奄美の旅ファイナル

(1)プロローグ
古仁屋港,18時15分到着。フェリーだと18時半の到着だから,かなりスピードが違う。無論,5分前に出航したのが影響しているのは言うまでもない。外はすっかり真っ暗。そして,雨がポツポツだが降り出してきた。とはいえ,このまま部屋に帰ってもポーッとするだけだし,せっかくなので街中をブラブラしようか。テキトーに時間もつぶれるだろう。
とりあえず,煌煌と明かりがついているコープに入ってみよう。加計呂麻行きのチケット売場は,すでにシャッターが下りている。その脇の壁には,名瀬市にある奄美大島…ではなくて,おそらく奄美群島で唯一の映画館“シネマパニック”の映画のポスターが3枚。たしか,テレビで1回紹介されていたと思う。「忍者ハットリくん」の映画は分かったが,それ以外はよく分からない洋画だ。その下にはセール品と思われるYシャツが,1980円のところ1500円で売られていた。
店内に入る。店構えはそれほど大きく見えないのだが,奥行きが結構ある。客は結構多い。中はまあ,本土と変わらない品揃えであるが,鮮魚コーナーに行くと,やっぱり地元の魚に印象が残る。鯵に食紅を注入したような形状のアカウルメは,沖縄では“グルクン”と呼ばれる魚だ。カジキマグロのような色の切り身で売られていたシビは正式名はキハダマグロ。そしてなぜか「奄美名物」と銘打たれている海ぶどう……これらが,東京にもある魚と一緒に売られている。
そして,隣の精肉売場では奄美でよく食されるトンコツとともに,レバーの色に近い色のヤギ肉の塊が売られていた。値段は1785円とやや高めだが,重さでいくと600〜700gほどか。かつては一家に1頭飼われていて,祭りのときなどに“つぶされる”ことが多かったと聞くが,最近じゃそんな光景もなくなって,肉の塊になったのしか知らないなんてこともあるかもしれない。
さらに目を引くのは,やっぱり惣菜であろう。サータアンダギー――奄美にもあったが,丸く整っている。これはやっぱり手作りというよりは,店の機械で作ったりなんかしているからか。カツオ味噌茶請け味噌――いずれもカツオと味噌を合わせたもの。前者はカツオの切り身に味噌がぬりこまれたもので,後者はかつおぶしとみそが合わさったものと記憶する。つきあげ――沖縄では“かまぼこ”と呼ばれる,いわゆるさつま揚げだ。あくまき――原料を見たら「もち米・灰汁・牛乳・きなこ」と書かれていた。これは奄美というよりは鹿児島全域で食べられているもののようだ。端午の節句に食べられる“ちまき”の代わりだという。中身を見られなかったが,上記の原料を合わせたら茶色になるだろうことは容易に想像できる。ようかん巻き――ジャムのロールケーキのひとかけら分って感じで,1個84円で売られていたが,ジャムのように見えるところがようかんになっているようだ。そてつデンプン――瀬相港で拡声器で宣伝していた(前回参照)「加計呂麻食産」で作られたもの。見た目は白い粉だ。これを粥に入れたりするのだろう。はて,味はどんなものなんだろうか。
ホントはホテルで食べる予定がなかったら,ここでいろいろと買ってみるのも面白かっただろうが,とりあえずは冷やかすだけで外に出る。道路をはさんで反対側にも,煌煌と明かりがついた店がある。こちらは「扇屋」という酒屋だ。中には入らなかったが,外に珍しいもの……というか,もしかして私が知らなかっただけかもしれないが,ビールの自販機に運転免許証を通す機械があったのだ。盗難防止と未成年の飲酒防止用だろうが,持っていない人は呼び出すようにと書かれていた。東京だったら24時間営業のコンビニのほとんどでアルコール類は買えてしまい,酒屋そのものが大分見なくなったような気がするから,かえってこういう機械が新鮮に映ったってことかもしれない。
港を後にして,メインストリートに向かう。とりあえず入ったのは交差点角の本屋。その名も「古仁屋書店」。まあ,普通の地方書店で,だいたいありがちな白い壁を基調とした造りである。平台には奄美の本が充実していて,その中に『奄美まるごと小百科』という本(「参考文献一覧」参照)が数冊積んであった。バッグには後でパソコンと土産物が入るので一瞬買うのをためらったが,結局は購入する。1890円。「カバーはいかがしますか?」とは聞かれるわけもなく,白いテロテロの袋に入れられた。出窓とイーゼルが描かれた,これまた本屋の袋にありがちなデザインだ。
さらに進むと,「フードコート大洋センター」という建物。中は地元住民用のスーパーくらいの大きさで,座席がそれなりにあるが,ガラーンとしている。メニューはというと,みそラーメンだのトンカツだのと,これまたありがちなメニュー。ちらっと見えたところでは,中のキッチンは共用のようで,いくつかに店が分かれているといった感じはなかった。ま,これも地方ならでは,といったところか。
その向かいにはゲーセンと,路地を隔ててパチンコ屋。いずれもビルのテナント程度なので,大きさはたかが知れているが,パチンコ屋はなかなか盛況のようだ。都会にあるような,同じビルの中にワンフロアで最新鋭のゲーセンがあり,別のフロアにスロットだのがあるというシャレた感じはさらさらなく,店が隣り合っているのが何とも言えない。機種なんかも,一世代前のものがロングセラー的に使われているんじゃないかって想像してしまう。古仁屋では,ゲーセンから路地を隔てて隣のパチンコ屋に行くことが「大人の階段を上る」ことを意味している……かどうかは知らない。

ホテルには18時50分に到着。バッグを部屋に置いて,そのまま2階にあるレストラン「サングリエ」に向かう。中に入ると,白を基調としたシンプルながら洗練されたレストラン。テーブル席が6〜7席あって,20〜30人は座れる広さだが,19時にもかかわらず,何と客は私1人。窓側のメインストリートを見下ろす4人席に通される。あらかじめ,箸置きの役をしたサンゴのかけらと,おしぼりが置かれていたが,やっぱり万国共通で景色が見える窓側が,レストランにとって最上席ということだ。もっとも,これで壁際に通されたら,10人中9.9人はブチ切れるだろうと思われるが。
後ろからやってきたのは,コックも兼ねていると思われる男性。コックの衣装に,顔は安田大サーカスの“クロちゃん”か,はたまたプロレスラーの武藤敬司氏か……いや,よく見れば西武ライオンズのフェルナンデス選手が一番似ているだろう。要するに,スキンヘッドで口ひげを生やしているのだ。白いものが見えるから,あるいは40代だろうか。見た目はちと強面だが物腰は柔かい。こんな彼に入口で「お待ちしていました」と言われてしまったが,いやー,何とも言えない気持ちになる。
座って早速,「飲み物はいかがしますか?」と聞かれる。うーん,脂肪肝でかつアルコールに弱いと言われて間もない(「管理人のひとりごと」Part23参照)が,ここ奄美に来たら,やっぱり“アレ”は口にしておきたい。「黒糖焼酎ってあります?」「ええ,ありますよ」「水割りってできますか?」「ええ,大丈夫ですよ」「じゃ,水割りください」「かしこまりました」。スキンヘッドの男性は,奥に消えていく。
店内には,バイオリンのインストがかかり,やがてジョン・レノン「イマジン」のピアノインストに変わる。私1人のために「ちょっとしたレストラン」という雰囲気を出している。いささか涙ぐましさすらある。そして,目の前には自分の姿がガラスに思いっきり映る。よく「食べているところを見られるのが恥ずかしい」という人がいるが,これから自分の食べる姿を見ながら食べるというのも,何だかヘンな気分である。脇には厚めのカーテンとレースのカーテンがいいドレープ感を出しているのであるが,まさしく自分の座っている真正面だけがポッカリと開いて,そこに映るのは情けない自分の姿……うーん,外が見えるのはたしかにいいが,やっぱりタイミングってものもあるだろう。
間もなく,グラスに入った透明な液体が出てくる。黒糖焼酎だ。525円で別料金。銘柄はよく分からない。聞こうと思えば聞けるのだろうが,聞いたところでホントに酒が好きなわけじゃないから,「あ,そうですか」としか返しようがないだろう。とりあえず一口含むと,一瞬黒糖の甘い風味の後で,焼酎の強いアルコール味が襲ってくる。水割りといっても,おそらくはハーフ&ハーフだろう。家で飲むヤツは,やっぱり相当に薄いのだ。どこの店においても“水割り”というヤツがこのくらいだというのなら,私はやっぱり注文を控えたほうがいいだろう。自分の好みでオリジナルのが作れるなら別だが。
そして,「失礼します」と早速に料理が運ばれてきた。まずは小鉢が二つ,しょうゆ味のカツオのほぐし煮もずく酢である。そして,刺身がサザエ・マグロ・ハマチ3切れとなっている。味はだいたいご想像の通りだろうと思われる。淡々と食べていると,次に出てきたのが煮物。3〜4cm角のトンコツが二つに,厚揚げ・こんにゃく・にんじん・大根・いんげんが上品に盛られている。全体は薄味であるが,トンコツは甘辛くしっかり煮付けてあり美味い。
ガラスには自分の姿とともに,後ろにいるスキンヘッドの男性の姿も分かる。皿が空くタイミングを見計らって,彼は皿を下げる。そして,奥に消えていくと水を流す音が聞こえてくる。私1人のために,申し訳なさすら感じてくる。数分経っても,中にいるのは私とスキンヘッドの男性。私も自分から話しかける性格でないせいか,2人の間に会話はまったくない。少しばかり空気が張り詰めた感じがする。
「失礼しっす」――そう丁寧に言われ,続けて置かれたのは焼物。アカウルメの塩焼だ。20cmほどの大きさで,反り返った様は鮎の塩焼みたいな感じだ。焼くと腹の赤がラメが入ったピンク色に輝く。小骨がかなり多いが,食べれば鯵に近いだろうか。最後は頭を残してガブリと行く。
「しつっ……す」――もはや,私1人を相手に丁寧に「失礼します」と発音するのがバカバカしく思えてきたのか。かといって,無愛想に“ガン!”と置くのも気が引ける。でも,いちいち断ってくれるのが何だか可笑しみすら覚える。そういや,村上春樹氏が語尾を“スー”と擦る音にされるのがイヤだとどこかに書いていたが……ま,そんなことどーでもいいや。
さらには炒め物も出てくる。12〜13cmの薄い器に,ゴーヤ・キャベツ・ピーマン・ニンジン・卵・豚肉の炒め物だ。上に紅生姜がトッピングされている。少し薄かったので,醤油をかけてしまった。ここで「ご飯をお出ししてもよろしいですか?」と聞かれたので,「ええ」と答えたが,この炒め物にはやっぱりご飯だろう。ご飯には漬物(きゅうりのキューちゃん・たくわん・梅干)と,インスタントっぽい味噌汁(わかめ・あさつき・キャベツ)がつく。
「しっ……す。よろしければ島みかんになります」――そう言われて置かれたのは,3〜4cm大のみかん。本土でよく見るものよりもずっと小さく,まだ緑の色のほうが濃い。みかんなんて,何年ぶりに食べるだろう。1人暮らしだと,まず買わなくなるのが果物だろう。次いで生魚。刺身こそ買うが,焼魚はしないからだ……で,食べてみると,普通のみかんと変わらない。少し酸っぱかったか。
これにて,食事は終了する。ちなみに,夕飯代は2500円である。宿泊代に含まれてはいるが,後で領収書で確認した。まあ,このバリエーションと味ならば妥当なところだろう。上述のように黒糖焼酎は別料金のため,新たにレシートが切られる。そこにサインをしてレストランを出る。結局,最後まで客は私1人だった。店を出ると,なぜかホッとした。無論,向こうも同様だろうが。
部屋に帰り,日本シリーズのオープニングと「めちゃイケ」をザッピングしながら,パソコンで旅行記を打っていたら,21時前にして無念のバッテリー切れ。それからは,奄美では映る日テレの「エンタの神様」を見ている途中で眠くなり,23時就寝。10月中旬だが,部屋はクーラーをかけっ放しにしておく。窓を開け放つわけにはいかないというのもあるが,それでもちょうどよかったのだから,いかに暖かい気候かということだろう。

――翌朝は,3時に目が覚めてからウツラウツラであったが,結局6時に起床。シャワーを浴び,備え付けの麦茶を飲む。その脇には手書きと思われるメッセージが。こういう心遣いはちょっとうれしい。もちろんタダ。あるいは先週の“トカゲ”でキャンセルにせずに,延長扱いしたことに対する向こうからのささやかなお礼なのか……まさかね。
7時に再びサングリエに下りていくと,またも私1人。昨日の従業員とは違う。彼の指す手の方向は,昨日と同じ席を指しているように見えたので,これまた同じ席に座る。バスケットには私1人には多いと思われる数のナイフ・フォークとマーガリンやジャム。朝なので,さすがに自分の姿が窓ガラスに映ることはないが……と思っていると,「すいません,こちらでお願いします」と言われた席は隣の席。こちらにはマーガリンもジャムも一つずつ……なるほどね。見渡せば同じようにテーブルがセットされている席が,私のところを含めて三つある。ということは,3組の客が泊まっているということなのだろうが,そんな気配がまったくないほど,レストランの中は12時間前と変わらずに静かであり,たまに聞こえるのは,昨日の男性と同じ位置にいる従業員の咳払いくらいだ。
朝食は洋食。これまた1品ずつ運ばれてくる。まず出てくるのは,生野菜ピンクグレープフルーツ。昨日の夕飯もそうだが,初めっから置かれて冷めているよりはいいのかもしれない。次は温かいものとして,直径6〜7cmほどの目玉焼き,小判型のハッシュドポテトウインナー2本。そして1枚のパンを三角に等分に切ったトースト。ふっくら加減は「ヤマ○キパン」あたりだろうか。でも美味い。締めにはオレンジジュースコーヒー。飲み物はどっちかだけで十分な気がした。
メシを食い終わって,とっととチェックアウト。1万1025円。朝食は800円だ。延期だったからか,キャンセル料は取られなかったのが有り難かった。フロントの壁には秋篠宮夫妻の写真が飾られていた。一応は由緒正しき(?)ホテルなのだ。ま,正面にあるサンフラワーシティーホテルよりは,質的にはいいのだろう。キレイさでは圧勝のような気がした。狭っ苦しい駐車場には両サイドに車が停まっていて,3回切り返しをしてやっと脱出。目印となる畳屋は,朝早いのにドアを開けて作業を始めていた。

(1)プロローグ
ホテルからは一気に空港へ……でもよかったのだが,とりあえず寄っておきたい場所があった。9時半に車は戻せばいいから,ギリギリで寄れるだろう。ほぼ来た道を辿って,右に奄美空港に向かって分かれる道を入らずに,そのまま国道58号線を直進。途中,海側の路肩が思いっきり崩れたところを通過し,海に突き出たいくつもの半島の一つの根元で,国道を外れて左折する。
道は護岸された海岸沿いをひた走る。砂がかぶったままの崖下の道もある。そこを進むこと数分,9時ちょい過ぎに到着したその場所は,笠利町崎原(さきばる)集落である。広々とした崖下の道とは違って,集落内は教習所のクランク運転が役立ちそうな道ばかり。人はほとんど外に出ていない。谷間に寄り添うように家々が建つその様は,南国というよりも北国の寒村のイメージすら抱かせる。
そこをクネクネと抜けたどんづまりには,崎原ビーチがあった。ペンションだか民宿だかが1軒ある。ビーチはシンプルな白砂だ。波は高いし風も出ている。雲が多い空の中からは青空がのぞいてはいるが,陽射しはまったくない。だからだろうか,全体の構図は美しさよりもこれまた寂寞感のほうを印象づける。そのビーチ沿いに立つ防風林の一角には,木にロープをくくりつけた即席のブランコがあったが,これは青空の下でないと“雰囲気”が出ないような気がした。
ここ崎原集落に寄った理由とは,「参考文献一覧」に載っている『沖縄ポップカルチャー』を読んだことによる。この本に載っていた,崎原出身で盲目のストリートミュージシャン・里国隆氏(さと・くにたか,1918-85)に関するコラムを見て,現在彼が眠っているという墓を見てみたくなったのだ。本には「世にも不思議なたたずまい」とある。一緒に載っている写真を見れば,どうやら普通の墓のようだが,ステッキと彼を案内するガイド板がある。
なるほど,墓は崖下のいくつかの場所にまとまって立っているのが見えた,多分,その中を丁寧に探せばあったかもしれない。でも,関係のない者が入り込むのはやっぱり失礼だし,何よりも時間は確実に迫っているから,ただ集落を通過するのみで結局は空港に行ってしまった。
さて,里氏だが,そもそも生まれつき盲目なのではない。生後3カ月のときに全身に発疹が起こった。今ならば予防注射という時代だが,当時はそんなものあるわけがなく,民間療法で治すことになったという。しかし,それは何と,銅貨を真っ赤に焼いたものを酢につけて,それを全身にペタペタと塗ったというものだった。こんな無茶によって,彼の目は視力を失ってしまったとのことだ。29歳のときに手術を受け,片方の目が見えるようになったが,それでも月明かり程度だったと言われる。
しかし,視力を失う代わりに聴力がかなり発達したようで,唄者だった祖父の元で島唄と三線を学び,さらに12歳のときには,本土から来た竪琴を弾きながら樟脳を売る行商人の後についてまわったりして,竪琴の弾き方と作り方を覚えたという。そんな暮らしの中で,17歳になった彼もまた,樟脳を仕入れてそれを売る行商をしながら,竪琴を使って路上で唄を歌うというスタイルを確立する。現在も街角でよく見るストリート・ミュージシャンの走りみたいなものである。
彼はそのスタイルで,奄美の集落という集落を歩き続けたが,反面,島唄は当時,農家仕事の傍らに癒しとして唄うものだった。ということは,その唄を生業にするというのは本末転倒な話。樟脳を道端に置いたところで,それが売れるなんてこともほとんどなかっただろうし,お金が払われたとしたら,それは彼の唄や演奏に対して払われたものだったのだろう。食うや食わずの生活で歩く彼は,いつしか「乞食の国隆」と呼ばれ,ある意味では蔑まされた目で見られるようになったという――前回ちらっと紹介した,奄美の情報誌『ホライズン』の編集長であり写真家の浜田太氏も,高校時代に下校途中,名瀬市の市場の近くで,昼間から竪琴を鳴らす里氏を目にした1人。ちょうどその時代はフォークソングやグループサウンズ全盛の時代。「奄美の島唄なんか遅れている」と巷でも言われたころで,彼もまた里氏を「物乞いのために唄っている」と思っていたそうだ。
やがて,里氏は戦後に沖縄へ渡り,竪琴や三線を鳴らして歌い続ける。あいかわらず,そのほとんどは,路上に樟脳を並べての,食うや食わずの生活。そんな彼を陰で支えたのは,さまざまな在沖奄美人。彼を知る奄美の人間が声をかけ,その前で里氏は奄美の懐かしい島唄を歌い,お互いの故郷を確認しあう。そして,その代わりにねぐらを提供されたり,飲みに連れてってもらったようだ。時にはそれが“ヤ”のつく人であったり,中には米軍兵だったりしたという。米軍兵には基地に招かれて,そのまま軍用機でハワイに連れていってもらったなんて,ホントともウソとも分からないエピソードもある。
そんな彼だが,実は昭和50年代,いろいろなツテから東京に招かれ奄美の唄をレコーディング。日本で初めて奄美の島唄のアルバムを全国発売したアーティストという輝かしい記録の持ち主でもある。これによって本土の奄美出身者ネットワークからよく声をかけられるようになったそうだが,それでも亡くなるまで,ほとんどをストリートで唄うことに費やしたという――詳細は上記の本を読んでいただきたいが,こんな面白い生涯にひかれて,彼の生まれ故郷を訪れてしまった次第だ。機会があれば彼のCDを買ってみたいと思う。中でも1999年CD化された『路傍の芸』は,沖縄で著名なエッセイスト・宮里千里氏によって録音された路上ライブだという(「参考文献一覧」参照)。街の雑踏の中に里氏のうなるような声――うーん,ぜひ聴いてみたい。
再び国道58号線に戻って,笠利町の中心部より一路東進して9時半,マツダレンタカーに無事到着。そのまま乗ってきた車で奄美空港へ。さて,羽田空港で昨日言われたとおり(「管理人のひとりごと」Part24参照),帰りの便で窓側に空席があるかどうか確認しなくてはならない。“朝早く”とは言われたが,はてこの時間で……しかし,そんな心配は無用だったようだ。カウンターで確認したところ,「はい,空いてますよ」とあっさり。さらに「2人席と3人席と,どちらも空いています」と言われる。当然奥まらない2人席を選択し,結局「7A」という前方窓側席をゲットする。これで少しは“トカゲ”の被害損失を取り戻した。ジャケットとパソコンは,あらかじめコインロッカーに入れておく。

喜界島行きの飛行機は,36人乗りのプロペラ機。搭乗口から徒歩で飛行機に向かうのであるが,同型の2機が手前と向こうに並んで停まっている。手前が喜界島行きで,向こうは沖永良部島行きである。後者は1年半前に乗った。初めてのプロペラ機で,シートに常に低周波の電流みたいな振動が走ったときの感覚が懐かしい(「奄美の旅」第5回参照)。
それにしても,向かい風が強烈だ。時折,身体が煽られる。そして空を見れば,どんよりとした曇り空をしている。滑走路のすぐ向こうは海で,白波がはっきり立っているのが分かる。さっきカウンターで発券してもらったときにちらっと聞いたら,明後日あたりが一番台風が近づくだろうとのことだ。やれやれ,2回連続で台風にやられることは免れたようであるが,10月半ばになったというのに台風を心配しなくちゃいけないとは,今年はつくづく旅人泣かせな年である。(第5回へつづく)

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