沖縄奄美長文学
 ホントのエピローグのための旅!?(2007.1.28)

(1)プロローグ
「沖縄奄美長文学」が終わって半年以上が経った。本編でも何度か触れているように,このホームページのコンテンツを増やすために沖縄奄美の各地を旅した。あれだけの長ったらしい文章を書くことは,それはそれで結構重労働だったわけなののだが,好きな場所になっていた沖縄奄美に行けるうれしさがそれを上回り,毎回旅行記を書き切ることができていた。
それが,昨年の春にひょんなことをきっかけにして,急速に旅行記を書くことが億劫になっていった。すでにその頃は「沖縄奄美の公共交通機関が通る島はすべて周り切る」ことを自分なりの区切りだと思っていたのだが,それすらバカらしくなっていたものだ。「旅をしたいから旅をする」「そこへ行って景色を楽しみたいから行く」という本来の意義から逸脱していたことは明らかであった。救いだったのは「旅をすること」自体がまだ楽しさを完全に失っていなかったことだ。だからこそ,自分なりの“目標”を昨年の7月に無事達成できたのだと思う。
最後の三つの旅行記である「琉球キントリ」「沖縄 SEE YOU!」「奄美の旅(マジ)ファイナル」は,他の旅行記に比べると文章が短めに終わっていると思う。それは紛れもなく,旅行記を書くことがつまらなくなっていたことに他ならない。千葉ロッテマリーンズに興味の対象がすっかり移っていたのも大きいのだが,前まであった「ある事象に対する追究」みたいなものが薄れていたのは明らかだった。ただ「ここに行った」「あそこでこれを食べた」と書くのみに終始していた。友人に「読破するには忍耐力が要る」と言われた旅行記だが,何のことはなく私に「書くための忍耐力」がなくなっていった。「卒業」という言葉を使えば何となくカッコはよかったが,要は「長い旅行記を書くことにピリオドを打ちたかった」のである。

さて,「卒業」してピリオドを打ったものの,沖縄というフレーズが私の中から離れることはなかった。多少熱が冷めて,沖縄料理店やアンテナショップに足を運ぶことが減ったとしても,完全に忘れ去るということはできなかった。私のように,本土にいながらも沖縄に恋焦がれて足繁く向かう人間のことを「沖縄通い婚」というらしいが,3年7カ月紆余曲折ありながらも恋に熱くなった相手を簡単に消し去れるほど,私はサッパリした人間になれなかった。単なる観光でメジャーなところを行くのとは違い,五感で沖縄を感じに行くのが目的になっていた人間にとって,一度染みついた沖縄という空気の心地よさみたいなものは,なかなか拭い去れるものではなかったのだ。
年が明けて会社が始まった直後,私はJALで沖縄行きのチケットを探していた。抱えている仕事と自身の体力との関係で,現地で1泊して日曜日の夜遅くに帰るのはキツイと思っていたから,土曜日に日帰りで帰れる直行便があるかどうかで探した。那覇で街中を散策してメシを食いまくるか,はたまた急に海が見たくなったときに行けるようなスケジュールにしようか――結局,急に離島に行きたくなったときなど,はたまたその場所に飽きたときなど,ひょいと別の場所――離島など含めて――に行きやすい点から,まずは石垣島に行こうと決心した。
運良く石垣島へのチケットが取れたこともあり,あっという間に気持ちは沖縄へと傾いていった。もう沖縄に行くこともあるまいと,マイレージで1万3000マイルためたものは,5000円のクーポンチケット3枚に引き換えてしまっていたのだが,これについては正直ちょっと後悔してしまった。貯めておけば,石垣島との往復で1万5000マイルを超えることは確実であり,特典航空券に交換できたからだ。うーん,残念。
今回の旅行に臨むに当たって,心がけたことが一つある。それは,「長文学」にいっさいこだわらないことだ。やりたいと思えばやるし,やりたくないと思えばやらない。いま書いているこの文章だって,気が向けば書き切ってアップするし,ダメならばブログに載せたものでもよしとするスタンスだ。いい意味でいい加減なスタンスでいることに決めたのだ。一応,書き込むためのメモを持ってはいったが,それもあくまで「長文学をやろうという方向に傾いたときに後悔しないよう,とりあえず持っていく」という程度であった。一度決めたら自分を追いこんでいくのが私の性格だから,あえて今回は気まぐれを貫こうと思ったのだ。

(2)それを食うためにレンタカーを借りて向かう
1月20日午前10時,石垣空港着。空は曇天だが,肌で感じる温度は本土の初夏のような感じである。タクシーで,レンタカーを借りる予約をしていた「石垣島レンタカー」へ向かう。この石垣島レンタカーは2度利用したことがあり(「沖縄標準旅」第7回「沖縄はじっこ旅U」第7回参照),それも当日の飛び込みでOKだったもので,あるいは前もっての予約も不要かと思っていたが,行きたい場所があったことと,天気予報が雨が降る可能性が高いということで,島内ドライブにほぼ決めていたので,ならばと思い前々日の予約としたのだった。保険料も込みで1時間1000円から借りられるのはなかなか都合のいいシステムだと思う。
石垣島レンタカーで借りた三菱「コルト」で一路向かったのは,島の北部にある明石(あかいし)集落。上記レンタカー利用時に島内はほぼ回り切っているわけだが,それでもピンポイントで周っていない場所もあるっちゃあるので,今回はそれらをできる限り周ろうということである。ただ,1日かけて島内を見るというわけではなく,レンタカー屋のオバちゃんには「3〜4時間」と言っていた。もう一つ,雨がよほど強く降らない限り行きたかった場所があったからだが,それは後述していくことにしよう。
その「できる限り周りたかった」うちの一つが,明石集落にある食堂「明石食堂」だ。ここのソーキそばが絶品で,市街地から車で30〜40分かかるにもかかわらず,わざわざ通ってくる人が多いという情報は,沖縄奄美に通いつめていた頃から「美ら島物語」などで仕入れていた。ここのところ,旅先でも食べることに楽しみを見出しつつある私にとって,こう言っては失礼だが“辺鄙なところ”にあるそーゆーものは,ものすごい興味の的である。もっとも,ソーキそば自体は特段好きというわけではないのだが,「それを食うためにレンタカーを借りて向かう」という「わざわざそこまでするか?」みたいなことが,これまた私なりの沖縄奄美旅の醍醐味でもあったりするから,そうなると「やっぱり行っておかないと後悔しそう」みたいな心理になったというわけだ。
たまに照りつける陽射しに,服装はセーターを脱いで完全にTシャツ1枚になっていた。クーラーもかけないと暑いくらいだった。今回着ていったTシャツは黒の「Marines」と描かれたもの(1/22のプログ参照)。石垣島といえば,我が千葉ロッテのドラ1である八重山商工・大嶺裕太投手の故郷である。それにちなんで思いっきりベタな格好をしていったわけだが,暑いときに黒のTシャツは余計に暑くなるわけで……。
制限速度以下で走る地元車を追い抜き,前を走るレンタカーとともに国道390号線を北上。そのレンタカーもできれば追い抜きたかったが,お互いになかなかスピードを落とさず,さながらツーリングの様相を呈してきたそのとき,背後に小高い山と海を従えた小さい明石集落が現れ,「→明石食堂」の看板。勢いよく右へウインカー出して曲がろうとしたら,何のことはなく前のレンタカーも右へウインカーを出した。なーんだ,考えることは一緒だったのか。可笑しくて笑ってしまった。だが,店の前の駐車場にコルトを止めてからは,こちらのほうが早く店に入れた。こーゆーことで先を越されるのは何とも悔しいから,エンジンを止めてからの行動は素早かった。
店は平屋立てのごく素朴なものだった。中は4人用テーブル席が四つと,座敷にやはり4人用テーブルが二つ。結構いろんなサイトやガイドブックで紹介はされているが,別段それをひけらかすような記事が貼ってあるということではなく,「堅実に地元でメシ屋やってます」という雰囲気であった。女性2人が接客し,奥で男性が厨房に立っていた。
テーブルにつくやいなや,当然ソーキそばを注文。大・中・小の3サイズあるが,後でもう一つ寄れればと思っている食べ物屋があるので,中サイズを注文。740円。午前11時開店で,今の時間は11時15分。なのに,店内にはすでにそばをすする音が聞こえ,背後のサッシ戸が2度ばかり開いた。昼食にはやや早い時間だが,こうしてやってくる人が多いのは,やっぱりそれだけ評判の高い証拠ということか。
10分ほどで,ソーキそば登場。中サイズというが,何々フツーに立派に1人前のボリュームがある丼である。その丼のセンターに色つやよく黒光りしているのがソーキだ。トロトロと評判のそのソーキからまずは箸をつけると,なるほど評判に違わずトロトロしていて,甘辛い味が実に染み込んでいる(1/20のブログ参照)。
ソーキとは豚のスペアリブのことで,そうなると骨がつきものなのだが,ここのはその骨がないため,安心してすべてをかぶりつくことができる。噛めば噛むほど染み出てくる味に,そばを忘れてソーキだけひたすら食べたくなったほどである。中太のそばはこの丼の中ではおまけみたいなものだった。結局,汁まですべて飲み干したが,それは紛れもなくソーキの甘辛さの勢いによるところが大きかったのではなかろうか。

ソーキそばを食べ終わり,コルトを駐車場に置いて東進。舗装道路から藪の道になり,駐車場から徒歩3分で「東の浜」に出る。藪の中の小道にはあちこちに車が止められていた。みなサーフィンなどに興ずる格好をしていた。半袖1枚で平気な気候ではあったから,ウエットスーツならばまず問題ないであろう。海に出ると,パラグライダーなものを身につけて,風の勢いで海の中をシャーッと移動していく輩がいた。海岸線は結構広くて,両端300mくらいはあった。風が少しあったからか,打ち寄せる波が高かった。
駐車場に戻ると,多少余裕があった駐車場はほぼ満車となっていた。あらためて明石食堂の人気の高さがうかがえた。再びコルトを走らせる。ここからは北上して,北端の平野集落まで行き,帰りは牧場内を走るガタガタ道を南下しようかと考えていた。日テレの『鉄腕ダッシュ』のソーラーカー日本1周企画で,たしかそのガタガタ道を通っていたと思うのだ。それに興味を持ったからだが,途中でドツボにはまるのがイヤだったので断念し,来た道を戻って南下することに。次に目指すところは,南西の川平方面。こうなると,結局島内をまたも1周することになってしまうが,今までと違うのはピンポイントで巡る以外はひたすら移動…って,別に今までもそうだったっけ。
川平に向かう前に,明石からすぐ南の伊原間(いばるま)集落に寄る。外は曇天からポツポツと落ちるものがあった。周辺の御嶽などを巡って,そのまま再び海岸へ向かう(1/23のブログ参照)。こっちもまた地元の人しか利用しないような,しかしながら結構でっかい砂浜があった。ポツポツ落ちるものがあるので,今回はサクッとコルトに戻ることにしたが,天気がよければ長く佇めるような場所であった。
この伊原間は,今から13年前に初めて石垣島に来たとき,路線バスに揺られてやってきた場所だ。当時はペーパードライバーだったので(今もドラテクは自信がないのだが…),ひたすらバスを乗り通すこととしたのだ。ここ伊原間からは今回の旅と同様に川平方面を周って石垣バスターミナルに戻るバスに乗ったのだが,そのバスの待ち合わせを利用して,集落内にある郵便局に立ち寄った。当時仲がよかった友人に絵はがきを出すことにした。勢いよく文章を書き込んで,郵便局で切手を買って,そのままポストへ…入れたまではよかったのだが,ふと気づいたのは差出人の私の名前を書かなかったことだった。ま,筆跡で自分と判断してもらえなくもなかったのだが,心配になってわざわざその友人に電話した。向こうもビックリしていたんじゃなかったかと思う。
コルトを走らせ一路西進。次に向かったのは「トミーのパン」。ソーキそばを1人前食べているにもかかわらず,甘いものが欲しくなったのだ。一度2004年に行ったことがあり,このときは紅イモあんぱんを食べたのだが,これがなかなか美味かったので,もう一度行きたくなったわけだ(「沖縄はじっこ旅U」第7回参照)。まったく,これだからやせやしないのだが……あいかわらず,入口は小さい看板のみ。ガタガタ道を海に向かって下っていくと,小さい小屋もこれまた2年4カ月前と変わっていなかった。3台停まればいっぱいな小さい駐車場は,私が停めたことで満車になった。時間も12時台だから,結構買っていく人が多いのだろう。
はたして,その通りだった。店内にあったパンはほとんどが,家族で切り分けて食べるような大きなパンばかりだった。小さいパンはほとんどが売り切れていた。ピザのようなパンがあったが,あくまで“甘い系”が欲しかったのでパス。結局,見た限りで一番甘い系と思われ,大きさもほどよかったうぐいすあん入りのを買う。160円。道中,路肩に車を停めて食したが,なるほど甘さはあったが,いい感じで控えめであった。もっとも,控えていようが何であろうが,少なからずカロリーになることに変わりはないのではあるが。
川平方面への入口であるヨーン交差点で右折。一旦北進する格好になる。グラスボートに乗った川平公園(「沖縄標準旅」第7回参照)へは突き当たりを右折するのだが,今回はその突き当たりの手前で左に折れ西進する。そちらは未踏の場所だった。道の突き当たりにある底地(すくち)ビーチを目指すことにした。石垣島では有名なビーチの一つで,リゾートホテルもいくつかある。そのリゾートホテルを路線バスが日に何便か走って空港やバスターミナルへと向かう。
大きな駐車場に車を停め,底地ビーチへ。親子連れが1組いただけで,あとは誰もいない。シャワー・トイレもしっかりあるビーチで,それこそシーズンは人で賑わうのだろうが,今は干潮の海岸同様,人気はまったく言っていいほどない。静かなビーチほど私は好きだ。人がたくさんいるビーチではなかなか散策は楽しめない。泳ぐわけでもなく,ただ眺めたり座ったりする余裕が持ちにくい。潮が満ちていればなおさらベストだったが,こればかりは時間帯があるからしょうがない。車を出たときにポツポツしていた雨が少し強くなったので,急いでコルトに戻る。
――さあ,これで行きたいと思っていた場所はとりあえず行けた。天気は雨が降ったり止んだりと安定しないが,南の空が明るいので,ひょっとしたらこの島を離れて“そちらの方向”に行くタイミングなのかもしれない。そうとなればとっとと車を走らせて,13時35分,石垣島レンタカーに戻る。出発が10時25分だったので,3時間10分。あるいは10分間分まけてくれるかなと思ったが,4000円ということで,14時返却のほうが優先されたようだ。ま,それでも4000円で済むのだから,お得であることに変わりはあるまい。

(3)それでいいのか,竹富島?
雨は上がっていた。上述した雨が強くならない限り行きたかったところとは,竹富島のことだ。行くことにしよう。沖縄奄美の島々を周り,何やかやでいちばん気に入ったのがこの竹富島だ。古い昔ながらの集落と広く華やかでのどかなビーチの両方を持ち,かつある程度の設備も整っているこの島が,私の中で1位になった。昨年1月(「沖縄博打旅」第6回参照)以来1年ぶり,今回で5回目の上陸だ。沖縄奄美の離島では,沖縄本島・石垣島に次いで多く来ている島となる(奄美大島と同回数→「いままでに行った島々」参照。竹富島はこの中では4度になっているが,初沖縄のときを含めると5回になる)。
沖縄奄美に来るたび,その広さに応じてレンタカーやレンタサイクルを利用してきたが,この島だけはなぜか歩いて周りたくなる島だ。レンタサイクルや観光用のマイクロバスがあるにもかかわらず,この島でそれらを使うことにどこか抵抗を持つ。そのあたりは後述できればと思うが,「何度も行きたい歩きたい島」というのは,この島くらいだろうと思う。
その中でも目指す場所は,沖縄のビーチでいちばん気に入っているコンドイビーチだ。沖縄奄美で有名無名関係なくいろいろとビーチを見てきたが,総合するとこのコンドイビーチが1位となる。いくつか決めるポイントがあるとして,全部が全部1位というわけにはならないのかもしれないが,どのポイントでも上位に来ることはたしかであり,そういう意味で「総合すると」というフレーズが入る。ま,あくまで私見ではあるのだが。
14時の高速船に乗り,14時10分,竹富島到着。もちろん,目指すはコンドイビーチ。ホントは抵抗があったのだが,港からビーチまでは徒歩だと30分はかかる。2003年元旦に来たときに歩いたことがあるので(「沖縄標準旅」第7回参照),歩けない距離ではないのではあるが,2004年に来たとき(「沖縄はじっこ旅U」第8回参照)に有償のマイクロバス(という名のワゴンだが,以下でも一応“マイクロバス”と呼んでおく)を使ってその楽さを覚えてしまった。加齢も重なってか,その楽さに勝てず,今回は無念にもバス利用になってしまった。私1人を乗せ出発。
マイクロバスは,舗装道路を一度集落に向かった後,進路を西に取る。島の集落の外側を1周する道路だ。このままコンドイビーチまで行くかと思いきや,いきなりマイクロバスは左折する。途端に車が1台通れる程度の狭さで地面は砂地になったのだが。にもかかわらず,そのスキマを器用にすり抜けていく。集落の中にある停留所で数人を乗せ,10分足らずでコンドイビーチに到着。ここまで300円。全員がここで下車する。
2年4カ月ぶりのコンドイビーチは干上がっていた。満潮のときだったらもっと美しく見えるのだが,残念ながら干上がったビーチというのはどうしても貧相に見えてしまう。ま,それでも自分が惚れ込んだものは「あばたもえくぼ」ということなのかもしれない。波打ち際にいた黒いナマコをサンゴの欠片でツンツンしながら遊ぶ。ヤドカリらしき姿はなかった。一緒にマイクロバスに乗っていた人たちも,ナマコをツンツンして楽しんでいた。ビーチにはまばらながら人影があった。
干上がったビーチは沖に砂州を作り出していた。さっきまでの雨模様はどこかに行って,空に陽射しがあった。陽射しで照らされた砂地の部分を辿って,その砂州まで行ってみる。足を濡らすことが可能ならば,そのまままっすぐ突っ切って砂州まで行きたいが,拭くものの用意などをしていないから,多少遠回りを余儀なくされる。砂州まで歩くこと10分,気がつけば本来の波打ち際からは50mくらい沖にいただろうか。あらためてビーチの広さを全身で感じ取る。できることならば,まっさらな砂のみの姿を見たかったが,それは朝早くか夕方以降に改めるしかない。
20分ほどコンドイビーチにいて,そのまま海岸線を北上。夕陽がキレイだという西桟橋まで歩く。途中,数匹いたヤドカリと戯れつつ,30分ほどで西桟橋に着く。昔ながらの佇まいで,突端が傾斜して少し朽ちていた。かつてはここから見える西表島まで稲作をやりに船を漕ぎ出していったという案内板があった。朽ちた突端では自転車が1台。そばで地元民らしきおっちゃんが寝ていた。いくら陽射しがあるとはいえ,何もこんなところで寝転んでなくても……。
西桟橋から集落へと歩を進める。集落内はシーズンに関係ないとでも言いたいのか,観光客でごった返していた。特に中心にあってシンボルになっている「なごみの塔」は,人が1人登れる程度しかない小さい塔だが,次から次へと観光客がとっかえひっかえに登っていた。通り過ぎるマイクロバスにはびっしりと観光客が乗っかっている。それもひっきりなしに。さらにはサイクリングを楽しむ人がこれまたひっきりなしに集落を走り抜けていく……。

私が初めて竹富島を訪れたのは1994年3月。上述の石垣島は伊原間に行ったときと同じく,初沖縄のときだった。沖縄本島だけではつまらないと思って,当時は飛行機を使うのをためらっていたこともあり(予約が複雑そうだなと思ったのだ),また時間の都合が合ったこともあり,大型フェリーで石垣島に行くことにした。その石垣島から近くて,頻繁に船が出ていて行きやすかったというのが,竹富島に行くきっかけであった。
上陸した竹富島は今よりももっと素朴で静かだった。現在,集落の周りを1周する舗装道路があるが,そんなものはまったくなかったのだ。それどころか,集落に向かって港から伸びている舗装道路も,昔はほんの港の周辺だけが舗装されているだけで,一歩入ればすべてが砂地だった。今ではすっかり切り開かれた港周辺も,かつては藪のような感じだったという記憶がある。
集落の中に入れば,そこは人通りなんてものがまったくない静けさがあった。こーゆーのをシンプルとか素朴とかいうのだなと,素直に感動を覚えた。今から13年前とはいえ,東京は今と変わらぬ雑踏の塊の街であったが,同じ日本にこんなにも落差のある場所が存在するものなのかと思ったものでした。3月の真昼間だったが,観光客らしき人は私だけだったのではないか。
あれから13年――今ではすっかりメジャーな沖縄の観光地となり,状況は上述の通りである。なごみの塔には上がれなかったので,少し高台になっているその塔の土台に上がってみたが,何だか随分俗化したというか,変わり栄えがしなくなったというか,そんな風に集落が見えてしまう。間違いなく,初竹富島のころに比べると観光客が増えている…いや,激増している。沖縄は基本的に観光立国であるから,その観光客を当て込んでいろんな開発をしていくこと自体は,ある意味必然の流れだったのかもしれない。それで食うこと自体を一観光客である私がとやかく言う立場ではないのではあるが,竹富島はかつてのような竹富島ではなくなってきている。それだけは間違いないと思われる。
私は断言したい。今見えているこの景色“程度”で観光客が感動できるのであれば,13年前の光景にはもっと感動できるはずだと。ハコモノ化した今とはまったく違う静かでゆったりした空気が流れていて,今よりももっと「竹富島らしさ」を味わえるはずだと。東京はどれだけビルが建ち電車が新たに通ろうとも,「出来上がったものの上乗せ」に過ぎないわけであるが,竹富島はその「出来上がったもの」がまったくなかった。それが13年前に覚えた感動なのだ。
ただし,条件がある。それは観光だけのために島に訪れている人にはムリということだ。観光という名目でこの島を「心から味わう」ことはまずムリである。心から味わうのであれば,そのバスを降りることだ。その自転車を降りることだ。すなわち,歩いて砂の道を踏みしめることだ。それができて初めて,五感をフルに駆使して島を感じるための「土台が出来上がる」のだと思う……そう,それでもまだ土台ができるに過ぎないのである。スタートラインに立てたに過ぎないのである。
一番身体に効果があるのは,島に泊まることである。かく申す私も日帰りでしか訪れたことしかない。しかも数時間滞在するに過ぎない。厳密にはあーだこーだ言う資格などないのかもしれない。何回も訪れては何回もこの島に泊まって空気を吸い込んでいる人には,どこをどうやったって勝てるわけがないのだ。
それでもあえて言う。この島は「歩いて砂の道を踏みしめて感じてナンボな島」なのである。だから,私はこの島でサイクリングを利用したことがない。島の西部にあって,私が沖縄で一番気に入っている「コンドイビーチ」が港から結構離れていることもあり,有償バスを2度利用してしまったのは上述の通りだが,個人的には不覚だと思っている。できることならば,徒歩で島内は周り切りたい。それが竹富島を訪れる私なりの流儀なのだ。
そんな流儀を持っている私にとって,この島が観光のために開発されるのはどこか抵抗がある。もちろん,島なりの事情があるのであろうし,どこまでも一観光客の立場でしかない私がとやかく申す権利はないが,いま賑やかになっている竹富島をどこか憂えずにはいられない。救いなのはリゾートホテルがないことと,集落内の砂の道が毎日掃き清められていることだろうか。100歩譲って観光開発を許しても,リゾートホテルを迎えることは絶対に止めてほしい。道を掃き清めることは絶対に止めないでほしい。そこのところの踏ん張りが竹富島の「最後の生命線」と考えるのは,はたして大げさなことであろうか。
私は公共交通機関で行ける沖縄奄美の島はすべて行ったが,いろんな理由が重なって「もう2度と行かない離島」のほうが圧倒的に多かったりする。そこが私が一観光客を脱し切れないところともつながっているのであるが,そんな私でも,この竹富島は確実にリピーターになっている離島である。それだけ何か引き寄せられるものがある島だ。ある意味,ターミナルになっている沖縄本島・石垣島・宮古島や奄美大島などと違い,言葉は悪いが「たかがこんな小さい一離島」なのにもかかわらず,何度も通っている島はこの島くらいである。
私のように,いわゆる「沖縄病に罹患した人間」でもなければ,人生の中で沖縄奄美を何度も訪れる日本人って,それほど多くないであろう。理由はさまざまあると思うが,沖縄奄美を訪れる観光客のほとんどが,沖縄奄美の魅力をホントにつかまないまま島を後にし,そのまま時が過ぎていくことであろう。それはそれで別に人生にナンの問題もないだろうからいいわけだが,逆にいえば私は,そういう人たちのために必要以上に開発するなと言いたい。その最たる場所が竹富島なんじゃないかと思う。
離島はあるがままにあればそれでいいのではないか。離島の伝統なり文化なりは島の中で続いていけばいいわけで,それをとやかく外の人間に公開して感動を覚えてもらおうなんて思わないでほしい。都合のいい言い方をすれば「観光という“肩”の力を抜いてほしい」ということだし,イヤな言い方をすれば「観光客に文化で媚びを売るな」と言いたい。もっと島は気高く誇り高くあっていいわけで,一見がほとんどな(はずの)観光客のために一生懸命にならなくたっていい。ホントに気に入って好きになり続けてくれる人のためだけに一生懸命になればいい。 ま,こんなこと言っている私も繰り返すように,しょせんは一観光客でしかないのではあるが。

(4)エピローグ
石垣島に戻り,夕飯の場所探しへ。ソーキそばにうぐいすあんパンまで食べた身としては,夕飯はあっさりめに済ませたかったが,気がつけば大衆食堂を求めに西進していた。中心街からやや外れたところにある「なかよし食堂」に入る。何に惹かれたというわけではないのだが,とりあえず一度入っておけみたいな感じで入ることにした。食したのは「豆腐チャンプルー」500円。自分好みの濃い味付けで,メシがどんどん進んでしまった(1/20のブログ参照)。まったく,こんなんだといつになったら体重計に乗る勇気が出てくるのか,分かりゃしない。

今回の旅は結局,何をしに行ったのかよく分からない旅だった。当初はこのホームページを閉鎖するための記念旅行にするはずだったのだが(1/15のプログ参照),その名目もなくなってしまった状態だ。「沖縄奄美長文学」を再開するだけのパワーも,かといってまったく起こらない。だが,最初に書いたように「行きたいから行く」という旅の原点に戻り,肩の力が自分なりにではあるが抜けたのではあるまいか。ま,「肩の力が抜けた」とは言いながらも,こんな中途半端な長さの駄文を書いて,臆面もなく載せることにはなってしまったのであるが。(おわり)

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