オキナワンクリスマス
イ 土地所有をめぐる農民一揆
荒野を切り開き、収穫可能なさとうきび畑にするまでの壮絶な辛苦は、想像に難くない。途中で脱落する者もいた。小作農として働いていた農民にとって、日々を懸命に生きる心の支えだったのは、「耕作地は開拓30年後に自分たちのものになる」という玉置の口約束であった。しかし、上陸10年後の1910年に玉置が急死すると、残った家族内にトラブルが起きて、間もなく島の支配権が玉置家の手から東洋製糖社に譲渡されることになる。こうして、口約束はあっさりと完全に水の泡と消えてしまう。
南大東島は以後、北大東島とともに製糖会社の“植民地”と化すことになってしまう。沖縄県に属していながら「治外法権的特殊地域」にあり、紙幣も学校などの施設も、何から何まで製糖会社の冠がつく。自治は製糖会社によってなされ、秩序を乱したとみなされれば、村八分ならぬ“島八分”となることもあった。日糖社という会社に引き継がれてからもこの状態が続き、ようやく製糖会社の支配から解放されるのは1946年。皮肉にも、日本が太平洋戦争に敗北して沖縄が米軍に統治された結果、製糖会社の財産のすべてが米軍に取り上げられたことで叶ったのであった。
それでも、完全な土地私有地化が実現するには、しばらくの時間を要する。島から引き揚げたはずの日糖社が、1951年に再び調査名目で島に乗り込んできたのだ。このとき日糖社は、すでに琉球政府から発行された島の土地所有権証明書を持っていた。戦前の悪夢を繰り返してはならないと、南北大東島一体となって陳情書を提出。これ以後、関係当局への折衝とともに、琉球政府・日糖社との三者会談がたびたび開かれることになった。
1961年、事態が好転する。ポール・W・キャラウェイ琉球列島高等弁務官(1905-85)が南大東島を視察することになったのだ。この機会をとらえ、島の代表が弁務官に土地問題の説明を行って、協力を直訴した。これが功を奏して、1963年1月より「米琉合同土地諮問委員会」が開かれた。11回に及ぶ委員会の末、1964年7月17日、委員会は島民への土地所有権を認定する最終裁断を下し、同月30日に日糖社がこれを受諾すると、ここに土地問題という名前の“農民一揆”は解決を見るに至った。南北大東島の島民は、その瞬間みな大歓声を上げたという。気づけば、口約束の「上陸から30年」の倍以上の64年も経っていた。1ヵ月後に催された祝賀会では旗行列と花火で喜びを分かち合った。
島の中心部の広場には、土地問題解決記念碑および玉置半右衛門とキャラウェイ弁務官を称える記念碑がある。残った家族が失態を犯したとはいえ、玉置はやはり称えられてしかるべき島の開祖である。一方のキャラウェイ弁務官は、実は日本嫌いで有名な人物。当時のケネディ政権の日米協調政策に対して「沖縄におけるアメリカの軍事的利益を損なう」と強く反発し、沖縄返還に反対の意思を表明した憎き悪代官である。沖縄本島での離日政策と金融機関の粛清を強行し、沖縄県民による自治を否定したそのやり方は、“キャラウェイ旋風”と呼ばれて波紋を呼んだ。
そんな悪代官がこうして南大東島で称えられるというのは、まさしく「絶海の孤島がなせる業」と言えないだろうか。おそらく、沖縄本島で起こっていた旋風など、大東地方の人間には無縁であったに違いない。いや、仮に分かっていたとしても、そんなことに構っていられない過酷な現実にさらされていたのだ。そして、おそらくキャラウェイ弁務官にとってもまた“ただの仕事”であったに違いない大東地方への視察――沖縄県民による自治を否定した弁務官が、奇しくも同じ沖縄県に属する絶海の孤島の民に自治をもたらしたのだ。これぞホントの「治外法権」だったのかもしれない。
A南大東島の生い立ち
ア 上陸
日本の歴史では江戸時代後期の1820年、ロシア海軍の艦艇により発見され、その艦艇の名前から“ボロジノ諸島”と記され、沖縄では“はるか東の島”を意味する「うふあがり」の名で呼ばれていた大東地方。その歴史が始まったのは、今から100年余前の1900年1月23日。八丈島の豪商・玉置半右衛門(1838-1910)の命によって、小島岩松船長ら入植者23人が、苦難の末に南大東島に上陸したことから始まった。西港近くには、それを記念した「南大東島上陸記念碑」が建てられている。なお、隣の北大東島への上陸は3年後の1903年まで、有人島となるには10年後の1910年まで待つことになる。

←西港近くに立つ「南大東島上陸記念碑」。

↑土地問題解決の記念碑。

↑ポール・W・キャラウェイ高等弁務官の胸像(左)と彼を称える文面(右)。

B南大東島とシュガートレイン
南大東島の主要産業であるさとうきび産業。そのさとうきびを運搬するのに活躍したのが、“シュガートレイン”と呼ばれた大東糖業専用鉄道である。1917年から84年まで約70年間、さとうきび運搬をメインに島民の足としても活躍。島を1周する一周線を本線に、各港や各集積所とを結ぶ支線も存在していたが、経費がかかることからトラック輸送に完全に切り替わられ、廃止された。
その跡は、今も島のあちこちで見ることができる。今回は1泊でやや駆け足になったので、写真は残念ながら少なくなってしまったが、機会があれば複数泊して丁寧に跡を追ってみるのも悪くはないかもしれない(前回の訪問はこちらを参照)。

↑左の写真の奥にあるトラックの計量所。

↑製糖工場前はかつて、複雑に線路が敷設されていた。

↑かつての機関庫の建物跡。

↑かつての共同組合事務所の建物跡か?

↑村立ふれあいセンターにあるシュガートレイン(復元)。蒸気機関車と客車(左)。ディーゼル車ときび運搬車両(右)。

↑かつて線路があったと思わせるような跡。

↑西港へ向かう支線の跡。現在は遊歩道になっている。

↑荷揚げ用クレーンを動かすためのボイラー小屋の跡。西港にあって重要文化財に指定されている石造りの虚構。

なお、シュガートレインについては、2002年に岩崎電子出版から出た竹内昭著『南大東島シュガートレイン〜南の島の小さな鉄道』という写真集(「参考文献一覧」および「沖縄・遺産をめぐる旅」第4回参照)に、現役最後の頃の写真が多く載っていて詳しいのでお薦めである。マニアなら垂涎の写真も多く見られると思われるし、本を持って島内を探索すれば、かつてのどかに島を走っていた頃により思いを馳せやすいかもしれない。(第4回につづく)

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