沖縄博打旅

@‘Panaring’in the sun
海岸までの一本道は,轍の部分だけが白くはげた芝の道だ。集落の中は,ひっそりとした空気に包まれていた。1日に300人も来る事がるという夏場には味わえない静けさを堪能する。今から行くルートには標識もなければ案内板もない。主人に行き方を教えてもらわなければ,単純な道筋にもかかわらず,無事に帰って来られるか不安になってしまうかもしれない。
そういえば,『やえやま』には,自分たちだけでパナリに来ることを勧めないことが書かれてあったと思う。それが何となく分かる気がする。さっきの十字路付近では,40代ぐらいの男性である“第1島人”と会ったが,どこか近寄りがたい雰囲気がした。観光客を警戒しているのか。はたまた,その人のキャラなのか。ま,わざわざ観光客を歓迎するなんて術は,この島には似合わない気もしないでもないが。
その十字路を20mほど進んで,まず最初にあったガジュマル。その影に25mプールぐらいの窪地。周囲をコンクリートで固められているので,貯水池にでもなるのか。それにしちゃ,そこからホースが出たりしていない気がするが謎だ。その隣には同じぐらいの大きさのスロープがある。まさか,イベント会場というにはステージが傾いているのはおかしいし,それ以前に整備もされずに放置されたままなので,まさに役立たずといったところではないか。
さらに進むと,千手観音ならぬ“千手カジュマル”が2本出現。映画『もののけ姫』あたりに出てきそうな幻想的な自然の造形だ。その影に隠れるようにでっかい廃墟が2棟,ネットで覆われている。赤瓦の屋根に沖縄風の石積みと格子状の壁が,どこかリゾートチックである。2棟は渡り廊下でつながっていて,見えるところからはプラスチックの白いイスが見えるし,間近で見えるところでは「14」「15」「浴室」とあるから,ほぼ宿泊施設であったことに間違いない。
後で調べたところ,小浜島にある「ヤマハリゾートはいむるぶし」(「沖縄はじっこ旅」第2回参照)の別館として使われていたが,数十年前に閉鎖。まだ管理自体はされているらしく,たまに利用はされているらしい。なお,この廃墟…もとい施設の前にはヘリポートがある。集落を外れてほとんどが緑に覆われてきた中,ここだけ「キレイに草刈りしました」って感じで大きく開けている。もちろん救急用のもの。でも,島に人口5人で誰かに何かあったときの1人にかかる負担たるや,相当なものであろう。
このヘリポートを最後に,両サイドは完全に緑に覆われていく。色というと,なぜかオリに入れられた孔雀のブルーと,カラスの黒と,電柱の灰色と,動物用だというゲートのよく分からない色ぐらいか。それ以外はソテツ・アダン・モクマオウ・ガジュマル……多分,それ以外にもたくさんの種があると思われる天然の「沖縄植物園」が延々と続いていく。電柱があるってことは人がいる証だが,人のいない方向に電線が延びていくのも不思議っちゃ不思議な光景だ。
ひたすら続く海岸への道。いつかテレビでやっていたと思うが,同じ運動でも都会のコンクリートジャングルでやるのと,こういう自然が豊かなところでやるのとでは,身体に出てくる効果はてき面に違うそうだ。無論,後者のほうが身体にいいという結果が出ているわけだが,なるほど同じ距離でも,歩く意欲が格段に違っているような感じがする。
歩き始めて15分ほど経ったか。両脇にあった緑が“終わり”を迎え,目の前が開けてきた。サイロのようなものが遠くに見える。下地島にあるものだ。狭く草を踏み倒してできた砂の道をくぐり抜けると,砂浜に出た。浜崎(はまさき)と呼ばれる海岸である。左手はなるほど岩場となって行きづらそうだから,ここから右に進んでいくことになる。
目の前に見える下地島。二つの島は距離にして400mというから,干潮時には5分もあれば渡れてしまう。今回は残念ながら訪れることはないが,こうして間近に見られただけでもラッキーだろう。あちらに住んでいるのは1人。小さい島といえど,1人で住むにはかなり広いスペースに違いない。それこそ飼育している牛のほうが断然多くて,黒島みたいな1:10以上の比率(「沖縄はじっこ旅U」第1回参照)になったりするのではないだろうか。
そんな下地島だが,かつてはいくつか集落があって,しかもメインはむしろ,下地島のほうだったそうだ。その中心地が“ナハスク”というところで,そこから正式名が「ナハスク=中城島」となるところだった。ところが「中城」というと,本島に同じ地名があるうえに,さらに琉球王朝にゆかりのある場所であったところから,同じ地名では畏れ多いということで,下地島の南部にあった集落“アラスク”の名前を取って,アラスク→新城となっていったという。
さて,ここから進路を右に取って,元来た方向を戻る格好となる。このまま港そばのクイヌパナまで一気に行くのだ。砂浜はもうさんざん見飽きたはずのありのままの砂浜だが,何度見てもホッとする光景だ。波に洗われた砂とサンゴの欠片が,太陽の光に照らされてコバルト色に輝いていた。さっきは高かった波は,すっかり穏やかになって打ち寄せる。
そんな砂浜で,ヤシの実が1個,どうやって流れついたのか分からないが落ちていた。「へ〜,ヤシの実ってやっぱり落ちてるものなんだ」と,なぜか感心してしまう。島崎藤村の詩の世界にしかないものではなかったのだ。空はすっかり青空だが,冬の陽射しと風のやわらかさが精神を落ちつけさせてくれる。そして,この時期に限らず枯れていることの多い防風林が,全然枯れないで緑のままとなっているのは,すぐそばに島があって外海にさらされていないからだろうか。ホントの意味での常緑樹といえようか。夏はこの木陰が格好の休み場所になるのだろう。
緑と青のクッキリしたアクセントが印象的な中,上空をプロペラの音がした。遠くて大きさがよく分からないが,方角は間違いなく石垣島に向かっていた。時間からして波照間島遊覧飛行のヤツだろう。もしかして,あそこから私がたった1人で砂浜を歩いているのが見えたりするんだろうか。どうやら,乗りたいと思っていて乗らないまま廃止の日を迎えそうである。
しばらく歩いていると,台と台をくっつけたような軍艦岩が海中にたたずむ。干潮だったらば直接行けそうな距離だ。その上には白い棒が1本立っていたが,ひょっとして拝所なのか。一方,足元に目をやると,カラスの足音みたいなものがいくつも見つかった。カニかヤドカリか。穴ぼこをいくつも見たし,試しにつっついてみたが,まったく反応なし。しまいには無数の穴ぼこが気持ち悪くなって,勝手に足でならしてしまったり……結局,砂浜で見た生き物といえば,島中を飛びまくっているカラス以外は,白く透き通った小さいカニ1匹だけだったと思う。主人が言っていたヤドカリくんは見当たらなかった。
そろそろ砂浜が途切れ出した。はて,どこから入ればよいのか細かいことは聞いていないが,主人のいう「岩の階段」というのがひっかかっていた。ということで,行けるところまで行って,いよいよこの先岩場…って辺りで中に入ろうとしたが,そこは中に入れそうな小道がない。あったのかもしれないが,私のような臆病者が,草むらのようなけもの道のような中にちょろっと入れるわけもない。
仕方なくちょっと戻ることにすると,主人が言ったような岩が露出したようなステップらしきものが見えた。見ればそこから中のほうに入れそうだったので,とりあえず入ってみると,一本道に出た。でも,クイヌパナに通じる雰囲気はない。そのうちに“デジャヴ”が起こって,「あれ,この道は?」と思って歩いていたら,ゲートに孔雀が現われる……何のことはない,行きに通った一本道に戻ってしまったのだ。あるいは,あの砂浜のなくなった(と思われる)岩場の先にもっと入っていくべきだったのか。それにしては,かなり距離がありそうで,しかも岩肌で先が見えなかったが。
戻る途中,背後からエンジンの音が。振り返ると,軽トラックがテロテロとこちらに向かってきていた。運転していたのは,さっきの第1島人の男性。この島に車が走るのが,ものすごく不思議な光景に見える。いったい,どこからどうやって運んできたのだろうか。西表島に行くフェリーは西部の上原港に行くことになるし(第1回参照),波照間島に行くフェリーにでも載せてきたのか。

11時,先ほどの十字路に戻ってきた。1時間もかからず,あっさりと島の南部をめぐる“メインコース”を回ったことになる。こうなると,あとは二つの展望台を見て回って集落内もざっと回れば,パナリンピックは終了だ――ここで気になってきたのは,この島を出る時刻。今のところ“昼”と漠然としたものしかない。というのは,西表島から高速船で出る時刻にもかかわってくるからだ。
すでに安栄観光で,往復の「石垣―大原」のチケットを買ってしまっている(第1回参照)。その安栄観光の運行時刻は12時発の次が14時発。八重山観光フェリーが13時に運航しているが,これだと当然別料金を払わなくちゃいけない。あまり大原で待ちぼうけするのもナンだし,かといって,中途半端にパナリンピックしただけで戻るのも,そう簡単に来られる島ではないのだし,もったいない限りだ……うーん,ここは気が済むまで島内を巡るほうを優先して,あとは成り行きに任せることにしようか。
まずはクイヌパナを目指すことにしよう。十字路から濃緑の“縁取り”の中(前回参照)に入っていくと,人工的なのに改めて見ても美しい桟橋を見下ろす二股に着く。つながれたままの白いプレジャーボート1隻。その近くで男性が1人,釣り糸を垂らしているのが見える。雰囲気からして主人ではない感じだ。男性を尻目に,この二股で左に入っていくことにする。
すると,突然ムワッと漂ってきたジンギスカンの匂い。大きなガジュマルの下に,ヤギが4頭たたずんでいたのだ。その隣には,カゴにたくさんの生ごみが置かれてある。このヤギたちがどーゆー“位置付け”なのか分からないが,いくら家畜といえど,生ごみのそばに置かれていては人権…もとい“山羊権侵害”だ! と訴えるそぶりもなく,トローンとしているような穏やかな眼差しでこちらを見つめていた。ま,余計な心配はこのさいせずに,放っておこうか。
このヤギたちがたたずむ前から,上のほうに向かって小道が延びている。多分,これがクイヌパナへの道で間違いない。下は人の手で敷きつめたような砂の道である。周りから樹木の枝葉が覆ってくるが,それをよけながら進むと,古ぼけた「クイヌパナ」と書かれた石の案内板。竹富町教育委員会の案内板とともに申し訳程度にある感じだった。ここで左手に少し景色が開けたが,それもつかの間,再び鬱蒼とした中に入り込む。
道はこのちょっと先で右にカーブするが,その先に鳥居があった。細くて電柱にでも使いそうな丸太を鳥居風に組み合わせただけのシンプルさ。一応,主人から立入厳禁を言われていることだし(前回参照),「立ち入らないでください」という新城公民館長名義の看板もあるので,鳥居から奥へは今回入らなかったが,枝葉で見づらいところを見た範囲では,30mぐらいの砂道のアプローチがあって,一番奥には枝葉のからまったような御神体と思われる岩があった。そのたもとには,白い香炉と器のようなものがある感じだったと思う。
なるほど,ヤギがいたところからの砂の道は,この御嶽に通じるアプローチでもあったのだ。『やえやま』で確認したら,「イールウガン」という名前らしい。漢字で書くと「西御嶽」。確実に島の西側にあるからそうつけられたのだろう。ヘンにカッコつけた名前よりもどこか潔い感じがする。元々個人で信仰していたものをやがて島全体で信仰するようになったという話もある。で,西御嶽があるからには「東御嶽」もあるわけで,こちらは「アールウガン」というが,あとで見られれば見てこようか。もっとも,中に入らず外観を眺めるだけにとどめるが。
そして,いよいよクイヌパナだ。御嶽の森の中を抜けると,景色が開ける。昔ながらの流れ作業&手作業で積んだ石組みの階段を上がることに。いろんなガイドなどによれば17段あるようだが,何分それぞれの石の形が不規則なので,どうやって何をどこを基準に1段をカウントすればよいか難しい……なんてことはどーでもいいか。それらが急勾配に積み上がっているところを上がっていく。
すると,上は石灰岩で縁取られた,畳2畳分ぐらいのサンゴ敷きの展望台。見下ろした景色で,これまた満腹になる。透き通った青い海は,底までクッキリと見えている。捉えようによっては銭湯の浴槽みたいに見えなくもないが,それではさすがに興ざめしてしまうか。でも,そのぐらいの色なのだ。白い桟橋とのアクセントもいい。陸側にはひたすら緑が広がっていく。夕陽は絶景だという。でも,ここは遮るものが何もないから,すごい強風が吹いたらば,落っこちそうでちょっと怖いかもしれない。
ちなみに,漢字で書くとここは「越ぬ端」と書くらしい。「越す」というところから派生して高い場所。すなわち,「端っこの高台」というシンプルな名づけられ方が有力だ。あるいは,この場所を唄った島唄「クイヌパナ節」に男女のかけあいの箇所あることから,「恋の花」と当てられることもあるらしい。メインは島の暮らしの営みを描いたものらしいが……ま,どっちがホントでも,この光景が色褪せることはあるまい――と勝手な都合をつけてコメントを終わらせておく。
なお,海側からも登ってこられるようだ。でも,こちらの階段は階段とも言えない,もっと石積みそのまんまの形で,足場はより不安定である。下には広い芝地もあって,降りていこうと思えば降りていけそうだ。それはそのまんまさっき歩いてきた海岸線にもつながっている感じだが,多分逆にその海岸線から上がってくるのは,私のような臆病者にはできなかったかもしれない。
来た道を戻って,別荘まで辿りつく。ちょうど草刈り中の主人と目が合った。「もう見られましたか?」と聞かれたので,「いや,あとこちら側(と言って,別荘の裏側を指す)の展望台を見てきます」と答えておく。すると,また何事もなかったかのように,地面に視線を落とす主人。正月とかいう特別な時期以前に,ごくごくフツーの日曜日っぽい空気がそこには流れていた。

Aどんどんミステリアスにしてしまえ
もう一つの展望台に向かう前,道をはさんで別荘の向かい側にある家が気になった。水色のトタン屋根に赤瓦の縁取りで柱は黄色,というこの島には少々奇抜な外観だったのだ。でもって,たくさんの,そしていろんな大きさの浮きが吊るされている。はて,何を表現したいのかが読み取れないが,サッシが閉まっていて中をのぞけない。第一,人が住んでいるのかどうか。その隣には衛星放送のアンテナが1機。こちらは中が開け放たれていた。ペットボトルなどが雑然と置かれ,生活している感じが見受けられるが,住人らしき人の姿はなかった。
さて,いよいよもう一つの展望台に向かうことにする。まずは二つ目の鳥居。「ナハウガン」「ナカマタウガン」と呼ばれる御嶽の入口。300年もの歴史があるそうだ。中をのぞこうかと思ったが,20mほどのアプローチの先,右手にまたも鳥居が見えた。ということは,その奥にホントの拝所があるということなのだろう。周囲は鬱蒼と樹木に覆われているので,中の様子は分からない。今いる(多分)一の鳥居から多分立ち入ってはいけないのだろうから,ここは素直にあきらめるしかないだろう。
この御嶽では,米の豊年祭「ンブプル」と粟の豊年祭「グメプール」という祭事が執り行われるという。いずれも,夏に入ってからの行事のようだ。清めの儀式・豊作祈願に獅子舞があり,でもって「アカマタ」「クロマタ」という神様(に扮した人間…)が島内の集落を歩いて回り,各人の無病息災を祈願していく。そして,祭りは島民だけで執り行われるもの。観光客が参加することはもちろん,祭りの撮影や描写,そして見学した祭りの内容を公開することも許されないという秘祭なのだ。
にもかかわらず…というか“当然”というのか,そーゆー「ダメダメ系」がこれまた人間の心理をくすぐってしまうもので,この豊年祭を目当てにパナリを訪れる観光客が増えているというのだ。でもって,よりによってそれにあわせて,観光会社が普段は出さない臨時便を出しちゃったりなんかするという。私だって,そう言われれば見たいと思う。いっそ見せたくないのならば,上陸させなければいいんじゃないか。住民票でも何でも提示させて,それこそ皇族の中で執り行われる行事のように,徹底的に隠して見えないようにしてしまえばいいのだ。
この鳥居を越えると,またも鬱蒼とした森の中に紛れていく。道らしきものは分かるのだが,南部に行くのに比べると,整備はされていないで野ざらしのまま。フェンスがあったり,牛舎のような木造の建物が朽ちたまま残っているのが,ここに人がいたという証。途中でこれまた錆びついたゲートがあるが,主人いわく「そのまま通って構わない」とのことで,さらに突っ切っていく。高台に向かっていることもあり,登り勾配がついている。そこを半ばダッシュしていく。だって,ハブとか出たら怖いじゃん。
そして,ダッシュすること数分,どんづまりの開けたところに石積みの土台を発見。これがもう一つの展望台である「タカニク」だ。こちらは直径5mぐらいの円錐台だった。周囲は石積みで,10段の石段を上がると,上部は砂と芝になっている。「島を一望できる」と主人に言われてきたが,海側も陸側も見渡す限り緑しかみえなかった。火番盛の役割を果たす場所で,16世紀頃にできたと言われている。
来た道を戻り,あとは集落の路地を片っ端から巡っていくことにする。まず,集落最北端の道を入っていくと,民家で子どもがテレビを観ていた。多分,ここの住民じゃなくて,どこかからやってきたと見た。島には学校がないから当然だろう。その民家の前を通って突き当たりを左に曲がる。なかなか長い道のようだが,途中で広くなった場所があり,そこからおもむろに左に入っていくと変電所だった。ガクッ。「アールウガン」かと思ったのに……ここで引き返す。
ちなみに,「アールウガン」は別名「ザンウガン」と呼ばれる。「ザン」とはジュゴンのこと。ジュゴンを奉った御嶽というのだ。かつてこの一帯にはジュゴンがたくさんいたそうだが,琉球王朝から,新城島ではこのジュゴンを献納するように命じられた。粟蒔きや田植えが済むと,島を離れて一体の海上へジュゴンの捕獲に出かけたという。捕獲したジュゴンは,肉と皮は天日干しにして食用として献納。でもって,残った骨を御嶽に納めたということである。結局,アールウガンは集落から外れていく別の道にあったらしい。行けずじまいになってしまった。
戻ってパナリの集落を巡っていると,腰ぐらいの高さの琉球石灰岩の石垣が特徴的なのに気づく。この石垣と,車が1台通れるかどうかってぐらいの狭い芝の道があいまって,原寸大なはずなのに,どこかミニチュアっぽい可愛らしさがある。その石垣が低いのには訳があって,かつて桟橋を作ろうとしたときに,その土台作りに各家庭から石垣を持ち寄ったためだという。桟橋の下の海が透き通って見えたことは前回も書いたが,そういえば石が下のほうに沈んでいるのが見えたと思う。
その石垣に,一度だけだが茶色い破片が刺さっているのを見た。多分,この島の伝統的な焼物「パナリ焼」の破片で間違いないだろう。今から150年とも200年とも言われる以前までは作られていたそうだが,素焼きでレンガ色が特色の焼物である。現在では作られていないので,どっかの施設に展示されているのを見るしかない。
それゆえに,作り方の記録なども残っておらず,「粘着性を出すためにカタツムリを混ぜた」「赤いのは牛の血だ」など,やたらミステリアスな存在となっていた。結局,復元作業が行われていったところ,島の赤土にタカセ貝などの貝の粉末を混ぜて,露店焼きにしたというのが有力な説になっている。それにしても,豊年祭といいパナリ焼といい,有形無形関係なく,あらためてこのパナリはどこかミステリアスな島だ。なかなか観光地化されない,なかなかオープンな存在にならないのが分かるような気がするし,逆にどんどんミステリアスにしていってほしいとすら思えてくる。
……話題を戻そう。集落の東部では,ちょうど昼前で気候がいいからやる気になったか,中年男性が何かを燃やしている民家があった。かと思えば,サッシの隙間から見えてしまったのだが,どこで買ったのかと思うようなかなり高価なプラズマテレビを,たった1人で寝転んで観ているご老人の姿もあった。結構人の営みが垣間見られるものなのだ。もちろん,覗き見はしていないので念のため。
それにしても,この集落にはホント民家以外の施設がない。辛うじてあったのは消防用のホース,民家の石垣の中にあった赤く小さいポスト。それだけ。赤いポストなんて,ホント島の人間しか分からないような場所に1本路地を入った民家の中に設けられてあったのだ。公共物なのに,私有地にあっていいのだろうか。「ちょっと,ポストまでハガキ入れてきてちょうだい」と頼まれごとを受けて,ポストを探しに行ったはいいが,結局見つけられずに「まさかこんなところにあったなんて…」というオチがあり得そうなくらいに分かりづらい。
集落の南側には,ガジュマルの枝を利用してプランコがつけられている家があった。一体,誰が乗るのだろうか。まさか大人が乗るわけでもあるまい。きっと,可愛い孫が息子だか娘だかに連れられて帰ってきたとき,少しでも喜ばせてやろうと思ってオジイが取りつけた――なんて,勝手にストーリーを作ってしまったが,もちろん民宿ではないフツーの家の話である。
この島には宿泊施設なんてないのだ。既述の豊年祭が執り行われるとき,日帰りで帰らない観光客はさっき通ってきた小学校跡(前回参照)のグラウンドで野宿だと,『やえやま』には書いてある。ってことは,あのログハウス風の建物って……ま,もしかしたら中に入れてもらえるのだろうが,いずれにせよ宿泊施設がまったくないことだけはたしかなことである。
もちろん,この島でテレビはちゃんと観られるし,水道だってガスだって通っている。食材をあらかじめ仕入れていけば,生活して寝泊まりをするには不便がない島だ。かつて,このパナリには百人単位の人間が住んでいたというが,それは無論,こういったライフラインというヤツが普及していなかったころのこと。それが普及していくのと反比例で人口はどんどん減っていった。学校が廃校になったのがトドメとなったらしい。何とも皮肉な話である。

これにて散策は終了。11時50分,別荘に戻ってくると,軒先で主人が横になっていた。昼寝をするにはベストコンディションであったに違いない。私が来たのに気づいて起き上がる。そうとなれば,あとは帰るのみだ。サクサクと主人は別荘を閉める準備にとりかかる。「帰りは2人ほど,乗せてくれっていうのがいるから,それと一緒になります」とのことだ。
帰り際,「夏に遊びにいらっしゃいよ」と誘われた。なるほど,夏に何人かで来たら,さぞかし思い出深いことになりそうだ。こんなワケのわからん私に,優しい言葉をかけてくれたことに感謝。表立って涙は出てこないが,充実した「パナリンピック」を終えたこともあって,心の中は少しばかりウェットになっている。そんな主人とテキトーに会話しながら,港に向かう。
「今日2人,明日また2人帰るみたいだから,それで通
常の島の人数に戻るね……ったく,島で何か仕事をし
ようと思えばできるのに,結局は何もしないで釣りとか
して過ごすだけ。初めはこっちも可哀想だと思って色々
やってやったけど,最近は放ったらかしにしてる。ほら,
いたでしょ,寝転んでいた年寄りが」
多分,すごいプラズマテレビを観ていたご老人のことを言っているのだろう。なるほど,人それぞれ思うところはあるものなのだ……そうこうしているうちに二股の辺りに着く。すると,中年男性2人が荷物を下に下ろして木陰で待っていた。「ほら,お客の帰りに合わせてああして待ってもらうんですよ」――ということは,我々2人をいつからか待っていたということだ。もちろん2人とも私より年上だ。恐縮する。
とはいえ,結構主人の船に便乗して帰る人は多いらしい。さもなければ帰省客とて,他には定期船に特別に寄ってもらったりするしか行き来する方法はないそうだ。ちなみに,中年男性の1人は島で2度出会った第1島人の男性。なるほど,この島の住民ではなかったのだ。4人で港まで下っていき,順番に船に乗る。2人はともに大きな荷物を持っている。帰省の帰りといったところか。
帰りの波は,主人が「こりゃ,ベタ凪ぎやな」と言っていたように,たしかに行きよりもずっと穏やかになっていたと思う。行きは陽射しもなく寒くてジャンパーを着ていたが(前回参照),帰りは陽射しを浴びて長袖1枚で気持ちよく風も浴びる。8000円という額は決して安くはない額だが,それを払うだけの価値はあったと思う。今回のパナリ行きの選択は確実に正解だった。ムリをして鳩間島行きを選択していたら,今ごろどういうことになっていたのだろうか。
大原港には12時15分に到着。主人が軽トラックで旅館まで送ってくれるらしい。中年男性2人は慣れたようにそそくさと荷物を荷台に乗っけて,そのままよっこらせと上がり込んだ。はて,自分も…と思っていると,助手席に乗るように促された。若いほうがいわば“いい身分”みたいになっていることに恐縮しつつ,助手席に乗っかると主人が一言。「いいんだよ,客が優先なんだから」(第6回につづく)

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