沖縄はじっこ旅(全4回予定)
@初夏のサイクリング
ダティクチデイを後にして,祖納へ。祖納では2箇所,見てみたい場所があるので,それを探さねばならない。そのまま勢いよく海岸沿いの道を進んでいくと,左側の丘には亀甲墓や破風墓,また本土で見られる直方体の墓石が数多く見えてきた。地図で見ると,このあたりを「浦野墓地群」と表記しているので,それがここなのだろう。
と,道が突然途切れた。左に曲がれるようだが,何とかまっすぐにも行けるみたいだ。なので,まっすぐ行くが,行きついたのは単なる空地。巨大なクレーン車が置かれ,少し離れたところにはテトラポットがたくさん積まれている。だだっ広い空地で転回しようとすると,左には突然フランス・パリの凱旋門みたいなアーチ門が現れる。これは,上記の私が見たかった場所の一つだ。さっき曲がろうかと思った道には空地からダイレクトに行けなさそうなので,面倒でも転回していくことになる。
このアーチ門,赤レンガでできていて,高さは10m程度,端から端までは8m程度といったところか。緑が生い茂っていて,アプローチの奥には円錐形の屋根が見える。この島には似つかわしくない,ちょっとした豪華な屋敷に見えるが,実はこの建物,個人の墓なのである。推定1億円で,電話があるともクーラーがあるとも噂がある。門の取っ手がロープでくくられているため,中には入れない。ま,個人の敷地であることを考えれば,そりゃ当然だろう。墓なんて特別な用事がなきゃ入らないものだ。
そもそも,大きな家を建てて欲を満たすというのは,人間…特に男性の“ロマン”と言えるだろうが,沖縄のように墓を家と同等にみなす風習があるところでは,それを体現するとこういうことになるのだろう。昔の豪族やら皇族が“○○古墳”というやつでやったことにも似ているが,決定的に違うのは,今ではどんな人間でも金を積めばできるということか。まあ,1億円なんて金をこの島で稼ぐには,相当苦労しなくてはならないだろう。あるいは他の場所で汗水たらして働いて,故郷のこの地に建てたのかもしれないが,自分の力で建てたのだろうから,誠に正当な行為であり,誰も何も文句など言う権利は生じない。
それこそ,昔では役人が「何だ,これは?」と言って,改築だの取り壊しだのを命じられたことだろう。今は,「何でもあり」と言っては語弊があるだろうが,土地をきちっと買ってしかるべき税金を払えば,その土地で何をしたって構わない。無論,周囲への環境配慮くらいはする必要があろうが,ここに関しては,周囲には海と空地以外何もないのだし,むしろこんな凱旋門みたいな派手さくらい,可愛いものかもしれない。
墓地を後にして道をまっすぐ進むと,集落に入る。コンクリートの平たい建物と,古い瓦の家に珊瑚の石垣というのが混在する街並みだ。間違いなく祖納の街の中に入ったのだろうが,はてどこで曲がったりすればいいのか分からない。所々看板はあるのだが,もらった地図を眺めても地理感覚がつかめない。そして,曲がるきっかけを失っているうちに,道は行き止まりに。目の前に川と小山が広がった。とりあえず,1台だけだが左から右に車が走っていたので,私もその流れに従う。この川は田原川(たばるがわ)という川で,ちっこいが,一応マングローブもあったりする。

川沿いに右に向かうと県道216号線に出て,と同時に「←ティンダハナタ」の看板。でも,その看板は角度の加減か,ちょっとすれば見逃してしまうような位置だ。ひとまず見つけられたのは幸運だった。ここもせっかくならば見ておきたいので,左折する。
上り坂を1分ほど登ると,間もなく右手の茂みに,2〜3台程度停められる駐車場らしきスペースを見つける。が,どこの観光案内にも載る景勝地がこんなチャチなパーキングではあるまい,と思って道なりに左にカーブしてしまったが,再び坂道は下りになって何もない平坦な場所になってしまう。どうやらさっきのところがティンダハナタへの駐車場となるようだった。
そのチャチな駐車場に車を置き,遊歩道に入る。が,足元はよくない。舗装道みたいに踏み固められているが,周囲はさまざまな木に覆われて薄暗いし,鳥が飛び交い虫も飛び交う。実は動物や虫が苦手な私なので,あるいは途中で引き返すつもりで歩いていたが,まずは「サンアイイソバの碑」を発見する。そういや,正月の特番で島崎俊郎氏とかが与那国を訪れていたのだが,ここにも来ていたことを思い出した。
サンアイイソバとは,1500年ごろにこの与那国を統治していたという女性酋長のことだ。ちなみに「サンアイ」という村の「イソバ」という名前の女性ということらしい。巨大だっただの,乳房が四つあるだのと,いろんな伝説に彩られた人物だ。歴史の本にも出てくる人なので,多分何がしかの形で実在したのだろうと思うが,いろいろと謎に満ちた部分も多い人物だ。
何でも,自分の弟4人を島の各村の長にして,自らはこのティンダハナタに住んでいたとされている。きっと,この高台から祖納あたりを見下ろしていたかもしれないが,決して暴力で専制君主になったわけではないらしい。荒地から新田を拓いて牛を飼い,自ら作物を収穫したり,牛の水飲み場の掃除もしたりときわめて働き者で,しかもそれを時間内に見事にこなしたという。自らが手本となることで,村民の支持を集めたとされている。あるいは,神に仕えし祝女(ノロ)だったという説もある。
その彼女が力を発揮したのが,ちょうど中央の琉球王朝が宮古や八重山に進出してきたあたりのこと。悪夢にうなされて目が覚めた彼女は,自分の兄弟が,仲屋金盛(なかやかねもり?)という将軍が率いる宮古からの軍に殺されて,村が焼き払われているのを見る。早速,その金盛に会ったイソバは力任せに金盛を吊るし上げ,それこそ殺す寸前にまで問い詰める。
だが,ここからのやりとりが面白い。イソバは「自分の弟を生け捕りにしたのか,殺したのか?」と金盛に尋ね,金盛が初めは「殺した」と答えていた。だから,最初は彼女の逆鱗に触れて殺されかけたのだが,痛みに耐えかねた金盛はあわてて「生け捕りだ」と答えた。すると,普通はあり得ないはずだが,何と彼女は彼を解放してしまうのだ。彼女はあらためてその現場に行くと,村は焼き払われて兄弟は惨殺されていた。あらためて怒りをあらわにしたときはすでに遅し。金盛はどこかに隠れてしまい,その後島から脱出したということだ。
巧みな言葉…というか,実はとても単純なウソにだまされる形で,結局は侵攻軍の将を生かしたまま島から追い出すことになったイソバ。もちろん,金盛にしてみれば殺されかけたのだから,ほうほうのていで逃れたのかもしれない。また,宮古側の史書では「上陸せずに引き返した」という言い伝えもある。ただ,どちらにしても,このときに侵攻軍を完全に滅ぼしていれば,与那国はその後に琉球王朝に引き込まれることにならなかったかもしれない,と思うのは私だけだろうか。もちろん,何にせよ“言い伝え”の世界からはどうしても抜けられないのであるが,史実としては結局1522年,イソバの後に統治を行っていた「ウニトラ(鬼虎)」が,再び侵攻してくる宮古の仲宗根豊見親(「宮古島の旅アゲイン」後編など参照)らによって滅ぼされ,琉球国に吸収されてしまうのである。
前回
も似たようなことを書いたが,与那国島は地理的にも自治を余儀なくされた島である。どうせなら,そのまま独立国家として生きられれば,皆の手本となってリーダーシップを発揮したイソバという酋長がいたのであるから,さぞ平和な国として独自の文化が育まれたかもしれないではない。もっとも,単純なウソにだまされるという致命的なミスを犯した人間がリーダーだったのだから,遠かれ早かれどっかの国に組み込まれる運命だったかもしれないが。

そのイソバの碑の近くには「イヌガンの碑」なるものもある。この“イヌガン”もまた,島の伝説から来ている。おそらくは,1400年前後の話になるのだろう。久米島から当時の中山王に貢物をすべく船を出したら,嵐に遭ってしまった。で,流されるだけ流されて,やっとこさ緑の多い島に辿りついたが,それは本来行くはずの本島からはるか遠くにある,この与那国島であった。
船に乗っていた人間の詳細は明らかでないが(伝説だから,しょうがないか),話の流れ上,1人の女と1匹の犬だけは間違いなくいたようだ。で,この島で生活を始めるのだが,男が1人また1人と姿を消していき,残ったのは上記の女性と犬のみになる。何でも,犬が男を片っ端から噛み殺していたそうで,必然というべきなのか,ここから犬と女との奇妙な結婚生活が始まる。どうやら,その結婚生活の場というのが,碑のある辺りということなのだろう。犬と女の夫婦,乳房が四つある巨女……まさしく,言い伝えというものは想像豊かな限りだ。
さて,話は続きがある。何とまあ,突然登場してくる小浜島出身で,やはり荒天で漂流されてきたという男性の手によって,犬は殺されてしまう。でもって,今度は小浜島出身のその男と久米島から来た女性とで,新たな結婚生活が始まるのだ。2人は7人の子どもをもうけて,幸福な生活を送っていたのだが,実は男は小浜島に妻を残す身であり,やがて望郷の念にかられて小浜島に帰ってしまうのだ。その小浜島は彼の帰還に大騒ぎになり,妻も当然のごとく喜んだ。しかし,今度は与那国に対する望郷の念にかられてしまい,与那国に帰ってしまう。ある意味,どうしようもないヤツだ。
でもって,オチ。与那国に帰った彼は,妻から前夫である犬をどこに埋めたかを聞かれる。結婚当初にも聞かれて,そのときは嫉妬心や不安感からか教えなかった彼だが,7人も子どもをもうけていれば余裕だと感じたのか,その埋めた場所を教えてしまう。すると,妻はその日のうちに姿を消してしまい,次に彼が見つけたのは,その犬の骨を抱いて死んでいた妻の姿であった――哀しいっちゃ哀しい話だが,明らかに男の身勝手だか優柔不断だかが起こした結末である。でも,この7人の子孫から与那国島が栄えたという言い伝えがあるそうだから,大局的に見れば島にとってはよかった……かどうかは分からない。
さらに1分ほど歩くと,大きな岩がかぶさるように左に現れ,右手に景色がひらけた。なるほど,これがこのティンダハナタのメインである。海岸側からこの岩を見ると,緑のテーブルの上に乗っかるステーキみたいな形をしているようだ。上述・サンアイイソバも見下ろしたかもしれないこの場所からは,扇形の海岸線沿いに広がる祖納の街並みが美しい――久しぶりに出すが,三好和義氏『ニライカナイ 神の住む楽園・沖縄』(「参考文献一覧」参照)では,ここからの街並み写真が1972年と2001年の2パターン載っている。輪郭はまったく同じであるが,海岸線が大分埋めたてられてきているのと,藁葺きの家がゼロになったことだけは大きく違う。道も32年前は白くくっきり映っているが,おそらくはジャリ道だったのではと想像する。何だか,32年前のこの光景を生で見てみたい気もしてくる。
岩の下には祠があり,御嶽になっているようだ。そして隣には風呂の形をした石桶があって,涌き水がそこに流れ込み,そこからさらに下のほうに向けて自然な流れができている。この水があるいは田原川に注いでいたりもするのだろう。ご丁寧に,岩の隙間にパイプがはめ込まれていて,それが石桶の中に入るようになっているが,何が入っているか分からないので,口はつけなかった。さらにその先まで行けるようだが,キリもないだろうからもう少しだけ歩くことにする。
と,今度は巨大な銅板のレリーフが,連なってかぶさる岩の下にかかっている。ここからの景色もまた素晴らしい…というか,先ほどと同じだが,こちらにはなぜかベンチがある。レリーフには「讃・与那国島」というタイトルの詩。作者は八重山出身の詩人・伊波南哲(いばなんてつ,1902-76)。すべては書かないが,内容はというと,
「荒潮の息吹きに濡れて/千古の伝説をはらみ/
美と力を兼ね備へた/南海の防壁与那国島(中略)
おお汝は/黙々として/皇国南海の領護に挺身す
る/沈まざる二十五万瀬の航空母艦だ
                紀元二千六百三年三月」
と,思いっきり戦意高揚の内容である。「紀元2603年」なんて書いていること自体が,何とも“右寄り”であるが,西暦でいうと1943年に当たる。ちょうど太平洋戦争の真っ只中だ。
ちなみに沖縄では,この年の夏から各島で軍の飛行場建設が始まっている。やがて,翌年3月には「沖縄守備軍」が結成され,10月には那覇で空襲が起こる。まさしく,伊波氏言うところの「南海の防壁」になっていくわけだが,考えてみれば自分のホームグラウンドが戦争で荒らされるわけである。はたして,彼にとって本意だったのか,それとも“書かされたのか”が興味深いところではある。

ティンダハナタを下りて,再び祖納の街に入る。海岸沿いを適当に車を進め,おもむろに橋を渡ると埋立地である。「祖納港旅客ターミナル」と書かれたプレハブっぽい平屋の建物もある。その近くのちょっとした岩場では,親子連れだろうかシュノーケリングを楽しんでいる。車が数台停まっていたので,とりあえず車を停めてみる。日曜日だが護岸工事が行われていて,トラックが数分に1回は通っている。対岸には,やはり護岸工事っぽい形跡があるとはいえ一応砂浜が見えるが,地図を見ると「なんた浜」とある。
この浜は歌のタイトルにもなった場所で,近くに歌碑もある。ちなみに曲を書いたのは宮良長包氏(第1回第3回参照)という。長時間かけて与那国にやってきた旅人のために草履を置いてあげる健気な乙女の伝説がある浜。上記・三好和義氏の写真集で祖納を見下ろす二つの写真には,この海岸線もまた写っているが,白黒で多少見づらいとはいえ,砂浜はしっかり残っている。いろいろな理由・必要性があるからこその護岸工事とは思うが,何も日曜日を使ってまで…と思ってしまう。納期が迫っているのだろうか。
浜を出て,祖納の中心部に入る。役場沿いのメインストリートで,スーパーも民宿も飲食店もあり,人の姿もちらほら見る。子どもの姿もある。ただし,子どもは小学生くらいばかりなので,あらためてこの島に高校がないことを確認する。たまに狭い路地に入ったりすると,さらに店や民宿が点在しているので,限られた時間を車で移動するよりは,歩いてみたほうが面白い発見ができるかもしれない。となれば,1泊泊まることは必須であろう。
そんな中,祖納で見ておきたかったもう一つの場所は「ビヤガーデン国境(はて)」という場所にあった。4階建ての何の変哲もない建物の下にあるボロい看板に「エレベーター」とあったので,隣接する駐車場らしきスペースに車を停める。裏口みたいなところから入る格好で,赤い扉の,おそらく古い型なんじゃないかと思わせるエレベーターがあったが,残念ながら準備中で動く気配はない。
このエレベーターこそ,私が見てみたかったものだ。特徴としては,まず島で唯一のエレベーターであること。それだけならどこの島でもあり得る話だが,手動で動かすものであり,ご丁寧にエレベーターボーイだかガールだかがいるというのだ。そのことが全国区で有名になった(?)のは,何と言ってもフジテレビで放送されている『トリビアの泉』で紹介されたことだろう。結果は“64へぇ〜”とごく平凡な“へぇ〜”であったが,たまたまテレビでこのことを見てから,私の中では与那国島に来たらぜひ訪れたい場所となっていたのだ。あわよくば体験できればよかったが,まあ体験したところで特別な感慨は持たないだろう。
ちなみに,店は「食べ歩き九州・沖縄 味100選店」なるものに選ばれている。2階から上が店舗になっていて,その2階にテラスがある。ここがおそらくビアガーデンになったりするのではないか。3階以上は障子が見えるので,あるいは座敷かもしれない。本格的な魚介料理に加えて,ヤシガニ丸ごと1匹やカジキマグロの刺身や唐揚げなどが堪能できる6000円のコースもあるというから,機会があれば食べてみたいと思う。

@初夏のサイクリング
さて,路地をくぐりぬけて海岸沿いを再び走り出すと,「与那国民俗資料館」という建物があった。時間は15時。ホントは喫茶店でも探してお茶しようかと思っていたのだが,喫茶店は見つかっても駐車場がなさげなので,あきらめていたのだ。ま,お茶は空港での待ち時間に飲めばいいし,飛行機までは時間もあることだし,ヒマつぶしにはちょうどいいだろう。どうやら路地のほうに入口があったようだが,今から路地に入るのも面倒なので,近くにある空地に車を停める。
裏口から敷地に入り,玄関へ。資料館というよりは普通の事務所にモノをいっぱい詰め込んだ印象である。広さは20畳程度くらいで,小金持ちの家のリビングくらいの大きさしかない。ちょうど40代くらいの女性が,80代くらいのメガネをかけた小柄なオバアに,入口に近い展示物から説明を受け始めていたあたりだろうか。多分,80代くらいのオバアがここの“館長”であろう。私がちょうど入ると,気遣ってくれたのか,再度説明をやり直してくれるようだ。ちなみに入館料を100円取られる。
と,オバアがおもむろに「お願いがあるんだけど」と言って外に出る。何かと思ったら,外の土の上に置かれていた長細い葉っぱを取り込むのだという。1枚が40〜50cmくらいの,笹の葉っぱみたいな形と長さがあるが,感じから言ってビロウだろう。20枚あまりも干しているので,我々2人も取り込むのを手伝ってほしいというわけだ。そのくらいはお安いご用である。でも,彼女は余裕で80歳を過ぎているだろうが,足腰は丈夫である。動作がゆったりはしているが,決してもったりはしていない。そして彼女が予感したように,この後で通り雨があったものだから,不思議でもある。
再び中に入って説明開始となったのもつかの間,今度は入口から白い車が入ってきた。レンタカーであろう。中から出てきたのは70代くらいと50代くらいの男性観光客。ついでにということで,彼らも入って4人で説明を受けることになった(以後は,私が覚えている限りのことを記すことにしたい)。
まずは,入口付近の窓にかかっている“シルンナ”という黒いロープ。家に赤ん坊が産まれたことを知らせるために玄関などにかけるロープだが,戦後は使われなくなったようだ。逆に言うと,喪中の人間や慣わしによって出産の場に立ち入れない人たちに,注意を促すためでもあったそうだ。
その赤ん坊を寝かせておくための,ざるみたいな形のゆりかごも置いてあった。柱にひもをくくりつけて,適当に揺らすのである。このざるの形をしたゆりかごは,昨年訪れた与論島の与論民俗村でも同様のものを見ている(「ヨロンパナウル王国の旅」第1回参照)。両者は距離にして500kmは離れているだろうが,文化圏としては共通しているということなのだろう。
40cmくらいの大ワラジ――オバアは,上記サンアイイソバが履いていた云々と話していたが,もちろん言い伝えだ。何でも,こういうデカいワラジを昔は海に流したのだそうだ。それによって,この島には巨人が住んでいるということを“海外”に知らしめる効果があったそうだ。ただし,宮古島から結局は征服軍が来て琉球王国に組み込まれることになるわけだから,残念ながらその効果はあまりなかったということになるのだろうか。
ビロウのカゴ――野球帽くらいの大きさだが,昔はこれに水を汲んでいたそうだ。これもまた与論民俗村で見たものと同じだ。さっきの葉っぱを重ねあわせて作り上げるのだろう。このビロウの木をくりぬいて作ったという蒸し器もあった(ちなみに,沖縄ではビロウを“くばの木”と呼んでいる)。その他,とうふを作るための木箱や,玄米を入れる大きな網籠,味噌などを入れる甕など,ごくごくありがちな器具が飾られている。そして,錆びついたレジスター――と思ったら,こやつは「タイガー計算機」と呼ばれる機械らしく,何でもコンピュータの元祖らしい。
台湾製の陶皿――絵柄は実に中国風のタッチなのだが,裏を見ると「MADE IN OCUPPIED JAPAN」と書かれている。日本に統治されていたころのものだ。オバアは1931年(と言っていたと思う)に,台湾に行ったことがあり,台湾芝居を楽しんだという。また,逆に台湾の人間が来てもてなしたこともあるそうだ。昔から,沖縄本島よりも台湾のほうと交流が深かったと言われる与那国島だが,実際定期船も出ていた。台湾の銀行券も使用できたという。その船に積まれていたという航海灯なども展示されている。

さっきからオバアは,昔話を適当に織り交ぜて実に口が滑らかだ。その様子は,多分に“悦に入っている”感すらあるが,それがまた愛らしい。4人もオーディエンスがいることが嬉しいのか。はたまた“いつものやり口”なのか。特に,40代くらいの女性は一言一言に肯いている。ただ,オバアはもはや「商売」という言葉を忘れてしまったのか。後から入ってくる客なぞはまったく関係ないとばかりに,説明に夢中になっている。
実は説明を聞いている間にも,レンタカーが次々に入ってきていたのだが,ガラス越しに見える中の状況を察してなのか,ドアのところまで来て,残念ながら次から次へと引き返して行ってしまう。我々4人は間違いなく気がついているのだが,すでに展示物説明も“折り返し地点”,すなわち玄関から説明が始まって,一番奥に置かれている展示物辺りに来てしまっているから,こちらもオバアにストップをかけにくいのである。まあ,中には金髪のアンちゃんみたいなのがいたし,偏見を持ってしまうのはいけないが,彼らがはたしてオバアの含蓄ある話をマトモに聞いてくれる保証はないのだから,我々4人だけで最後まで“1人占め”させてもらおうか。
“折り返し地点”付近にはポスターが飾られている。「老人と海」という,地元・与那国の漁師を追ったドキュメント映画だ。1990年の放映で,監督はアメリカ人。文化庁の優秀映画賞なるものを獲っているようだ。その隣には柳生博氏や毛利衛氏のサインもある。毛利氏は海底遺跡を見に来ているようだが,柳生氏ははて何をしに来たのだろうか。ちなみに,オバアは何かの映画でエキストラ出演をしたと話していた。あるいは「老人と海」でだろうか。
その先はひたすら衣類である。生地そのものもあるし,「ハレの衣装」で知られる“紅型”があったり,“花織(はなうい)”“ドゥタティ”と呼ばれる与那国独自の衣類もある。花織は,木綿で作られていたという高価な織物で,身分の高い人が着た贅沢品のようだが,同じ手法で織られた“シダティイ”と呼ばれるハンカチは,カツオやカジキマグロ漁が盛んだったころ,航海に出る夫や恋人が無事に戻ってこられるよう,お守りのような形で女性が織って贈ったとされている。一方のドゥタティは,苧麻(ちょま)か木綿で作られた作業着。濃紺で格子柄が多く,半袖で丈はひざ頭くらいというもの。生地も少なくかつ涼しいので,きわめて亜熱帯の島では都合がよかったとされている。
――こんな感じで,かれこれ40〜50分近く時間はつぶれた。オバアの説明が一通り終わり,男性2人と女性はその後も残っていたが,私は居場所を見つけることができず,去ることにする。レジにはいろんな本が置かれていたし,近くにはこの資料館…というかオバアが経営する土産屋もあるそうだが,何でも建物が老朽化しているとかで,現在はやっていないとか話していた(ちなみに,資料館は1984年の設立)。
ただ,後でいろいろ調べていたらこのオバア,なかなかのスゴい人のようだ。いろんな記事から見ていくと,名前は池間苗(いけま・なえ。一部では“子”がついて,いけま・なえこ)さんといって,年齢はほぼ私の予想したのとドンピシャな年齢で,生まれも育ちも祖納だという。で,1998年に,10年がかりで編纂したという,与那国の方言を1万語収録した『与那国ことば辞典』を自費出版したスーパーオバアだったのだ。地道に身の回りのものからだんだん思いついた言葉をノートに書き留めていったらば,ノート7冊分にもなったそうだ――もっと最初から知っていれば,モノがあったような気がするので買ったかもしれないのに,つくづく残念である。
与那国島は,独自の象形文字「カイダー文字」が明治時代まで使われていたり,現代でも言われるのは,方言の発音が他の島の人間にとってもかなり聞き取りにくいなど,何度か書いてきた“独自文化”の育まれた島だ。そんな中で面白いエビソードが,この苗オバアによれば,他の島から着任してきた先生が,この島の子どもの話が聞き取りづらくて「何てー?」と聞いたところ,その子どもが,かまぼこを作るのに魚肉をつくための杵である「ナンティ」を持ってきたという話であるという。
なるほど,そう言えば展示品の説明書きが,与那国の言葉と標準語で併記されていたと思うが,彼女はマジで島の言葉が失われることに危機感を持っているようだ。その危機感から辞書を作ったのであるわけだが,そんな彼女ゆえに,島の老人が方言でなく標準語を使っているのを見ると情けなくなるそうだ。ちなみに昨年,彼女は「標準語―与那国語辞典」とも言うべき『与那国語辞典』を発刊している。こちらは5000語収録とのことだ。

そうそう,方言を集めて辞書を作るといえば,既出の与論民俗村のオバアが,与論の言葉を集めた辞書を編纂中であるという記事を読んだことがある(「管理人のひとりごと」Part1参照)。ただ,このオバアと苗オバアと対比すると,面白い違いがいくつか出てくる。
まず,民俗村のオバアは辞典の編纂に大学教授の参画を受けているのに対して,苗オバアは,大学の研究者からやはり「やらせてください」と申し入れがあったものの,微妙なニュアンスなどは島の人間でないと表現できないからと断ったことだ。結局,アクセント記号や発音記号をつけるのを子どもたちが協力した以外は,ほぼ独力での作品だという。
また,民俗村のオバアは,もともと自分でモノを集めてくるのが大好きで,両親が仕方ないとあきらめさせたほどだ。もちろん,それが昂じて民俗村を作ったということでもあろう。加えて旦那がムコさんであり,また海人という定職を持っていた。彼女は最初っから,言わば「自分の趣味の世界をまっとうできる環境」にあった人間である。
これに対して,苗オバアの場合は,自分の父親および医者をやっていた旦那から引き継いで現在に至っている。スタートは自分の父親・新里和盛(しんざと・かずもり)氏が,1939年から町の委嘱を受けて島の伝承や民俗を収集する作業をし始めたところから。しかし,1950年にその和盛氏が病に倒れて亡くなってしまう。一度,ポシャりかけたその作業を4年後に再び始めたのが,苗オバアの旦那である池間栄三氏。栄三氏は多忙な身ながらも,1957年に『与那国島誌』という本を出した。さらなる充実を目指して,改訂版としての『与那国の歴史』という本の出版準備を進めていた矢先に,今度は栄三氏が病死してしまう。苗オバアが“3代目”として本の出版を引き継ぐのは,ある意味運命的なものだったのかもしれない。
そして,1972年についに『与那国の歴史』という本は出版された。実父が始めてから33年。サンアイイソバの話も,イヌガンの話も,元はと言えばこの親子の地道な努力で今の時代まで言い伝えられてきたものだ。その功績はかなり大きいだろう。ここから1984年の資料館設立までの十数年の経緯は分からないが,栄三氏が今も生きていたら,彼女がいまの資料館を設立して,館長になっていたかどうかは分からないだろう。方言の辞書も作ったかどうか。他の老人と同様に標準語を喋っていても何とも思わない生活を送っていたのではないか。
そして,栄三氏が生きていたあかつきには,与論民俗村でオバアが受付,案内がオジイであったように,ここ与那国民俗資料館では,逆に栄三氏が受付,苗オバアが案内役なんてことになっていたのだろうか。いや,ここは栄三氏がしっかり仕切っていたのではないかと想像してみたりする。

(1)小浜島にて
さて,後は空港に戻るのみだ。途中,島で唯一,かつ日本最西端のガソリンスタンド「米浜石油」に入る。屋根がまったくないオープンなガソリンスタンドで,スタンド式の給油機が二つのみというシンプルさ。先客がいて,Tシャツ姿の若い女性が何やら作業しているのを見ている。ひょっとして,ここは自分で給油するスタイルなのか。そんなことやったことない人間としては,はて弱ったと一瞬思ったが,何のことはなくその女性が従業員であった。彼女に入れてもらって出発する。900円。高いのか安いのか,はて分からないが,車についているオイルメーターは一番上が欠けていただけ。ひょっとして輸送費とかも含めて,多少多めに取られたかもしれないが,まあいいか。
空港に戻ったのは16時。「30分くらい前に戻ってきてもらえれば」と出がけに言われていたが,はたして受付カウンターはシャッターが下りている。隣でおしゃべりしている女性2人に事情を説明したら,カギを預かってくれるというから,ここは素直に彼女らに任せることにしよう。ひょっとしたら30分前,すなわち16時半ごろにならないと開けないのかもしれない。
時間があったので,売店で「与那国豆乳クッキー」(630円)なるものを購入。少しパサパサするが,結構美味いので,売店のおばちゃんに「当店のオリジナルで,他の店では売っていません」と言われたこともあって,ついつい買ってしまった。しかし,箱の裏を見たら,製造者は本島の恩納村にある「レキオス工房」というところ。ヤフーで調べても出てきやしない。まったく,何だか最初から最後までやたらとたたられ過ぎやしていないだろうか。(「沖縄はじっこ旅」おわり)

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