クレオパトラ☆バンガロー 中編

  
再びサニーを松林の中を走らせて、喜界島北端の「トンビ崎」に到着。
  
前回旅行のときは、風が強くて白波がかなり立っていたが、それとは真逆なくらい今回は穏やかな海だった。
 
進路はここから南へ取る。空がやや陰ってきたかもしれない。
  
岩場に乗っかったボートと赤い鳥居。もはや、何をどうしたいのか、何をどう祀りたいのか、分かりゃしない。
  
志戸桶(しとおけ)海水浴場には、一つ小さい碑が。
   
それには「平家上陸之地」と刻まれている。1185年に源氏との「壇の浦の合戦」に敗れた平資盛(たいらのすけもり)以下200余名が,1202年にこの付近に上陸する。近くに七城(ななじょう)を築城し,平家盛(へいけもり)という森を築いた後,主力は奄美大島に侵攻・支配していったという(「奄美の旅ファイナル」第6回参照)。
  
志戸桶集落を抜けて、再び一周道路へ。森を守る鎮守様と共同墓地の前に、
  
巨大なカップ岩を貫く巨大な樹木があった。前回旅行で強烈に目に焼き付いていて、「グロテスクでインパクトがあると思う。デジカメがあったら,確実に収めたい光景である」とまで書いてある。今回はしっかり写真に収めておいた。
  
この樹木と相対するようにして、天然記念物の「ハスノハギリ」という樹木もそびえている。
 
先ほど小野津集落で通過した(前編参照)北緯130度線。ここ白水集落を島の南端として貫いている。
  
車を進める。この稜線を屋根に見立てると、何となくペリーのイメージした“バンガロー”の表現が分かってくる。
 
そういえば、前回も見たと思うから、また寄っておこうか。
  
ハイ、こんな感じですね。“デカイ”というよりは“太い”という表現がピッタリだ。
  
その巨木の入口に隠れるようにある「聖珠観音」。感謝する神様のお名前が何というか……。
  
そのまま南下して、阿伝(あでん)地区へ。サンゴの石垣群を残す集落として有名だ。「ただし、看板などは一切ナシ。道端のバス停を見つけて『あ、ここが阿伝か』。でもって『なるほど,石垣があるな』という感じ」(「奄美の旅ファイナル」第6回)とあるので、前回看板はどうやらなかったようだ。
  
一度サニーを降りて、集落内を歩いてみる。集落の奥では、何とも幻想的な樹木とのコラボが観られる。
  
サンゴの石垣については、微妙に観光用に手に入れた感を持った。加計呂麻島の西阿室奄美大島の西古見にあるテーブルサンゴの石垣の方が、かなり原風景をとどめていて個人的には好きになりつつあるかも。
  
阿伝の海。整備された公園が、やや集落に浮き気味にある。
  
公園には、「日本復帰記念碑」と書かれたプレートのある高台と、阿伝出身の民俗学者・岩倉市郎(いわくらいちろう、1904-43)氏の顕彰碑もある。
  
看板が気になったので、山の方に行ってみる。
  
なるほど、登山道のようだが、詳しくは後で。
   
このまま山の方に入っていくことにして、「夫婦ガジュマル」に辿り着く。
  
道をはさんでガジュマルの大木が2本あるが(ちなみに、左上が山側、右上が海側にあります)、どっちが夫でどっちが妻かは知らん。
 
さらにサニーは山の中へ。
  
するってーと、広大な中西公園に着いた。
  
元からある展望台は、崩落のおそれがあるってことで立入禁止。
   
そのそばに、明らかに展望台代わりに即席で作られたお山が。
  
そのお山に上がると、なるほどこんな景色が楽しめた。
  
そのままもう一つの展望場所に行こうとサニーを走らせると、どうやら喜界島一高い場所に行けるとのことで、そっちのほうへ寄り道。
 
こんな広場の奥の方にとりあえず進んでみると、
  
ありました「喜界島最高地点」。“バンガロー”の屋根のてっぺん。
  
標高211.95m。しっかり測量用の標識もありました。
 
で、もう一方の展望場所に行く途中に……、
  
「七十七曲り」の頂上地点に遭遇。右上の写真にあるように、舗装道路がなかったころの貴重な幹線山道だったというわけだ。勾配がかなりきつかったであろうことは容易に想像できる。
  
で、ようやっともう一つの展望場所「百之台公園」。へ〜、世界自然遺産の候補地なんですね〜。
  
ってか、この数十分に展望スポットに3つも行くっても、どうなんだろ。しかも、最高地点も制覇してるのに……でも、上っちゃうのね(笑)。
  
まあ、いろんな眺望が楽しめますってことで。
  
さあ、そろそろバンガローの屋根から降りようか。
  
城久集落付近には、8〜14世紀ごろと言われる、南西諸島最大の遺跡群がある。
  
羽里集落の「市山商店」前には、水量豊かな湧水と、「乙上の碑」ってのがあった。
  
あと、さとうきび畑の中に突如現れる風車も。
  
喜界町役場(左上)と喜界町体育館(右上)の前を通過。
  
で、喜界町体育館の隣に、この島ゆかりの俊寛和尚の像を確認。日本史で必ず出てくる、1177年平家打倒の出来事「鹿ヶ谷の陰謀」で一度は聞いたことがあるだろう。陰謀に加わったとされて流されたのが、史実で言われる「鬼界ヶ島」であり、それがここ喜界島とされている。
  
その俊寛和尚の墓石とモニュメント。島を出ることを許されないまま不遇の死を遂げ、この辺りに埋葬されたとされることが書かれてあるが、その島には諸説あり、また島をひそかに脱したという話もある。ま、江戸時代のペリーの発言が“クレオパトラ”が“バンガロー”に変更されたくらいだから、平安末期の話に変更があっても何ら不思議なこっちゃないのかもしれない。(後編につづく)

  
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