ暗な黄浦江めがけてさっと跳び下りてしまったのです。さあ大変、李君は泳げないので慌てふためき、大声で助けを呼びました。周りに人が大勢いて水上警察に連絡をとってくれたので、彼女はまもなく助け上げられました。息を吹き返した彼女は真っ先に李君のほっぺたをひっぱたいたそうです。愛を試すのに黄浦江に跳び込まなくてもいいじゃないですか、まったく・・・。

黄浦江につながる小川のほとりで(1980年代)

 

 上海には昔から「黄浦江には蓋がない、死ぬなら黄浦江に跳びこめばいい。」という言葉があるそうです。この言葉は、上海で生まれ育った義父によると、「死にたい。」などと言ってくよくよしている人に向かって「死ぬ、死ぬってなんだか大変そうに言ってるけど、鍋と違って黄浦江なら蓋もないし、さっと跳び込みゃあ簡単できれいなもんだ。首をつったり、刃物で刺したりするのは見苦しいし後々面倒だからね。」という意味を込めて言ってやるのだそうです。そうすると大抵の人は悔しがって考え直し、逆に死ぬ気がなくなるのだと言います。また、外灘のような目立つ場所で跳び込む人なぞは、もともと本気で死ぬ気ではなく救助されるのを期待しているんだとも言っています。だとすれば、警察の人達こそいい迷惑ですね。確かに同じ黄浦江でも、もっと下流の、人が少ないところへ行けば自殺の成功率はもっと上がるはずでしょう。長江の支流と言っても、深さは8〜9m以上、幅は数百メートルもあり、流れも相当速いのですから。



長江に近い黄浦江下流付近のコンテナ埠頭(現在)

 

 一方、経済成長率の増大がそのまま「幸福指数」の上昇にはつながらないのもまた現実です。めざましい発展を続ける上海では、都市生活のテンポがますます加速するのに伴い、一見自信たっぷりに見えるビジネスエリートたちも、ストレスが重くのしかかり、地方から出稼ぎに来る人達に負けず劣らず、心理的な危機に直面していると言われています。中国全土で見ても、自殺者は毎年28万人を超え、15歳〜34歳では自殺が死亡の原因の筆頭に上がり、そのうちの25%が抑圧症による自殺だという統計もあります。経済発展とともに、中国の人達の生きる元気にも徐々に危機が広がってきているということでしょうか。

 

2006年9月号

 

【 月 餅 】

  まもなく「中秋節(ツンチウチエ)」つまり日本でいう十五夜のお月見の日がやってきますね。中国でも太古の昔から月の神を祭り供え物をする風習があり、紀元前の秦の時代にはそれがすでに国の行事になっていて、そのことが旧暦の8月15日に確定されたのは、今から千年余り前の宋の太宗年間だと言われています。何千年も前から月の神様にお供えした物を、後でみんなで分け合って食べていたことが、その後、中秋節には月餅(ユエピン)を食べるという習慣として引き継がれて来たというわけです。


 その月餅(原意は「月の神に供えるお菓子」)としての歴史も、古くは甲骨文字の時代まで遡れるそうですが、漢代に張騫(チャン・チエン)が西域に遣わされて、ペルシャから胡桃(フタオ/くるみ)や胡麻(フマ/ごま)などを持ち帰ってから、それらが月餅の餡子として加わったと言われています。唐の長安ではすでに菓子屋が登場して、月餅の種類も豊かになり、北宋の王家で愛された月餅は「宮餅(クンピン)」、民間では「小餅(シアオピン)」「月団(ユエトゥアン)」「桂餅(クイピン)」「五福餅(ウフピン)」などと呼ばれる種類の月餅が広まりました。明、清の時代になると、月餅は中秋節に月にお供えするため、また親類や友人に贈るためにも欠かせないお菓子になりました。


 近代では、社会主義の中国になってから、1950年代から80年代頃までの計画経済の時代には、月餅も制限されてなかなか買えませんでしたから、普通の家庭ではお母さんが胡麻や落花生や砂糖などを餡にして手作りし、みんなで十五夜の満月を愛でながらそれを食べ、月の国の宮殿や女神の伝説などを子ども達に話して聞かせたのだそうです。


 その後、改革開放政策が進み、「社会主義の特色ある市場経済」が急激に発展しました。あらゆる商品が豊富に出回るようになり、人々の生活も豊かになってからは、毎年6月か7月頃から、月餅と引き換えられる商品券を得意先に配る会社が出始め、中秋節本番前の今頃は、一般家庭でも月餅を持ってお世話になった人や親戚を訪問するのにちょっと忙しくなります。我が家でも、月餅のカラフルな箱がたくさん集まって来ました。私たちもこれから親戚を何軒か回るのですが、少し横流ししようかなどと考えているところです。つまり今では月餅を贈るのは、日本のお中元やお歳暮などと似たようなものになってきたと言えます。

各種の月餅

 ここ数年「高価月餅」「腐敗月餅」といった言葉がニュースによく出てきていました。なかでも2003年に雲南省の昆明で売り出された月餅は1箱31.8888万元(約460万円)でした。その中には月餅に加えて、オリンパスのデジタルカメラ、ビデオカメラ、酒、パーカーの万年筆、ZIPのライター、茶、高級保健薬のほか、きわめつけは114uのマンションまでがついていたのです。こうした高級月餅はしばしば各種の賄賂として使われたと言われています。


 ここまで極端ではなくても、紫檀に彫刻を施した箱、金銀の象嵌細工やその他、中身の月餅の何十倍もするような包装は、ここ数年豪華になる一方でした。そこで中国政府が特に月餅に対して強制的な国家基準を打ち出し、例えば今年の新基準では、月餅1箱の包装費用は月餅自体の工場出荷額の25%を超えてはならないことになりました。そのおかげで、今年の贈答用月餅の最高価格はかなり下がる傾向にあります。例えば、昨年2999元(約4万円)の「宮廷御用達」月餅を売り出した杭州(ハンチョウ)の5つ星ホテルでは、今年は最高級品でも268元(約3,900円)に引き下げました。また大手スーパーでは最も安い贈答品で1箱36元(約520円)、売れ筋商品は1箱100元(1,500円程度)台に集中し、最高級品でも700元(約1万円)程度で、昨年までと比べると贈答用月餅は大幅に値下がりしたことになります。ただし中国の習慣では偶数を好みますから、贈り物にする場合は、普通は必ず1回に2箱づつ贈らなければなりませんが。


 一方、ばら売りの月餅は、中国で全般的に続くインフレ傾向のため、月餅自体の原価が上がり、逆に去年より3割がた値上がりしています。例えば庶民に人気の「彩芝斎(ツァイツチャイ)」?菜入り月餅は、できたてを熱々で食べるのですが、去年の1個6角(約9円)から8角(約11円)になりました(それにしても安いですけど)。自分の家で買って食べる場合は、箱入りのものなどではなく、こういうばら売りを買うのが普通です。
 そして、今年の新しい傾向としては、数十年前に戻って家で手作りする人もぼちぼち出始めてきました。一気に改革開放が進み、色々な商品が豊富に出回り、はなやかな包装に目を奪われていた人たちが、再び中味の良さや伝統的な習慣を思い出し始めたということでしょうか。今年の中秋節は10月6日、ちょうど国慶節の連休中に当たるので、例年よりさらににぎやかに、みんなで団らんの時を過ごす家庭も多いことでしょう。

ギネスブック入りした世紀の月餅 (重さ3.3t、直径4.12m)

 

2006年8月号

 

【 女児軽視と母親崇拝 】

 中国で生まれる赤ちゃんの男女比の不均衡が拡大しています。先日、2004年度の出生比率は女児100人に対し、男児121人に達したとの統計が発表されました。後継ぎとして息子が欲しいという願いは、伝統的な日本人の考え方とも共通していますが、それにしてもこの差はやや異常です。特に中国の人口の70〜80%を占める農民の間でその傾向が強いと言われています。


 中国では1979年から一人っ子政策が実施されましたが、実際にはそれが中国全土で一律に適用されたわけではなく、一定の緩和策や抜け道も見られます。例えば農村部では一人目が女の子ならもう一人生んでもよいということになっている地方が多いそうです。そうでない地方でも、農村ではとにかく息子がいなければ話にならないといった考え方が根強く、借金して罰金を払ってでも男の子が生まれるまで生み続ける夫婦がかなりいると聞きました。それほどまでして男の子を欲しがるのは、老後の保障を得るためなのだそうです。つまり農民の間では年金などの社会保障制度がまだ普及していないため、老後は経済的にも息子に頼らざるを得ないという現実的な事情があるのです。私が知っている農村出身の30〜40歳代の女性たちの中にも子供が二人いる人が多く見られます。

 新中国誕生後、1953年に実施された第1回国勢調査によると、出生人口の男女比は正常であるのに、女児の死亡率が高いため子供の年齢が高くなるにつれて、男女比が拡大する傾向がありました。1964年の第2回国勢調査ではこの傾向にやや改善が見られたものの、その後再び拡大し、特に農村において女の胎児や新生児に対する軽視や蔑視がなくならず、女の子を大事に育てない傾向が続いていると言われ、2000年には出生人口においても正常な範囲を超えた男女比が現れ始めました。
 ただこれらの統計は中国全土の平均値であり、農村部と都市部による差が大きく、こうした傾向はある特定の地域に集中して見られる現象でもあり、省別では南の海南省(女100人に対し男135.6人)や広東省(女100人に対し男130.3人)で著しいことがわかっています。


 これに対して、例えば上海では最近一人っ子政策が実質的に撤廃されましたが、ほとんどの若い夫婦が子供は一人で充分だと考えているとの調査結果がありました。その理由は教育費がかさむ、子育てがたいへんなど、だいたい日本の事情と共通しています。また特に男の子の方が好まれるわけではなく、私の周囲では女の子の方がやさしいし、結婚後もよく実家へ寄り付くのでいいと言う人の方が多いくらいです。出生人口の男女比も上海だけを見ると女100人に対し男111人となり正常な範囲内に納まっています。
 新中国が成立してからは、「婦女頂半辺天(女性が天の半分を支える)」と言うことばが盛んに使われるようになりました。約30年前の日本で私たちが中国語を学び始めた頃にも、新しい中国では男女平等が完全に実現されたと言われ続けていました。また日本を訪れる中国からの各種視察団の人たちから、中国では夫婦共稼ぎが普通なので家事も全く男女平等に分担しているという話をしばしば聞いたので、男女平等に関しては絶対中国の方が日本より進んでいるのだとずっと私は考えていました。


確かに国営企業や役所などでは日本の公務員と同程度の男女平等は確保されています。しかし実際に中国で生活してみると、政府の宣伝とは裏腹に伝統的にはむしろ「重男軽女(ツンナンチンニュィ)」つまり男尊女卑の傾向が著しいように感じて驚くこともあります。逆に新中国になってからも古い観念がなくならないので、ことさら女性を尊重する宣伝や教育に力を入れてきたのではないでしょうか。

 

 例えばある時、色々な人からお茶の葉をたくさん頂いて使い切れないので、一人暮らしをしている伯母(夫の母の兄嫁)にお裾分けしたことがあります。それに対して夫が「年配の女の人にお茶を上げても持て余すだけだよ。」と言うのでその理由をよく聞いてみると、もともとお茶は男性の飲み物で、一昔前までは「女だてらに茶なぞ飲んで贅沢な・・・」といった感覚だったらしいのです。確かに中国では日本のように日常的にはお茶を飲まない人が結構いるので意外に思ったことはよくあります。伝統的な茶館でゆっくりお茶を飲んで時を過ごすのも大部分が男性でした。もちろん今では女性もお茶を飲みますが、日本女性に比べるとお茶にこだわる人は一般的には少ないように感じられます。あるいは茶の文化が日本ほど庶民の生活の奥深くまでは浸透していないし、新しいブームにもなりにくいということなのかも知れません。


また中国北方の河南省あたりの農村部では、農作業も家事も主に女性がこなし、男性はちょっと働くだけであとはのんびりと煙草を吸ったり談笑したりしている場合が多いという話をよく聞きます。昔の話かと思ったら今でも同じだそうです。
 上海のような都市部でも、やはり家事や育児の負担は女性の方が重く、私が以前日本で中国の訪問団の人たちから聞いていたような、家事における完全な男女平等は実現していない家庭が多いように思います。ただ中国人と結婚して上海で働いている日本女性たちによると、家事育児と仕事の両立という点では中国の方が日本よりはるかに周囲の協力が得やすくやりやすいとのことです。


 ところで、中国語で実家のことを「娘家(ニャンチア)」と言います。中国語の「娘」は「お母さん」という意味です。また「母親家(ムチンチア/母の家)」「外婆家(ワイポチア)母方のお婆さんの家)」という言葉をよく使いますが、お父さんもお爺さんも健在なのに「父親家(父の家)」「外公家(母方のお爺さんの家)」という言い方はついぞ聞いたためしがありません。親戚の間で頼りにされるのはお爺さんよりもお婆さん、おじさんよりもおばさん、兄よりも兄嫁です。我が家でも、夫の弟たちが電話して来た時にはまず先に「お母さんは変わりないか」と聞いて、自分はいつも後回しだと言って夫の父が時々ひがんでいることがあります。
 以上のことから、私なりに勝手な解釈をしてみました。女性は赤ん坊の時から軽んじられるが、一旦母になった後は崇められる・・・・つまりこれで中国の女性観はバランスがとれているのかも知れません。

誕生日

母と娘

 

 

2006年7月号

 

【 青蔵鉄道 】

 7月1日青蔵(チンツァン/青海チベット)鉄道が全線開通しました。これは中国青海(チンハイ)省の省都西寧(シーニン)からチベット自治区のラサまでの全長1,956qにおよぶ鉄道で、このうち西寧からゴルムド(格?木)に到る青海省東部の区間は1984年に既に営業運転を開始していますが、今回は残るゴルムドから青海省西南部を経てチベットに入りラサに到るまでの1,142qが開通したものです。こうして最初の着工から実に48年もの歳月を経て、平均標高4,000mと世界で最も高い地点を走る高原鉄道がついに完成し、チベットでの鉄道不通の歴史に終止符が打たれたのです。この鉄道についてのいくつかの話題をご紹介しましょう。


<歴代の中国首脳陣と青蔵鉄道建設>
 すでに1910年代に近代中国建国の父―孫中山(孫文)が「ラサ蘭州(ランチョウ)線」鉄道の計画を策定していました。その後日中戦争や内戦を経て新中国が成立した後、1970年代には毛沢東国家主席や周恩来首相が、1980年代には最高実力者ケ小平氏や胡耀邦共産党総書記が、そして1990年代から今日に至るまでには江沢民国家主席、朱鎔基首相から現在の胡錦濤国家主席や温家宝首相まで、歴代の要人たちが青蔵鉄道建設推進を強調し、或いは青海やチベットを訪れて建設に携わる人々を励まし、その重要性を中国全土にアピールしてきました。 
 もちろん地元の一般の人々にとっても、鉄道の開通は長年の悲願でした。


<環境保護>
 鉄道の建設にあたり、青蔵高原のデリケートな生態環境をいかにして保護するかも重要な焦点となりました。7月1日の鉄道開通後チベットを訪れる観光客は1日当たり3,000人〜4,000人増加すると推定されるので、沿線の主な駅に汚水処理装置とゴミ収集場が設置され、ゴミは1週間以内にゴルムドへ輸送され、また列車内にも廃棄物・廃水回収装置やゴミ圧縮システムが設置されるなどの対策が講じられています。
 各駅の建物についても、青蔵鉄道では劣悪な環境での資材運搬や建築作業のため他の地方よりコストがかかるので、できる限り簡素で低コスト、そして自然空間を生かした環境にやさしい設計が選ばれました。

 

<沿線の駅>
 今回開通した1,142qの区間には合計45の駅が設置されていますが、このうち駅員が居るのは7駅だけでその他はすべて無人駅です。これは環境が苛酷なためと、青蔵鉄道は情報化のレベルが高く、ゴルムドとラサにあるシーケンスコントロール室からこの区間の列車の運行状況を完全に把握できるためでもあります。そしてこれら45の駅周辺ではそれぞれ異なる独特の風景が楽しめると言われています。
 たとえばゴルムドを出発してからまもなくの望昆(ワンクン)駅は、昆侖(クンルン)山脈のうち海抜6,500mの玉虚峰(ユィシュイフォン)の真下にあり、その周囲に5,000m級の15の雪山が望めます。ゴルムド/ラサ間の東部1/3ほどの地点にある沱沱河(トゥオトゥオホ)駅は長江(チャンチアン/揚子江)の源流に近く、この駅を出ると数十本もの大小さまざまな川がこの辺りで集まって1本の大河になる様子が見られ、まさに「長江の水は天上より来る」という言葉の意味が実感されることでしょう。この区間のちょうど中程に位置する唐古拉(タンクラ)駅は世界で最も高い地点にある鉄道駅で海抜5,072m、ここの雪山の中を過ぎるといよいよチベット自治区に入り、まもなく広大な草原が見え、その後4,745メートルの安多(アントゥオ)駅の近くでは世界一高い所にある淡水湖、海抜4,650mの聖なる錯那(ツオナ)湖が見えてきます。この辺りで区間全体の3/4近くにさしかかり、この後さらに6時間余りかけていくつものチベットの駅を過ぎると終点のラサに到着することになります。西寧からラサまでの全長1,956qの走行時間は約26時間です。

 

<苛酷な自然環境>
 このような高原地帯を通る鉄道であるため、列車には酸素供給自動制御システムが備わって車内全体に酸素が供給されていますが、それでも乗客の1/3ほどは途中から酸素吸入管を使わないと耐えられなくなるそうです。制御された車内にいる人でもこの状態ですから、これまで青蔵鉄道の建設に携わってきた数万人の人達は例外なく唇が黒紫色に変わり、多かれ少なかれ慢性の高山病の症状を呈しています。
青蔵鉄道は連続550qにわたる凍土地帯を貫いて走っていますが、建設にこれだけ長期間を要した最大の原因の一つがこの凍土問題でした。1961年風火(フォンフオ)山にテントが張られ、中国初の凍土問題解決のための観測点が設置されました。ここで45年間にわたり休むことなく1,700万本もの観測データが集められ、それをもとに凍土問題克服のための研究が重ねられ、またこの近くには青蔵鉄道の「地獄の入口」とも言われた海抜4,905m、全長1,338mの「風火山トンネル」も開通しました。1978年から28年間ここで観測を続けてきた49歳になる孫建民さんは、観測点にある10uほどの部屋で若い同僚2人と暮らしていますが、3人とも黒紫色の唇をし、顔色も青黒く、動作は緩慢で、声にも力が出ません。長年にわたる酸素欠乏が原因です。頭痛や動悸、息切れのため夜もよく眠れず、電気、ガス、水道はもちろんなく、悪天候が続くと食糧も途絶えがちになり、1ヶ月おかずなし、1年間お風呂なしの生活も珍しくないと言います。しかもこの孫さんは一例に過ぎず、鉄道の建設に携わったその他数多くの人々がそれぞれ想像を絶する苛酷な自然環境と闘ってきたのでした。

<今後の建設>
 今後チベット自治区では、さらに数百億元(数千億円)を投じてラサを中心にして輻射状に延びる支線を3本建設する計画で総延長2,000q以上の鉄道網がチベット自治区内に形成される計画です。


<運賃>
 さて、青蔵鉄道の主要な運賃については以下の通りです。
区間(距離)       普通席  2等寝台車   1等寝台車 
    北京〜ラサ(4,064km)  389元   813元     1,262元    
成都〜ラサ(3,360km)  331元   712元     1,104元
重慶〜ラサ(3,654km)  355元   754元     1,168元
蘭州〜ラサ(2,188km)  242元   552元      854元
西寧〜ラサ(1,972km)  226元   523元      810元
            (1元は約14.7円/2006年7月19日現在)



中国の地形図(黒い太線が青蔵鉄道のおよその位置です。)




ラサのポタラ宮の模型(まだ行ったことがないので残念ながら本物の写真はありません)

 

2006年6月号

 

【 小黄金週間 】

 

 6月14日から18日まで上海市民は「小黄金週間」を過ごしました。上海協力機構首脳会議開催中の安全確保に配慮した当局からの通達により、上海市内の主な職場や学校が5連休となったためです。その代わり10日(土)、11日(日)、24日(土)は出勤しなければなりませんが。
 中国の国民の祝祭日は、春節(旧正月)、労働節(5月1日のメーデー)、国慶節(10月1日の建国記念日)と、1年に3回だけですが、それぞれが7連休となります(祝祭日自体は3日づつで、前の週の土日に出勤しておき、その振り替え休日を祝祭日にくっつけ、さらに後の週の土日の休みと合わせて7連休にします)。つまりゴールデンウィークが年に3回もあるわけです。これはもともと国民の消費意欲を引き出し国内経済を活性化させるため、年に3回あった伝統的な祝日に合わせて国が決めたものでしたが、日本のゴールデンウィークと同様この休暇中はどこの行楽地へ行っても混雑し、お金もかかって疲れ果てるだけだというイメージが定着してしまっています。

            杭州の西湖

  ところが今回の「小黄金週間」は上海だけで実施されたため、上海市民の反応は上々で、それぞれゆったりとした休暇を過ごした人が多かったようです。急用がない人は市街地へ出歩かないよう呼びかけられ、市内各要所の通行は規制されました。しかし、他の地方への旅行はむしろ奨励され、浙江省などの近場ですと、急に思いついて予約なしで出かけてもゆったりした旅が楽しめ、いつもの連休のようにどこへ行っても長蛇の列などということはなかったそうです。海南島や厦門(アモイ)、昆明など遠方へ飛行機で行く団体旅行でも、上海以外の地方からの観光客は少なく、大学受験が終わったばかりの高校生がいる家族たちなどがのんびりとした快適な旅行をしました。通常の黄金週間のような高い料金もとられませんでした。
 また新民晩報社(新聞社)等の主催による「お見合い旅行団」というイベントも企画されました。杭州の西湖への1泊2日の旅行に200人余りの若い人達が参加しましたが、それに対して100人以上の父母が付き添いを強く希望し、主催者側では断るのに苦労したそうです。ある31歳の女性参加者の母親は次のように言いました。「よそで何を食べたり飲んだりするのか、心配です。雨が降って風邪でもひいたらどうしますか。」この世代は一人っ子が普通なのでこういうお母さんも出てくるのでしょう。大学を出て就職すると最近の会社はどこも忙しく、結婚相手をさがす時間もチャンスもなかなかないので、本人よりも親たちの方が焦って心配するケースが多いそうです。
 このほか、普段は夕方から混雑するアスレチッククラブへ、この連休中は予約なしに朝から行ってもゆっくりインストラクターの指導が受けられたという人たち、図書館へ家族連れで行って1日過ごした人たち等もあります。数年前まで上海の庶民の暇つぶしと言えば、マージャンとトランプぐらいしかなかったようですが、若い世代の上海市民のレジャーには漸く多様化の傾向が見られるようになってきたということでしょうか。

中国のサッカーファン  

  一方、ちょうどサッカーのワールドカップと5連休が重なったことは、サッカーファンにとってとても嬉しいことでした。あるIT企業に勤める楊さん(男性、26歳)はイングランドチームのファンなので、金曜の夜中に始まるイングランドの観戦に最良のコンディションで臨むため、木曜は一日中寝てたっぷりと睡眠を蓄えました。夕方から友達数人を誘いカラオケハウスの一室を一晩借り切って試合とカラオケを堪能したそうです。このほかワールドカップが観戦できる大型のバーなども楊さんのような多くの若いサラリーマンたちで夜明けまで賑わいました。
 テレビや新聞などでは、「サッカー病」にならないよう適度な休養や睡眠をとるようにと市民に呼びかけています。上海の主な医療機関でここ数日間に検査を受けた人のうち、血圧上昇、脈拍が速過ぎる、胃潰瘍、頚椎病、脂肪肝等の症状が見られる人が昨年の同時期より3割がた増えていることがわかりました。これらの多くは睡眠不足、長過ぎる観戦時間、不規則な飲食などが主な原因と見られる「サッカー病」だと専門医は分析しています。実際、地方から上海へ出稼ぎに来ていた38歳の男性が、友人とテレビでサッカーを観戦しながらビール2本と白酒(パイチウ/穀物を主原料とする度数の高い蒸留酒)150ccほどを飲んだ後、急性アルコール中毒で死亡したという報道もありました。

 中国のサッカーファン



 ともあれ今回の「小黄金週間」は総じて評判がよく、一般市民も、市内の各種公共サービス・管理部門関係者も、割合ゆったりと過ごせたようです。今後は全国統一の7連休を実施するより、各地方で時期をずらしてはどうか、いや、レジャーや旅行は本来個人や各家庭が自由に計画すればいいもので、特に黄金週間や小黄金週間にこだわる必要はない等の論議も生まれました。
 残念ながら我が家では、特にこれといった「小黄金週間」ならではの良さは見られず、普段の休日と変わりありませんでした。中国人の夫の両親は70代で、毎日が日曜日ですから、父がサッカーを夜中まで観戦しているのを除けば、連休でも連休でなくても、いつもと変わらない生活です。夫は5日間のうち1日は会社の当直で出勤、1日は友人と親戚数人が遊びに来て、他の3日間は趣味の大工仕事をして過ごしました。サッカーはやはり毎晩見ています。私はと言えば、お客さんが来た1日を除けば、普段とあまり変わらずボーっと過ごし、時折大工の助手をしたぐらいのものでした。やや情けない気はしますが、上海の主婦としては案外こういうのが多数派なのではないかと勝手に納得もしています。

中国のサッカーファン

 

2006年5月号

 

【 上海の治安 】


 上海は、中国の中で最も治安が良い街だと言われ、最近は東京より安全なぐらいだと言う人もいます。通常は、夜の10時や11時を過ぎて女性が一人歩きしても、まず襲われる心配はありません・・・・
 


 


中国の婦人警官

 ところが、そう言っていた私自身が、10日前に強盗に遭ってしまったのです。その日の午後2時過ぎ、自宅の書斎で翌日の通訳業務のための準備に没頭していたところ、開いているドアから、廊下に何かの動く影が見えたような気がしました。部屋を出てみると、既に見知らぬ若者がそこに立っているので、私はご丁寧にも「何の御用ですか。」と訊ねていました。「あるだけの現金を出して下さい。あなたを傷つけるつもりはありませんから。」と言うのを聞いてやっとどろぼうだとわかり、逃げようとしたらその後ろにもう一人同じぐらいの年恰好の若者がいて、二人がかりで私の腕をつかんで壁まで追い込んで来ます。「一人だったらなんとかなるけど、二人がかりだとこっちが負けるなあ。」などと思いながらもしばらくもみ合い、私は大声で「ギャー」と叫んでいました。
「大声を出さないで。僕らはナイフを持っています。」と言いながら二人ともポケットを探るような手つきをします。それを見ると数日前に近所で殺人事件があったという話を思い出し、急に怖くなりました。私は自分が日本人であり、普段一人で買い物に行くことはあまりないから、通常現金は家に置いていないことを説明し、銀行へ行ってお金を下ろすから一緒に行こうと勧めました。もちろん相手はその手に乗らず、とにかくあるだけの現金を出せ、の一点ばりです。「ちょっと待って、よく思い出してみるから。どこに現金があったかなあ。」と私が言うと相手は、「そうそう、よく思い出して。」などと言いながら、別に私を殴るわけでも束縛するわけでもなく、全く普通の会話を交わしました。

銀行の窓口      

 早く帰ってもらいたいので、結局ありったけの人民元200元余り(約3,000円相当)と、別の財布にあった日本円6万数千円を渡しました。最初彼らは、日本円ではだめだと言っていたのですが、実際それ以上の人民元はなかったので、「日本円でも人民元に換えられるのよ。外灘(ワイタン/上海の中心部)の中国銀行の前に行けば黄牛(ホアンニウ/やみ屋)がたくさんいてすぐ元に換えてくれるんだから。」と言うと、相手はやっと納得して日本円を受け取りました。ただ私が差し出す日本円を受け取るだけで、それ以上自分から捜そうとはしないし、引き出しやタンスの中をかき回すわけでもありません。そこにあったデジタルカメラと日本の大型の爪切りに興味を示してしばらくさわっていましたが、それらを持って帰ろうとはしませんでした。そして「僕たちも仕方なくこうしているのです。僕らには両親がなく、地方から出てきて、実は僕らも金を盗られて一銭もなくなってしまったからなのです。」と言うので、私は少し同情さえしそうになりました。それでも一人がテレビのアンテナ用ケーブルを引き抜いてきた時は、一瞬首を絞められるのかと怯えましたが、私を縛り付けておこうとしたらしく、もう一人が「大声を出さないと約束するなら縛りません。」と言うので私は約束しました。彼は私の右手の小指から血が出ているのを見て「ああ、怪我をさせてしまったのですね。申し訳ない。大丈夫ですか。」などと心配そうに言うので、私は「大丈夫、気にしないで。」などと間抜けた返事をしていました。最後に出て行く彼らの背中に向かって我ながら空々しいと思いながらも「もう二度とこんなことはしないようにね。まだ若くて将来があるんだから。」と言うと、「わかっていますよ。」という返事が返ってきました。

     刑事ドラマ

 その後私はしばらく呆然としていてから、とにかくすぐ隣の両親の家にいるお手伝いの陳さんに簡単にいきさつを話し、夫に電話をし、それからやっと110番しました。私の気持ちとしては、大した損害も怪我もないので、110番する必要があるかどうかも迷うほどだったのは、考えてみると、自分では冷静なつもりでも、実際には常識的な感覚を失っていた証拠なのかも知れません。
 電話をしてから5分もしないうちに、警察の人たちがあとからあとから駆けつけ、全部で30人も来てくれました。外国人が被害に遭ったためやや特別扱いだったようです。そのうちの半数ぐらいの人たちからそれぞれ事件の成り行きを聞かれ、そのそれぞれに同じ説明を繰返し、指紋や足跡の採取が行われた後、近くの警察署へ行って改めて事情聴取を受けてその記録に署名し、その日は終わりとなりました。
 翌日早速刑事さんから電話があって、犯人が捕まったと言うので、上海の警察はすごいと思ったけれど、持って来られた写真で確認したところ、残念ながら別人でした。
家族たちの意見によると、彼らが地方から出てきた云々というのは全くのうそっぱちだと言うのです。そう言われればおかしな点がいくつもあります。例えば、私が着けていた金のペンダントに触ってみながら、取ろうとしなかったこと、ノートパソコンやデジタルカメラその他すぐ現金に換えられそうなものも、数十元の小銭も目にしながら「いらない」と言ったこと、確かに、もし本当に地方から出てきて一文無しになって困っているなら、これらの品物を見逃すはずはないでしょう。引き出しやタンスを2〜3ヶ所開けて見てはいましたが、いずれもまるでお愛想程度で、本気で捜しているようには見えなかったことも少し不自然に思えます。それに最初に数分もみ合った以外は、暴力もふるわず、ナイフを持っていると言いながら一度も取り出さず、中国の普通の善良な若者と変わらないように見えるし、少しも犯人らしいところは感じられませんでした。もしかしたら、彼らが言った通り、本当に困って初めてどろぼうを働いたのかも知れませんし、全く逆に熟練した犯罪のプロなのかも知れません。
 うちには中型の雑種の犬が2匹いて、その時も吠えていたのを陳さんは聞いているのですが、まさか真昼間からどろぼうが入るとは思わなかったそうで、また犬たちも吠えるだけで噛み付かなかったわけです。つまり犯人たちは犬好きなのかも知れません。今後は早急に防犯センサー等を取り付け、凶暴なシェパードを1匹手に入れなければならないと考えています。
 上海の街中を歩く時は、眠っていた本能を全て呼び覚まして、あらゆる角度に気を配りながら歩くようにしなければならないことは、前から私にもわかっていました。車も人もやたらに多くて歩行者に親切な街だとは決して言えないし、日本では空気のようになっているその他さまざまなサービスやインフラ等が、こちらでは言わば自分で積極的に勝ち取らなければ得られないようなところが多々あるからです。要するに、人間が多いのにそれに見合うだけの経済基盤が整っていませんから、自然と生存競争が激しくなるためではないかと思います。
 でもこれからは街に出た時だけでなく、家に一人で居る時もちゃんと五官を研ぎ澄まして、本能を働かせ、注意深くしなくてはならないということでしょう。私のような、呑気でお目出度い人間にとってはかなり気の重いことではありますが、何とか自分を鍛えてこの社会に適応していきたいと思っています。

 

殺人容疑者が捕まったところ   

 

2006年4月号

 

【 清明節と元宝 】

 

 中国で、4月5日(年によっては4月4日)の清明節前後の時期は、春節(旧正月)の「民族大移動」に次いで、人の往来が激しくなります。この清明節は、日本の春分や秋分の「お彼岸」と同じようなもので、どこの家でも親戚一同が揃って先祖のお墓参りに出かける季節だからです。今年は3月18日(土)から4月16日(日)頃までがその時期に当たりこの間のピーク時には、例えば鉄道の上海駅と長距離バスターミナルを合わせると、1日延べ約50万人が上海から近郊の蘇州などへお墓参りのために移動しました。毎年このことが話題になるのですが、私の記憶によるとお墓参りに出かける人が前年より増えたというニュースを毎年耳にします。中国人がそれだけみんなご先祖様のお祭りを大切にするようになったということでしょうか。あるいは生活にゆとりができて来たということかも知れません。


 


「清明上河図」の一部分(11世紀頃の作品と言われている)

 この清明節には「踏青掃墓(ターチンサオム/青い草を踏んで墓を掃除する)」と言って、お墓参りと同時に春のピクニックを楽しむような習慣もあります。一説には、こうした習慣は約2000年前の漢の時代には既に定着していたとも言われています。社会主義の中国になってから、文化大革命に代表されるような政治運動によって、古い習慣が全く否定された時期がありましたから、今や自由で開放的な時代になって、みんなが自然に伝統的な風習を見直すようになったためもあり、年々盛んになるのかも知れません。10代や20代の人たちも、ちゃんとこの行事には参加しています。最近はピクニックというより、お墓参りが終わるとみんなでレストランへ行きゆっくり食事をすることが多いようです。親戚中の人がレストランで何十種類もの料理を囲んでにぎやかにやるのですから、子供も大人もある程度楽しめます。


 上海の場合は、蘇州やその他の地方にお墓を持っている家もありますが、上海市内にも何ヶ所か大規模な墓地公園があって、そこにお墓がある家もたくさんあり、こうした事情は日本の都市部とほぼ同じです。ただ文化大革命の時期に昔の墓地が徹底的に破壊されたり、その上に新しい施設が建てられたりしたため、日本のような古いお墓はなく、墓地公園にあるお墓は1980年代以降にできた新しいものばかりです。こちらの親戚の人たちから、日本のお墓参りも同じか、とよく聞かれます。お花や果物などをお供えしたりお線香を焚いたりするのは同じですが、一つ明らかに違うのは、中国ではお線香の他に必ず「冥幣(ミンピー/1億元札や1,000万ドル札まである)」や「元宝(ユアンパオ/昔の銀貨)」など紙でできたお金を燃やすことです。亡くなった人があの世でお金に困らないようにできるだけたくさん燃やすのがいいと聞きました。親戚中の人が持ち寄るので多過ぎた時は、その家のお墓から少し離れた通路でもこれらのお金を焚きます。これはあの世でご近所の人たちにもお裾分けし、よい関係を保つためなのだそうです。亡くなった人のことを静かに思い、哀しむだけではなく、こんな風にお金をお供えするのは、いかにも中国人らしく現実的で行動的で、ユーモラスにも思えて、私はなかなかいい習慣だと感じています。


                 
「踏青掃墓」に出かける人たち       

 

 この紙のお金の中で「元宝」は、「錫箔(シポ)」と呼ばれる銀色の紙を折り紙のように折って一つ一つ手作りで作ります。これはなぜか女性の仕事で、男性が折っているところは見たことがありません。こちらの叔母たちの説明によると、「男にはそんな忍耐力がないから」なのだそうです。折るのは半端な数ではなく、普通1回のお墓参りのために一人で何百個も作ります。私はこの折り紙の習慣も好きです。死者のためにできることがあるというのは随分慰めになるし、また相当の手間ひまをかけて作り上げたものを一瞬のうちに燃やしてじっとその炎を眺めるというのも、やってみると何とも言えない一種のすがすがしい気持ちになれるからです。




     「錫箔」で折った手作りの「元宝」
 ただ上に述べたのは、上海とその近郊の江蘇省や浙江省あたりの都市部の習慣で、北方内陸部の農村へ行けばまたそれぞれ習慣が違ってきます。例えば河南省の農村部などでは、やはり清明節にはお墓参りをしますが、一族を代表して誰か一人だけ行き、豚肉の塊一つと饅頭(マントウ)を10個ほどお供えするだけなのだそうです。それでもやはり、お線香と紙のお金を焚くことだけは欠かせません。上海のようにお墓参りのついでにピクニックを楽しむような習慣はないそうです。
 このほか、上海のある大きな病院で聞いた話ですが、毎年清明節になると不思議なことにお年寄りで亡くなる人が、必ず普段より目立って増えるそうです。それは先に亡くなった親しい人が呼ぶのだと言う人もいます。もっとも、長い冬が終わりやっと春が来てほっとしたところに、季節の変わり目で突然気候の変動が起きることがあり、体力が弱っているお年寄りにとっては大きな負担になるためだという科学的な説明もあります。
 確かに、清明節になると木々が芽吹き花々が咲き乱れ、すっかり暖かくなって一気に春が来たことが実感されます。こんなに生命感が溢れる季節に、普段はとても現実的でドライで、感傷的なところなど少しもないように見える中国人が、お年寄りも若い人も毎年必ず万難を排して神妙にお墓参りをし、亡くなった人たちをしのぶ・・・なんだか矛盾しているような意外な感じを受けるのですが、中国人の心の底の方では、生と死がごく自然につながっていて、どちらも現実として深く根付いているのかも知れません。長い間続いてきた清明節の「踏青掃墓」の習慣は、時代が変わってもずっと受け継がれていくことでしょう。
      

 

 

昨年黒龍江省の農村で掘り出された本物の「銀元宝」
(1,900gの純銀製/1905年に発行された通貨)

「元宝」のレプリカ

 

2006年3月号

 

【 挨拶の言葉 】

 先日のニュースで、上海でタクシーに乗った張さんという若い女性が、車を降りてから、指輪を落としてしまったことに気づき、タクシー会社に連絡して、無事手元に戻ったという話を聞きました。張さんは、ちゃんとレシートをもらっていたので、タクシー会社に届けると、乗ったタクシーとすぐに連絡がとれました。その運転手はさがしても見つからないので会社に帰って同僚と一緒に車内のすみずみまで丁寧に掃除機をかけ、ついに吸い込んだゴミの中から、20万元(約300万円)もするという張さんのダイヤの指輪を見つけ出したのです。
 もちろんタクシーの運転手さんにも色々な人がいますが、上海のタクシー会社では、サービス向上のために様々な努力をしているようで、私個人の経験では、最近はタクシーに乗るとまず「?好(ニイハオ)!どちらへ?」という言葉が返ってくるようになりました。昔日本で中国語を学び始めた頃、「中国人同士は?好なんて滅多に言わない」と聞き、そんなものかなと思っていたのですが、こちらへ来てみると案外そうでもなくて、みんなけっこう普通に使っていることがわかりました。「こんにちは」という意味に当たるわけですが、日本語の「こんにちは」よりもっと広く使えるように思います。例えば電話で話していて、途中で受話器を置いて相手を待たせてから、再び受話器を取った時は、日本語では「お待たせしました。」ですよね。でも中国語ではその間数秒しか経っていなくても「?好!」と言って話し始めるのが普通です。確かに短くて便利な言葉ではあります。もちろん家族の中で「?好」と言うことはまずありませんし、友達同士など親しい間柄でも普通は言わないようです。日本語の「こんにちは」も家族にはあまり言いませんよね。

 

上海のタクシー
 昔中国語を習い始めた頃に聞いたもう一つの話は「中国人は昔から食べていくのがおおごとだったので、挨拶として『ごはん食べましたか』と言う」ということでした。この言葉は観光に来た程度では、なかなか聞けないのですが、こちらで生活してみると確かに挨拶代わりに使われていることがわかりました。朝近所の顔見知りの人に出会うとよく「吃過了(ツクオラ/食べましたか)?」と声をかけらます。でも私はまだこの言葉を近所の人に自然に言える程には熟練していません。「食べましたか?」ときいて、相手が「まだなんです。」と答えてきた場合には「じゃあうちでどうぞ。」とでも言わないと悪いのではないかと思うのですが、そこまでやってられないよなあと思うからです。そこで、近所の人に「吃過了?」と聞かれた時に「還没有(ハイメイヨウ/まだです)。」と答えてみたことがありますが、その人はふんふんとうなずいただけで行ってしまいました。つまりこの挨拶はいわば日本語での「いいお天気ですね。」とか「よく降りますね。」の代わりのように使われるようです。私は最初の頃、朝近所の人に会うと「今天天気很好(きょうの天気はいいですね)!」などと言っていたのですが、それに対する反応はまったく素っ気無いもので、日本人のように「ほんとですねえ。」とは言ってくれません。中国人の家族に「いいお天気ね。」と言っても「それがどうした。」と言わんばかりです。これも日本と中国の習慣の違いなのでしょう。

                 
近所の子供たち      

 このほか挨拶の仕方で違うのは、こちらでは相手を呼ぶだけでそれが挨拶になるということです。よく子供にお父さんやお母さんが「叫過了?(呼んだ)?」「叫?姨(おばちゃんって呼びなさい)」と言っているのを聞いたことがあります。これは日本式に言うと「ちゃんとご挨拶した?」とか「こんにちわって言いなさい。」という意味に当たります。この挨拶はちょっと難易度が上がります。中国では親戚の人の呼び方がとても複雑だからです。例えば、日本語では「おじさん」「おばさん」で済むところを、中国語では、父の兄は伯伯(ポーポ)、父の弟は叔叔(シューシュ)その奥さんは??(シェンシェン)、母の兄弟は舅舅(チウチウ)、父の姉は姑姑(クーク)、父の妹は娘娘(ニャンニャン)、母の姉妹は阿姨(アーイ)と区別し、さらに例えば母に兄弟がたくさんいる場合は上から順に「大舅、二舅、三舅・・・小舅」などと細別しなければなりません。いとこにしても、母方か、父方か、男か女か、上か下かで、漢字も発音も全て異なります。小さい頃からこうやって、自分と相手との関係を覚えていくわけですね。親戚関係ではなくても、近所の人に会った時や外で道を聞く時などにも、例えば母親と同年輩かそれ以下の女の人には「阿姨」、父親より若い男性には「叔叔」などと呼びかけるように子供には教えます。例えば私など、夫の両親と同じ敷地内のすぐ隣の家に住んでいますが、「おはようございます。」とは言わない代わりに、見かけるたびに1日に何回でも「??(パーパ)」「媽媽(マーマ)」と呼びかけます。最初にそれが礼儀だと教わったことがあるからです。もっともこれはタテマエのようで、夫がそう呼びかけているのはついぞ聞いたことがありませんが。でも少なくともこちらの子ども達はだいたい忠実にそれを実行しているようです。

     小学生
 食事の時の挨拶の言葉はまた違います。「いただきます。」「ごちそうさま。」に当たる言葉は中国語にはありません。家族だけで食べる場合は、何も挨拶はしませんし、誰かお客さんが加わった時でも、始まりはみんな「吃、吃!」「吃、吃、吃、吃!」とお互い何回も「食べよう」を連発し合ってから食べ始めます。そしてもし自分がお客さんより先に食べ終わった場合は、お客さんに向かって「慢慢吃(マンマンツ/ゆっくり食べてね)」というのが礼儀です。これは言う人と言わない人がありますから、もし皆さんも中国人と一緒に食事をする機会があったら、さりげなくこの言葉を使ってごらんになって下さい。きっと思いやりのある人だと評価されることでしょう。       

 

 

2006年2月号

 

【 中国のバレンタインデー 】



 2月14日のバレンタインデーが中国で「情人節(チンレンチエ)」つまり「恋人の日」として、一般に知られるようになったのは、ここ数年のことです。上海あたりでは男性が女性にバラの花束を送るのが主流で、それも本命ばかり、義理チョコなどという概念はまずありません。今年上海のオフィス街では、ちょっと新しい動きがあったそうで、それは、どうも今年は誰からも花束が来ないだろうと思うと、こっそり宅配便の会社に電話して自分宛の花束を注文する女性が増えたというものです。つまりこの日は、男性がお目当ての女性の職場宛に花束を贈るのが、上海流らしいのですが、年頃の女性は、一つも自分に宅配便が届かず同僚の間で面子がなくなるのを避けるため、先に手を打っておくわけです。バラの花のほかに、日本と同じくチョコレートを贈ることもあります。甘―い思いを伝えようというわけですね。

今年の新商品―下着とハンカチでできたバラの花束 

 

 それからもう一つ、これは今年上海で本当にあったお話だそうです。
 OLの玲玲(リンリン)は、バレンタインデーが間近に迫ったある日、会社から帰るとドアの隙間に手紙が挟まれているのを発見、開けてみると「朝に夕べにあなたのことを想っています。明日午前9時に中山百貨店の前でお会いしましょう。久しくあなたをお慕いしている者より」と書いてあるではありませんか。玲玲は、「もちろんこれは誰かのいたずらに違いない。エープリルフールでもあるまいし、ふん、面白くもない冗談だわ。」と思い脇に投げやっておきました。生まれてこのかたラブレターなんて1回ももらったことはないし、学校の成績も悪かったから別に注目されてもいなかったし・・・。今時、手紙で気持ちを伝える必要なんかない、面と向かって言えばいい。とにかく私には一生ラブレターなんて無縁だわ。そう言えば昔、同級生の子たちとぐるになって偽のラブレターを書いて、ある女の子をからかい、その子は何日も眠れなくなるってことがあったっけ。その手には乗らないわ・・・。
しかし数分後、玲玲は再びその手紙を拾い上げ、一体誰が自分をからかおうというのか、じっくり筆跡鑑定をしてやろうと思いました。それがまた、端麗な文字でわずか2〜3行の中に的を得た内容が表現され、見ていると一定の教養と品位さえ感じられてくるのでした。それにしても一体誰かしら・・・。疑わしい名前を次々思い浮かべてみましたが、結局一晩中考えたのに、それらしき人物に思い当たりません。翌日は週末で何もすることがないので思案の末、ええい、そのけしからんやつを捕まえに行ってやれ、と思いました。約束の時間より30分も前に出かけてみると、中山百貨店の前は既に大勢の買い物客でごったがえしていました。やられたわ、こんな騒がしい場所で誰が本気でデートの約束なんてするもんですか。
 玲玲が憤慨しながら帰ろうとしたその時、突然心臓がドキドキし始めました。なんと、ずっとひそかに想い続けていた、同じアパートの向かい側に住む独身の男性が、あそこに立っているではありませんか。どうしよう、と思っていると、向こうもこっちに気づいてさっと近寄り、「あのう、待ち合わせに来られたのですか。」「えっ、まさかあなたも・・・。」彼は微笑みながらうなずき、玲玲は嬉しさの余り倒れるかと思うほどでした。
 それから二人は食事をし、街をぶらつき、映画を見ました。そして玲玲が、なぜ自分を好きになったのか、それにまたどうしてラブレターでデートの申込みをしようなどと思いついたのかと、聞き出すひまもないうちに、素敵な楽しい一日はあっと言う間に過ぎてしまいました。
二人揃って帰ってみると、同じアパートの住人が、入口でガードマンの人に声高に抗議しています。「ビラまきの人を勝手に入らせていいのですか。住民の安全を何だと思っているんです。昨日、この棟全部にこういう広告が入っていたのですよ。今時の広告会社はますます狡猾になってきた。手紙でデートの待ち合わせをするように見せかけて、実はデパートへ呼び寄せようというのですからね。」そう言いながらその人は、玲玲たちにもその広告を見せてくれました。それはなんと、玲玲が受取ったのと全く同じラブレターだったのです。玲玲はやや緊張しながら、連れの方を振り返りました。彼も不安げに彼女を見ましたが、5秒間ほど顔を見合わせていた二人は、突然一緒に大声で笑い出してしまったそうです。
 ところで、ガードマンに抗議していた、その中年の男性も、やっぱり待ち合わせ場所へ行ったのでしょうか。 

 

良縁を願う風水チョコ

 

あるレストランの バレンタインデー・ディナーのメニュー(個室で、2人分699元=約1万円)

 

2006年1月号

 

【 出稼ぎの人たち 】


 今年も中国では春節(旧正月)の「民族大移動」が始まりました。今年は延べ20億人が中国大陸を移動すると予想され、そのうちの大部分18億人以上が長距離バスでの移動、1億人強が鉄道での移動とされています。恐らく実際には鉄道とバスを乗り継ぐ人がかなりいるものと考えられ、バスより鉄道の方が比較的安全ではありますが、内陸部には鉄道が通っていない地域も多く、また都市部から内陸部への直通長距離バスの方が圧倒的に本数が多く便利なためこちらの方が主になるのでしょう。日本ではなかなか想像がつきにくいのですが、この時期、鉄道運賃が需要と供給の関係で値上がりしたり、その切符を買うために寒い外で徹夜をして並ばなければなりません。バスにしてもターミナルへ行って何時間も待ったり、当日無理なら翌日出直すなど、長距離を移動したい人は相当苦労しています。こうした大移動をする人たちの多くは農村から都会へ出稼ぎに来ている人たちです。もちろん飛行機なら電話で予約して自宅までチケットを届けてもらうこともできますが、飛行機で移動できる人は20億人のうち1,500万人に過ぎません。


鉄道で移動する人たち

 

 我が家の保母(パオム/お手伝いさん)の陳さんも、上海から1000km程度離れた河南(ホーナン)省から出稼ぎに来ている人です。38歳、故郷の家には夫とその父及び11歳と15歳の子ども達がいます。陳さんは小さい頃遊ぶのが好きで学校が嫌いだったため、読み書きができません。やはり色々と不便を感じるので、子ども達にはちゃんと学校へ行ってほしいと思っており、15歳の娘は勉強好きで中学校の成績もよいのですが、11歳の息子が自分と同じく遊び好きで学校嫌いなのをちょっと心配しています。我が家では春節の大晦日から親戚の人たち数十人が集まって数日滞在するのが常なので、彼女とは最初から春節には田舎には帰らない約束で、既に昨年の中秋の節句から2ヶ月間休暇をとって家に帰っていたので、本人は「あんなに苦労して田舎へ帰るよりは上海に居る方がましだ。」と言っています。強がりもあるかも知れませんが、実際上海から陳さんの家までは長距離バスで1日半ほどかかるからです。

 中国語で「有本事(ヨウベンス)」という言葉があります。その意味をぴったり表現できる日本語はなかなかなく、敢えて訳すなら「実力がある」とか「才覚がある」などの意味が近いのかも知れませんが、私はかねがねこの陳さんこそ「有本事」だと思っています。例えば、ある朝のこと、陳さんが「どうしよう、どうしよう。」と焦っているので理由を聞くと、我が家の鍵を一束そっくり川に落としてしまったというのです。このコーナーの10月号でちょっとご紹介しましたが、私たちの住む上海の浦東(プートン)新区はもともと江南(チアンナン)の水郷地帯だったので、家のすぐ横に幅30mほどの川が流れています。場所によっては大人が溺れるほどの深さもあり、泥で濁って底は見えません。陳さんは毎朝モップを洗うのに水道より便利だと言ってもっぱらこの川で洗っているのですが、ふとした拍子に鍵を落としてしまったのだそうです。そこで私が必死で考えついた解決方法はせいぜい「魚捕りの網ですくう」それでだめなら「合鍵を作るからいいわ」だったのですが、陳さんは「網は絶対だめ、鍵に当たるとどんどん底に埋まってしまう。それより磁石がいい。」と言うのです。「じゃあ磁石を買って来ようか。」と私は思っていたのですが、陳さんはどこからともなく5〜6センチはある太くて大きな磁石を探し出してきて紐をくくりつけています。そして川の中へするすると磁石を下ろしたかと思うと数秒後にはもうピタッと鍵の束を吸い上げていました。本当に相当広くて深い川なのですよ。
 

家の横の川

 またある時、うちで飼っている小黒(シアオヘイ)という犬の鼻の周りに小さい小判禿げがいくつも出来始め、それがだんだん全身へ広がっていったことがあります。それがまたもう一匹の小黄(シアオホアン)にも感染し出したのです。近くに犬猫病院はないし、どうしようもないなあと思っていると、陳さんが「このままだとだんだん弱って死んでしまうよ。これには車の廃油を塗ればいい。できるだけ黒くなった廃油がいいのよ。」と言い出すのですが、家族たちは誰も相手にしませんでした。でも小判禿げはどんどん増える一方だし他に手立てがないので、陳さんの言う通り、嫌がる犬たちを押さえながら二人がかりで禿げの部分に廃油を塗ってやりそれを2週間ほど続けました。すると禿げの部分に少しづつ毛が戻り始め、しかも新たな禿げの増殖もなくなったのです。数ヶ月後の今、もう禿げは跡形もなく小黒など前よりもっと黒々と色艶が良くなったようにさえ思えます。
 陳さんと一緒に木の植え替えをやった上海育ちの息子なども「陳さんは土のことなら何でも知ってるよ!」と言って敬服していました。また毎日夕食の時に、お見合いのやり方、葬式に呼ばれるプロの泣き女のこと、お墓の近くで幽霊が出ること、落花生や小麦の収穫の様子、集中豪雨で家が浸水した時のこと等々、私たちの質問に応じて彼女は自分の故郷の話を色々と聞かせてくれるのですが、各種の成語や諺などを駆使する語彙と表現の豊かさに私はいつも圧倒されています。さすが五千年の歴史を誇る中国の農民だと思うのです。
 こうした無数の農民の人たちが大移動を開始する時期が今年もやって来ています。

        「小黄」

                                       
新春の飾り物

 



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