西表リベンジ紀行

@苦難に満ちたジャングルアイランド
車をまず走らせた先は,今日の昼飯予定の場所「やすみや」である。大原は立派に拠点なのに,つくづく店の類いが少ない。船浦・上原という西部のほうに押されている。この「やすみや」も,実際は大原の隣にある大富(おおとみ)という集落の入口にある。東部で唯一の,「帰りにはここで入れてください」と言われたガソリンスタンドを通り過ぎると,欄干にヤマネコの像が乗っかった広大な「仲間橋」を渡る。下を流れるのはそのまんま仲間川。こちらでもマングローブツアーをやっている。場合によって舟浮ツアーがなくなった場合は,この川を上っていって11年ぶりにサキシマスオウでも見ようか。
この川を渡ると大富集落。そして,間もなく右手にそっけない造りのコンクリートの建物が見える。下に「やすみや」の看板。いかにも食堂って感じの赤白の四角い看板だ。ドアが一昔前の個人病院のそれみたいな感じだ。元からなのか陽に焼けたのか分からないが,黄色いドアである。店の駐車場というよりは「家の駐車場の広いヤツ」って感じの駐車スペースには,1台ワゴンが停まっている。「西表島東部一円送迎タクシー」とボディには書かれていた。夏の昼時はかき入れ時だと思うのだが,今日の大原港はかなり空いていたから,もしかして商売上がったりなのかもしれない。
ここは昼だけの限定の店だと『やえやま』にはあったが,「営業中」とあるので一安心。書かれていた札が病院とかに下がっていそうな,白く縦長の札に冷たげな明朝体という体裁だ。どこか観光客には近寄りがたい雰囲気にさせられるが,ともかく黄色いドアを開けることにする。こーゆー店のほうが生半可なホテルのメシよりもかえって美味かったりするものだから。
中に入ると,下はタイル張り。カウンターが5席と,1〜2畳の畳敷きの上がり(1畳で2人席,2畳で4人席)がポツッと三つ角にあり,あと奥に座敷があって4人席が三つというレイアウト。元々上がりはイス席だったのを改造したのか。テーブルとイスを置いたほうが何となく納得できそうな気がするが,まあ店主のこだわりや方針に口出しする権限は,行きずりの観光客の私にはない。2畳敷きの上がりに作業着っぽい男性が2人座って黒いお重を囲んでいる。多分,上記タクシーの人たちだろうか。私はその向かいにあったもう一つの2畳敷きの上がりに座る。壁は所々剥げてきている。こーゆーのがまた「地方の食堂たり得ている」と言えやしないか。
「人気の食堂」「昼時をねらって行け」というフレーズに惹かれてこの店に寄ったが,メニューはたかが知れている。チャンプルー類にそばに丼に,なぜか鰻丼があったりする。最後の最後に意表を突かれた感じではあるが,こーゆー店にものすごく豪華な「○○御膳」なんてセットメニューがあったら,それはそれで興ざめすることだろう。「野菜チャンプルー」を注文。600円。“チャンプルー”の響きにひかれて,それ以外の「麩チャンプルー」「ゴーヤチャンプルー」「豆腐チャンプルー」といった,今まで食ったことあるものをあえて避けたのだが,注文した後で「あ,野菜炒めか」とあっけなく“現実”に戻される。まあ,夕食は西表アイランドホテルである程度豪華になるだろうから,こんなんでよかろうな。
店内ではさっきから,小さい兄妹ガキが2人じゃれあっている。応対してくれる中年女性は彼らの母親だろう。妹は「りな」という名前らしい。この妹のほうがやたらと積極的だ。ピンクのおもちゃの電話がお気に入りで,どーやら“会話”を楽しんでいるらしい。でもって,カウンターの先に目をやれば,偶然にもピンクの電話……もちろん,現役で使っているのだろうが,いまどき珍しいぜ。やっぱりこういう島まで来ないと目にしなくなったような気がする。
一方,妹のほうはといえば,メシを食い終わって“まったりタイム”に入った男性2人に「いいでしょ〜」などと自慢しだした。1人が「電話番号教えて〜」なんて返すと,つれなく「イヤ!」だそうな。後で彼らが年齢を聞いていたが3歳だそうな。よく女性は成長が早いというが,普段から客とこうして接していて,ませてしまったのだろうか。その女性の“カン”でもって私を「余所者」と感じ取ったのか,私にはあまり近づいてこず,母親らしき女性に呼ばれて兄貴ともどもキッチンに引っ込んでいった。
さて,10分ほどで野菜チャンプルー…もういいや。野菜炒めが出てきた。直径20cmの皿に標高にして5cmほどにボリュームよく盛られた具は,もやし・キャベツ・ピーマン・玉ねぎの野菜類に,たんぱく質・脂質は厚揚げ豆腐とスパムに豚コマ。色が薄いので味も薄いかと思いきや,しっかりと味がついている。さっきちょっきを食べた(前回参照)ことなど忘れてしまったかのように,ガンガン入っていく食欲をそそる味だ。これにプラス大きめの茶碗ごはんと,お汁代わりの沖縄そばがつく。といっても,あさつきがパラッとかかっただけのシンプルさ。一応,調味料として置いてあったコーレクースは軽く入れておいた。ピリッと味が引き締まった。
メシを食っていると,明らかに観光客っぽい男女2×2の4人組が入ってきた。そして,鰻丼と沖縄そばとオムライスを注文していた。一方カウンターには,先にいた男性2人組の知り合いらしき男性が入ってきた。こちらは野菜そばを頼んでいた。4人組は後で女性から「そばにライスがつきますし,オムライスにそばがつきますが,全部出しますか?」なんて言われて笑っていた。単品のつもりで頼んだら,すべてが定食扱いでメシなり汁物がいくつもついてきてエライ目に遭う――この店では声をかけられていたが,こういう失敗が沖縄のいわゆる“定食屋”ではしばしば見られる光景らしい。
再び妹が出てきて暴れ出した。別に調理する人間はいるようだが,客がこうやってまとまって入ってくると,母親ももはや調理に集中しなくてはならず,いちいち構っていられない。カウンターの男性に声をかけたりして,あちこちへと動き出した。そして,トドメには4人組に注文を聞きに行った母親の背後に向かって,強烈な攻撃を1発。
「あ゛ー! ママのお尻にテープがー!!」
この後で妹が2度と食堂に戻らなかったことは言うまでもない……って,別に何をされたわけでもなかろうが,メシを食い終わって外に出たら,兄貴と一緒に駐車場の端っこで遊んでいた。でも,これ以上ない屈辱を3歳の娘(だと思う)に味わわされた女性。仮にも“1人の女”である以上は,さぞ恥ずかしかったに違いない。私が彼女の立場だったら,客の前など関係なくブチ切れていたかもしれない。

シルフィを再び南に向かわせる。一旦来た道を戻ることになるが,どうせならば道路が通じている未踏の南端まで行ってみたいし,明日は予定がどうなるか分からないから,今日のうちに見たい場所は一通り見ておきたい。そのためにレンタカーを借りたのだ。車体を痛めつけない程度にはガンガン進んで行かないと,広い島を満遍なく見ることは難しい。
やがてガソリンスタンドを越えてすぐのところ,左に仏閣と石碑群が見えた。行きにはメシに有りつきたかったからか,気づかなかった場所だ。とりあえずここで降りてみよう。向かって一番左にあるのが「大原55周年記念碑」。1996年建立の黒光りした石碑である。その隣には「大舛久雄氏像」というのがある。1898年生まれ,1945年7月に空爆で亡くなるまでに勲六等や叙正七位などを授章しているそうだ。もっともヤフーで検索しても,これ以上のことは載っていなかったが……。
沖縄では本島の次に広い289平方kmの面積を持つ西表島。しかし,どんなに広くても辺り一帯はジャングルのように原生林が生い茂り,道もほとんど整備されていないとなれば,住むところは自ずと限られる。それに加え,長らく風土病としてマラリアが蔓延していたこともあって,元から住んでいる人は少なく,集落は形成と廃村をしばしば繰り返したという。明治以降になると,後述(→第5回参照)しようかと思うが本格的な石炭採掘が始まる。囚人や県内外,中国や台湾の労働者が数多く従事することになるが,件のマラリヤと労働の苛酷さから逃亡者が続出。発見され捕らえられるとリンチが加えられ凄惨を極めていたという。こんな歴史から見るに,いわんや移住をや,というわけだ。
とはいえ,一方で原生林があるということは,水が豊富にあることの表れでもある。一般的に沖縄の石灰岩土壌が農作には適さないと言われるなか,稲作に適した土壌は魅力である。その土壌を求めて,いまは数人の住民しかいない新城島(あらぐすく)から,数百人の島民がここ大原に移住してきたのが1941年のこと。ここに一旦は他の島々からの入植→移住が始まったかに見えた。しかし,その後起こった太平洋戦争による空爆,はたまたその戦争による強制移住で起こった“戦争マラリア”などの影響で,一旦西表島への入植は中断を余儀なくされる。
そして戦後から7年。1952年に琉球政府の第1次計画移民として入植が再開されることになる。その第1歩は,さっき寄った大富集落からである。本島の大宜味村や久米島,八重山の竹富島や黒島などから多数の移民が流入。ちなみに「大富」という名前は,その“大”宜味村と竹“富”町の頭文字から来ているのだ。これがきっかけで本格的移住が開始。現在島に点在する集落のほとんどは,50年余前のこの計画移住からという短い歴史しかないそうだ。
その記念碑の隣には,森に囲まれたかなり大きな御嶽。名前こそ「大原神社」と“神社”を名乗っているが,完全に沖縄の御嶽そのものだ。一の鳥居をくぐると右手に縦長の石碑。そこには,上記の移住の経緯とともに,新城を形成する二つの島(上地島・下地島)の神を合祀するべく,もっと山のほうに御嶽を建て,1945年5月に鎮守祭を執り行おうとしたものの戦争により断念。戦後2年経った1947年に今の位置に建立。碑はその50周年で建てられた――と書かれてあった。そして,〆に「御神体=光熱・酸素・水素=自然」というフレーズ。なんのこっちゃ,そのまんまやんけ。
御嶽は奥に向かってかなり広い。過去に見た御嶽では1〜2を競う大きさではないか。まずは「パイタイエー」と呼ばれる拝殿。両サイドに灯篭を置いて,社は十字型をした高さ・幅とも3mくらいの大きさ。屋根の下には,なぜか招き猫がセンターに大きいのが1匹,両サイドに小さいのが2匹で都合3匹いる。「観光収入でお金がっぽり」ということで招き猫なのか。そういや,さっき入口では御神体が自然だと書かれてあったが,わずか数mで矛盾が生じたのか。ドアががっちり閉められていたが,祭壇には香炉とろうそくが置かれ,月桃がお供えされてあった。
この祭壇の上には,詩と格言が書かれた額縁が飾られている。いわく,
拝観の詩――この里に猫も額する露時雨光やさしく風も静かに
格訓の詩――心だに誠の道に叶いなば祈らずとても神やまもらん
恵みの詩――豊かなる御代ぬ徴現わりて雨露ぬ恵ぐみ時んたかん
格言――人命を尽くして天命を待つ
とのこと。うーん,ますます何をどうしたいのか分からなくなってくる。何となく想像できるのはこんなことぐらいだ――「移住→開拓」という選択は楽ではないことだ。むしろ,マラリアが蔓延っていた島ゆえに,これ以上ない苦難の道を選んだと言えるだろう。来る日も来る日も未開の土地を切り開き,田畑を作るべく働き続けるだけ。そんなこんなでせっかく作った田畑も,あるときは干ばつ,あるときは猛烈な台風でダメになってしまうこともあった。それでも戻る道も場所もないから,ただ我慢して働き続けるしかない。「人事を尽くして天命を待つ」という格言は,そんな日々の生活から感じ取ったものだ。この言葉をシマ(集落)の神様の前に掲げておくことで,「自分たちの選んだ道は決して間違いではなかった」と,心の糧にしていたのかもしれない……。
奥に進む。南国の太い樹木の下,擬宝珠のような水色の球が乗っかった灯篭をサイドに,次の「中殿(なはどる)」と呼ばれるゲートのような建造物に向かうアプローチは,日本にはない東南アジアの国の寺院みたいな造りである。そのコンクリート製っぽい中殿は,てっぺんにこれまた招き猫。しかも,こちらは金ピカ。こちらにも端っこの柱に赤い擬宝珠が乗っかっている。
この中殿から,少し猫背になっでアーチ門をくぐると,いよいよ「本殿(ウブ)」と呼ばれる建物……しかし,建物は一切ない。黒光りした小さい碑に「本殿」と書かれてあるだけで,その向こうが石で囲んであるのみ。どんづまりに一対のシーサーであろう置物があるが,見た感じは“マーライオン”にも思えてくる――うーん,トータルで見るとますます謎な史跡である。ちなみに『やえやま』には載っていない史跡だが,個人的にはオススメな場所だと思う。

入口に戻ってくると,向こう側にバスが停まった車庫が見える。「やまねこレンタカー」や路線バス「西表島交通」など,西表島の主要な交通機関を経営する一大企業「西表島交通グループ」……というのはさすがに大げさか。でも,従業員が150人いるから,この島の中では大企業と言える。そんな場所に見たことのあるバスが。あの緑色の帯がある車体は……。
そう,都営バスに間違いない。側面の方向板は白いまま。ヘッドの方向板も都営バス時代みたいにフルに使うわけでもなく,真ん中の20分の1ぐらいのスペースを使って「大原―白浜」というシンプルなものになっている。おそらく中古車両を安く買って使用しているのだろうが,あのデカイ車両がこの西表島で必要なのかどうかは,これまたビミョーなところだろう。ホントならば,マイクロバスでもいいくらいの利用頻度なのではなかろうか。でも,ひょっとして小さいマイクロバスを新調するよりも,中古の都営バスのほうが安いのかもしれない。
ここからは路地を入って,大原の集落を見ていく。平屋の家がパラパラと建つ程度。たまーにすれ違う軽トラックがこちらを見ている。「わ」ナンバーである以上,観光客であることくらいは分かるわけで,そんなヤツがどうしてこんなところに入り込んでいるのかと思っているのではないか。途中,車なんか入ってこないと思ったのか,ブレーキもあまりかけていない感じで思いっきり飛び出しかけた車もあった。まったく,事故ったらどーすんだ!――結構奥のほうまで入っていったが,引き返せなくなりそうな不安を覚えて,ウネウネと来た道の方向に向かう。
再び中心部らしき場所に戻ると,「玉盛スーパー」というスーパーが見えた。島で随一の品揃えだという。買い物に訪れる車もかなり多くて,どっかで適当に停めようと思っても停められず,ズルズルとすぐ角の道を曲がったりしてバス停の前で停めることにする。ちょうど,スーパーの裏になった。青い「Z」の看板は「全日食チェーン」のそれだが,ここの経営もたしか西表島交通グループだったのではないか。ひょっとして,ローテとかでバス会社の窓口で働くこともあれば,スーパーでレジ打ちなんてこともあるのだろうか。そして一通りのことを覚えて管理職→幹部へ――って,そりゃ単純すぎるか。「うなぎ」ののぼりがかかっていたが,あの幻の大うなぎ…なわけないか。
さて,車を停めたバス停は「大原」と書かれた木のバス停だ。次は「大富」まで停留所はない…とはいえ,多分「ここで停めてほしい」と言えば停めてくれるくらいの融通はあるだろう。そして,この大原バス停こそが日本最南端のバス停だ。ここから南は公共交通機関と言えるものは船舶しかない。波照間島のマイクロバスは,言ってみれば“ご好意”ってヤツだろう。でも,あんな都営バスみたいな大型バスが入ってこられるような道幅ではなかったと思う。隣接する建物の壁に「待合室」とあるが,どう考えても民家の1階である。中が見えるが物置みたいな感じだ。
さて,そろそろ集落を後にしなくてはならない。日本最南端の信号に不覚にも少しの間だけひっかかったが(要は赤信号で停まっただけだ),すぐ右折。目指すのは,西表島最南端・南風見田の浜(はえみだのはま)である。1分も走ると周囲に建物はほとんどなくなった。左手はなだらかに下って海に落ち,右手には畑だの牧場だの丘陵が,どんづまりの原生林に向かって続いている。これがひたすら続く。その光景を見る限りは,とてもここが島とは思えないくらいに牧歌的だ。でも,おそらくはこの牧歌的光景も,苦難の開拓の末に手に入れたものではなかろうか。
5分ほどで西表島最南端の集落・豊原(とよはら)に入る。パラパラっと民家が見え,その中にひそかに泊まってみたかったリゾートホテル「ラ・ティーダ西表」の看板が目に入る。もっとも,1人で泊まると2〜3万円かかるようなので,あっさりあきらめたが,おおよそこの“ジャングルアイランド”には似つかわしくない洗練さがあるように思われる。
そして,片道1車線だった県道はここ豊原で終了。心なしかヒョローッと伸びる中途半端な道になり,再び民家がなくなる。海からも遠ざかって,牧場であろうが荒れ地であろうが畑であろうが関係なく,一面が緑になっていく。そして,私の後ろをずっとつけてきた軽自動車を振り切って1人疾走していく。実は当初,大原からレンタサイクルで来ようかとも考えていたが,たかが5分でも,平均で時速60〜70km程度出していたと思う。自転車だとかなりキツかったのではなかろうか。
しかも,たまにせりだす緑をよけながら順調に進んでいくが,どうにも“終わり”が見えてこないのだ。はて,どこまで進んで行けばいいのか。民家もまったくない。建物と言えばせいぜい牧場の牛舎か物置程度だ。もっとも,それは「地図をうろ覚えでいたから」というのが大きい。道が狭くなって対向車のこともあるから,スピードを若干落としているが,それでも時速で40km程度は出ていたはずだ。
まして,これがどんなに頑張っても時速15km程度しか出せないチャリだったら,さぞかしものすごく不安に陥っていたかもしれない。かつて,北海道東部の野付半島で,往復40kmをひたすらチャリで走り続けて標津町との間を3時間で帰ってきたことがあったが,それは19〜20歳のころだ。今はとてもそんなパワーはない。しかも,現在の外は湿気ムンムンだ。北海道のような爽やかさは微塵もない。汗が滝のようになっていたかもしれない。それくらい,どこまでも一本道が続くのである。
道が直角に右へカーブした所で,小さな白い看板が見えた。「←忘勿石(わすれないし)入口」と書かれてあった。実はこの石も…というか,むしろこの石が見たいメインかもしれない。詳細は後述するとして,ちらっと見えた感じは森の中を小道で抜けていく感じだ。ま,とりあえずはこの先にあると思われる南風見田の浜を…というか,こうも何もないと,どこからどこまでが南風見田の浜なのかすら分からなくなってくる。ひょっとして通りすぎてしまったかもしれない。ま,それならそれで,広大な西表島を東西に縦断するこの道――県道としては終わってしまっているが,その延長としては続いている――の“果て”を見てみたい気もする。とりあえず,忘勿石は後回しにすることにしよう。

12時50分,縦断道路の果てに南風見田の浜はあった。「ここから先,乗り入れ禁止」と,林の中に見える板の手前に,ムリをすれば3台,確実ならば2台停められる程度の駐車場がある。ちょうど1台分空いていたので,そこにバックで入れる。私が入れるのと同時に,隣の車にカップルが戻ってくる。と,そこに“振りきった”もう1台の軽自動車がやってきた。その隣の1台が出かかっていたので,それが出るのを待って私も下車することにする。もしかしたら,私も少し移動しなくちゃいかんかもしれなかったからだが,特に問題なく入ってくれた。こちらはどうやら親子連れのようだ。
とりあえず,モクマオウの林を通り抜ける。天然の木陰だ。西表島では名の知れた海岸の割に,周囲には売店らしきものも,シャワー・トイレ施設も一切ない。近くにキャンプ場があって,ログハウスっぽい建物が見えたが,ここに泊まるなどすれば大丈夫なのかもしれない。ま,私はすぐ戻るつもりなのでどっちみち問題はないが,こういう「やりたければ勝手にやれば」的スタンスもまた,沖縄のもう一つの側面のような気がする。
そして,林の中を歩くこと2分。目の前に広大な景色が拓けた。左右にグーンと続いていく砂浜。少なく見積もっても,1〜2kmはある海岸線だ。はたしてここはその海岸線の中心なのか,端っこなのか,それが分からないほど続いている。正面は干潮のタイミングなのか,波打ち際は干上がっているが,遠くではやや白波が立っている。所々には藻の塊が落っこちたまま。しゃがんでその一つを見てみると,そこに10匹の色とりどりのヤドカリくんがたかっていた。1匹だと愛らしくても10匹だとややキモい。藻は私の手のひらに収まるくらいの大きさだが,ヤドカリくんにとっては数倍〜数十倍も巨大な物体のような光景。私の“ただならぬ空気”を察したのか,散り散りに歩き出して行った。
空は天気がよくなって,多少青空がのぞき出している。これだけの広い海岸なのに,不思議と人は誰もいない。ま,地元民は夕方の陽射しが和らいだころから繰り出すと言われるが,それを見越しても少なすぎる。さっきの親子連れもまだ現われそうにない。結局,あの駐車場にあった車の台数そのまんまの密度だったというわけか。
そういえば,さっき売店がないと書いたが,厳密に言えば海に出るとば口に「野垂れジジー店」という無人販売の店がある。木をテキトーに組み合わせて棚のようにしているだけ。売っているのは貝殻を使ったアクセサリー類だ。貝殻のみだと100円,キーホルダーになると500円。「無人ショップ/西表島の思い出に,お土産に/日がない,金がない,野垂れジジより,かってチョーヨオ」と,木の板に直筆で書かれてあるが,多分彼に同情する人間は皆無だろう――手先がちょっと器用ならば,貝殻はいくらでもタダで拾えるし,あとはホルダー部分をどっか100円ショップででも調達してくれば,簡単に作れそうだ。そして,500円がいかにボッタクリかが見抜けてしまうというもの。どっかから拾ってきた(と思われる)パイプを細く繰りぬいてコイン入れとなっていたが,さすがに揺らして“入金度合い”を確認するのははばかられた。なお,その向こうには東屋のような建物があった。
さあ,ここから忘勿石へは多分,この海岸線を海に向かって左にひたすら行けば着くのかもしれない。でも,徒歩で行くのはさすがに疲れるだろうから,再び車で移動することにする。帰り際,森の中に長い“ヒモ”がヒョロッと入り込んで行くのが見えた。もしかして,ハブ?……なわけないか。多分,ヤモリあたりと思うが,それにしては長かったと思った。ま,いいか。
駐車場に戻ってくると,別の軽自動車が1台道端に停まっていた。私より若い男性3人組。着替えをしているところだったが,私にはこのカンカン照りの中でハダカになる勇気はとてもない。日射病や過度の日焼けが心配だとかいうよりも,「どうして海がそこにあると,ハダカや素足になって海に浸かりたくなるのだろうか」という疑問のほうが先に立つ。はたまた,どうして“シュノーケリング”とかいって,海の中を観たがるのだろうか。海は,つくづくボーッと眺めるためにあるものだと私は思うのだが……って,人のことはどーでもいいや。いま私がやるべきは,とっととどいてやることである。そのほうが空いたスペースに車を入れられるだろうから,よほど彼らには都合がいいはずである。
――再び車に乗って5分。「忘勿石入口」の看板。ちょっど直角に曲がるところに車が1〜2台停められるスペースがあるので,ここに停めておこう。道は左手に森,右手に芝地のような感じの中に伸びている。もしかして,また“長いもの”に出くわすのか…と不安になる前に,出口が見えてきた。なーんだ。しかも,直前に大きなスペースがあったから,ここまでもしかしたら車で入ってこられたかもしれない。そこには忘勿石への案内板がある。
そして,再び広大な砂浜……になったのはいいが,石らしきものは近くに見られない。やれやれ「忘勿石入口」と書かれてあったが,あれは厳密には「“忘勿石入口”の入口」だろう。だだっ広い砂浜に一通り目を見やると,左手に石盤のような石が見える。あ,あれが石碑か。とりあえずそちらのほうに進んでいく。藻がカラカラに干上がって,紙みたいに散らばっている砂浜。そして,すっかり干上がった川も見えた。何とも汚らしくて,「誰か掃除くらいしろよ」って感じであるが,そのうちたった数秒で「ありのままのほうがいい」なんてコロッと変わりそうなので,これ以上語らないことにしよう。観光客が残したクズならまだしも。
さて,砂浜を歩くこと200mほどで石盤が見えたが……あ,違った。何じゃこりゃ。ホントに石盤状の岩だ。奥のほうにもそれらしきものは見えない。周囲には似たようなテーブル岩がゴロゴロとある。下のほうが独楽のようにくびれた“ノッチ”と呼ばれる岩もある。「自然の織り成す造形美」と言うにはややグロテスクな感もあるが,この辺りが言わば砂浜の端っこといったところか。
……などと感心している場合ではない。忘勿石を探さなくてはならない。ここまで来て見ないで帰るのも,ものすごくもったいない。試しに小道の出口から逆方向にも行ってみたが,こちらも何もない。なので,ちらっと見ただけの案内板を改めて見ることにすると,「←左の岩の上,200メートル」とある。ということは,さっき行った方向に間違いないはずだ。一度あきらめかけたが,もはやここに来ることは,よほどのことがなければ2度とないかもしれない。200m×2+100m×2で,すでに砂浜を600mほどウォーキングしている。これでまた200mほど往復すれば,トータルで1kmだ。ま,日ごろの贅肉を落とすのにも,はたまたこれから夜に豪勢な夕食が出てくるかもしれないから,その腹ごなしの意味でも,また往復することにしよう。

いやー,ようやくあったぜ忘勿石。さっきのノッチやテーブル岩の向こう側にあるんじゃないかと予測して,その隙間を縫って進んでいくと,引き続きゴロゴロしている岩の向こうに石碑がたたずんでいた。たしかに台座のような岩の上に乗っていた。そうそう,「左の岩の上」とあったが,正しくは「左の岩を越えて行ったその向こうの岩の上」だろう。しかも“岩”じゃなくて“崖”だし……ま,親切心で立て掛けられた看板だろうから,とやかく言うのは失礼かもしれないが,どうせ案内するならばもっと分かりやすく案内してほしいものである。
……と,まずは軽くキレてみたところで,忘勿石だ。高さ2.5mくらいの台形の大理石の碑が一角欠けていて,そこに「忘勿石 ハテルマ シキナ」と,リアルに文字が左へひん曲がった黒いプレートが埋め込まれた岩が乗っている。一番高いところには「識名信升(しきなしんしょう)先生像」とあって,オジさんの首が乗っている……って,そんな言い方ないか。メガネをかけた初老の男性の像があった。バックにはデカい岩に緑が生い茂っている。
そして,中央には波照間島の各集落名とともに,住民の名前が刻まれてあった。さらに,右下にはこんな詩がある。「虚ろに煙る母の面影/呼べと月砂続く恨みの浜/母も逝き露しづくともがら/帰らぬ教え子抱き恩師の声/石叫びやまず忘勿石」。住民の名前はこの島で亡くなった人の名前だ。なお,“ホンモノの石”は石碑の近くにあるというが,これは残念ながら発見できなかった。かなり侵食されて文字は見づらいらしい。石碑は1992年に建てられたものだという。
――1945年4月,第2次世界大戦における沖縄各島への米軍上陸に備え,波照間島の住民全員は西表島に疎開をさせられることになった。その場所こそが,この西表島の南風見田の浜付近である。何度か書いているように,西表島と言えばマラリアが蔓延っていた島だ。そこに行くことがどんなことかは誰しも分かっていたが,軍の命令には間違っても逆らえない。しかも,ようやく目を盗んで隠したもの以外は,「上陸した米軍のものになってしまうから」という理由の下,すべての島の家畜を屠殺することまで余儀なくされる。
こうして,南風見田の浜において,生い茂ったジャングルの中にいくつも萱葺きの掘立て小屋が建てられ,班や部落ごとの共同生活が始まることになった。わずかな食糧を共同炊事で分け合った。もちろん,そこには軍による暴力での統制もあった。また,10代後半の男女30名ほどで挺身隊も組織していた。そんな中で波照間にあった国民学校が,ここで授業を開始することになった。その国民学校の校長だった人物こそ,銅像“シキナ”の張本人・識名信升氏である。
しかし,悪い予感…というか,それは当たり前の結果だったのかもしれないが,児童をはじめとしてほとんどの波照間疎開民がマラリアに感染。最終的に疎開民の3分の1に当たる488人が亡くなったという。クスリはすべて軍ないしは軍に近い人たちが保有することになり,疎開民までは到底回ってこない。患者を隔離などして対処してはみても,疎開民のほとんどに広がっていってしまっては,それも意味をなさなくなっていったという。
そういえば,さっきちらっと見た川なんかは流れが干上がっていて,水があったとしてもすっかり澱んでいたが,こーゆー川はまさしくマラリアを媒介する蚊の格好の棲み家である。事実,この辺りがもっともマラリアのひどかった場所だとされている。いまこれを書きながら,思いっきりその場所にいて空気を吸っていたことにゾッとしてしまう。蚊にだって少なからず食われたに違いない。たとえ,それがフツーの藪蚊だったとしても。そして,マラリア自体が撲滅して久しかったとしても。
そして戦後――戦争による被害とはまた違った悲惨極まりなかった疎開生活からようやく解放され,はれて波照間島に帰還することになった日,件の識名信升氏はひそかに先ほどのように,岩に文字を刻んだ。軍による絶対的な命令とはいえ,自分の大事な教え子をマラリアに感染させて殺してしまう形になったことに,自責の念をかられての行動だった。「帰らぬ教え子抱き恩師の声/石叫びやまず忘勿石」が,何よりも彼の心情を示しているフレーズと言えよう。1954年に偶然波照間出身の人間に発見されることになっても,多くを語られることはなかったという。実際,ガイドブックに載るまでになったのは,ここ20年くらいのことだという。石の保存会なるものも発足されているようだ。
そうだ。ここ南風見田の浜からは,晴れていればおそらく波照間島の島影が見えるのだろうが,曇って少しガスってもいるせいか,残念ながら何も見ることはできない。そして,この忘勿石の場所を見つめるように,波照間島には「学童慰霊碑」が建っている。昨年9月にその慰霊碑は訪れており,上記の疎開の経緯も含めて詳細は「沖縄はじっこ旅U」第10回を参照いただきたい。
何度か書いたが,今年は奇しくも戦後60年だ。何度か太平洋戦争に関する番組,中でも沖縄戦に関する番組をテレビで観たが,この南風見田などで起こった悲劇を取り上げた番組はまだ観ていない(2005.7.18現在)。あるいは,これからもしかしたら観るのかもしれないが,沖縄本島などで起こった米軍上陸による破壊,はたまた「鬼畜米英」の思想の下で起こったガマでの集団自決,あるいは「ひめゆり学徒」など,女性学徒の看護と非業の死と同じく,この“戦争マラリア”もまた,重要な「沖縄戦の悲劇」の一つなのである。(第3回につづく)

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