神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンタータンザニアのホットニュース 2007年
HOME | |翻訳| |CAD設計| || |リサイクル| |ご依頼|  |英語ワンポイントレッスン| |会社概要

 

タンザニアのHotNews(2007年1月〜2008年4月)

 2008年4月号

 

【 タンザニアの教育および学習言語について 】

タンザニアでは、独立以来、ニエレレ初代大統領の強い信念から、スワヒリ語を中心とした国造り、全国民への初等教育の徹底が図られてきました。

 初等教育は、公立学校ではスワヒリ語で行われ、基本的に無料です。しかしながら、通常白いブラウスに青か赤紫か緑のスカート/ズボン(ザンチバルでは、女の子の場合これに白いベールが加わります)の制服代や、筆記用具代などは両親の負担となる為、地方の本当に貧しい家庭では、中古で買うことが一般的であるにも拘らず、この制服代が払えない為に、子供を学校にやれないというケースがあります。私は、制服がなくても、穴が空いている服でも、何とかある服で間に合わせて、子供が学校に行けるということはタンザニア人の権利なのだから、堂々と通わせればいいのにと思ってしまいますが、これはあくまでも、人権についての意識を高める教育を受けた外の人である私が思うことで、実際には、慣習の壁を越える難しい問題のようです。

 

 また、初等教育が無料で、全てのタンザニア人がこれを受ける権利を有すると言う制作自体は素晴らしいのですが、実際には、都市や学校や教師によって、その教育環境や内容の質に、ばらつきがあります。教師一人に対する生徒の人数が、膨大であるケースも珍しくありません。多くの学校で、教室には机と椅子もなく、また例え幾らかあっても全く足りない為、生徒は小さなほうきを持って登校し、砂だらけの床をお尻の分だけちょっと掃いてから、地べたに直接座っていたり、ノートも鉛筆も持っていないので床の上の砂の上に指で足し算をしていたりするという現状があります。ボランティアで学校に行って、その光景を初めて見た時は、私の知っている学校とのあまりにも大きなギャップに、ショックを受けました。

 

 また、生徒の人数が多すぎるのか、教師自身の養成教育が十分でないのか、授業中のはずなのに、教師が外で採点している間、生徒は教室内で床に座って何をしていいか分からずに、ただ待っているだけという光景も、何度も見ました。こうした背景には、公務員である教師の給料がタンザニアの最低賃金ギリギリの月4,000円程度であったり、管轄の役所の管理が行き届いていない場合には、その給料も支払いに遅延があったり、遠隔村においては、給料を取りに行く為に町まで一日かけて取りに行く間、学校は事実上機能しなかったりと、教師の意欲を高めるような労働環境も整っていないことがあるとも言えます。

 

 さて、小学4年生が終了すると、全国統一試験があります。これに合格すると5年生になれますが、不合格になるとまた同じ学年を繰り返さねばならない為、この時点で学校を辞めてしまう生徒が多いそうです。また、初等教育を終えて、中等教育に進む際にも、全国統一試験があり、この時点で学校を辞める生徒が非常に多くなります。というのも、タンザニアでは、中等教育からは、学費が発生し、また、授業がいきなり全て英語で行われるので、初等教育から中等教育へは、財政的にも学習内容的にも、大きなギャップが存在するのです。

 その為、タンザニアの都市部には、富裕層の子弟が通う、私立学校が多く存在します。こうした学校はほとんどが幼稚園から、または初等教育から、全て英語で行われています。こうした学校は、アラブ系の学校や、インド系の学校、または、インターナショナルスクールの認定を受けて、その各指定カリキュラムに沿った教育を施しています。こうした学校に通う生徒達は、家庭では家族と母国語を話し、学校では英語を話し、学習言語は英語という、バイリンガル(またはそれ以上の言語)環境で育ちます。

 こうしたバイリンガル教育には、賛否両論あると思います。私は、色々な方の話を聞き、また、言語学者による本などを読んだ結果、2つ以上の言語環境の中で少年期を過ごすということは、後で多大な時間とエネルギーを費やして第二言語を習得する必要がないといった、有益な面も多い反面、その際には、思考の幹となる第一言語の習得が非常に大切なのだと、感じています。

 

 というのも、以前、アメリカに長く滞在して初等、中等教育の大半を英語で受けた日本人の友人が、自分は英語も日本語も自由に扱えるし、いずれの言葉を用いても、日常困ることはないが、どちらの言葉を話していても、100%までは本当に正しい表現をしているのか、実はいつも自信がないのだということを話していて、驚いたことがあるのです。その友人は非常に優秀な方だったので、恐らく、例えば哲学や物理学等における、大変に高度なレベルの抽象的な思考を構築する過程に際して、使用するツールとしての言語を完全には自由に扱えない為に、思考内容のみに集中することができないということが、抽象的な思考構築の障害になるということを指していたのだと思いました。

 こうした私の推察に類する事項は、その後何冊も読んだ、言語学者による、バイリンガル環境や言語習得に関する書物にも記されていました。新しい言語環境に短期間で適応することができるように見える子供の言語能力の発達には、表層的な器用さの奥に、思考能力発達に関する問題が隠されることがあるという指摘です。

 しかし、一方で、例えば、非常に優秀なエンジニアなどを世界的にも多く輩出しているインドの人達は、例えば自分の両親の故郷のベンガル語とグジャラティ語と、共通語のヒンドゥー語と、英語といったように、多言語を巧みに全て操れる方が多いですが、抽象的な思考の構築に問題を感じているかと言えば、必ずしもそうとは言えないのかもしれません。少なくとも、私はこうした問題がインドのような多言語国家において問題視されているという記事や報告に出会ったことはありません。

 そこで、重要なことは、抽象的な思考を構築する際のツールとなるべき言語が、逆にその妨げとならないように、その表現に如何なる不安も持たずに、自由に抽象的な思考を羽ばたかせられることができる言語をまずは一つ持つことが、私は重要だと考えています。

 ちなみに、以前テレビ番組で知って驚いたのですが、仏教国ブータンでは、山脈が連なる国土の中で、山を隔てた隣の村では全く異なる言葉が話されているということから、初等教育から英語で全て行われているのでした。但し、その番組で特集していたのは、ブータンでは、特に貧しい山間の村においては、金銭的な制約からも、文化的な考え方からも、男の子だけが学校に行けて、女の子はヤギなどの家畜の世話をしなければならないケースが覆いという現状でした。

 

 外国人の入国や外国資本の参入を厳しく制限しているブータンにおいて、英語が学習言語として採用されていることは、私にとって驚きでした。また、以前訪れたことのある台湾では、英語を保育言語とする幼稚園が沢山あり、英語圏出身の若い人達が二、三年の契約で多数雇用されているようで、町に大勢いました。

 日本では、総合学習内で初等教育における英語教育が始まり、群馬県に主な学習言語を英語とする公立学校が設立されたようですが、学習言語が全て英語という学校に通う生徒の比率は、全体に比べて非常に低いと思います。ヨーロッパでも、ほとんどの初等中等教育は母国語で行われているようです。

 しかし一方で、アジア、アフリカの多くの国には、タンザニアのように、初等、または/および中等教育における学習言語を、英語、またはフランス語とする学校が多くあるようです。例えば、カナダの英語圏地域では、学習言語をフランス語とする学校に通い、フランス語を習得する生徒が増えていると、友人から聞きました。今後、日本の学習言語、外国語学習環境はどのように変化するのか、個人的に非常に興味深い所です。

 

 2007年12月号

 

【 タンザニア建国の歴史 】

 

 私が非常勤勤務する日本語補習校には社会の授業があるのですが、小学6年生の歴史の教科書にも、中学2年の歴史の教科書にも、アフリカの歴史はあまり載っていないことに気付きました。現に私も、よく考えてみれば、こちらに来るまで、アフリカの歴史については、19世紀以降の欧州諸国による植民地統治された後、第二次世界大戦後に独立したこと位しか知らなかったことを思い出しました。そこで、今号では、タンザニアがどのような経緯で建国に至ったのかについて、ご説明します。

 タンザニアは、多くのアフリカ諸国同様、ヨーロッパ諸国による植民統治時代を経て、第二次世界大戦後の民族主義や独立運動の高まりの結果、1964年に建国された共和国です。

 タンザニアの沿岸地域には、インド洋のモンスーンに乗って、2000年も前からアラブ商人が辿り着き、7世紀頃からザンチバル等に定住するようになったそうです。この頃から、イスラム教を中心とするスワヒリ文化が栄え、交易の為に、文法に関してはバンツー語を基本とし、アラビア語の語句を多く借用してできたスワヒリ語が使われ始めました。ちなみに、私が始めてオマーンの空港に降り立った時、入国審査の担当者達が喋っている言葉が断片的に分かってびっくりしました。スワヒリ語誕生の経緯は知っていたので、なんでこの人達はスワヒリ語を喋っているのー!とは思いませんでしたが、スワヒリ語に如何に多くのアラビア語語句が使用されているかを実感しました。

 

 

 

 

 その後、1498年にバスコ・ダ・ガマが、南アフリカ・ケープタウン、すなわち喜望峰に、その後更に東アフリカに到達したことから、ポルトガル人によるアフリカ進出が始まり、1503年にザンチバルはポルトガル保護領となったそうです。しかし、その後、17世紀に象牙や奴隷貿易を開始したオマーン人に勢力を奪われ、1840年にオマーンによりザンチバル王国が建国されます。

 19世紀には、ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民統治が始まり、アラブ人、アフリカ人の抵抗も空しく、タンザニアはドイツ領東アフリカとなりました。第一次世界大戦時には、イギリスおよびベルギー領コンゴがタンザニアに進出し、タンザニアはイギリス保護領タンガニーカとなります。私が住むダル・エス・サラームはこのタンガニーカの首都でした。

 

 第二次世界大戦後、タンガニーカは国際連合の信託統治領となり、1950年代、後にタンザニア初代大統領となるニエレレの指導の下に発展した民族主義運動の末に、大陸側タンガニーカは1961年独立を果たし、翌年タンガニーカ共和国が建国され、1963年ザンチバルが独立し、1964年にはタンガニーカとザンチバルが統合され、現在のタンザニア連合共和国が建国されました。首都は内陸部のドドマに移され、議会はドドマに設置されています。しかし、実際には、未だに経済や多くの政治的事項がダル・エス・サラームで行われており、各国の大使館や国際機関もダル・エス・サラームにあります。今後こうした機能がドドマに移るような気配は、今の所全くありません。

 ニエレレ大統領は、欧州諸国の資本拡大の為の植民地支配の歴史から、社会主義を標榜しました。このつながりで、タンザニアとザンビアをつなぐタザラ鉄道は、中国による支援で建設され、現在では、多くの中国人や中国企業が、建設などの民間部門でタンザニアに進出してきています。また、ニエレレ大統領は、スワヒリ語による初等教育を徹底させ、各部族語を使って部族内で生活していたタンザニア人に、スワヒリ語、スワヒリ文化を中心とする、タンザニア人としての統合したアイデンティティーを高めさせました。

 

 

 

 しかし一方で、ニエレレ大統領の政策は、部族間の融合の為に、各地の村の人々を新しい土地に強制移住させたり、経済体制が社会主義的になったことから、生産性の低下を招き、隣国ケニアなどに比べ、国の経済発展が遅れる結果も招きました。ちなみに、経済統制の結果、ほんの10年前には、今ダル・エス・サラームにあるようなインド系や南ア系のスーパーマーケットなども皆無で、お店と言えば、本当に小さな小屋に基本的な日常生活に必要な物資が幾つかあるだけで、駐在員はトイレットペーパーを買う為に、ケニアのナイロビまで定期的に買い物に出かけねばならなかったそうです。

 ちなみに、現在タンザニア人にニエレレ大統領が行った政策についてどう思うか聞いてみると、多くの人々は、ニエレレ大統領の政策は当時は本当に正しかった、しかし、今は世界の状況が違うので経済発展の為に自由化が必須なのだという答えが返ってきます。非常になるほどと思わせる回答だと思います。ニエレレ大統領はいまでも建国の父としてタンザニア人に尊敬されており、多くのお店やオフィスには、「ムワリム(スワヒリ語で先生/師の意味)・ニエレレ初代大統領」と表されたニエレレ大統領の写真と、現大統領の写真が、両方飾ってあります。

 1985年に選挙で選出された第二代大統領アリ・ハッサン・ムウィニの時代から、経済は自由化され、1995年には第三代大統領ムカパが経済自由化政策を引き継ぎ、2005年からは第三代大統領キクウェテがタンザニアの発展を目指しています。2006年にはキクウェテは日本を訪問し、2007年にはデンマークを初めとするスカンジナビア諸国を訪問する予定です。

 

 

  

 

 2007年11月号

 

【 タンザニアでの余暇の過ごし方 】

 

 タンザニアには、ないものが沢山あります。例えば、美味しくて手頃な価格で楽しめるデザートやおにぎり、沢山種類がありすぎてどれにしようか迷ってしまうペットボトルの飲み物などが並んだコンビニ!日本語補習校の生徒さんとよく、コンビニ行きたいねえと、日本の美味しくて楽しいお菓子の話などをして、懐かしんでいます。

でも、タンザニアには、日本ではなかなか楽しめないような素敵なイベントやアクティビティーもあります。

 例えば、日本では場所が限られている為なかなか予約が難しいテニスコートも、こちらの外国人が多く住む地域には、身近な場所に複数あります。私はこちらに来てからテニスを始めました。今ではお友達とやっていますが、最初のうちはホームランばかりでラリーのラの字にもならないので、タンザニア人の先生に教わりました。今はその先生は値上げをしたようですが、2004年には1時間500円で教えてくれました。それでも、こちらの多くの職業の給与水準よりはずっと高い額となります。例えば、学校の先生の平均的な月給は、5,000円くらいです。うちのアスカリと呼ばれるガード兼庭師さんの月給は12,000円で、ボーナスは年2回給料2か月分、有給休暇は年に30日です。でも、テニスの先生は、個人的にサポートしてくれたスウェーデン人の方がいて、南アフリカに留学して技能を磨いて、国際大会に出るまで頑張ったけれど、欧米諸国と違って、タンザニアには選手に対する生涯年金のような制度がないから、大変だよと言っていました。

 

 

 旧イギリス植民地には必ずあると言われるゴルフコースも、ダル・エス・サラームにはあります。しかし、唯一の問題は、テニスやゴルフだけでなく、屋外スポーツ全般的に、早朝および夕方以外は、太陽光と熱が強すぎて、暑くて体が長時間持たないということです。その為、タンザニア人富裕層や外国人が多く住む地域には、トレーニング・マシンやヨガやエアロビのクラスがある、会員制の屋内ジム施設も複数あります。プールに関しては、多くのホテル、学校、ジム、コンパウンドと呼ばれる集合住宅に設置されています。しかしながら、プールは、最も衛生管理状態による健康への被害の危険性を高く有しているので、評判のいい所を選ぶ必要があります。

 また、私が住むダル・エス・サラーム郊外には、5年程前にできた映画館があり、通常は、メジャーなハリウッド映画と、ボリウッド映画を上映しています。お金持ちの多い、インド系タンザニア人を主な顧客ターゲットにしている為です。その他の映画に関しては、1年に一度、この映画館で、欧州各国大使館やEUによる支援を受けて開催される、ヨーロッパ・フィルムフェスティバルにて、無料で様々なヨーロッパ映画を見ることができます。また、昨年から、日本その他のアジア諸国の大使館の支援によるアジア・フィルムフェスティバルも始まり、日本映画では、昨年は、北野武監督・主演の「座頭市」を、今年は、市川崑監督、役所広司主演の「どら平太」を楽しみました。日本にいた時は、あまり、これは日本文化だとか、日本らしい感情だ、というような意識はしないものでしたが、こうして外にいる時に、日本の文化が外国で紹介され、身近な外国人の友達から高く評価されると、とても嬉しく、日本人として生まれたことを誇らしく感じます。

 

 

 更に、アメリカ大使館では、アメリカ海兵隊の皆さんが、毎週木曜日、館内の屋外バスケットボールコートにスクリーンを立てて、公開したてのハリウッド映画を上映してくれます。また、ザンチバル島では、年に一回ザンチバル・フィルムフェスティバルが開かれて、中心地のストーン・タウンの各地において、様々な映画が上映されます。ちなみに、ザンチバル島では、ブサラというミュージックフェスティバルも年一回開かれ、タンザニアのみならずアフリカ各地から、アフリカ特有のエネルギッシュで情熱的な音楽や踊りが、紹介されています。

 また、日本では相当のお金持ちしか所有できないヨットやボートも、転勤でタンザニアを離れる駐在員から中古で比較的安価に購入できます。恐らく植民地時代に開発されたのであろうと思われるヨット・クラブにも、月8,000円くらいで会員になれます。また、会員の方々は、月3,000円程度を支払って、ボートの清掃および整備担当者を雇用しています。会員は、自分のヨットやボートを停泊でき、また併設するビーチで子供を遊ばせたり、バーでインド洋に沈む夕日を眺めることができます。私達は会員でないにも拘らず、会員の友人のご好意で、たまに週末にヨットやボートに乗せてもらえて、大変ラッキーです。夕方セーリングを終えてクラブに戻ると、釣りクラブの方々が、マーリーンやスウォード・フィッシュと呼ばれる、とても長い角を持った、体長3メートル以上、20キログラム以上ものカジキ・マグロや、黄色いひれを持つ、10キログラムものマグロ、キング・フィッシュと呼ばれるサワラなどを釣り上げて、秤にかけているのに遭遇することがあり、釣り好きの父に見せてあげたいなあ、喜んでいろんな質問をするだろうなあ、と思ったりします。

 

 

 タンザニアには各国の大使館や国連や国際NGOなどの支援団体があるので、駐在員も多数います。従って、駐在員の配偶者の為の助け合いの為のコミュニティーもあります。私も特に赴任当初、こうしたコミュニティーのお蔭で友人に出会えたり、タンザニアでの生活に適応するのを応援してもらい、随分助けられました。こうしたコミュニティーでは、新しくやって来る方々をサポートし、情報交換をしたり、タンザニアの政治、経済、文化をよりよく知る為のプレゼンテーションを、タンザニア諸機関や国際機関のスピーカーから受けたり、孤児院や学校や病院経営、職業訓練やHIV/エイズ予防プログラムなど、様々な分野で活動するタンザニアのNGOを財政的に支援する為にバザーを開いたりしています。

 語学を勉強したい人の為には、スワヒリ語の教育機関や、英語コースを設けているブリティッシュ・カウンシル、フランスゴコースを設けているアリアン・フランセもあります。しかし、ケニアのナイロビには、植民地時代からのつながりかイギリスの学校の分校が多くあるそうなのですが、ダル・エス・サラームには、その他の外国の教育機関の分校はありません。

 また、日本のように素敵な洋服を売るお店は、本当に小規模な地元のお店を除けば、ほとんどありませんが、町の布地屋さんで1000円位で布を購入して、ミシン1台で営業しているような小さなテイラーさんで1000円位で縫製を頼むと、世界に一着のオリジナル服を作ってもらうことも可能です。気に入ったデザインの服を見本に持っていってもいいし、デザイナー気分で絵を描いて持っていくことも可能です。スワヒリ語オンリーのテイラーさんも多いので、身振り手振りを活用しながら説明して、想像したのとちょっと違う服が出来上がってしまうのも、またアフリカらしくて一興という所です。しかし、フィリピンに駐在していた友人の話を聞くと、フィリピンの方が値段的にも技術的にも品質の高いオーダーメイドができるようです!

 このように、タンザニアには、日本のように様々な設備の整った文化的施設やイベントがあるわけではありませんが、タンザニアならではの余暇の楽しみ方があり、慣れてしまえば本当に穏やかに生活できるいい所だと思います。

 

 2007年10月号

 

【 ザンチバルのスパイス・ツアー 】

 

 以前にもお話しましたが、私が住むタンザニアのダル・エス・サラームにある船着場からフェリーで約2時間半の所に、ヨーロッパ人にはおなじみの観光地でもある、ザンチバル島があります。

 ザンジバル島には、古くからオマーン商人が住み着き、スパイス栽培や奴隷貿易で繁栄しました。中心地であり、町全体が世界遺産にも指定されている、ストーン・タウンには、イスラム教文化の影響を大きく受けた独特の様式を持つ建物がひしめき合って、まるで町全体が大きな迷路のようです。

 ちなみに、タンザニア全体ではイスラム教徒とキリスト教徒の比率はそれぞれ30%程度ですが(残りの30%は自然崇拝のアニミズム等を信仰)、ザンチバルのイスラム教徒の比率は約90%で、町を歩くとほとんどの女性は黒い布地でできたアッバやアフリカ独特の色彩と模様で染められた布カンガのいずれかで頭を覆っており、男性はお祈りの時間になると町のあちこちにあるモスクに出かけます。

 

 

 このストーン・タウンから、軽トラックの荷台をちょっと改造して作った、ミニバス「ダラダラ(ダル・エス・サラームでは日本の教習所や旅館の送迎バスの中古ワゴン車が使われています)」で20分も走ると、そこはもう、バナナ畑に囲まれたエメラルド・グリーンに輝く海となります。ザンチバルの海岸線沿いには、イタリア人やスペイン人が経営する高級ホテルが立ち並び、多くのヨーロッパ人が太陽と海を満喫しに、ザンチバルにやってきます。

 このように多くの観光客が訪れるザンチバルには、興味深い多くのアクティビティーが存在します。例えば、ストーン・タウンや、北部のヌングイ、東部のパジェなどから船で沖にでるダイビング・ツアーやシュノーケリング・ツアー。PADI公式ライセンスが取得できるコースもあります。島の南端に位置するキジムカジで、イルカと一緒に泳げるドルフィン・ツアー。東部のジョザニ保護区の森に住むレッド・コロブスという種類の猿を観察するツアー。そして、忘れてはならないのが、スパイス・ツアーです。

 このツアーでは、まず午前中に、ツアー用の貸切ダラダラに乗って(またはちょっと高価なコースでは、エアコン付のタクシーやワゴン車で移動だと聞いています。)、ザンチバルの村に出かけて、栽培されている数々のスパイスや、熱帯特有の果物の育つ様子を見学し、本当にスパイスのことについて詳しい、現地ガイドさんのレクチャーを受けます。そして、村の方々が作って下さる、スパイスとココナッツミルクをふんだんに使用したカレー等、スワヒリ料理のお昼ご飯を堪能し、午後は、遺跡や昔捕らえられたアフリカの人々が奴隷として売られるまでとじ込められていたという自然の洞くつを見学してから、近郊のまるで楽園のようなまだ観光開発されていない静かなビーチに行き、エメラルド・グリーンの海水で体を冷やしてから、ストーン・タウンまで送ってもらうという、大変に盛り沢山のツアーです。

 

 

 

 ここで、スパイス・ツアーで見学できる果物やスパイスを、写真と共にご紹介します!
まずは日本でもおなじみのバナナ。2005年9月号でもご説明したように、バナナには実は様々な種類があります。食事用の固くて大きな甘くない緑色のバナナ。皮が赤いバナナ。太くて短いバナナ。細長いバナナ、などなど。この写真に出ているのはデザート用のバナナです。フルーツの先についているのはバナナの花で、まず花が咲いて、その後ガクの部分が伸びて、フルーツになります。うちの庭にもバナナの木がありますが、太陽光が強いので、何でも驚く程急激に成長するタンザニアでも、バナナの小さな実が大きな果物になるまでには何ヶ月もかかります。だからあんなにコクのある味わいがするんだなと納得です。

 

 

 

次はツアーの名称にもなっているスパイスを代表して、クローブとナツメグです。

クローブは肉や魚の臭い消しや、インドカレーの重要な材料の一つとして、よく使用されます。また、デンマーク人は伝統料理のニシンの甘酢漬けにも、このクローブを入れます。

 

 

ナツメグに関しては、インド人はまわりを太いネットのように覆っている、この赤い皮を主に使用し、欧米人は中の固くて茶色い実をおろして、クリーム仕立てのソースの風味付けに入れたりします。

 

 

 

胡椒に関しては、説明は要らないでしょう。しかし、胡椒がどんな風に育っているのかが見られる機会は、そう多くないと思います。

 

 

熱帯特有の果物からは、ココナッツ、ジャックフルーツ、パパイヤ、カスタードアップルを紹介します。

 ココナッツには、木が背の高い種類もあれば、背の低い種類もあります。その実からとれるココナッツ・ミルクは、スワヒリ料理やインド料理、東南アジア料理の重要なベースとなります。若いココナッツの実は、振るとチャポチャポ音がするので、中に穴を開けて、甘いジュースを飲むことができます。成熟したココナッツの実は、ジュースがなくなっていて、殻の内側に白く固い実が厚く張り付いています。これはそのままスナックとしてかじったり、またはフレークにしてお菓子作りの材料に、または熱湯をかけて絞れば、ココナッツ・ミルクとなって、多くの料理に活用されます。

 

 

 

 

 

ジャックフルーツは、私の場合タンザニアに来て初めて目にし、また口にしたのですが、バナナとパイナップルを足して割ったような味と食感があります。

 

 

 

 

 パパイヤは、うちの庭にも木があるのですが、どうやら、どこからか種が飛んできて、いつの間にか生えていたかと思うと、いつの間にか実をつけてくれていて、かと思うと、いつの間にか雷に打たれたりして消えています。その複雑で独特な、気高い香りと味わいは、私の力では何とも言葉で表現できません。

 

 カスタードアップルは、一見爬虫類の鱗のような外観をしてはいますが、スワヒリ語でトペトペという可愛らしい名前を持ち、中の白く透き通った実が、その名の通りかすかにリンゴのような芳香を放つ、ねっとりとした食感を有する熱帯らしい果物です。

この天然のお化粧品である赤い粉は、写真の図のように、古代より、アフリカの部族によって、顔などを彩る装飾用に使われてきているそうです。

 幸運にも、私たちと一緒にツアーに参加した方々は、支援関係の仕事でEUからマラウイに赴任して今休暇中の家族や、これからNGOのボランティアでケニアの孤児院に行く人や、お医者様でこちらで伝染病の調査をしている人など、幸運にも皆さまざまな文化や経験を有するとてもいい方々で、バスに揺られながら楽しくお話しました。私が参加したのは2005年でしたが、当時一日楽しませてもらって確か15米ドルしなかったと記憶しています。

 

 

 2007年9月号

 

【 タンザニアの治安 】

 私のうちのあらゆる窓や戸には、細いながらも鉄格子がついています。壁の色と同じ白いペンキが塗ってあるので、ものものしい雰囲気を醸し出しているわけではありませんが、やっぱりちょっと牢屋みたいです。また、私達が寝る時には、居間と寝室の間にある格子戸を閉めて、2つ錠をかけるのが毎晩の習慣です。この格子戸は、グリル・ドアと呼ばれています。初めて聞いたときは、バーベキューを連想する、ちょっと楽しい名前だと思いました。しかしこうしたグリル・バーの役割は、強盗や空き巣の侵入防止です。

 更に、主人の職場の規定により、うちには日中1人、夜間2人のガードマンさんが常駐しています。こうしたガードマンさんは、スワヒリ語でアスカリと呼ばれています。このアスカリという言葉は、防衛に従事する人、といったような広い意味を有しているらしく、ガードの仕事につく人だけでなく、兵隊にも使われています。ちなみに、ダル・エス・サラームの中心部には、アスカリ・モニュメントという像が建っています。これは第一次世界大戦で植民地軍として徴兵され、戦場で命を落としたタンザニア人兵を称えたものです。

 

 

 

 貧富の差が激しく(しかも「富」める人よりも、「貧」の側にいる人の方が圧倒的に多く)、HIV/エイズを初めとする伝染病も蔓延していることなどから、病気や失業に見舞われる人も多く、こうした困難を抱える人に対する社会福祉政策もほとんどないタンザニアでは、貧しい家族や孤児は、本当にその日の食事にも困る貧困状態にあるので、窃盗や強盗が頻繁に起こり、また外国人はターゲットとなることも多い為、治安確保はタンザニアに住んでいる限り、いつ如何なる時も気をつけていなければならない事項の一つです。

 現実に、強盗や空き巣による被害の話はよく耳にします。うちのお向かいのシリア大使公邸でも何か盗まれたらしく、その話を聞いた時には、あまりにも身近に犯罪の危険が潜んでいることを痛感し、愕然としました。しかも、うちは隣が空き家で侵入し放題だし(居住権があるのか不明な人たちが沢山住んでいる。子供達もいつも出たり入ったりしている)、その空き家との間には生垣と編みこんだヤシの葉っぱしかないし、事件があった頃はインドに旅行に行って留守だったと、お向かいの家よりもずっと侵入しやすい状況だったので、うちがターゲットにならなかったのは運がよかったとしかいえません。しかし、その後聞いた話では、そのお宅にも当然アスカリがいたのですが、どうやらそのアスカリが犯罪を手引きしていたようでした。アスカリを雇っている意味がないどころか逆効果を招く結果となり、何とも不運としか言えません。

 国立公園にサファリに行った友達は、内装が豪華で温水シャワーや水洗トイレもあり、アスカリが常時見張りをしているテントタイプのロッジだったにも拘らず、夜ナイフを持ったマサイ族の男が押し入って、現金や時計やアクセサリーを全て出すことを要求されたことがあります。幸い、4歳になるお嬢さんは熟睡しており、この事件に怯えずにすんだのは不幸中の幸いでした。アスカリと犯人はグルだった可能性が高いと思われます。

 アスカリや、家事担当のハウス・ガール/ボーイによる窃盗というのも頻繁に起こります。窓を閉め忘れたら、グリル・バーの隙間から釣り上げられたらしく、机の上に置いておいた携帯電話が消えていたとか、砂糖、小麦粉や、財布の中のお金がいつの間にか減っていたとか、ズボンをはこうとしたらベルトがなかったとか、ビデオカメラが消えていた!などという話をよく聞きますが、現行犯でない限り、証拠を挙げるのは難しく、解雇できないという問題を抱える外国人も多くいます。

 幸い、外国人としては稀ですが、うちでは住居内に誰も雇用しておらず、また、3人のアスカリさん達も、タンザニア流に何事もゆっくりではあっても、とてもいい方々なので、こうした心配から解放されていることは有難いです。が、その分、日本のような便利な食材や製品がない、飲料水確保や野菜の洗浄も大変、野菜市場や魚市場にあちこち行っていちいち値段交渉しなくては物が買えない、また、電気供給が不安定で電圧が一定していないことや湿度と気温が高い気候の為に、うちの中のものがバシバシ壊れて職人さんが来ることが多いのでエスコート(間違った行為をしないことを確認する為の見張り)をしていなければならない、ということで、格段に家事労働に対する負担は大きい、と私は思うので、お客様が来るとき以外のうちの食事は、健康的ながらもかなーりシンプルです。

 

 

 ナイロビに本店がある、ダル・エス・サラームの大通りに面する高級インド料理店には、昨年強盗が押し入り、子供のゲーム機から、大人の時計、携帯電話、アクセサリー、現金まで全てを出させた上、バーカウンターで優雅にビールを飲んでから、悠々と出て行ったそうです。契約している警備会社の緊急用ボタンも作動せず、従業員がトイレからかけた警察の緊急時用電話も誰もとらなかったことと、犯人が十分な時間の余裕をもって出て行ったことから、警備会社や警察の担当者もグルだったのではないかと言われています。その日はデンマーク大使館や日本大使館、世界銀行の職員も、その家族、友人、仕事のパートナーなどと共に食事をしていて現場に居合わせてしまいました。幸い、犯人は取るものだけ取ると、被害者には一切傷をつけませんでした。

 また、車を狙った窃盗も多いです。駐車中に窓ガラスを割られて車中のバッグが盗られたり、夜間、スピード・バンプと呼ばれる、徐行運転を促す道路上の盛り上がった箇所でスピードを落とした際に、鍵をかけ忘れていたドアを両側から開けられて、ナイフで脅された友達もいます。また、日中にも拘らず、信号待ちをしていたら、数人の男にあっという間に囲まれて、前にも後ろにも動けない状態のまま、あっという間にドア・ミラーを盗られ、車を置いていけないので追いかけることすらできなかったという被害には、主人の同僚10数名のうち2人までもがあっています。ほとんどの車が中古車で、故障箇所を直して直して使っているタンザニアの車社会では、車の中古部品は立派な商品となるからです。その為、窓ガラスやミラーに車の登録ナンバーを印字したり、アラームをつけている車も多いです。

 

 

 

 とはいっても、そう毎日緊張状態でいては、頭がおかしくなってしまうので、リスクの高い行為は絶対に避けながらも、だんだん当地の事情が飲み込めてきてからは、私はできるだけ普通に自由に暮らしています。太陽が照りつける前の早朝6時半頃には、うちの前の道をジョギングしています。夕方非常勤勤務している日本語補習校にも徒歩で通っています。同じく非常勤勤務している幼稚園にも、車の少ない穏やかな裏道(但し穴ぼこだらけ)を通って、自転車で通っています。但し、このように車以外の移動手段を日常とる外国人は他にはめったに見かけません。私も、はじめのうちは、何がおよびどこが危険で、どこまでだったら恐らく大丈夫なのかが、少しづつ分かってくるまでは、このように自由には動けませんでした。

 すると、どこで知ったのか、近所のおうちに住み込みしているアスカリやハウス・ガール/ボーイさんの家族と思われる子供達が、ヨーカ!と、手を振りながら話しかけてきます(私は名前をようこと言います)。集団で私の後をしばらく走ってくることもしばしばあります。スワヒリ語で、「じゃあ一緒に行きましょう!速く走れてすごいね!」と言うと、みんなちょっと恥ずかしがりながら、キャッキャと喜んでくれます。うちの近所に住むタンザニアの子供達は、とても人懐っこいです。

 しかし、実は走って5分の所に海岸があり、ヤシの木に囲われた美しい場所でジョギングには最適なのですが、そこの草むらには、どうやらドラッグやアルコールにはまってしまった人たちがいつも隠れていて、犬と共に散歩していた大きな成人男性も、何人も、ナイフやビール瓶のガラスの破片などで脅されて、度々携帯電話や現金を盗られているので、一人で走るのは、家の前だけと決めています。

 タンザニアでは、日本にいた時よりもずっと多く、強盗や窃盗の話を耳にします。しかし、少なくとも、犯罪の動機や手口はいつもストレートで、もっと豊かになりたいから、金目のものがある所から盗む、盗る、ということのようです。例えば、ラテンアメリカやアジアなどで多いといわれる、子供を狙った誘拐の話は全く聞いたことがありません。子供は宝ということで、タンザニア人は子供を大変大事にするので、犯罪の道具にできる可能性があるなどとは考えないようです。また、最近日本や欧米諸国でよく報道されている、子供に対する性的犯罪や、犯罪そのものに快感を覚える猟奇犯罪などの話も一切聞きません。

 

 

 2007年8月号

 

【 タンザニアから日本への行き方 】

 

 タンザニアから日本に行くには、幾つかのルートがありますが、私はいつもエミレーツ航空を使って、ドバイ経由で帰っています。特にこだわりがあるわけではないのですが、旅行会社で比較してもらうとどうも常に最も安いようなので(とはいっても私がお世話になっている旅行会社は、主人の職場が長年お得意さんであることから、正確に対応してくれることに関しては信頼がおけるので助かっていますが、日本の旅行会社程、丁寧に調査してくれたり、サービス精神に溢れていないので、もしかしたらもっといい方法があるのかもしれません。)他のルートとして、日本人の友人に人気なのは、ケニア航空の香港経由(詳しくは知りませんが、香港から日本へは他の航空会社を使う必要があるのかもしれません。)や、途中でヨーロッパ滞在ができる英国航空のロンドン経由です。また、ムンバイ経由のインド航空も可能です。今年からは、日本へは関西航空に乗り入れている、カタール航空も、ダル・エス・サラーム便を開始しました。

 私が住むタンザニアのダル・エス・サラームの郊外には、初代大統領の名前をもらった、ジュリアス・ニエレレ国際空港があります。日本の成田空港や関西空港に比べたら、本当に小さな簡素なつくりの空港です。免税店も小さなお店が数件あるだけだし、税関を通過してから飛行機の到着を待つロビーにも、エアコンはありません。従って、空港内は非常に暑いです。ちなみに、タンザニアに帰ってきた時の到着ロビーにも当然エアコンはないので、むあっとしたアフリカの蒸し暑い空気を受けると、ああ、帰ってきたなという実感がいつもします。しかし、この空港の到着ロビーには、恐らくダル・エス・サラームで唯一であろうと私が踏んでいる、エスカレーター(しかしほとんど動いていないので階段状態である)があります。また、空港内のバスが足りていないのか、飛行機が降り立つと、メインロビーのあるターミナルから遠くない場合には、滑走路を歩いてゆかねばならないことがあり、初めはびっくりしました。

 

 

 エミレーツ航空機は、ダル・エス・サラームを出発すると、まずケニアのナイロビに到着し、ナイロビ出発の乗客が乗り込む間、ダル・エス・サラーム出発の乗客は一時間程機内で待機してから、ドバイに向かいます。エミレーツ航空は、イスラム教の国の航空会社ではありますが、ビールなどのアルコールもサービスしています。ちなみに、以前オマーン航空機に乗った時には、長距離フライトでは標準的なサービスだと思っていた離陸後最初のドリンクとピーナッツなどのスナックサービスがなくて、最初からご飯が出てきたので、なるほどこのようにしてさりげなくアルコールのサービスを省くのだなと感心した記憶があります。

 ダル・エス・サラームを出発してから9時間程で、飛行機はドバイに到着します。手荷物検査を受けてトランジット・ホールに到着すると、アフリカから来た者にはあまりにもギャップが激しくて、眩しくてくらくらする程、きらびやかな巨大免税店スクエアが旅行者を待ち受けています。そこには、免税店ではおなじみのウィスキー等のアルコール類や、ヨーロッパ系の有名ブランドの化粧品や香水、同じく有名ブランドの時計やサングラス、コンピューターや家電といった電気製品、本やCD、食料品や日用雑貨など、沢山の品々が溢れています。そして忘れてはならないのが、ドバイで有名な22金や18の金ゴールド製品です。ちなみに、昨年日本に帰った時に、ドバイに数日立ち寄ったのですが、その時に訪れたゴールド・スーク(金市場)で値切ってもらった最終相場と、空港の相場はほぼ同じでした。慣れない町で公共のバスに乗って、猛暑の中歩いてゴールド・スークを訪れて、インド出身の店員さんとお話して、値切ってもらって、思い切ってピアスを購入した私には、結局空港で飛行機の待ち時間に買っても同じ値段だったという事実には、正直ちょっとがっかりしましたが、今後ドバイのトランジット・ホールで金購入を検討される方には有益な情報かもしれないと思い、記しておきます。

 

 

 

 ちなみに、トランジット・ホールで働いている人はほとんどが私のような顔立ちの東アジア人女性で、尋ねてみると、皆フィリピンから働きに来ているとのことでした。英語ができるフィリピン人は、ドバイやオマーンで沢山見かけます。ちなみにドバイには、欧米諸国からの駐在員や旅行者も非常に多く、売っているものも、欧米諸国で見かけるブランドや製品が主なので、ショッピング・モール内は中東の国という感じがしません。また、ここタンザニアと同じく、ドバイも車社会で、ドバイに昔から住むローカルの方々や、欧米からの駐在員や旅行者は、特に猛暑の7月だったということもあり、皆車で移動しているので、屋外ではほとんど見かけませんでした。以前行ったオマーンも、ショッピング・モール内はドバイ同様でしたが、古くから交易で栄えてきた町なので、昔ながらの乳香やスパイスを売るオールド・スークなどは残っていて、中東の文化的な味わいが残っていました。しかし、猛暑の中町を歩いてみると、ドバイには、出稼ぎに来ているインド人の為に安くカレーを出すレストランがあったり、ヒンディー語やタミル語の雑誌や雑貨や食料品を置いているキオスクがあったり、ドバイならではのコスモポリタンな雰囲気がありました。しかし、泊まったホテルのお部屋掃除の担当の方と話した時に、パキスタンから出稼ぎに来ているその人は、月給は2万円で家族に会いに帰れるのは2年間に一度2ヶ月間だけなので、人生楽ではないと言っていました。もちろん自国で働くよりも高い収入を得られるなどの理由からこうした出稼ぎの人達は自分の意志でドバイに来ているわけですが、ドバイの繁栄を支えているのは、こうしたインドやパキスタンやフィリピンなどの国々から労働者として来ている人々なのだなということを実感します。

 

 

 

 ドバイを出発して、いよいよ日本に向かう飛行機に乗り込むと、各航空会社とも、アフリカ行きの機体は常に最も古いものを使用するのだという、どこかで聞いた噂を裏付けるかのように、ダル・エス・サラーム便に比べてかなりグレードアップした座席環境が乗客を待っています。映画や音楽も自分で自由に選べます。エミレーツ航空のフライト・アテンダントさんは欧米系の方、アフリカ系の方、アジア系の方と非常に多様で、ここにもエミレーツらしいコスモポリタンな雰囲気があります。しかし、ここまで来ると、半分程度は日本人の乗客という環境となるので、周りから日本語が普通に聞こえて来るようになり、私は既に気持ちのモードが半分日本に帰ってきたかのようになります。そして、7時間程経つと、そこは本当に日本となり、私はエミレーツ航空のゲートウェイとなっている関西空港から、タンザニアのうちにしまっておいた百円玉かテレホンカードを握り締めて、懐かしい母の携帯電話に電話を掛けます。

 エミレーツ航空は日本航空とパートナー・シップを結んでいて、エミレーツ航空便到着後の、指定された大阪・羽田間の国内線が、コード・シェア便のエミレーツ航空にもなっていて、その国内線に乗り換えて、私は家族が迎えに来てくれている羽田空港に向かいます。羽田空港の荷物受け取りエリアのガラス張りのロビーの向こうに、父や母や弟の姿を見つけるのは、いつも胸が詰まる瞬間です。

 

 2007年7月号

 

【 映画「ダーウィンの悪夢」について− 】

 

 「ダーウィンの悪夢」という映画を見た方はいらっしゃいますでしょうか?2006年12月頃に日本でも公開されたと聞きました。

 この映画は、タンザニアの北西部に位置するビクトリア湖に投入されたナイル・パーチという外来種の魚が、外敵が存在しない環境の中で異常とも言える程多く繁殖し、ビクトリア湖にもともと住みついていた魚などの生物を根こそぎ食いつぶし、生態系に大きなダメージを与えていること、製造の過程で、貧しいタンザニア人が搾取されていること、そしてその元凶が、フィッシュバーガーなどの原料となる安い白身魚を求める、欧米諸国の経済優先の消費文化にあることを摘発し、ひいては、このナイル・パーチをヨーロッパへ空輸する為の飛行機が、タンザニアに到着する際に、ロシアから武器を輸送し、この武器がアフリカのテロ活動や内戦や独裁政権を支える武器輸送ルートになっているという可能性が否定できないというディレクターの見解を表現しているドキュメンタリー映画でした。タンザニア政府はこの映画に抗議しており、現在ではこの映画の公開はタンザニアでは禁止されています。

 私は、上映禁止になる前に、この映画をタンザニアの映画館で見ました。確かこの映画の製作にEUまたは欧州のどこかの国が支援していた関係で、プレミアの招待状をもらったのです。当時は、政治家などが見る前で、禁止になっていなかったようですが、その後、こちらの地元の新聞などでも、一時期盛んに、タンザニアの大統領が正式に抗議した旨などが報じられました。この映画に反対するデモンストレーションもダル・エス・サラームで行われ、混乱が生じる可能性がある為、デモが行われる地域にはなるべく行かないようにと言う日本大使館からの連絡も受けました。しかし、タンザニアでは上映禁止になっているのでほとんどのタンザニア人がこの映画を見ていない中で、映画のどの箇所に反対してデモに参加していたのかは不明でした。

 

 

 映画は、非常に挑発的で衝撃的な、正直気持ちの悪い、暗い後味を残すものでした。この私の受けた印象が、視聴者に与えたい印象として、恐らく監督が意図したイメージだったのではないかと思います。

 その映像や証言は、確かに全てタンザニアの現実の一部を写し撮ったものでしょうし、エイズや賄賂や売春や貧困の問題も、タンザニアをはじめアフリカのほとんどの地域にまたがる大きな問題で、こうした問題を衝撃的な映像で視聴者の心に突き刺さる形で取り上げたことには大きな意味があると思います。欧米や、もしかしたら日本でも、フィレオフィッシュやフィッシュフィンガーみたいな元の魚の様子が分からない形で加工されている白身魚製品の多くが、ビクトリア湖のナイル・パーチを原料にしており、これがアフリカの生態系を壊しているという批判も正しいものだと思います。

 しかし、一方では、ナイル・パーチを運ぶ飛行機がタンザニアに到着する(魚を積んでいない)片道を使って、ロシアから兵器が密輸されていて、それがアフリカの多くの国の内戦の兵器源になっているというのではないか、という監督の予測が、証拠が提示されるには至っていないので、少なくともその映画の中では予測に過ぎないのにも拘らず、巧みに直接は論理的には関係のない映像をつなげることによって、真実味を帯びた印象を視聴者に与えているのには、ちょっと行き過ぎ(英語で表現する所の正に「マニピュラティブ」)の感も覚えました。

 

 映画に描かれていた現実も、タンザニアの一部だと思うのですが、一方では、タンザニアにも、もっと明るい穏やかな人々の気質や、照りつける太陽や、何をするにもいらつくぐらいのんびりした仕事の仕方や、誰もが味わったことがある(田舎に行けば行くほど、その辺の木になっているので)美味しい果物や、すぐ何かごまかそうとするずるい人達や、日本ではもう薄くなってしまった大家族での助け合いや、そういう明るい面やもっと大地に根ざしたみたいなパワーもあります。

 そういう面は映画で監督が言いたかったこととは無関係なので、意識的に全て除去されており、何でも盛りだくさんに紹介することがドキュメンタリー映画の意図ではないので、これはある意味当然ではあるのですが、タンザニアのことを全く知らない多くの人が、あの映画だけを見て、タンザニアの暗く重い印象を心の中に形成するのは、残念なことだと、タンザニアの政治家が思ったとしたら、それは無理もないだろうとも思いました。表現の自由を圧迫する、その抗議の仕方にも問題があるとも思いますが。でも、こういったことは、幼稚な程にあからさまか、もっと巧妙に水面下で行われるかの違いだけで、タンザニアだけの問題ではないと思います。

 

 

 余談になりますが、生態系への影響といえば、ダル・エスサラームで生活する者として日々問題に感じずにいられないのは、カラスの存在です。もともと、タンザニアにはカラスは存在していなかったそうですが、ある時、都市の近代化と共に増えたゴミの処理に寄与するという近視眼的と言わざるを得ない考えから、外来種のカラスがタンザニアに持ち込まれ、外敵が存在しないことからあっという間に増えに増えて、今では大きな問題になっています。

 日常的な所では、ゴミばかりでなく、ビニール袋なども、見張りなしに外に10分も置いておくことはできません。ビニール袋には、美味しい食物が入っている可能性が高いことを知っているカラスは、真っ先にビニール袋にたかり、つついてしまうからです。また、本や携帯電話も、食べ物でないから大丈夫だろうと思ったら大間違いで、テーブルの上から落とされてしまったことがありました。

 また、生態系への影響としては、熱帯特有の鮮やかな色を有する小鳥や小動物の住処が奪われてきているという報告もあります。

 とはいっても深刻にこの問題を見ているのは、主に外国人のようで、タンザニア政府は、HIV/エイズや貧困対策や開発など、人間に直接深刻な害をもたらす問題にまずは対応するのに手一杯で、カラスにまで手が回っていません。

 

 

 2007年6月号

 

【 タンザニアで生活するということ−衛生と伝染病− 】

 

 

 

 3年間という私のタンザニア生活も、残り少なくなりました。今だから申し上げられますが、初めは、日本の生活と異なり、衛生や治安やアフリカならではの習慣に関して、気をつけなければならないことがあまりにも多くて、気持ちが沈みました。特に私の夫は以前にウガンダに住んで、エイズ予防プログラムなどに従事していた経験があり、伝染病にも詳しい為か、衛生に関して非常に敏感で、他の外国人駐在員よりも数倍厳しいルールを様々設けたので、水の濾過および煮沸や、野菜の徹底的な洗浄に明け暮れているうちに、東京の友達が仕事を発展させ、充実した社会生活を送る中、私だけ成長が止まっていつの間にか年を取ってしまうのではないかと、心から不安に感じました。

 しかし、太陽も連日照りつける中、暗く沈みこむということは本来難しいらしく、徐々に当地の生活様式に慣れ、数々の注意事項も日常生活の一部として身に付いてしまえば、タンザニアの生活は、非常に穏やかなものになりました。今日ではコンピューターのお蔭で、日本から、例えこれ以上遠い場所を見つけるのは難しいタンザニアに住んでいても、こうして翻訳のお仕事を頂戴したり、また、日本の皆様にタンザニアからのお便りを読んでいただくこともできます。これは、私にとって大きな救いとなりました。このような機会を私に与えて下さったD&Hセンター様には、本当に感謝の言葉もありません。

 

 タンザニアには、日本にはない沢山の伝染病があります。まず有名な所では、HIV/エイズやマラリアがあります。アフリカ諸国の中ではタンザニアのHIV/エイズ感染率は高い方ではなく、南アフリカなどはもっと高い感染率を有しているそうですが、それでも、タンザニアの全人口に対するHIV/エイズ感染率は、ある資料には約7%、また別の資料には12%とあり、決して低くはありません。エイズは皆様もご存知の通り、日常生活における接触を通じては感染しないと言われていますが、傷口にHIVウイルスに感染した血液が付着するような可能性は避けなければなりません。

 マラリアは、ハマダラ蚊という種類の蚊が媒介する病気です。このハマダラ蚊の雌は、夜卵を産むので、その為の栄養を蓄える為に、夕暮れから夜明けにかけて人を刺します。従って、就寝時には蚊帳に覆われたベッドで寝るのが望ましく、夜間の外出時には明るい色の服で体を覆うか、またはできればディートという成分の入った虫除けスプレーをする必要があります。しかし、このディートは、発ガン性物質であるらしく、デンマークなどのヨーロッパの多くの国々では、使用が禁止されているそうです。明るい服で体を覆うというのは、蚊は黒や濃紺や茶色を好むからです。蚊帳の中で寝るというのはタンザニア生活の基本中の基本ですが、サファリなどの旅先のホテルでは、かなり高級なホテルでも、テントスタイルの場合など、当然あると思われた蚊帳がついていなかったり、蚊帳があるホテルでも、なんか痒いなと思って目を覚まして明かりをつけてみると、何とベッドの裏に隠れていたらしく、蚊帳の中に数匹の蚊が止まっていたり、驚かされることが多々あります。蚊帳の中に蚊がいては、人間が正にまたとない大ご馳走になってしまうので、私はパニックになりながら真夜中に蚊と格闘することになります。ハマダラ蚊は止まった時に、他のイエ蚊やヤブ蚊と異なりお尻の位置が頭よりも高くなるので、蚊帳に止まった蚊が尻上がりであることを確認してしまった際には、マラリアにならないことを祈りながら、その後数週間を過ごすことになります。タンザニアでは、38度以上の高熱がでた場合には、まずマラリアを疑い、検査を受けに病院にいく必要があります。検査では、特別な器具を使って、針のようなもので指先からごく少量の血を採取して、マラリアに感染しているかを調べます。従って、3歳半になる友人の息子さんは、母国への一時帰国中に、風邪を引いて病院に行った際、まずお医者様に指を一本差し出したそうです。マラリアへの感染が確認された場合には、専門の治療薬を服用します。この治療薬には様々ありますが、多くのタンザニア人が服用する値段の安い種類のものは副作用も強く、また、妊婦が服用できない種類も多くあります。マラリアは適切な薬を服用すれば治る病気ですが、治療が遅れると死に至ることもあり、タンザニアでは大きな脅威の一つとなっています。なお、現在までの時点では、幸運なことに、まだ私はマラリアに罹ったことはありません。ちなみに、ハマダラ蚊は日本にもいるそうですが、マラリアがないので危険視されることはないそうです。

 他にも蚊はデング熱や黄熱病等多くの伝染病を媒介し、こうした蚊は日中人を刺すので、なるべく蚊には刺されない方がいいのですが、実際には蚊に全く刺されないように生活するというのは絶対に不可能です。

 

 

 

 また、病気を媒介する虫で他に思い起こされるのは、ツエツエバエの存在です。恐ろしい眠り病を媒介するというこのハエは、私が住むダル・エス・サラームにはいませんが、国立公園にサファリに行くと沢山います。ツエツエバエは、他のハエやアブなどと異なり、止まると羽が完全に体に平衡になるまで閉じます。大きさは2cmから3cm位で、普通のハエよりもずっと大きいです。吸血対象となる動物を目指すのだと思うのですが、大きな動くものに寄って来る習性があるらしく、車を走らせていると大勢やってきます。低速で走っているとはいえ、車について来るので、そのスピードにはすごいものがあります。このハエはマラリア蚊とは逆に、日中人を刺します。タンザニアのツエツエバエが眠り病を媒介することは稀のようですが、刺されると狂おしいほどに痒くなるそうなので、このこと自体非常に恐ろしいです。

 

 虫以外に常に注意する必要があることの重要な一つは、消化器官の細菌感染です。タンザニアに住んでいると、日本に比べて、お腹をこわす可能性が非常に高くなります。まず、開発途上国では珍しくありませんが、水道水が飲めないものなので、この水で洗った野菜を用いたり、この水で調理した料理は、完全に火が通っていないと、お腹をこわすこととなります。肥料の中に細菌が含まれていた場合に洗浄が不十分であった可能性を考慮すると、用心の為に、外ではサラダなどはほとんど食べられません。また、ここまでする必要があるのか疑問ではあるのですが、うちでは、夫の希望で、野菜を洗剤で洗った後、熱湯に数秒浸してから保存しています。タンザニアに来てから、コレラと赤痢の症状の違いなど、先進国と呼ばれる国々ではほとんど役に立たない知識が随分増えてしまいました。

 住めば都のタンザニアも、上記のような伝染病の不安が常に付きまとうことと、交通事故や大きな病気に遭遇した際に、日本で受けられるような質の治療を信頼して受けられる医療機関がないことから、家族全員が安心して長期滞在するのは必ずしも容易とは言えません。先日、非常勤勤務している当地の日本語補習校の生徒さんと、地球温暖化についてインターネットで調査をしていたら、地球の平均気温が上がることによって、マラリアを媒介するハマダラ蚊等、伝染病を媒介する生物の生息地域が広がるという記述があり、地球温暖化問題の重大さを、今までになく切実に感じてしまいました。

 

 2007年5月号

 

【 タンザニアの小規模商店 】

 

 タンザニアには、小規模商店が沢山あります。
その形態には、貨物コンテナを改造した店舗や、くず材を組み立てて小屋にした店舗、日除けにパラソルを立て、店主が座る椅子と商品を並べる台を置いただけの店舗、椅子やパラソルすらなく台だけの店舗、台に車輪が付いていて移動営業可能な店舗、頭にバケツやザルを載せて売り歩く行商店舗と、様々なものがあります。その数例を、このレポート内の挿入写真で紹介していますので、ご覧下さい。

 

 扱っている商材や店舗の種類は様々です。コンテナや小屋の店舗は、油や石鹸など、付近の住民の生活の必需品である最低限の食料や雑貨を売る何でも屋だったり、または細かくカールする髪の毛を、細い綺麗な三つ編みに編み上げ、様々な模様を生み出したり、エクステンションを編みこんで長い髪の毛を演出する美容室だったり、屋外にプラスティック製の机と椅子を並べて営業する、「ムシカキ」と呼ばれる串刺しの炭火焼肉や、「チプシー」と呼ばれるフライドポテトや、フライドキャッサバとソーダを売る人気のレストランだったりします。最近では、携帯電話のプリペイドカードを売る店も多く見かけるようになりました。

 

 

 

 台だけの簡単な店舗には、野菜や果物の生鮮食料品店、オレンジやパイナップルやココナッツといった旬の果物をカットフルーツやジュースにしてスナックとして販売する屋台、お菓子や歯磨き粉などを売るキオスク、時計やプラスティック製のバケツやカードや雑誌から、中古品の靴やベルトまで、ありとあらゆる品物を売る商店があります。

 頭にバケツや籠を載せている行商人は、カシューナッツや揚げパンや、チャパティと呼ばれるフライパンで焼いたパンなどのスナックや、トマトと豆のスープとご飯といった昼食、袋に入った飲料水、また時にはサバやイワシなどの魚を売っています。

 

 


 しかし、昨年10月に、政府の方針で、こうした正規に登録されていないお店は全てあっという間に取り壊されてしまうことがありました。行商人や台だけの簡易式店舗の商店が町から一斉に消えてしまっただけでなく、コンクリートでできた立派な店舗も、貨物コンテナ製の頑丈な作りの店舗も、ある日ブルドーザーがやって来て、瞬く間に瓦礫の山になってしまいました。

 私のうちの周りや、ダル・エス・サラームの中心街だけでなく、この無認可商店撤去は、タンザニア全土で行われたそうです。政府がこの事業に至った理由は、違法に営業している商店は、政府による正式な認可を受けて、政府の定めた基準に合致するように営業し、政府もこれを保護するという、筋の通ったものだったようでしたが、新しく商業地区に制定された場所は町からかなり離れた所にあり、今までのように地の利を生かして商売を盛り立てていた人々が、同じビジネスで利益を上げられるとは到底思い難く、今回の事業によって、いきなり職を失って路頭に迷う人や家族が大量に発生したのも事実でした。

 私の周りの外国人の皆さんは、当局のあまりに突然で乱暴なやり方に怒っているようでしたが、私が話をした限りでは、驚くべきことに、地元のタンザニア人は皆、税金を払っていないお店がつぶされるのは仕方がない、政府は町を綺麗にしようとしているらしい、と静かに受け入れていました。しかし、こうした小規模商店の持ち主や従業員だった人達は、いなくなってしまったので、私は話を聞くことができませんでした。従って、当事者の気持ちは聞けていません。いずれにしても、この事業に対する表立った反対運動などは一切見受けられませんでした。所によっては、デモや暴動が起きてもおかしくないようなこの事態を、ここまで静かに受け入れた、公権力に対して従順な国民性は、社会主義時代に培われたのだろうか、などと憶測する外国人もいました。

 しかし、タンザニアの小規模商店達も、何とか生き延びる必要がありますから、負けてはいませんでした。この取り壊しの1週間くらい後には、棚は置けないけれど、歩道に野菜を並べて売り始めていたり、木陰に椅子を置いて髪結い屋さんも営業再会していたり、夕方ムササニ魚市場に着いた魚がいつもの角に並んでいたり、ボーダコムと書いたベストを着た人が、町中で道端に座って携帯のプリペイドカードを売っていたのです。びっくりしました。暴動になっても不思議ではないくらいの事態が起きても、表立って反対の声は上げないけれど、自分のビジネスは遂行するタンザニア人のたくましさに、私は感心してしまうと同時に、しばらくして、町にまた無認可小規模商店が、様々な形で戻ってくるとしたら、政府が行った事業の成果はあまりなかったということになってしまうのではないかとも思いました。どうやら、官民双方が納得する解決策や代替案を見つける対話や交渉のプロセスを踏まずに、どちらかのみの主導により進められる事業が、国の経済に持続可能な発展をもたらすのは難しいようです。

 

 ちなみに、私の日本語補習校の生徒の一人は、タンザニアにブッシュ大統領が来るから、今町をきれいにしていて、これから高速道路を通すんだって、と言っていました。私はびっくりして、え!ブッシュ大統領がタンザニアまで何しに来るの?と聞いたら、タンザニアのキクエテ大統領が招待しているんだって、前にクリントン大統領も来たよ、という答えが返ってきました。うちに帰って主人にその話をしたら、まんざらデマでもない可能性があると言ったので、またまたびっくり。以前主人がウガンダに住んでいた時、クリントン大統領が来たことがあり、町をきれいに片付けるのが政府の一大事業となって、町中大騒ぎになったと言っていました。が、2007年5月時点、まだブッシュ大統領はタンザニアを訪問してはいないようです。高速道路もまだできていません。今後の展開に期待したい所ですが、タンザニア流のテンポで、焦らずに一つ一つということになるのでしょうか?

 

 2007年4月号

 

【 バンダジュマ魚市場 】

 

 私が住んでいる、タンザニア最大の都市ダル・エス・サラームは、アラビア語で「平和な港」を意味し、かなり陸地に近い所まで、大きな船がつけるのに十分な深さがある為、古くから、東アフリカで貿易に従事した、オマーン商人やイエメン商人が利用したことにより、発展しました。

 この天然の良港、ダル・エス・サラームの海沿いには、タンザニア最大の魚市場、バンダジュマ・フィッシュ・マーケットがあります。毎朝、この魚市場の脇の船着場には、エンジンがないにも拘らずかなり沖まで漁に出ていた、ダウ船と呼ばれる木製の帆船が、様々な色や形をした魚と共に戻ってきます。

 

 

 このバンダジュマ魚市場には、数年前に日本のODAの支援により新しい建物が建てられ、かなり混沌とした場所だった以前よりもずっと、漁師、仲買人、購入者それぞれにとって、仕事がしやすい場所になったそうです。

 魚市場の一角には、競りの会場があり、いつも人だかりの中で大小様々な魚が、「ミア・タノ、ミア・シタ、ミア・サバー…!(スワヒリ語で、500シリング、600シリング、700シリングの意)」という威勢のよい掛け声にのって、売られていきます。購入者の中には、持参したプラスティック製のバケツに腰掛けた、カンガと呼ばれるカラフルな布を身に纏った、大きなおばちゃん達も沢山います。このおばちゃん達は、ここで仕入れた魚を頭に乗せて、自分の商域としている地区をたくましく何キロも売り歩いて、家族を支えているのです。

 

 また、別の一角では、各卸売りのブロック毎に、マグロや、タイや、サワラや、カツオや、シマアジといった、日本でも珍重される大きな魚から、サバや、アジや、カマス(英語でバラクーダと呼ばれる日本のものよりも大型の種類ですが)や、タチウオや、イワシなど、日本でもおなじみの魚、更には、初めて食べたときは本当に食べていいのか不安だった、鱗から骨まで水彩絵の具のように鮮やかな水色の、如何にも熱帯らしい魚まで、釣りたての魚が色とりどりに売られています。大正エビのようなエビや、イセエビ(ロブスター)のようなエビや、イカやタコもあります。しかし、海水の温度が高いので、一般に成長が速く、体に脂肪をためる必要がないので、全体的に魚の味は北海で取れた魚に比べると薄めな感じもします。例えば、マグロなどには、お腹の部分の身であっても、日本で食べるお刺身のトロのような味はせず、体全体が赤身といった具合です。

 

 

 ここでは、レストランやホテルや各国大使主催のパーティーなどの為の大きな買出しも行われますが、私達のような一般の買い物客も、自由に新鮮な魚を購入することができます。逆に、各店舗には冷蔵施設がなく、炎天下のタンザニアで通常コンクリートの台の上に載せて魚を売っているので、新鮮でない魚の購入は危険なので、ちゃんと目の輝きやエラの血色を見ることを、私はここで覚えました。また、漁師や仲買人の中には、近年タンザニアでも爆発的に普及した携帯電話で注文を取って、自転車やスクーターでお得意さんの自宅まで新鮮な魚を届け、きれいに下処理もしてくれる人もいます。

 私のうちでは、やはり自分の目で選んで値段を交渉して買い、衛生のことも考えて自分で納得のいくように下処理した方がいいだろうということで、たまに魚市場に行って、一匹丸ごとマグロやサワラなどを購入しているのですが、そうすると、難点もあります。

 魚市場はやはり海の男の職場なので、いくらタンザニア人が大変フレンドリーと入っても、何かが起きた時の対応を考えて、外国人女性の私が一人で行くのはまずいだろうということで、週末等主人が一緒に行ってくれる時しか行けず、なかなか気軽に魚が手に入れられないので、海のそばにいるのに冷凍保存した魚を食べているという現実(ただ冷凍保存はバクテリアが死ぬか眠るので衛生的にはいいそうですが、味は落ちますよね。)。

 

 

 日本人女性の私が魚市場に行くと、漁師でも仲買人でもない、若い青年を中心とした、ミドル・マンと呼ばれる人達が、日本語で「タイ、マグロ、エビ!」と言いながら、高い値段を吹っかけようとしてくること。日本人は一般に値段交渉に厳しくなく、いいお魚には良心的以上の料金を払ってくれることが多いので、みんな喜んで寄ってきますが、ミドル・マンは、それこそうじゃうじゃと、外国人のそばに寄ってきて、自分の店舗のような顔で売買を成立させて、店舗から仲介料をもらっているだけなので、失礼にならないように断りながら、主婦としては、家計が必要以上に割高にならないように、炎天下の中で気力と体力を要しますが、直接店舗の人と値段交渉しなければなりません。

 

 

 

 また、限られた台所のスペースで、大きな魚を自ら処理するのは、思った以上に大変なこと。特に、タイやマグロを一匹さばいた事などそれまでになかったので、タイの鱗がこんなにしっかり付いていて、それだけに、剥がした時に、そこら中に飛び散るものだとは思いませんでした。マグロの鱗は小さくて固いので、削ぎ落とすように皮ごと剥ぐのですが、これがなかなか難しいので、いつも魚を購入した際には、4時間程も台所で、髪の毛に鱗を飛ばしながら格闘しなければなりません。調理方法に合わせて、ササッとお好みに美しく清潔にさばいてくれる、日本のお魚屋さんやスーパーのお魚売り場の偉大さを改めて思う瞬間です。

 

 

 

 魚市場の様子の説明に戻ると、更にその隣の一角では、先程の卸売りが一匹ものとして取り扱わない、小さなイワシなどを、沢山の人が床に座って下処理しています。小さなイワシは、「ダガー」と呼ばれ、日本の煮干そっくりの天日干しや、から揚げとなって、タンザニア人の代表的な日常のお惣菜の、トマトスープやささげ豆のシチューの重要なだしとして、広く使われています。

 その隣の一角には、この魚市場で働いている何百人もの人達の為の、食堂があり、とうもろこしの粉を茹でたウガリや、前出のトマトスープやマメのカレー、ムチチャと呼ばれる、ほうれん草のような野菜の炒め物、ウジと呼ばれる砂糖の入った薄い米のお粥、チャイや、鉄板で焼いたパンのチャパティやアンダジと呼ばれるドーナッツなど、お茶うけのスナックが売られています。

このように、バンダジュマ魚市場は、様々な職種の人々の生活を支える、ダル・エス・サラームで最も活気のある場所の一つと言えます。

 

 

 2007年3月号

 

【 カリブ・チャイ! 】

 

 タンザニアでは、大抵の外国人は移動に車を利用しています。これは、窃盗や強盗から身を守るという安全管理の為と、蒸し暑い気候が長距離の歩行には適していないのと、公共交通機関がすし詰めで運転の荒っぽいバス「ダラダラ」に限られていることによります。

 しかし、私は、自宅から非常勤勤務している補習校までの自分がよく知っている道や、人が沢山いる昼間の町中は独りで毎日歩いています。また、町中には通りの脇に駐車スペースがあるのですが、町中の道路は狭く、交通が激しいので、駐車の際の車の出し入れに自信がないので、町に行く際には、「ダラダラ」もよく利用しています。もちろん、犯罪を喚起する可能性のある、時計やアクセサリー類は一切つけず、カバンも引ったくりを予防する為、肩からたすき掛けにして抑えるか、しっかり脇に抱え、特に混雑している通りでは周囲には気を配りながら歩いていますが、今までの所、問題にあったことはありません。

 

 というのも、タンザニア人は社会の秩序を、自分達の間で保とうとする傾向がある為、昼間で隠れる物陰があまりなく、人が大勢いる場所は比較的安全とも言えるからです。もちろん、日本や欧米程は秩序立っておらず、そのプロセスに非常に時間がかかるにしても、今日のタンザニアには、警察機構や裁判制度が一応整っています。しかしながら、誰かが泥棒をした等ということが分かると、日頃は大変穏やかなタンザニア人の気性が急激に荒くなって、どこにこんなに沢山隠れていたのか、周囲の人が大勢集まって、法に基づいた手順に頼らずに、リンチで犯人を死に至らしめてしまうこともあるそうです。

 また、庶民の足とも言える「ダラダラ」に関しては、確かにすし詰めですが、車内では人々は皆静かに着席、または何とか自分のスペースを見つけて立っており、東京の混雑した通勤電車で30分以上も揺れることに慣れていた私にとっては、乗車時間が短いこともあり、何ともありません。ただかなり人々が密集している空間なので、感染症等には気をつけるようにしています。また、運転手の中には、眠くならないように「バンギー」と呼ばれるドラッグを摂取している人もいると言われている為か、確かに運転は荒く、場所によっては少しでも追い抜こうとして反対車線を走ったり、道を外れて歩道や野原を走って1車線を4車線位に増やしてしまうこともありますが、町へと続く街道は、近年の経済発展の結果急激に増えた車の数に町のインフラが追い付いていない為に渋滞していることが多く、また中央分離帯や車道以外の箇所との段差がある為、ダラダラも大人しく車の列に従っていて、比較的安全だと私は思っています。

 

 補習校までの道沿いには、駐在員やタンザニア人富裕層の家が並ぶので、「アスカリ」と呼ばれる警備担当の門番が常時座っています。徒歩で移動する外国人「ムズング(白い人の意)」は珍しいので、私が徒歩で登校する際には、いつも「フジャンボ!(こんにちは!)」「ウナ・クエンダ・シュレ?(学校に行くの?)」「カリブ・サナ!(どうぞ、いらっしゃい!)」と声を掛けられます。私も誰かとすれ違う際には必ず挨拶するようにしています。最近はタンザニアにも中国人が急激に増えているので、通りすがりの人々や子供達からは「ムチナ!ムチナ!(中国人の意)ハバリ!(こんにちは!)」と呼ばれることも多いです。ジョギングをしていると、いつも、近所の庭先で遊んでいた子供が、どこで知ったのか、私の名を呼んで手を振ってくれたり、時には私の名を呼びながら、後を走ってきます。「トゥウェンデ!(一緒に行きましょう。)」と言うと、喜んで私や友達を追い抜かそうとしたりします。

 周りの人達から、「カリブ・チャイ!(お茶飲みに来てね!)」と言われることも、よくあります。そんな時は、直接お断りするのは失礼なので「ラブダ・バーダエ!(多分後で伺えると思うわ! )」と言って、お礼を込めてニッコリ微笑むと、満面の笑みを返してもらえます。

 

 

 毎日歩く道筋に、私を知っていてくれ、挨拶を交わせるタンザニア人が沢山いるのは、とても嬉しいことですし、治安上も好ましいことだと思っています。また、私がいつも夕方学校に行くことを直接伝えたことはなくとも、先方はよく知っているので驚きますが、うちの近所で働いている人達は、私達のことについていろいろよく知っているみたいです。というのも、タンザニア人はお茶やコーヒーを飲みながら世間話をする「チャイ」が大好きで、近所の私達「ムズング」の様子は、お茶飲み話に格好のネタを提供しているようなのです。

 タンザニアの人々は、食事を一日二食で済ませてしまうことも多く、その代わり、お腹がすくと、頭に載せたバケツに、「チャパティ」と呼ばれる鉄板で焼いたパンや、「アンダジ」と呼ばれる油で揚げたドーナッツや、マンゴやバナナを入れて売り歩くおばちゃん達から、お茶うけのスナックを購入し、「チャイ・ボラ(美味しいお茶の意)」というタンザニア製のお茶や、「アフリカフェ」という、これもまたタンザニア製のインスタントコーヒーに砂糖をたっぷり入れて、疲れを癒します。年中太陽が強く照り付けるタンザニアの気候に合った習慣だとも言えると思います。

 

 

 

 ちなみに、このアフリカフェは、日本でも取り扱っているお店があるようですが、コーヒー通の人に言わせると、お世辞にも品質の高い美味しいインスタントコーヒーとは言えないそうです。私はコーヒーを飲まないのでよく分かりません。しかし、タンザニアの人々に広く親しまれ、通常飲まれているのは、このアフリカフェで、タンザニアが世界に誇るキリマンジャロコーヒーは、実はほとんど全て少数のコーヒー農園のオーナーから直接欧米や日本に輸出されて、タンザニアの市場にはほとんど出回っていません。

 

 

 

 2007年2月号

 

【 タンザニア在住の日本人と補習校 】

 

 私が住んでいるダル・エス・サラーム市には、日本人が100人程度おり、日本人会もあります。その内訳は、大使館関係者、国際協力機構(JICA)関係者、電池等を製造する工場を市郊外に有する企業や、日本からのODAの支援による建設事業などに携わっている企業や、日本から輸入した中古車を販売している企業や、こちらに長年住んで旅行会社をなさっている方等を初めとする、民間企業の関係者とその家族、更にそれぞれの専門技能を生かして、タンザニアの発展に貢献している青年海外協力隊の方々となっています。

 ダル・エス・サラーム日本人会は、義務教育期にある日本人の子弟が通う、日本語補習校も運営しています(ダル・エス・サラーム日本語補習校に関する詳細については、こちらのホームページをご覧下さい。http://matsuyama.cool.ne.jp/dsmjlc/)。実は私は、この補習校で、現地採用非常勤教師として、勤務させてもらっています。私の他には、文部省派遣の教師が1名、日本から来ている現地採用の教師が1名、タンザニア人の方とご結婚されてこちらに住んでいる現地採用の事務職員が1名います。

 

 義務教育期にある6歳から15歳までの日本人子弟が通うこの学校は、全校生徒が15名程の小さな学校で、準全日制というシステムを取っており、低学年は2時40分から4時25分まで、高学年は4時10分から6時まで、1日2時間程度、日本のカリキュラムに沿って、日本の教科書を用いて、国語、算数/数学、理科、社会の4教科を勉強しています。

 生徒達は朝7時から(タンザニアは暑いせいか、登校/出勤時間が早いのが慣習です。)インター・ナショナル・スクールに通い、午後学校が終わった後、私達の補習校にやってきます。一度に教える生徒の数は1名から4名程度で、学年が異なる生徒が一緒に勉強する複式授業も多くあります。従って、学校とはいっても、寺子屋のような感じで、生徒一人一人のニーズに合わせて、きめ細やかな授業が行われ、生徒と教師は大変仲良しです。学校には、鶏の親子や、犬もいます。犬は夜間は学校を守る番犬として活躍しています。

 私も学齢期にこのように、午前中に国際的な教育を受け、また様々な文化的背景を持った友達と触れ合い、午後に自分をよく知り、受け入れてくれる学校で、日本について学び、また日本の学習要項も網羅できる環境にあったら最高だっただろうなと、生徒達を羨ましく思いますが、同時に、朝5時半頃から起きて、初めは英語の環境、その後日本語の環境で、夕方まで勉強し、その後宿題もしなければならない生徒達の生活は、非常に忙しいものとなっているとも言えます。

 毎年8月終わりか9月初めには、日本人会主催の夏祭りがあり、各団体が焼きそばやお好み焼き等の屋台を出し、やぐらを組んで、盆踊りをします。日本人のみんなが心待ちにしているイベントです。皆浴衣やはっぴを着て、会場となる補習校の校庭に集まります。補習校の生徒達やその友達は、子供みこしを担ぎ、やぐらの周りを回ったりもします。日本を離れて生活している生徒達にとって、日本の文化に親しむ貴重な機会の一つとなっています。

 

 この他に補習校の生徒達が楽しみにしている、日本人会主催イベントには、1月のお餅つき大会、6月の運動会があります。餅つき大会の行われる1月は、南半球に位置するタンザニアでは最も暑い時期なので、みんな屋外で汗をいっぱいにかきながら、お雑煮、あんこ餅、磯辺巻き、きな粉餅、大根餅等、つきたての美味しいお餅をほおばります。

 また、補習校では、1月初めに書初め、2月には豆まきもします。校庭にテントを張って、補習校にみんなで泊まってカレーや朝ご飯を作り、夜には天体観測や肝試しをする、お泊りキャンプもあります。

 

 日々の休み時間にも、みんなで鬼ごっこをして校庭を走り回ったり、ミスチル(ミスター・チルドレン)等の日本の歌を歌ったり、トランプの大貧民やウノをしたり、1日2時間の日本を楽しんでいます。私にとっても非常に楽しみな時間です。

 しかし、私の場合、日本ではやっている俳優さんや女優さんの名前には、なかなか追いつけなくなってしまっていて、これは日本を離れているせいなのか、年を取ってきてしまったせいなのか、判断が難しい所です。特に、日本のお笑い界は大変移り変わりのはやい世界のようで、最近は完全にお手上げで、ちょっぴり悲しい今日この頃です・・・。

 

 2007年1月号

 

【 リゾート地としてのザンジバル 】

 先月号で記したような、歴史とイスラム教の影響を深く有する、ザンジバルの存在は、日本ではあまり知られていないと思いますが(私も正直タンザニアに来るまでザンジバルの名を聞いたこともありませんでした)、ザンジバルの名は、ヨーロッパではかなり知られています。なんと、ヨーロッパ人が憧れるビーチリゾートの一つなのです!

 失業者も多く、月給も5千円から1万円もらえればとても運がいい方な人々が住むタンザニアで、リゾート!というミスマッチに初め私は驚きました。が、実はザンジバルには、外国資本の豪華なリゾートホテルがいくつも建っており、特にイタリアやスペインから、チャーター便で団体旅行者が大勢やってくるのです。こうしたチャーター便は、そのほとんどがダル・エス・サラームを通らずに、直接ヨーロッパから、またはタンザニア北部のサファリツアーと組み合わせたツアーの場合には、北部のキリマンジャロ空港を経由して、ザンジバル島の空港に到着します。

 

 ちなみに、ザンジバル島のそばには、世界有数のお金持ち(例えばアメリカのコンピューター会社の社長や世界的に有名なトップシンガーなど)が島全体を借り切るような、プライベートユース専用の島もあります。私たち庶民にとっては現実離れした豪奢さと、その日を生き抜くのに精一杯な生活を強いられているタンザニアの大半の人々の現状が、地理的にほとんど隣り合って存在しているギャップに、思わず私はくらくらしてしまいますが、タンザニアの中でも貧困状態にある人の割合が多いザンジバルに、こうした観光産業があることは、失業率の低下に寄与しているはずだと思います。その観光産業による収益の分配は非常に偏ったものにとどまっているのではないかとも思いますが。

 

 

 ザンジバルは東西約40km、南北約70kmの小さな島なので、どこにいてもすぐそばに海岸があります。私が訪ねたことがあるのは、東部にあるパジェという地域です。ストーンタウンから、ダラダラという乗り合いバスで1時間半程揺られた後、パジェに着きました。

 ちなみに、ダル・エス・サラームではダラダラは日本の教習所や幼稚園や旅館の送迎バスの中古車で、日本語が車体に書かれたままで走っていますが、ザンジバルでは軽トラックの荷台に屋根と木製のベンチを取り付けたものとなっています。ザンジバル人はストーンタウン郊外の市場で売る古着の大きな袋や、ジャガイモが詰まった袋や、自転車などを屋根の上に乗せて、乗り込みます。町の学校へ行く子供たちも乗ってきます。赤ちゃんや小さい子が乗るときは、お母さん自身が乗る間、既に車内にいる乗客が子供をリレーして車内に運びます。ダラダラで走り抜ける道中では、緑の草原の中に時折現れる、村の小さな商店の荒れ果てた建物に、立派な木彫りの面影を残した扉がついているのにハッとしました。

 

 

 

 パジェの魅力はなんといっても、エメラルドグリーンに広がる海岸です。珊瑚礁でできた白い砂浜は細かく、その上を歩くと、足に優しく沈みます。海岸沿いには、ホテルや、併設されたレストランやバーが立ち並んでいますが、閑散期だったこともあり、非常にのんびりしていて、観光地特有のけばけばしさは皆無でした。

 

          パジェの海岸

 

 沖には、きれいに パジェ北部には、ザンジバルに10年以上住んでいらっしゃる日本人の三浦さんが経営するパラダイスビーチバンガローというホテルもあります。私達はここのレストランを訪れ、久しぶりに、ザンジバル製の中華麺でできた、冷やし中華を食べ、日本の週刊誌を読みました。三浦さんは不在でしたが、スタッフの方にお願いして、引き潮の際に沖まで歩いて行って、食べられるウニがどのウニかも教えてもらいました。しかし、タンザニア人はウニを食べないそうで、お礼に幾つかあげようかといったら、要らないよと笑われました。ウニを開けるのは初めてだったので、生きているのにかわいそうと思いましたが、結局お肉やお魚を食べる時も他の人がこの仕事を引き受けてくれているから食べられるに過ぎないことを思い出すようにして、ガシャリとやってしまいました。しかし、大きなウニの中から、食べられる卵巣部分はほんの少ししか取れないことが分かり、ウニに申し訳ない気分になりました。ウニの殻の中がほとんど液状なことも初めて知りました。

 

 

 

パジェで取れたウニ     

 

 

 

 整列して植えられた海草の養殖場もあり、引き潮時に地元のお婆さんが手入れをしていました。砂浜には、波に乗って流されてきた海草を拾っているお婆さんもいました。タンザニア人も欧米人も海草は食べないのですが、お婆さんに聞くと、向こうにこれを買ってくれる人がいるそうです。間違いなく、日本を始めとするアジア方面に輸出しているのだと思いました。

沖の海草養殖場で、引き潮時に海草の世話をするお婆さん

 ザンジバルのビーチリゾートやストーンタウンには、一人15ドル程度で泊まれるシンプルな宿から、300ドル以上もする高級ホテルまでの幅広い選択肢があります。中には、イタリアを経由しての事前ブッキングのみしか受け付けないといった高級ホテルもあります!しかしパジェには、超高級ホテルはまだないようです。その代わり、ヤシの葉で覆われたバーやレストラン、シンプルなバンガローが海岸沿いに立ち並んでいます。私たちは閑散期に行った為、予約もせず、ホテルで直接部屋を見せてもらった上で、レセプションの青年と交渉し、ダブルルーム25ドルのシンプルな宿に泊まりました。私たちはあまり若くないけれど、贅沢をしない代わりに長めの日程を取ってゆっくりその土地を散策する、バックパッカー的な旅行が好きなのですが、今回はちょっと参ることがありました。(三浦さんの宿ではありません。)夜中に寝心地が悪くて目が覚めてしまったら、昼間はいないように見えたのに、ベッドの下に隠れていたらしく、蚊帳の中に、たくさん血を吸って丸々と太った蚊が4匹もいたのです。思わず叫び声をあげてしまいました。タンザニアで夜刺す蚊は、マラリアを媒介するんですもの!蚊帳の中に蚊では、まったく意味がありません。私と主人は蚊のご馳走となってしまいました。実はストーンタウンのホテルでも、夜結構蚊に刺されてしまいました。この話は、しばらく日本の母とデンマークの義母にはできませんでした。しかしインシャルアラー(とよくイスラム教の人はいいますよね。神のみぞ知る。)、今までの所、幸運なことに、私たちはマラリアにはかかっていません。ザンジバルは、本当に魅力的な素晴らしい所ですが、お出掛けになる方は、夜間の蚊にご注意下さい!

 

 

 



HOME | |翻訳| |CAD設計| ||  |リサイクル| |ご依頼|  |英語ワンポイントレッスン| |会社概要



神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンタータンザニアのホットニュース 2007年