神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンタータンザニアのホットニュース 2005年
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タンザニアのHotNews(2005年1月〜)

 2005年12月号

 

 

【タンザニアの12月】

 

 私の住むダルエスサラームを初めとするタンザニア本土には、イスラム教徒が約30%、キリスト教徒が約30%います。イスラム教はザンチバルに移住してきたオマーン商人などが伝え、キリスト教は後にやってきたリビングストーンなどの宣教師が伝えました。ザンチバルを窓口に、東アフリカ人を奴隷として海外に売って儲けていたイスラム教徒への反発から、キリスト教徒にこれだけの人が改宗するに至ったそうです。残りの人たちは、例えば北部のマサイ族など、伝統的な精霊信仰や自然信仰といったアニミズムの宗教を信じています。こうした信者総数のほぼ均一な分布は、タンザニアに宗教的な力の均衡をもたらし、お互いの習慣や信仰に対する高い許容度を生み出しています。

 ラシディ、アブラハム、サイード、モハメド、マイジャ、といった名前の人はイスラム教徒、ジョーン、ロマオ、フレディ、ドミニク、ルーシーといった名前の人はキリスト教徒なのですぐに分ります。ちなみに、タンザニアでは、キリスト教の英語名でも、あまりヨーロッパでは聞かない非常に可愛らしい名前をよく耳にします。例えば、女性で言えばハピネスさん、ライトネスさん、男性ならダイヤモンド氏などです。

 なお、ザンチバル島に行くと、昔からオマーン商人などが移住してイスラム教の影響が強かったという、歴史的な背景から、この宗教構成はがらっと変わって、イスラム教徒が95%以上となります。

 

 

  さて、11月の終わりになると、タンザニアでは多くのイスラム教徒がラマダンに入ります。ラマダンはイスラム暦の9月にあたり、この期間イスラム教徒は日の出から日没まで断食をし、日没後には(お金が許す限り)ご馳走を食べます。その為、レストランの中には、日中はイスラム教徒への配慮から、お店を閉める所もあります。キリスト教徒はあまり誇示しないようにして、しかし普通に昼食を取っています。12月24日になると、キリスト教徒はクリスマスイブを祝います。この日は、ご馳走である、鶏肉と(とうもろこしのウガリではなく)お米のご飯を食べます。

 その為、イスラム教徒もキリスト教徒も、ラマダンやクリスマスのお祝いの為に、いつもより多くのお金が必要になります。外国人に雇用されている人たちの中には、年末の祝事時期に合わせてボーナスをもらえる人もいますが、こういった人たちはごく僅かです。貯蓄できるほどの余剰金を残せる賃金を得ている人が多くないことと、タンザニア人にはまだ計画的に貯蓄するという考えが浸透しておらず、あればあるだけ使ってしまう人が多いこと、福祉制度の整っていないタンザニアを支える大家族主義の為に、残ったお金があれば親戚を養わねばならない人が多いことから、多くの人が12月前には金欠に陥ってしまいます。この結果として、12月のタンザニアの犯罪率は毎年高くなります。ナイフなどを使った恐喝や、家屋や店舗や自動車への強盗侵入の件数が多くなるので、気をつける必要があります。

 

 

 

 この時期は南半球に位置するタンザニアが最も蒸し暑くなる時で、朝6時頃から既に、居間に座っているだけでダラダラ汗が吹き出ます。しかし、この暑さによって多くの果物の実が熟し、マンゴーやチェリモア(スワヒリ語でトペトペ、英語ではチェリモア、カスタードアップルと呼ばれます。硬い緑色のうろこのような皮に覆われた実は、白くねっとりした甘酸っぱさを持ち、クリーミーなりんごのような味がします。)などが旬を迎え、市場に安価で出回ります。様々な意味で、タンザニアがタンザニアらしい特性を濃くする時期だと、私は思います。

     

 

 2005年11月号

 

 

【タンザニアの物価】

   

  タンザニアでの生活には、意外にお金がかかります。加工製品はほとんど輸入品だからということが、大きな原因の一つです。例えば、外国人しか食べないコーンフレークは、1箱700円位もします。一方、タンザニアに製造工場がある砂糖は、1kg75円位なので、日本よりも安いと思います。また、卵は、6個で85円くらいです。日本の倍近い価格ですよね。ブロイラー工場がないからです。また、病気がはやると鶏が一気に死んでしまうこともあります。ちなみに、鶏肉は1羽から取れる肉の量が少ないので、羊肉や牛肉よりも高価です。豚肉はイスラム教徒が30%くらいいることもあり、外国人がよく行く南アフリカ資本のスーパーマーケット等でないと買えません。野菜はタンザニアで取れるものは日本よりも安いですが、旬や雨の降り具合によって価格が大きく変動します。トマトや玉ねぎはタンザニア人にとって一般的に使用する食材なので、安価です。例えば、旬の時にはトマトは1kg40円位で買えます。しかし雨が降らない時期などは、1kg80円位まで価格が上昇します。以前お話しましたが、タンザニア人は、炒めた玉ねぎにトマトや豆を入れて煮込んだスープに、とうもろこしの粉で作ったマッシュポテト状の主食ウガリを食べます。お金がある時には、ウガリよりも高価なお米を食べます。お肉はご馳走ですが、毎日は食べられません。

 

 

  タンザニア人の賃金は、イギリス統治時代の労働法が引き継がれているので、最低約4000円と決められており、額面上は労働者の権利が手厚く保護されています。しかしながら、実際には失業者も多く、報告の義務のない小事業主の下で、最低賃金以下で働いている人もいます。タンザニアにはまだ福祉制度が整っていないので、こうした人々の生活は、大家族制度が支えています。つまり、親類縁者の中で稼いでいる人が、そうでない人の生活の面倒を見ているということです。従って、10000円程度稼げているかなり恵まれた人達も、月の終わりには蓄えが大体尽きてしまうようです。銀行に個人で口座を開くということも非常にまれです。大きな会社の管理職や、外国の大使館や国連や世界銀行などの国際機関の現地採用職員になると、3万円から20万円程度稼げるようですが、それはもともと高等教育を受けられる環境にあった、ごく一部の人々に限られます。

  一般のタンザニア人は輸入品を中心とした加工食品は買えず、野菜とウガリまたは米を食べ、品質のいいとは言いがたいタンザニア産石鹸、砂糖、紅茶、コーヒーといったタンザニア産の簡単な加工品、食器としてタンザニア製プラスティック皿やバケツなどを購入して生活しています。ちなみに、タンザニアのキリマンジャロコーヒーは世界的に有名ですが、これはほとんど輸出用に回されるので、タンザニアでは、アフリカフェというタンザニア産インスタントコーヒーが飲まれています。インターネットで見た所、アフリカフェは、日本でも輸入しているお店があるようです。

  経済全体の成長率はあまり高くなっているとはいいがたいのにも拘わらず、なぜか物価はどんどん上昇しているので、一般のタンザニア人の生活は決して楽とは言えません。物価上昇の例を挙げると、1年前に40円だったタンザニア産のヨーグルトは、最近54円になっていました。今年の夏インドを旅行したのですが、物価がタンザニアの半分以下から物によっては5分の一程度という非常に低いものだったので、驚きました。インドも貧富の差が激しく、非常に貧しい人や物乞いをする人も沢山おり、通りにゴミが散乱していることなどはタンザニアとあまり変わりがありませんでしたが、社会全体を見渡せば、タンザニアよりもずっと経済発展を遂げており、商業も盛んで、インフラや交通機関を初め多くの制度が整っていることが一目瞭然でした。それなのにタンザニアよりも物価が非常に低いと言うことは、私の理解を超えています。経済政策の結果なのか、インドは輸入品に頼らずにほとんどの国内消費品を自国で生産している為か分りませんが、物価は必ずしも経済の発展状況の鏡とはならないことを知りました。世界一物価が高い国の一つである日本の場合はどうなのかも、気になる所です。

   

 

 

 2005年10月号

 

 

【タンザニアでの運転】

 

  私は免許を取ってから10年間、ペーパードライバーでした。ただの一度も運転したことがありませんでした。東京に住んでいたので電車通勤でしたし、たまに旅行に行くときには友達や両親が車を出してくれたので、不便に感じることはありませんでした。運転する感覚も、覚えたての時に運転を止めてしまっていたので、すっかり忘れてしまって、今更始めるのは怖くなっていました。

  タンザニアには、以前お話した市内民間バスのダラダラや、長距離バス、独立当時社会主義国を目指したタンザニアのモデル国家だった中国からの支援で敷設され、タンザニアとザンビアを結ぶ、タザラ鉄道がありますが、ダラダラや鉄道で行ける所は非常に限られています。長距離バスも猛スピードで走る為か、交通事故が本当に多いです。ここダルエスサラームから4時間位の隣町まで行った時、絶対これは今日ひっくり返ったに違いないと思われるバスを5台以上見ました。また、ダラダラはワゴンに乗客が文字通り寿司詰めに乗り込むので、治安への配慮から、服もジーンズに古めのTシャツなど目立たないものを着て、荷物は小さくしっかり抱えねばならないので、使える機会が限られ、実際に利用している外国人は私を含めてごく少数です。
 

 

  というわけで、私もタンザニアに着いてから、遂に自動車の運転に挑戦することになりました。実は外国人の中には、特に子供の学校の送り迎えの時間がそれぞれ異なっている場合等、お母さんが何時間も車中で過ごさねばならなくなるのと、事故等の非常事態発生時の対応の為に、運転手を雇っている人も多いのですが、私と主人はなるべくシンプルに生活したいと思っているのと、私は実は運転ができないことが密かなコンプレックスだったので、この機会を逃したら一生運転することもなくなると思い、中古の白い小さなパジェロを購入し、主人に運転を習い始めました。

  広い空き地に連れて行ってもらって、エンジンのかかる感覚を思い出すことから始め、スピードに合わせたギアの調節を訓練し、ほとんど人のいない静かな道で実地訓練しました。
何度も主人に叱られながら、1年経った今では、近所の知っている道ならば何とか一人で運転して行けるようになりました。標識がなくいきなり一方通行になる道路が多く、車と人で溢れた町の中心には、今も敢えて車では行かず、ダラダラを利用したり(通常はこちらの方が危ないと言われていますが)、運転手さんのいる友人が親切にも同乗させて下さったりして、一応問題なく暮らせています。

  タンザニアでは、4WDの使用が不可欠です。車体が高くないと、道路に突然避けがたい数の大小の穴が開いていた時に、ボディーを擦ってしまいますし、はまった時に抜けられなくなります。大通りなどはアスファルト舗装がされていますが、泥と若干の石が転がっている道も多くあります。雨のない時期は砂埃がひどく(従って家もかなり汚れが激しくなります。)、雨の時期には月の表面かと思う位大きな深い穴が多数できるので、運転には細心の注意が必要です。泥道だけでなく、舗装されている道路にも、一雨来た後には簡単に穴がぼこぼこ開きます。それは例えば5cm敷くはずのアスファルトを4cmにして、その分浮いた予算の一部をポケットに入れる人がいるせいだという説もありますが、真偽の程は分りません。日本でもピカピカの大きな4WDに乗っている人をよく見ますが、日本では山でも海でも全国の道路がアスファルト舗装されて、整備が行き届いているので、幸か不幸かオフロード車の本来の力は発揮されないと思います。自慢になるとは思えませんが、その点、タンザニアでは日常生活がオフロードです。

  また、穴ばかり見ていると、タンザニアのドライバーは日本のように大きな通りにいる車の通過が優先という考え等をすっ飛ばして、細い路地から急に大通りに出てきたりするので、左右の確認も常に必要です。ぶつけられても、裁判制度が日本のように整っておらず、審議に駐在期間以上の年月がかかりかねない(つまりそこで泣き寝入り)ですし、関係者に心付けをすることによって判決が相手に有利になってしまうという説もあるので、トラブルは避けるに越したことはありません。また、万が一誰かが怪我をしてしまった場合には、医療制度が日本のように整っていないタンザニアでは、自他共に命の危険が迫る確立が高いです。

 

   

  その他にも大きな問題があります。いつも穏やかなタンザニア人は事故や窃盗といった事件が起こると信じられない程一気に興奮し、犯人と思われる人を(上記のような理由からもともと当てにしていないので)法制度を待たずに投石などによってリンチしてしまったり、火事場泥棒を働いてしまったり、大変なことになることを数多くの人が目撃したり巻き込まれたりしているので、運転は実はいつも危険や困難を巻き起こす可能性を十分に秘めていることを認識していることが重要です。

  大通りには日本と瓜二つの街灯や信号が並んでいます。間違いなく日本国民の税金を使ったODAによる支援だと一目で分ります。日本との大きな違いは、頻繁にその信号や街灯が消えていることです。発電所のトラブルで、電気が来ていないのです。そんな交差点を渡るのは冷や汗ものなので、よっぽどの必要がなければ私は運転しては行きません。また、大きい者が勝ち、のタンザニア交通事情では、たまに見かける歩行者用信号なんて、1年間ついているのを全く見たことがありません。ついていても誰も信用しないでしょう。歩行者が横断しているから止まろうという概念が、もともと運転手側にないからです。歩行者も安心して横断できるようにという発想は正しいと思うのですが、日本国民の税金が無駄にならないように、社会や人々の認識が成熟する過程における、タンザニアの現在の位置と、支援の優先順位はよく考慮する必要があるのだなと、切れた信号の下で左右に神経を集中させながら横断しながら、歩行者の私は思っています。

 

 2005年9月号

 

 

【タンザニアのバナナ】

   うちの庭にはバナナの木が生えています。私もタンザニアに来るまで知らなかったのですが、バナナの木には大きな赤紫色の花が一つだけつきます。先っぽに花をつけた茎は葉とは別に伸びて、花は丁度お辞儀をするように垂れ下がります。花の形はチョコボールのキャラクターの鳥のくちばしのようで、花びらはあまり外に開きません。やがてその花がしぼみだすと、伸びた茎からバナナの実が顔を出します。初めはまだ硬くて、四角の角が立っており、大きさはクレヨンくらいです。実の先っぽには、しぼんで黒くなった花びらの残りがついています。ここから1ヶ月位すると、一日一日ゆっくりと膨らんで、丸みを帯び、大きさも油性ペン位になります。

ここから先はそのバナナによって、短いままパンパンに太って丸くなるバナナもあれば、日本で見かけるような長くて形のよいバナナに成長するものもあります。黄色い実のバナナも、赤い実のバナナもあります。十分大きくなったことを確認したら、実の付いているバナナの茎をなたで切って、木から外します。そのまま木に吊るしておくと、カラスにつつかれて、食べられてしまうからです。そして2週間位、柔らかく熟すのを待ちます。一回の収穫で、100本位のバナナが採れます。実をつけたバナナの木はなたで切ってしまいます。一回実をつけた木はもう実をつけないからです。
大きな葉をつけた立派なバナナの木を切ってしまうのは惜しい気もしますが、その代わり、切った切り株の隣から、やがて新しいバナナの木が生えてくるのです。

  スワヒリ語でバナナは、「ンディズィ」といいます。タンザニアのバナナには、甘いものと、甘くないものがあります。甘いバナナは、タンザニア人はフルーツとして日本人と同じ様に食べていますが、甘くないバナナは茹でてマッシュして、野菜や肉を油で煮て入れたトマトソースと一緒に、主食として食べます。甘くないバナナは小ぶりの大根くらい大きくて、アラビアの剣のような形をしており、房から勇ましげに反り返っています。甘くないバナナは青いまま熟さないので、皮をむくのが大変です。手では剥けないので私は包丁を使います。あくが強いので、剥いたそばから真っ白い実が黒ずんできます。また、生の実はぬるぬるしており、茹でると里芋のような味がします。

  私のうちの庭のバナナは甘いバナナで、収穫時には100本すぐには食べきれない為、フルーツとして食べる分を残して後は冷凍し、バナナシェイクやオートミール粥に入れたり、バナナケーキを焼いたりもして食べています。オートミール粥は別にタンザニア人が食べるものではありませんが、私の家族はデンマーク人なので、朝はパンかバナナとレーズンを入れたオートミール粥が好きなのです。私も初めは、どろどろとした甘い流動食のようなオートミールを食べて、なんだこりゃと思い、美味しいと思いませんでしたが、朝食の残りのオートミール粥を冷蔵庫で冷やして食べると、熱帯の国タンザニアでは口当たりのよい、プルプルとしたデザート感覚の昼食になることが分り、結構気に入っています。

  バナナの大きな葉は生活の様々なシーンで活躍します。細く裂いて物を運ぶ籠を編んだり、インド南部や東南アジアの国々同様、ご飯の際のお皿になったりもします。田舎の方では屋根などの建築材料にもなっています。都市から一歩離れると、幹線道路の両脇は一面に広がるバナナ林およびヤシ林となります。

  タンザニアでは昨今プラスティックバッグが町の至るところに捨てられて、環境汚染の一因となっていますが、ついこの間までバナナの葉のようなすぐ自然に帰れる物を生活のあらゆるシーンで使用してきた為に、ポイポイごみを捨てても何の問題にもならなかったことから、ごみを決まった所に捨てることがなかなか徹底しないのかもしれません。便利なプラスティックのようなものはあっという間にタンザニアを初めとする開発途上国にも普及しますが、長年培われてきた生活のスタイルや物の考え方は一朝一夕には変わらず、環境は一瞬にして破壊されてしまう可能性があることが、タンザニアだけでなく世界の様々な問題の根幹にあるような気がします。

 

 2005年8月号

 

 

【タンザニアの宗教】

 

 

  タンザニアの三大宗教は、イスラム教、キリスト教、伝統宗教です。その構成はイスラム教約30%、キリスト教約25%、伝統宗教約45%と、人口比率的に非常に均衡したものとなっています。また、相互に大変友好的で、異なる宗教間の結婚もほとんど問題なく行われています。タンザニア人の宗教は、名前から大体分かります。ファテマという女性はほぼ間違いなくイスラム教徒ですし、メリーという女性はキリスト教徒の可能性が高いです。
イスラム教徒はラマダン時には日中は断食しますが、キリスト教徒は普通に昼食を食べています。それぞれの宗教が尊重されており、対立の原因ともなっていません。また、伝統宗教を信仰しているのは、北部のマサイ族など様々で、自然崇拝がその基本となっています。

 

  但しザンジバル島ではイスラム教徒の比率がぐっと高く、島民の約95%を占めています。ザンジバル島のイスラム教徒は本土のイスラム教徒よりも一般に敬虔で、例えば女性はその多くがダル エス サラームではあまり見られないアバという黒いマントとベールかスカーフをかぶっています。モスクを日常的に訪れる人の数も圧倒的に多いです。

  というのも、もともとタンザニアのイスラム教は、昔から交易の為にザンジバルにやってきて、やがて沿岸地方からタンザニア本土にも影響を及ぼしたオマーン商人が伝えたものなのです。彼らはザンジバルを拠点に奴隷貿易や香辛料クローブの貿易で繁栄を極めました。

  従って、その後19世紀に植民地獲得の為にやってきたドイツ、後に第一次世界大戦後にドイツに代わって占領したイギリスが奴隷解放を達成すると、奴隷貿易と結びついたイスラム教への反感から、キリスト教も広まり、現在の比率である約25%に至っています。


 

  イスラム教徒から奴隷を解放したヨーロッパ諸国のキリスト教徒が、植民地政策をアフリカにもたらしたことは皮肉ですが、いずれにしても、ヨーロッパのキリスト教団体が数多くの神父やシスターを長年に渡ってタンザニアを始めとするアフリカ諸国に送っており、各国で孤児院や診療所を運営していることに、私は敬服します。ボランティア活動を行う中でこうしたヨーロッパ人のファーザーやシスターに何人もお会いしたのですが、皆さん一様に、ごく自然な生き方であるかのように、特に不運な境遇にあるタンザニア人とともに生活しています。基本的に生活物資などに不自由しないヨーロッパ諸国から独り今よりももっと外国製品などが全くなかった、つまり加工されているものがほとんど何もないタンザニアにやってきて、何十年も、タンザニア人と同じお豆ととうもろこしのおかゆの食事をし、予算や素材の問題などから衛生的および設備的に十分とはいえないお風呂やトイレを共に使って人生のほとんどを過ごすということは、誰にでもできることではないと思います。

  また、タンザニアには、イギリスの植民地経営の為に連れて来られたインド人の子孫のインド系タンザニア人も人口の約0.6%おり、彼らはヒンズー教の熱心な信者です。タンザニアの最大都市ダル エス サラームの一角にはインド系タンザニア人やインド人が多く住む界隈がありますが、そこには多くのヒンズー寺院があり、ディワリをはじめとするヒンズーのお祭り時には花火やライトに彩られ、賑やかにお祝いの儀式が執り行われます。

  このように、タンザニアの宗教は他のアフリカ諸国に比べ非常に多彩で他に対して友好的であると言えます。

 2005年7月号

 

 

【タンザニアの国語と初等教育】

 

  タンザニアはインド洋に接し、昔からアラブ商人との交易が行われてきました。タンザニアの国語スワヒリ語も、様々な部族や交易の為にやってきた外国人が意思疎通を図れるよう、バンツー族の部族語であるバンツー語の文法や単語が基になって、アラビア語の単語が多く取り入れられてできた言語です。ちなみにスワヒリ語は、子音と母音が基本的にはセットになっているため、日本人にとっては、ヨーロッパ言語よりも聞き取りやすく、発音もしやすい言語であると思います。

  タンザニアには約130の部族があり、それぞれに部族語を有しています。しかし、小学校に入ると皆国語のスワヒリ語で勉強する為、どんな田舎に行っても、タンザニアではスワヒリ語で意思疎通を図ることができます。これは、日本のどこでも日本語が通じる私たち日本人にとっては非常に自然なことに思えますが、アフリカでは驚異的であることを、私は実はタンザニアに来てから知りました。

  アフリカの多くの国々では、都市部では多くの人が昔植民地経営をしていた宗主国の言葉を話します。例えばケニアやウガンダやタンザニアでは英語、モザンビークではポルトガル語、西アフリカの多くの国ではフランス語です。しかし地方に行くと、学校に行っている人の数が限られる場合など、それぞれの部族の言葉しか話さない人が大勢いることになります。同じ部族の人としか意思疎通が図れないのです。

 

  すると元々アフリカの多くの国はヨーロッパ諸国などの植民地経営の為に国境が引かれてできた国が多い為、地元の人々には国民としてのアイデンティティーがなかなか育たず、自分の属する部族の一員という意識だけが高いままとなります。これに人数比や、植民地時代の扱われ方、宗教や習慣の違いといった要素が絡んで、時には部族間の対立を生みます。悲惨な例としては、ルワンダ内戦のツチ族とフツ族の対立が挙げられると思います。私は先日「ホテル ルワンダ」という2005年公開の映画を見ましたが、真実に基づき、実存するある家族の体験を通じてルワンダの状況を描いた大変優れた映画だと思いました。

  私はアフリカに来るまで、なぜ同じ国内で、またアフリカ人同士で血で血を流すようなことをしなくてはならないのか、正直理解できなかったのですが、国際的なメディアでは内戦と称されても、戦いの渦中にいる人達にとっては自分の部族だけが自分が属するグループである為、部族外の敵対勢力との戦争でしかないことを学びました。

 

  一方タンザニアでは、1962年の独立時の初代ニエレレ大統領の下で、初等教育の普及が目指されたので、今ではどんな田舎でもほとんどの子供が初等教育を受けられます。原則的には全ての子供が無料で初等教育を受けられるはずではあるのですが、実際には、この網から漏れてしまう子供も多くいます。というのは、家庭不和や保護者の死亡などでドロップアウトしたり、ストリートチルドレンとなってしまうことが少なからずあるからです。こうした子供たちに対する福祉までは未だ国の政策が行き届いていない為、国際NGOや地元タンザニア人有志の小規模支援団体が寄付を募って非公認学校を開いていますが、その数はもちろん十分ではありません。しかしそれでも、この初等教育の普及は、民主主義の基礎固めの大きな一歩になったとして、ニエレレ大統領の功績として、全てのタンザニア人から賞賛されています。

 

 2005年6月号

 

 

【タンザニアのストリートチルドレン】

 

  タンザニアの抱える問題の一つに、ストリートチルドレンが多いことがあげられます。タンザニアには国の福祉政策などがまだほとんどない代わりに、伝統的な大家族相互扶助システムが社会の中に根付いているのですが、近年のインフレーションや失業率の上昇、HIV/エイズの蔓延による成人死亡者の増加により、その助け合いの内容や度合いに変化が生じています。

  したがって、エイズなどで両親や父親を失い、親戚などの引取り手のなかった子供や、親の家庭内暴力や貧困などでやむを得ず家を出た子供が、ストリートチルドレンとなって都市に集まります。彼らの多くは農村の出身ですが、まずは何時間も歩いて電車の停車駅となっている地方都市まで出、その後電車の貨物車両にもぐりこんで、今よりもよい環境を求めてダル エス サラームなどの都市に出てきます。しかし遥々都市に出て来た彼らが直面する現実は、優しいものではありません。大人も失業率が高いので、子供が賃金を得られるような仕事はありませんし、タンザニアでは本来初等教育は無料なのですが、戸籍登録地を離れているので学校にも行けません。

 

  こうした子供にできることは、荷物運びでわずかな収入を得ることか、物乞いや窃盗しかありません。学校にも行っていないので読み書きもままならない彼らは、グループを作って何とか助けあいながら路地で夜を明かし、命をつなぎます。しかし、プラスチック袋を燃やしてつくったシンナーのようなドラッグを吸ったり、大人の吸い残しのタバコを吸ったり、少年少女売春に巻き込まれる子供もいます。こうした子供が大人になった時に歩む道は絶望的とも言えます。

  ストリートチルドレンを支援する公的な福祉体制はまだタンザニアにはありませんが、有志のタンザニア人や海外の宗教法人、国連や国際NGOが立ち上げた組織が、身寄りのない子供たちがストリートを脱出できるよう、少しでも基本的な教育や専門的な技能を身に着けられるよう、様々な支援を行っています。

 

 

  例えば、ダル エス サラーム郊外の緑の深い丘に位置する、あるキリスト教法人が立ち上げたチルドレン・イン・サ・サンという施設は、17歳までの元ストリートチルドレンの少年たちを保護し、寮で共同生活させ、その衣食住を保障し、学校に復学できるように取り計らい、併設する作業所で大工仕事や、電気配線などの専門技術を教え、卒業後には都市のストリートではなく、生活する為に必要な基本的な教育と技能を持って出身村に帰れるように支援を行っています。現在の運営責任者は、アフリカに30年以上、タンザニアには18年住み、今では自分の年金をこの施設の運営に全て充てている、オランダ人の神父さんです。食べ慣れていたはずのバターにパンではなく、豆を煮たスープととうもろこしの粉を水で練ったウガリを毎日子供たちと一緒に食べています。彼の下に、タンザニア人の神父さん3人と約60人の少年たちが共同生活を営んでいます。食事づくりや、施設の修理、飼っている牛や鶏の世話は、年上の子が年下の子に教え、助けてあげながら、自分たちで行っています。こうした子供たちは幼い頃から厳しい現実にさらされながらも、その現実に圧倒されないよう毎日を生きています。

 

 2005年5月号

 

 

【タンザニアの食べ物】

 

 私たちで言えばお米に相当する、タンザニアの主食はウガリです。ウガリは、とうもろこしでできた粉に水を混ぜて煮てつくります。ジャガイモで言えばマッシュポテトのような食感です。ウガリは通常、炒めた玉ねぎとトマトに、ムチチャと呼ばれるほうれん草のような野菜やキャベツを入れて作ったシチューをかけて食べます。

 また、デザート用のバナナよりも一回り大きなンディジと呼ばれる食事用バナナもあります。甘くなくて、固くて、皮も緑色です。デザートバナナと違って皮が身からなかなかはなれず、むくのが大変です。あくが強いので、むくと白い実の表面がすぐに黒くなります。濃いさといものような味がします。これもつぶしてマッシュバナナにして主食として上記のシチューと共に食べます。タンザニアには黄色いバナナ、赤いバナナ、緑色のバナナ、赤ちゃんの腕のような太って短いバナナ、房からそり返って勇ましい象の鼻のような長ーいバナナ、日本で見るような形のバナナと、バナナにもたくさんの種類があります。一つの木から一つの花房が生まれ、その花房がやがて百本くらいのバナナになります。

 タンザニア人はご飯も食べます。炊いたお米はワリと呼ばれ、タンザニアではウガリよりも高価なのでご馳走です。ワリの食べ方はいろいろあります。マハラゲと呼ばれる日本のささげと同じ豆を煮込んだシチューをかけたマハラゲご飯。ピラウと呼ばれる、ワリと油と様々なスパイスと、味付けの為の少々の牛肉を炊き込んだご飯。ビリヤーニと呼ばれる、牛肉や羊肉や魚をトマトと玉ねぎで煮込んだシチューをかけたご馳走。クリスマスにはキリスト教徒は、ワリ・ナ・クク(ご飯と鶏肉の意)と呼ばれる、タンザニアではご馳走肉の鶏肉とご飯を食べます。

 ピリピリと呼ばれる唐辛子の粉の薬味もあります。日本語のピリッと辛いと同語源なのか、または単なる偶然なのか分かりませんが、日本人にとっては大変覚えやすい名称です。

 町や海の近くでは、炭火焼の香ばしい匂いを漂わせながら、道端で串刺しにした牛肉を焼いている屋台兼レストランを目にします。これはムシカキと呼ばれます。ちなみに、電気が全く通っていないか、または供給が常に不安定なタンザニアでは、家庭でも炭火で調理するのが一般的で、台所が屋外といううちが(つまり台所はない)多いです。

 日本のお漬物のようなものもあり、カチュンバリと呼ばれます。玉ねぎとトマトにキャベツやピーマン、にんじんをプラスして塩とレモンで揉んでつくります。カチュンバリはピラウやムシカキによく合います。ピラウには上述のピリピリとカチュンバリを混ぜて食べるのがタンザニア風の食べ方です。

 港町のダルエスサラームの魚市場では、もうもうと上がる油でどんより重たい湯気の中でおびただしい数の魚を揚げている光景を目にすることができます。タンザニア人は魚を揚げてしまうことが多く、魚好き日本人の私は思わず、どの魚も味が変わらなくなってしまう!と残念に思ってしまうのですが、これは、冷蔵庫が普及しておらず、必要な栄養量を取れていない人も多いこの国で、殺菌とエネルギー摂取の面で優れた調理法なのかもしれません。揚げた魚を小さく切って、上述のトマトと玉ねぎのシチューに入れてご馳走にするることもあります。

 

 

 町では、荷台いっぱいに栄養豊かなジュースをたっぷり含んだココナッツの実を乗せていたり、両側いっぱいにバナナを敷き詰めて走る自転車にも出会います。

 タンザニアにはスナックもたくさんあって、野外炭火コンロの屋台や、自転車の荷台でやってくる移動式売店で売っています。ひき肉とみじん切りの野菜を、スパイスを効かせて春巻きの皮で包んで揚げたサモサ、キャッサバの薄切りやじゃがいものスティックを野外炭火コンロで揚げたチプシ、小麦粉を水で溶いて練って鉄板上で焼いたチャパティと呼ばれるパンなどです。タンザニアにはインド系の人も多いので、町のアジア人界隈では、インドのお菓子も食べられます。ミルクとお砂糖に各種スパイスやカシューナッツを加えて練り固めたバタフィは、その美味しい一例です。

タンザニアでは、お腹を満たすこと自体に大きな苦労を強いられている人が多くいますが、その一方で、タンザニアならではの食文化も生きています。炭火を起こす所から始まるゆっくりゆっくりの調理法、町の喧騒や屋台の賑わい、翌日お腹が壊れていまいち力が出なくなる可能性も含めて、タンザニアの食文化は大変興味深いです。

 


 

 2005年4月号

 

 

【タンザニアのアジア人】

 

 

 タンザニアでアジア人というと、通常はインド人、アラブ人を指します。タンザニアには実にインド人、アラブ人が多いのです。

インド人は、その多くがイギリスの植民地管理の為に連れて来られたインド人の子孫で、タンザニアに限らず、元イギリス植民地を中心にウガンダ、ケニアなどの東アフリカ、および南アフリカに多数住んでおり、商才を活かして、こうした国々の経済のほとんど全てを動かしています。町の商店から、大企業に至るまで、経営者はインド系で従業員はアフリカ系という光景はごく普通の光景となっています。

 また、こうした背景からタンザニアは経済分野におけるインドとの結びつきが深く、在タンザニアインド企業への駐在員も多数います。その多くはヒンディー語、スワヒリ語、英語、人によっては自分の家族の出身地方の言語を話します。インド人の助け合いコミュニティーは結束が固く、祭事や文化を語り継いでいるという面でも素晴らしいです。

 

 


 アラブ人は主に、昔タンザニアのザンチバル島に移住し、奴隷貿易などで栄えたオマーン商人の子孫と言われています。今もアラブ人はザンチバル島や、タンザニア最大都市ダルエスサラームに大勢います。

 イスラム文化が強く残るザンチバル島では女性は必ず黒いスカーフで髪を隠しています。ダルエスサラームなどの大都市では、スカーフを纏っている人も纏っていない人もいます。アラビア語に関しても、誰もがコーランを読めますが、会話はできないという人もいます。スワヒリ語は皆話すようです。英語が達者な人も多いです。


 私たち東アジア人は少数派で、アフリカ人の目からはインド人、アラブ人とは異なって見えるらしく、アフリカ人にとってのアジア人カテゴリーに入らないそうで、町を歩いていると、チーナ、チーナ、と呼ばれます。チーナというのは中国人のことで、タンザニア独立後の初代ニエレレ大統領が、社会主義経済による自立を標榜し、中国の体制を目指したことから、中国から当時多くの支援や人材が集まった為、タンザニア人は東アジア人といえば中国人を最初に思いつくようです。新興アフリカ諸国の中で、欧米の支援によらない唯一の鉄道がタザラ鉄道で、中国の技術援助で敷設されました。この鉄道はタンザニアと隣国ザンビアを結んでいます。

唯一、魚市場にいくと、私は間違いなく日本人!ということで、早速大勢のアフリカ人に囲まれます。イカやタイといった日本語を覚えた商魂たくましいアフリカ商人に、5倍6倍の値段を吹っかけられない様に、スワヒリ語でジョークを交えながら値引き交渉するエネルギーを蓄えて行かねばなりません。

 

 

 2005年3月号

 

 

【タンザニアの女性】

 

 

 タンザニアの女性は、よく働きます。特に、農村部では、女性が赤ちゃんを背負って、キャッサバ畑を耕していたり、頭に大きな荷物を載せて山道を登っているのを目にします。
 一方で男性は家の軒先に集って、地元で造ったお酒を飲みながら何か論議していたり、「バオ」と呼ばれるゲームをしています。もちろん、汗を流して懸命に働く男性も沢山いますが。都市部の女性は、オフィスやお店で働くのはもちろん、起業している人も多くいます。

  例えば、職務上職場を空けられない「アスカリ(ガード)」対象に、頭に載せたプラスティックのバケツから、マハラゲ(ささげ豆)ご飯の昼食や、おやつのチャパティ(白くて丸い平たいパン)やバナナやマンゴを売り歩いたり、蚊帳用のネットを丸く切り取って周りにマサイ族風のビーズをあしらって、飲み物のデカンタの虫除けにしたものをお土産用に外国人に売っています。

 

 


 都市部の女性は、長めのスカートやズボンにブラウスを着ていることが多く、特にオフィスで働く人々などは、スーツやかっちりした服装を好み、きれいに髪を結い、お化粧もはっきりとして、大きめのアクセサリーをしており、服装が日本や欧米以上に生活や収入の様子を示す大切な一部になっていることを感じさせます。

 一方村では、Tシャツの下に、伝統的な「カンガ」と呼ばれる2枚1組の布をスカート風に腰に巻いている女性がほとんどです。この「カンガ」は、照りつける太陽と褐色の肌に映える、鮮やかな配色と大きな柄が特色で、必ず隅にスワヒリ語のことわざが書いてあります。例えば、私が今スカートにして着ているカンガには、「ジャンボ!と挨拶する度に神様が訪れる」と書いてあり、日本の「笑う門には福来る」と同方向の思想だなと思っています。

このカンガには、結び方が無限にあり、スカートに、ワンピースに、パジャマに、水着に、頭からかぶって日よけも兼ねたベールに、赤ちゃんを背負うおんぶ紐に、荷物を纏めて頭に載せる為の風呂敷に、と幾通りにも活用されます。ちなみに、カンガは、スワヒリ語でホロホロ鳥の意味も持っています。また、正装をしてお出かけの際には、カンガと同じくビビッドな配色と柄で、メートル単位で購入し、足踏み式ミシンの仕立て屋さんに作ってもらう、「キテンゲ」というワンピースを着る人が多いです。
  イスラム教やキリスト教の信者もそれぞれ30%程度という(残りは昔から土地で信じられている伝統宗教の信者)こともあり、肌を露出する服装の女性はほとんど見かけません。私もタンザニアにつく前に、暑いことを予想して袖なしのシャツを持ってきましたが、これは家の中だけの着用にとどまり、あまり役に立っていません。


 タンザニアでは初等教育が無料ということもあり、山間部でもかなりの女性が学校に行くことができているそうです。確かに、山道を歩くと、白いブラウスと青いスカートを着て何キロも歩く通学途中の女の子たちを目にします。ただし、有料となる中等教育以降は、都市でも農村でもぐっと女性の就学率が落ちるそうです。
 農村部などでは今も割礼の習慣が残っている地域が多く、多くの家庭で沢山子供を産む習慣が残っているそうですが、都市部では養育費などの出費を鑑み、子供の数を2人や3人に抑える家庭が多くなってきているそうです。

  近年インドや南アフリカからの資本が盛んに入ってきていることもあり、タンザニア人の間で貧富の差が拡大し、生活様式や考え方が更に変わっている中で、女性の選択肢もその人が置かれている環境によって様々に異なってきているようです。

 

 2005年2月号

 

 

【野生動物を見に国立公園へ行く】

 

 タンザニアには、国際的に有名なセレンゲティやンゴロンゴロ、キリマンジャロといった、野生動物保護区や国立公園が数多くあります。タンザニアの国土を地図で見ると、人間はごく限られた小さな場所に町や村を作って住んでいるだけで、それ以外のほとんどの地域では、動物が自然の営みに沿って生きていることが分かります。

 タンザニア最大の都市ダルエスサラームから車で1時間も走ると車窓から見える景色はがらっと変化し、アフリカの都市特有の密度の濃い喧騒は消えて、ヤシやバナナの林、見渡す限りの草原、高く青い空、ちらほら見え隠れする村の土塀の家、そびえ立つ山々が私たちを圧倒します。

 

 


 ダルエスサラームを始めとする都市では、土や砂利の道路はもちろん、都市のアスファルトになっている道路も、特に雨上がりには至る所に穴が空き、車が転倒しないよう、タイヤがパンクしないよう、穴を避けて走るのに一苦労なのですが、地方都市を結ぶ幹線道路は、物資の輸送などに重要な為、日本や欧米といった外国の支援によって、新しい頑丈なアスファルトの直線道路が敷設されています。


  都市の周辺は日本のように抜け道などの選択肢が存在しない為、交通渋滞が激しいのですが、1時間も走ると車はまばらとなるため、タンザニア人はこうした道路を、信じられないくらいのスピードで反対車線を縫うように走り、ビュンビュン先の車を追い越してゆきます。
そのため、交通事故も頻繁に発生します。トラックが逆さまになって運んでいたとうもろこしが道路に散乱していたり、前方部分がぐしゃっとなった車が路肩に寄せてあったり、4時間走る間に、今正に交通事故に見舞われた車を6台位見るのが通常の光景、というのが実情です。


地元の新聞でも毎日のように長距離バスが転倒して何人もの乗客が死傷したという記事を見かけます。(トラックや乗用車ではもはや記事にならないのだと思います。)交通事故はエイズやマラリアと同じくらい深刻な問題であることを再確認します。


 こうしてダルエスサラームから約4時間走ると、最も近いミクミ国立公園に到着します。車は動物たちの生活を乱さないよう、決められた道路を走ることが義務付けられています。私がこの公園を訪れたのは雨季である1月でしたが、象、キリン、シマウマ、アンテロープ(鹿の仲間)、バッファロー、いのしし、ハイエナ、カバ、クロコダイル、ハゲタカ、ヒヒなどの動物や数多くの鳥類が見られました。


  草が伸びない乾季には、雨季には狩猟の為に草むらの中に隠れているライオンやヒョウも見られるそうです。
考えて見れば当然かもしれないのですが、真近で見るバッファローの顔は一つ一つ人間の顔と同じくらいに異なっており、おお!と感嘆してしまいました。また、キリンのまつげが、つけまつげのように長く、ビューラーで上げた様にくるんとカールしていることも初めて知り、思わずうらやましいなと思ってしまいました。


  動物たちが食事をするなど活動的になる早朝と日暮れには、赤く染まった空の下でゆっくりと動く象やキリンなどの大型動物や、群れを成して周囲の様子に反応するシマウマやアンテロープが一斉にこちらを直視する姿は非常に印象的でした。
しかし、タンザニアにとって外国人観光客から外貨を得る数少ない手段であるサファリは、当地の物価を鑑みると非常に高額である為、都市に住むタンザニア人は自国の財産であるこうした野生動物を見る機会が滅多にもてないというのは、その姿が印象的であるがゆえに、非常に残念だと思います。

 

 

 

 2005年1月号

 

 

 

私の住むダルエスサラームからフェリーで2時間の所に、ザンチバルという島があります。この島は昔、アフリカで外国人による奴隷貿易が行われていた際の海外への積み出し港でした。
 フェリーが着く中心地のストーンタウンという町は、ユネスコの世界遺産に指定されています。ストーンタウンには、奴隷貿易で富を得たオマーン商人たちが立てたアラブ式の建物が多く立ち並び、車や馬車の通れない4m程度の路地が建物の間を縫って町全体を覆っており、歴史的に貴重な独特の様式が残っているためです。

 建物の多くには、家主の富裕度を示す為に豪奢な彫刻が施された木彫りのザンチバル式ドアが残されています。


  こうした歴史的に重要な建物の周りには、日々の生活から出たゴミが散乱しており、歴史と雑然とした日常の混じり合いが、私たちに、ザンチバルが単なる博物館でない、生きたアフリカの一部であることを思い出させます。
 ザンチバルでは、歴史的背景から、95%の住民が敬虔なイスラム教徒と言われ、町のあちこちに建つモスクからは、朝5時からお祈りの声が町に響き渡ります。アラブ系のザンチバル人も多く住んでいます。
 また、ザンチバル女性はほとんど全員が、ダルエスサラームではもはやあまり見かけられない、体全体を覆う黒いベール「ブイブイ」を着用しています。
 

 

 

※ストーンタウンの町並み


 

 ザンチバルは、資本主義経済を導入してから、近年主に外国資本によるリゾート開発が急速に進んでいます。特にイタリアやスペインでザンチバルは人気が高いようで、パッケージツアーのチャーターフライトも頻繁に到着します。
 ダイビングのポイントがザンチバル周辺で多く発見されており、クリアな海でのシュノーケリングの可視度も高いです。また、イルカと泳ぐドルフィンツアーや、地元で生産されるクローブなどのスパイスや果物の産地を巡るスパイスツアーも人気で、多くの観光客を魅了すると共に、ザンチバルに雇用機会も提供しています。
 土産店の立ち並ぶ通りを歩くと、店員やお客の仲介をして店から手数料をもらう人たちが路地で強烈な売り込み作戦を展開するのですが、大抵はイスラム男性の礼儀として見知らぬ女性には話しかけない為、主人が大変困っている横で、私は非常に静かにゆったりと店先を眺めることができます。

 

 


※木になっているジャックフルーツ(味はバナナとパイナップルを足して2で割った感じ)

 


 

 しかし、経済的には観光が重要な産業となっている反面、元来イスラム文化の影響の強い地域である為、ビーチリゾートに訪れた主にヨーロッパからの観光客の開放的な文化を受け入れることに対しては、現地の人々の感情は複雑であるというのが現状です。
 タンクトップに短パンで町を闊歩する観光客は、ブイブイが女性の外出着である文化で現地の文化を尊重していないと言われても仕方がないと私も思います。
 しかし、ザンチバルは非常に暑いので、長袖、長ズボンを常時着用することには、正直、大変、難しいーと、汗をだらだら流しながら思いました。が、現地の人は、地元の宗教や文化を尊重して、日本人は配慮があると言って、単に好きで長い衣服を着ているわけではないことにすぐに気がついていましたので、やはり外国ではこうした姿勢をとるのは大切だと再認識しました。


※ダウ船

 

 

 

 

 

 

 



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神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンタータンザニアのホットニュース 2005年