オキナワンクリスマス
C在所の風景
南大東島の中心部である在所(ざいしょ)は、村役場・交番・郵便局などの公共交通機関をはじめ、スーパーや歓楽街もある地域である。今回泊まった「ホテルよしざと」もこの中心街にある。無論、規模などたかが知れてはいるが、ニーズという点ではおよそ満たしているのではないか。北大東島のそれとの差も歴然である。
が、そんな絶海の孤島に誇れるデータがある。2004年度とやや古いデータではあるが、南大東村は1人辺り年間所得が、全沖縄県内52市町村(2004年度現在)中第3位と高いのだ。第1位はお隣の北大東村で、唯一300万円台を超える(第2位は渡嘉敷村)。@さとうきび産業の完全機械化によって耕地面積が大きく、大規模農業を展開できる、A港湾地区を中心に建設関連の需要がある――のが大きな要因であろう。@は先祖代々の土地を継げば、天候に左右されはするだろうが、働く場所には困らない。Aはあちこちで重機の音がしていたし、まだまだ港湾地区での改良需要は出てきそうだ。その中に身を置いている苦労など知らずに勝手に持論を展開すれば、「働き口に困るリスクは他の離島に比べれば少ないから、島に定着する可能性が高い」のだと思う。さらに古い2000年度の国勢調査内にある人口比率のデータだが、15〜64歳の就労可能人口の割合が南大東村63.7%、北大東村69.3%と、50%台にとどまる他の離島村に比べて高い水準にあることも、その裏付けになるだろう。

個人的にお気に入りの写真。
ホテルよしざと・4階食堂より
撮影した在所の朝の風景。
やや朝もやに煙っていて、
何だかアジアの地方都市
にありそうな風景に見
えた。

↑ホテル前にあるコンビニ「ケンちゃんストアー」。
TX「田舎に泊まろう」で元・モーニング娘。の飯田圭織嬢が
南大東島を訪れた際、この店の従業員宅に泊めてもらった
“一宿一飯の恩義”で、品出しなどの店の手伝いをした。

D沖縄なのに…
大東地方は、八丈島民の開拓という歴史もあり(第3回参照)、あちこちに八丈島ないしは本土の影響を見ることができる。第1回で紹介した「大東寿司」は、八丈島にあるヅケをネタにした「島寿司」と似ているし(「八丈島の旅」後編参照)、神社や地蔵やお祭りの神輿の存在も本土の影響である。

南大東島の娯楽施設→
(左)カラオケスタジオ「すずめのお宿」と
ビリヤード場「ナインボール」。
(右)「ソロ」はスロットマシーンの店。

↑在所のメインストリート。ホテルに向かって1枚(左)、飲み屋街に向かって1枚(右)。
土曜日の夜は、前日徹夜のまま南大東島に乗り込んだこともあって、20時台で就寝。翌朝は5時起床という極めて健康的な目覚めになった。朝食は7時になると同時に食って、後は部屋で旅行記を適当に書きつつテレビを観ていた。
空港へ11時に送ってもらう約束をして、10時前に宿を出て、1時間ほどかけてじっくりと在所付近を散策。ひっそりというほどではなかったが、街中は日曜日の午前中らしく静かだった。
↑新しい村役場のそばには旧村役場の建物がある。わざわざ新しく建てた理由は?(左) 右は島の駐在所。

↑思わぬとこでauの看板。もちろん携帯は“3本柱”でした。

↑思わず歩きたくなる並木道。

↑島唯一の信号。前回はいつ赤になったのか?(笑)

↑9人乗っていました。私も荷台に一度乗ったことあります。

↑島のシンボル・製糖工場(第3回も参照)。

↑古びたポストにさりげなく民営化の波が。

↑できれば“リーン”で韻を踏みたかった?(笑)

↑こんな感じで貯水タンクに貴重な雨水を溜める。

↑ホテルよしざとがローストチキンまで作るとはご苦労様。

↑伊是名島・伊平屋島から移ってきた方もいるんでしょうね。

↑南大東島最大のスーパー「A-COOP」(左)。地元の方が作るお惣菜コーナーになぜかそそられてしまって(中)、日曜日の昼食はここで買った。激安の300円でボリューム十分(右)。

A-COOPで昼飯を買ってホテルに帰る。あとで空港の待合室で食べたが、ソーミンタシナー(写真右)は、にんにくが効いていて食欲がそそられ美味かった。150円という安さも驚きだが、それ以上に地元の人の(失礼ながら)B級惣菜を食べられたうれしさのほうが大きかったりする。こういう食との縁もまた、旅行ならではの楽しみだ。
食つながりでちょっと話を戻すが、ホテルの夕食はパンフレットいわく「地元食材を使ったおまかせ料理」。で、実際出てきたのは、ごく普通のボリュームに刺身・焼魚という平凡なラインナップ。ま、たしかに地元で採れた素材かもしれないし、逆に言えば「こういう表現の仕方もあるのか」と、妙に勉強になった感があった。

↑ホテルよしざとでの夕食(左)と朝食(右)。夕食は「地元素材を使ったおまかせ」だが、平凡に刺身と焼魚だった。

↓ホテルよしざとのロビー(左)。奥のラックの下段には郵便物。村一番の施設は、郵便機能も担っているようだ(右)。

↓ホテルよしざとには、かつて秋篠宮夫妻も訪れている。

↓大東神社(右)とその参道(左)。沖縄には見られない本土の影響を受けた典型。

↓西港近くにあるお地蔵さん。これも本土の影響。

しかし、本土の影響をある意味もっとも感じる場面は、もっと日常の中にあるテレビだ。映るのはNHK総合・教育にTBS・CX・テレ朝の在京キー局と衛星放送という感じだが、何とすべてが東京のプログラムのまま映るのである。地方に行けばその土地のローカル番組があり、それが映るのが常識なわけだが、大東地方ではまったく映らないのだ。本土から半日遅れで届く琉球新報や沖縄タイムスのラ・テ欄(右下の写真)は、当然のごとく沖縄ローカル局の番組表が掲載されているのだが、これもまったく意味をなさない状況だ。
ホテルよしざとの主人に聞いたところ、「東京から小笠原諸島に飛ばされる電波をお裾分けしてもらっている」からとのこと。テレ朝のグルメ番組「裸の王様」で東京都町田市のラーメン屋が流れているのはまだいいとしても(真ん中の写真)、ここだけはどこでもローカルなはずのNHKの天気予報までも、なぜか神奈川県横浜市の天気予報が流されているのだ(左下の写真)。“知りたい度”が高いはずの地元の天気予報が、オンタイムでは19時からのNHKニュースなどわずかなチャンスでしか観られないのは、何とも不便な話である(主人との話ではその辺りの改善も進められているようだが)。

↓「南大東島は沖縄県なのに」NHKで流れていた横浜の天気予報(左)と、テレ朝で流れていた町田のラーメン店(中)。それでいて新聞のラ・テ欄は沖縄仕様(右)。

とはいっても、そもそもテレビ自体が観られるようになったのは1984年。ライフラインを見てみても、水道の全家庭への給水開始が1986年、電話が各家庭に通じたのが1979年、電気が24時間使えるようになったのは1972年というから、私にとっては小さい頃から当たり前に思えてきた日常生活の様々が、南大東島では当たり前になってさほど日時が経っていないのだ。病院は診療所しかなく、大事になれば沖縄本島までヘリを飛ばさなくちゃいけないし、学校は中学校までしかなく、もっと勉強したければこれまた沖縄本島へ、あるいはさらに本土へ行かなくてはならない。ネットや携帯は大丈夫そうであるが、そういえば本屋って島の中にあったのだろうか……。
その歴史は100年ちょっとしかなくても、絶海の孤島だからこそ自分たちで極力何とかしてきて、“足る”を知ることを身につけたのだろうし、またそうせざるを得なかった。結果、成熟度の早い「大人の島」になっていったのだと思う。きっと、限られた選択肢の中で上手くやりくりできる能力では、都会に暮らす人間よりはるかに長けているのではないか…なんて、勝手に考えてみたりする。
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11時45分、時刻通り南大東島を離陸。4年ぶりの上陸から24時間、行きとは逆のルートを旋回すると間もなく、白い雲の中に「絶海の大人の孤島」は消えていった。(第5回につづく)