2004年12月号 |
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家族の転勤に伴って、8月末にデンマークからアフリカに転居して3ヶ月が経ちました。タンザニアは、表面的には大変穏やかで、人々ものんびりしています。気温は常時35度くらいあります。アフリカ大陸の右側、インド洋に面したタンザニアは、赤道よりも南に位置している為、春夏秋冬が日本とは逆です。しかし、赤道から近い所に位置してもいるので、一応冬の6月は30度くらい、夏に当たる12月は38度くらいの気温です。3月から5月に大雨季があり、11月頃に小雨季がありますが、こちらの雨は一気にざっと降って、その後前にもまして強烈な太陽が照りつけ、またすぐに空が灰色になって土砂降りになります。 タンザニアでは、他の多くの途上国同様、日本の江戸時代くらい大きな貧富の差があります。外国人や教育を受けた人の仕事のために、インターネットまで使えるインフラがなんとか整っている反面(その代わり普及率が低いので日本よりも高額です。)、停電は1日5回くらいあって(停電時のために、余裕のある人のうちには発電機があります。)、そもそも電気がない地域や、家が多いです。都市と地方の貧富の差も大きく、社会福祉政策も整っていない為、エイズなどの病気や失業に陥った人の生活は厳しいです。 |
日常生活についてお話しますと、来る前には、何がタンザニアで買えて、何が買えないのか全く予想が付きませんでしたが、実際には、余裕がある人や外国人向けに輸入された加工品が売られていました。しかし、これはここ10年程度の現象とのことです。こうした加工品は、シャンプーからマーガリンまで輸入なので高いです。しかし、地元で生産できて、地元のマーケットで買える野菜や魚などは安いです。しかしながら、私たちは外国人だということが外見からわかりやすいので、値段をかなりふっかけてきます。そこで、お店の人と冗談を交えながら、楽しくスワヒリ語で値引き交渉をする必要があります。いちいち交渉してお話するので買い物には時間がかかります。すっかり私も値引きをお願いする為にスワヒリ語で冗談を言うのが得意になってしまいました。案外そのカタコト冗談のツボがわかってもらえて、嬉しくもあります。
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魚や肉は冷蔵庫のないお店が多いので、保存状態のいい特定のお店、または魚市場まで出かけ、とれたてを買う必要があります。水道水は衛生上に問題があるので、沸かしてフィルターにかけてまた沸かして、飲料用や、料理用に使っています。転居当初は、家族や友人と離れ、仕事などの生活の大きな部分を占めていた場所からも離れ、日本では不要であった水の煮沸や、野菜の消毒で火傷をしたりしたため、3年間ここでどうやって人生を送るんだろうと不安になりましたが、太陽も照りつけてくよくよするには適さない環境でもあり、直に生活のうえで気をつけることも日常の営みの自然な1つになり、楽しく過ごせるようになりました。 |
アフリカには歴史的な流れや植民地時代の名残で、アフリカ系のタンザニア人以外にも、インド系アフリカ人、アラブ系アフリカ人、ヨーロッパ系アフリカ人の人が沢山います。そのお蔭で、インドのお祭りディワリに誘われて、美味しいカレーを味わい、また、ヒンズー教のお祈りを体験したり、イスラム教のお祭りイド・エル・フィットラに参加しに海岸まで出かけて行ったり、多様な文化に触れることができるのは本当に幸運だと思います。 アフリカ系のタンザニア人には、ほぼ同じくらいの割合でイスラム教徒とキリスト教徒がおり(ただし、タンザニア領のザンチバル島の人たちはほとんどがイスラム教徒です。)、タンザニアではほとんど摩擦なく、両者がお互いを尊重しながら共存しています。 |
2004年11月号 |
★私は、昨年1年間デンマークに在住し、2ヶ月前にタンザニア、ダルエスサラーム市に転居しました。3年後はまたデンマークに戻る予定です。日本とデンマークの文化の影響を受けた私の視点から見た、タンザニアの生活や人々をご紹介します。 【 「ポレポレ」なタンザニア 】
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タンザニアで最初に出会った楽しみの一つは果物でした。ラグビーボールくらいのパパイヤ、小ぶりのスイカ、熟れたマンゴーが私たちのほてった喉を冷たく甘く冷やします。 |
以前に住んでいたデンマークには自転車専用道路があり、日本のように自宅から最寄り駅までではなく、どこに行くにも目的地まで、一回軽く45分くらい自転車をこいでいました。通勤にも全行程に自転車を利用する人が多くいました。 |
「ダラダラ」は日本生まれ? ダラダラの車体は、全てトヨタハイエースなどのミニバンで、日本の旅館や教習所のシャトルバスの生まれ変わりです。これは正に一目瞭然で、その証拠に、未だに新車時代の「いつも元気にタンポポ幼稚園」とか、「郷土料理と海の幸、XX旅館」といったキャッチフレーズを、電話番号そのままで載せています。 タンザニアは何層にも別れた社会です。独立後のニエレレ大統領時代に社会主義を標榜したにもかかわらず、きわどく貧しい人たちと、使用人を何人も使っている人たちの差が激しいです。 |
神奈川県横浜の翻訳会社 D&Hセンタータンザニアのホットニュース 2004年