沖縄博打旅

B入るつもりじゃなかったんだけど
仲間港に戻ってきたのは,14時15分。仲間川の下でボートとすれ違う。向こうは運転する男性ともう1人の係員のみ。「多分,新人さんでしょうね。『すれ違うときは波が起こりますから,安全なように譲り合ってください』って教えられているんでしょうね」とアンちゃん。たしかに,いま運転しているアンちゃんよりも若そうな男性だった。
さて,下船して多くの家族がそばの駐車スペースから出発していく中で,私はテクテクと緑の中の道を歩いて島の1周道路に出る。右に曲がって仲間橋を渡って,お隣の大富集落まで歩いていくことにしようか。大原の集落の端にあるガソリンスタンドを過ぎると,ホントに何もない荒れ地のエリア。持ってきたMDで修二と彰『青春アミーゴ』をなぜかリピートで聴くことに。車だとあっという間に渡った記憶があるが(「西表リベンジ紀行」第2回参照),思いのほか徒歩だと時間がかかるものだ。
歩き始めて15分ほどで,ようやく仲間橋。4箇所の欄干にあるイリオモテヤマネコの石像がアクセントだ。下を見下ろすと,さっき船上から見た砂州の大きさがよく分かる。空は晴れ上がり,風はすっかり止んで……と思って佇んでいたら,“ヒョーッ”という音とともに強い風が吹き抜ける。陽射しがあるし,風を常時浴びるわけじゃないから,ジャンパーがなくても身体に心地はいいのだが,心中は決して穏やかにはなれない。うーん,これはもしかして明日のパナリ行きに影響が出てくるのだろうか。
橋を渡って,すぐ左側にはマングロープがある。緑の中に赤いハイビスカスのアクセントが強烈だ。何か可愛らしい生き物がもしかしているかもしれないので,そこに降りてみたかったのだが,通路なんかは何もない。そばには「マリンレジャー金盛」という別の会社が,やはり仲間川のカヌーとかマングローブツアーを行っているが,そこの敷地の中みたいで岸につないであるボートの脇を通っていかないと,その辺りには行けないようだ。乗りもしないのに勝手に入り込むのも申し訳ないので,見るだけにとどめておくことにする。
この仲間橋のそばには二つの史跡がある。一つは「仲間第一貝塚」。大原集落側から渡って右側にある。説明書きによれば「全国的にもまれな新石器時代の無土器遺跡」とあった。貝塚の代名詞である貝殻をはじめとして,青磁器やら骨やら石器やらが出土されている一方,当時の唐の貨幣であった「開元通宝」も出土されている。本土よりも中国大陸のほうが近いし,いわゆる“遣唐使”が寄ったりもしたのだろう。外界との交流が少なからずあった証だ。
1996年3月の設置時点で「今から1000〜1200年前」とあるから,本土では平安時代だったころ。戦後の沖縄が,本土に比べていろんな意味で“出遅れた”ことは何度か書いてきたが,そんな程度は実は可愛いもんであって,1000年前の時点ではもっと数千年の開きがある状況だった……とはいえ,よく考えれば,戦後によくも悪くも施された“格差縮小”とか“格差統一”という名目で出遅れる形にさせられただけであって,初めから「あそことここでは文化が違うのだ」と考えれば,“出遅れ”という言葉はあてはまらないのだろう。そもそも,比べるほうがナンセンスってこともある。
それが証拠に,沖縄でもさらに本島と宮古・八重山ではこれまた波及した文化が違っているという。本土の縄文・弥生文化の影響を受けたのは沖縄ではせいぜい本島までで,宮古・八重山では台湾やフィリピンの文化圏に属してその影響を色濃く受けたのだ。海上の距離は昔に遡るほど,ギャップがどんどん広がっていく。だからこその「平安時代と新石器時代のギャップ」が生まれているわけだが,それはあくまで「本土の価値観でのギャップ」であることを再度追記しておこうか。
その向かいには「マサガイの碑」。1637年,竹富島生まれのマサガイが,この仲間地区を開拓したことを称えるものだ。いわゆる先駆者をたたえるってヤツ。「いきやぬ ゆやんど どなぐぬ ちにゃんど なかまくいおった しるぐみぬ むちぐみぬ くりふしやんど」というマサガイを称える詩文が刻まれてある。とはいえ,実際にはマラリアという風土病がなかなか移民を根付かにくくさせてはいたのだが。

大富集落の方に向かう。右手の仲間第一貝塚の隣には,古ぼけた食堂「やすみや」(「西表リベンジ紀行」第2回参照)の建物。商店街によくかかっている「謹賀新年」のポスターが,玄関のドアに掲げられているので休業中だ。ただし,網戸になっていて2階には「主婦には正月なんてないのよ」って感じで洗濯物が乾してある。中には人がいるのだろう。
そのまま進むと,大富集落の入口。「交通安全の塔」という大きな石碑があって,ロータリー風になっている入口より左に入ることになる。そして,集落内に響くように誰かの島唄がスピーカーから聞こえてくる。プロの唄者のカラオケっぽく聞こえるが,手拍子も聞こえてくるってことは,誰かがうたっているにも思えてくる。どうやら,ロータリー脇の公民館らしき建物からのようだ。
ひとまずは,大富集落をぐるっと周ることにする。この大富集落が元々は移民の集まりで,1952年に命名された「大富」という地名が,沖縄本島北部の宜味村出身者と,八重山は竹島出身者が多く占めていたところから来ていることは,「西表リベンジ紀行」第2回にも書いた……まずは大富だが,「大原中学校」の前を通る。校舎は2階建ての校舎が一つ。カンカン…と,金属バットの音がする。グラウンドに数人いた。向かいにどんちゃん騒ぎの公民館があったし,連れられてきたけど飽きてしまった子どもたちが,暇つぶしに野球でもしていたのだろう。
なお,大原小学校はちゃんと大原集落にある。普通は沖縄の離島に行くと,小中学校が一つになっているケースが多いが,このように別々に,しかもかなりの距離が離れているケースも珍しいだろう。あるいは,成立が1941年と古い大原集落に当初一まとまりであったものが,ベビーブームによる人口の増加で小学生が収容しきれなくなったため,土地があった大富のほうに中学校だけ移した。かといって両集落に小中学校を作るほどではないし――と,勝手に推測してみる。
路地に入ったりしてみる。さっきの宴会の音が一旦やむと,あっという間にシーンとした空気に包まれた。ほとんどがコンクリートの平屋建ての建物。気温が暖かいからか,ほとんどの家が窓を開け放っている。どこか気だるくてのどかな正月の午後……そう,今日は1月2日。正月真っ只中なのだ。この静けさこそが,スタンダードな正月の在り方ではなかったか。人のことを言えた義理ではないが,ワッセワッセと疲れるために旅先をかけめぐり,その旅先では観光客のために働く人々がいるというのは,間違いなく亜流である……集落の中,たまーに1本だけグーンと伸びているヤエヤマヤシは,こういう我々個々の正月の営みをどう見ているのだろうか。
かれこれ20分くらい散策して,再び宴会の音が聞こえてきた公民館の辺りに戻る。「大富入植50年おめでとう」という幕を見た開けっぱなしの古い建物の向こうに,真新しい公民館の建物があった。中は50〜60人くらいはいるだろうか。ちょっとした庭にはすでに子どもたちがボール遊びに興じている。私が子どものころも,酒を飲むだけの“大人の集まり”なんてつまらないと思ったものだ。時代が変わってもそーゆーのは変わらないってところか。
とはいえ,昨年行った伊平屋島でもそうだったが(「沖縄はじっこ旅V」第6回参照),こうやって集落の住民が正月に集まってドンチャンやるっていうのも,都会では…というか本土の田舎ではあまり見ないと思う。せいぜい親戚筋が集まる程度ではないか。あるいは移民で苦労をともにしたところに端を発するのか。であれば,そのときから2代目ないしは3代目になっているはずの現在は,そのつながりが徐々に希薄になりつつある。次世代になったときは誰が音頭を取るのか……は知る由もない。ま,カンケーない人間が人んとこの事情をとやかく言ってもしょーがないし。
15時15分,大富バス停に戻る。ロータリーの一角にあって,21分にバスが来ることを見越して集落を見て回っていたのだが,余裕で間に合った。赤瓦の屋根つきで鉄筋の柱がある立派なものだ。真ん前にある売店はさすがに…というか閉まっている。バス停の脇にあるデイゴの木は,長靴だの電飾だのとクリスマスの飾りがされたまま。枝にひっかかっていた「メリークリスマス」の紙がどこかのどかに感じる。正月明けにテキトーに取り外そうってとこか。
そして,定時に遅れること2分で都バス…いや西表島交通バスがやってきた。ホントは明日乗ろうかと思っていたが,その予定はなくなった(第1回参照)。大原までまた徒歩で戻ろうと思えば戻れる時間はあるのだが,また1km以上歩くのはどこか疲れてしまった。であれば,一区間でたった110円だけの乗車ではあるが,何となく記念に乗っておこうと思ったのだ。
見慣れているバスは,これまたそれに則ったのか,前方からの乗車だ。でもって,大原までの一区間(厳密には終点は大原港であるが,どっちみち同じ金額だ)ということもあるからだろう,前金だった。でもって,違ったのは料金箱が100円ショップで売っていそうな青い受け皿だったこと。座椅子は完全に都バスの濃い青のまま。観音開きの後部ドアは開くことがあるのだろうか。きっと,終点でしか開かないものとみた。その脇に張り紙がしてあったが,一瞬“共通バスカード”の案内かと勘違いしてしまった。詳しくは見なかったが,多分西表島交通の広告だろう。

バスは仲間橋を渡り,学校跡のような大きな建物のところでおもむろに右折した。この「おもむろに曲がる」のが,路線バスの楽しみだ。一気に通りを抜けてこれまたおもむろに左折すると,大原バス停にあっという間に到着。車内は12〜13人乗っていたが,ここで降りたのは3人。「港に行かれる方はこのまま乗っててくださいねー」と運ちゃん。なるほど,バックパッカーなどが車内に残っていた。そして,我々を降ろすと,バスはそのまま一直線に港へと下っていった。
さあ,時間はまだ15時半。さっきは大原集落の北部を歩いたが,今度は南部を歩いてみようか……そう思っていると,小さい「マツリカ」という看板が目に入る。たしか,クラフトアートの店だったと記憶している。昨年夏に南風見田の浜(「西表リベンジ紀行」第2回参照)に行く途中でも,看板が何度か目に入ったと思う。そちらのほうへと路地を入っていく。
歩くこと5分。「マツリカ」はプレハブのコンテナの店だった。看板だけがそれなりで,あとはそのコンテナのままって感じ。一応「営業中」というプレートが掲げられていたが,外見からはどうにも入る気をそそられない……そう思っていると,斜向かいの建物から中年女性が。そのうち,私に「ここうちのお店なんですが,よろしければ入ってみませんか?」と誘われる。何となく断る理由もないし,とりあえず誘われるまま入ってみることにする……なお,「マツリカ」を漢字で書くと「茉莉花」。そう“ジャスミン”のことだ。ちなみに,私はこの漢字を見ると,どうしても「マリハナ」と読んでしまいたくなる。そして,マリハナ→マリファナ……ま,いいか。
中は12〜13畳程度の広さ。そして,左手奥には不登…もとい「私は理屈や体裁よりも感性を優先させています」という雰囲気の若い女性が店番をしていた。あるいは手先が動いている感じだったので,何かを作っていたのかもしれない……商品となる小物は,下にも壁にもたくさん置かれている。いかにも女性に喜ばれそうな雰囲気だが,値段をよく見るとそれなりの値段がつけられている。貝殻に糸をつけただけのケータイのストラップが500〜600円とは,土産屋でもしないだろう。あ,糸が芭蕉布だから,そのへんでコストがかかっているのか。
ちょっと気になったところで,さっきの中年女性が声をかけてきた。それは「すず石」というもの。どうやらここのオリジナルではなくて,名前は忘れたが島内のどこか別の店の商品も扱っているようだ。で,そのすず石の中身をサンプルでもって説明してくれた――それなどによれば,土の中で鉄分などを多く含んだ浸透水が,粘土や砂の塊の周りに皮のようについてふくらみ,饅頭のような構造になったものとのこと。でも,ここ西表島だけでなく,結構広範な地域で取れるものみたいだ。
そして,外の皮は固くなって内側の核となった粘土や砂が崩れ,振ると「カラカラ」とか「シャラシャラ」とか音がするところから命名されたという。もちろん,一つ一つが成り立ちが違う石だから,たしかに,いくつか手にとって振ってみても,音はバラバラであった。見た目はそのへんにある小石であるが,これにストラップがついていて,これまた値段が600円とかする。
うーん,どれを買おうか……そう,店内はものっすごく静かなのだ。私もあまり興味をもって入ったわけじゃないし,何を買いたいとも思わないのだが,ヘンに緊張の糸が張り始めている。このまま黙って出られるような雰囲気ではない。とはいえ,何百円とか1000円以上もするものを買うのも,どこかソンする気分だ。できるだけ安いものを買って,とっととズラかりたいところだ。
だって,こう言っちゃナンだが,例えば貝殻のアクセサリーなんて,砂浜にいくらでも転がっているし,その中で自分が気に入ったものを持ち帰って,あとはつなぐ紐を手に入れれば簡単に作れる……って,私は不器用なのでムリかもしれないが,材料費なんてのはいくらもかからないものであろう。既出の南風見田の浜でも似たような貝殻のアクセサリーが売られていたが,無人だったのもあるしもちろん買わずに通り過ぎた(「西表リベンジ紀行」第2回参照)。
そんな中,結局買うことにしたのは,リサイクルガラスを土台に貝殻を乗せたもの四つが入ったパッケージにもの。350円。パッケージはマッチ箱大のもの。マツリカのオリジナルというシールが貼ってあった。このガラスは海岸に漂着してきた飲料水のビンの底の部分を使ったもののようだ。壁にはそういうビンを集めている旨のチラシがあった。これだって,結局はビンはタダだし,貝殻もタダ。強いてかかるのは@ビンを砕いて研磨する人件費,A貝殻をボンドに貼りつける人件費,B箱詰めする人件費――ま,こーゆーのを作ること自体は否定しないけど…って,否定しまくりか。とりあえず,これで外に出られることになってホッとする。うーん,つくづくオレってアートセンスのないヤツだ。
マツリカから山の方向に入っていく。少し集落から外れることもあってか,これまた周囲はシーンとしている。家もパラパラとしか建っていない。そして,数分でどんづまりの大原小学校に着いた。2階建ての校舎に体育館があり,校庭は100m×50mほどの広さで天然芝生のような感じ。ブランコ・滑り台・鉄棒などがあった。幼稚園が隣接している。
ここから方角を北に変える。グルッと外周してから,1周道路に出てあずま旅館に戻ろうというルートである。さっきバスが曲がった道を通り抜け,学校跡の裏手に出た辺りで,右後方から中年男性が1人,こちらに向かって歩いてくるのが見えた。左手には植木の向こうに民宿かあるいは民家っぽい建物が。はて,ここの住民なのか。なので,彼を左に通そうと思って私が右に避けたときだった。
「お兄さん,よかったら見ていきませんか? いろん
なものが飾ってありますよ」
こちらとしては男性を通そうと思っただけだったので,一瞬何だろうと思ったが,どうやらこの建物の中に“お宝”があるらしい。そういや,隣に「○○博物館」という看板が見えた。ま,あとは帰るだけで時間もたっぷりあるから,とりあえず入ってみることにしようか。

中に入ると,ものすごく雑然とした雰囲気。いろんなものが土間に容赦なく置かれてあるって感じだった。真っ暗だった部屋に,男性が明かりをつける。そして,左手には上がりの畳の部屋。見た感じと,テーブルに置かれているものからして民宿の食堂っぽいが,何しろこちらは言われるがままに拉致…いや,中に入れられたものだから,状況を把握するまで時間がかかってしまう。
で,その“お宝”は,まず畳の部屋のショーケースの中に入っていた。無数の硬貨・紙幣であった。まずは「お兄さん,悪いんだけどスイッチ入れてくれます?」と言われ,足元のスイッチを入れると,ショーケースに明かりがついた。でもって,軽く会話が。
「お兄さんは,どちらから来たの?」
「東京からです」
「東京のどのへん?」
「北区です」
「はー……私は江戸川区,中野にもいたし,豊島園
の近くにもいたし……東京には詳しいですよ」
そして,男性によるそれらの説明が始まった。まるで,誰かに見せたくて話したくてたまらないという勢いである。すべてを見たわけでもなければ,すべて覚えているわけでもないので,パラパラと羅列するだけになってしまうが,イラク・フセイン大統領の肖像画入り紙幣ハンガリー・インフレ時代の一兆円札琉球政府A・B紙幣(どちらかが希少価値があると言っていた),北朝鮮紙幣日本最古の布銭西郷隆盛氏が発行してという西郷札アメリカの印刷エラー銭……などなど。
はたまた沖縄の所持金証明印紙再び北朝鮮の金日成バッジ“大正”から“昭和”に元号が変わったときに出た記念タバコ(「せうわ」という文字があった),島根の寺院にあったというウン百万円の鬼瓦(雪深い場所にあるので,雪が落とせるように特殊加工されているという),ゾロ目1000円紙幣(たしか六つぐらいの数字があった)……などなど,失礼ながら“てっぺん”も薄くなった,あのホリエモン氏を35年老けさせたようなその見た目からは想像ができないぐらいに,ショーケースの中はかなりインターナショナルな世界を形成している。北朝鮮ものなんて,どうやって手に入れたのかと聞いたところ,「いろいろあるんですよね」と,ニヤリと意味深な発言。とはいえ,基本的にはネットオークションなどで手に入れているという。その道具となるのか,デスクトップのパソコンもちゃんとある。
で,ショーケースの中に,1枚のハガキ。差出人は曽我ひとみ氏。そう,北朝鮮の拉致事件の重要人物の1人である。その男性いわく「私の知り合いの息子が外務省に勤めてまして,そこで曽我さんと知り合うルートができた。で,そこから曽我さんが『沖縄でパイナップルが食べたい』ということを聞いたから,送ってやったんです。これはそのお礼のハガキですよ」。一昨年の夏ごろだったそうだ。
うーん,このじーさん,ただ者ではないはず……と思っていたら,ショーケースのそばに切り抜きが貼られてあった。名前は平田一雄氏(ひらたかずお,1933-)。本業は民宿「南風荘」を切り盛りするオーナーだが,あずま旅館の隣にあった大原駐在所にも勤務していたことのある人物である。なるほど,ここは民宿だったのである。雑然っぷりに廃墟の香りすらしてくるが,れっきとした建物なのだ。
そして,この「南風荘」の言葉でピンと来たのだが,南風見田の浜にある戦争慰霊碑「忘勿石」(「西表リベンジ紀行」第2回)の保存会会長もやっているということ。隣にカーテンがかかった小さいプレハブの建物があったと思うが,そちらがたしか,この保存会の建物のような感じだった……でもって,今まで説明したような貨幣や切手のコレクターとしての顔も持っている。まさに,マルチな才能ぶりを発揮しているというわけだ。これで,このじーさん…いや,平田氏がすごい人物であることが分かった。
ちなみに,畳の部屋のショーケースがある反対側には,ビッシリと色紙で埋められている。民宿ができて四半世紀ほど経っているようだが,一番古いのは1986年というサインがあったか……そして,なかでも筑波大学と武蔵野工業大学の学生は何度も訪れているということだ。名前は忘れてしまったが,“なんとか鉱石”の研究で来ているそうで,研究施設がこの西表島にあるという。その手伝いだかを平田氏もやって,いろんな発見にも携わったと言っていた。
まだまだ見ていないショーケースがあるので,一旦,土間に降りてからそちらのほうに向かう。こちらは主に切手のコーナーだ。世界一でかいモンゴルの曼荼羅切手(ただし,実用的には使われないようだが),日本最古の切手7枚でウン万円するという切手赤い色のヒトラー切手,そしてこれまた北朝鮮切手……あるいは,作家・宮澤賢治氏の肖像画のコピーみたいなのイスラム教のメッカの写真(知人に写真を撮ってもらったとか),軍服の上下に軍刀(剣を抜きやすいように,いわゆる“サイドベンツ”のものとなっている),現役の外国人画家が日本の病院に世話になったお礼に描いたという絵画(2枚で1300万円。自分のところに寄贈されていたという)……中でも平田氏は,軍刀がホンモノであると言って,鞘から取り出していて,軽く構えたりしてしばし手に持ちっぱなしだったときは,ふと斬られるんじゃないかとビビってしまった。まったく,こわいぜ。ちょっと陶酔した雰囲気だったし。
ひととおり見て回ったが,急ぎ足だったのでまた見せてもらおうと,畳の部屋に上がる。畳の部屋だからというわけじゃないだろうが,引き続き平田氏からたたみかけるような話が続く。これだけのコレクションがあるとなると,その世界ではかなり有名になっているらしく,お宝というとあの番組,そうテレ東の「なんでも鑑定団」からも出演依頼が来たという。「“レクサス”っていう会社だったかな? 島田紳助なんかはまったく関係なくって,その会社がすべて製作してるみたい。そこから鑑定しないかって声がかかったんだけど,面倒くさくってやめちゃった」
とはいえ,コレクションを展示すること自体は好きなようで,この4月に本島の本部町にある町営の資料館で,展示をする予定だという。あるいは小さい場所での展示もいくつかやっているようだ。で,本部の件は某有名財団がやっている,補助金の申請を受けるべく書類を出したようで,知人からは「多分通るだろうから」とのことで申請したが,もしそれが通れば,結構な額の補助をしてもらえるそうだ。「通ったら展示しようかなと思っている」らしい。

……そんなこんなの話を聞いていると,男性2人が宿に入ってきた。「おかえりなさい。あー,そこにあるみかん食べてくださいねー」と平田氏。どうやら,彼らはここの宿泊客で,南風見田の忘勿石などを見てきたようである。そして,今日の夕方の高速船で島を離れるという。「後で送っていきますからねー」なんて彼らと会話していた。
多分,この静けさだったらば,部屋は空いているかもしれない。ふと,あずま旅館はやめて,ここに宿を変えて平田氏と晩飯を食いながら,もっと話を聞いたりしたかったが,いつまでもいてもキリがなさそうなので,テキトーなところで「ありがとうございました」とお礼を言って,おいとまさせていただくことに。ちなみに,お代は請求されなかったが,これだけのものを見せてもらったし,「いいのか?」と思ってしまった。でも,こちらから「まあまあどうぞお納めください」なんて言って支払うのもヘンなことだし,このまま失礼する。「また来てくださいね」と去り際に平田氏。よく分からぬこんな旅人を受け入れてくれたその懐の深さが,どこかうれしかった。(第4回につづく)

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