20th OKINAWA

@ちばりよ〜,もう少し
高速船はやがて洋上に出る。桟橋を過ぎてすぐ左に浜比嘉島が見える。ここもまたアマミキヨがかかわる重要な島だ(第3回参照)。一度行ったことがある島だが,このときはとりあえず入り込んだだけだった(「沖縄・遺産をめぐる旅」第2回参照)。また改めて回ってみたいところだが,あるいは津堅島からの帰りに寄ってみたい気もする。一方,反対側は独楽のようにくびれた岩“ノッチ”がいくつか見えたが,あとは何も見えなくなっていった。
さあ,着いたらばどうしようか。チケット売場でA4サイズの島内イラスト地図をもらっているが,おそらくはこれが今日の行動の手がかりになるだろう。で,問題は前回の最後にも書いたように,レンタサイクルだ。どこかにあるのだろうか。あるいはこの地図の発行元兼高速船の会社でもある「神谷荘」に送迎バスで揺られることになるのか。地図によればマリンスポーツの用具の貸出しはやっているようだが,レンタサイクルの文字はない。うーん……。
そうこうしているうちに,11時20分に津堅港に到着。人口が535人という小さい島には似つかわしくない,白い建物に赤い柱というキレイな六角形のターミナルの建物だ。でも,どこにも紙とかプレートを持った送迎らしき人の姿や送迎バスの姿が見えない。あるいは見逃しただけかもしれないが,後から降りて行く人を見ていても,それぞれ好き勝手に散って行ったような感じである。
さて,とりあえずはターミナルの建物に近づいてみると,あっさりと「どうぞ乗ってください」とばかりに並べられた自転車が数台軒下に置かれているのを発見。中に入ると売店があったので,店番をしている女性に聞いてみたら,乗ってもいいという。なるほど,これがレンタサイクルの正体か……は分からないが,この際どこで借りようがどーでもいい。1日600円。名前を記入して出発する。

集落への道路の入口に大きな島内地図の看板。さあ,どう回って行こうか。時間的には昼飯の時間が近いから,メシは事前に調べてあって,マトモに食えそうな「神谷荘」にしておく。その「神谷荘」は島の西部になるので,とりあえず半時計回りで島を1周していくルートとしよう。帰りの高速船は15時発だから,14時半までに戻れば大丈夫だろう。
ガバッとそこだけ広くスペースを取った港だけが低くなっていて,集落に向かう道はかなり急である。まずは「ホートゥガー」と呼ばれる史跡に行きたい。上記島内地図では島の輪郭に沿って道があるようだが,それらしき道は民家の脇を入っていくジャリ道のようである。これでいいのだろうか…と思いつつも,とりあえずは入っていく。左右に藪が垂れ込めていて所々走りづらいが,少し走っていくと,左手に1m四方の石がある。すでにフタがされているようで,いかにも井戸跡だ。「ガー=井戸・井泉」ということで,もしかしてこれなのだろうか。一応はチェックしておく。
この道沿いは木陰に隠れて墓が多い。ということは,多分観光客を誘導するために地図で示しておくべき道ではないのだろう。入っていく道は別のところにあったようだ。そりゃ,好き好んで墓の前を通らせる観光協会は,全国広いといえど世の中にはないであろう。でも,途中で寸断されることなく続いていくので,とりあえずこのまま行こう。
さらに5分ほど走ると,左右の藪がなくなって景色が開けて道がコンクリートになった。左手には海が臨める。そして,コンクリートの道は右手からこちらに伸びている感じだったので,やっぱり別に道があったようだ。車が数台停められる駐車スペースもあって,公園のように整地されている。そのドンづまりから先は藪があるようだが,境目から左に下っていく階段がある。立派な案内板もあってそこに「ホートゥガー」の文字。なるほど,通りでさっきの井戸跡には何も看板がなかったわけだ。
とりあえず,その階段を下っていく。手すりもついてそれなりに整備されているのは,地元民のためか観光客のためか。下まで降りて行くと,岩場の陰に3〜4m四方ぐらいの風呂桶っぽく囲われた水たまりがあった。これが「ホートゥガー」である。どこかに流れ出る音が聞こえるが,中の水に流れのようなものは感じない。「HOTUGA」と,なぜかローマ字で書かれたレリーフみたいな看板がそばにある。
“ホー”とは「鳩」の意。説明書きによれば,日照りが長く続いて水が涸れ果てた昔ある日のこと,島内に飛んでいる鳩だけが羽を濡らしていたことを不思議に思った島民が,その鳩が下り立つところを掘り下げたところ,水が出てきたという伝説の井戸だ。現在はもちろん水道が普及しているが,水道ができるまではこの井戸が貴重な水源になっていたそうだ。
脇には一升瓶2本をひもで包んだような岩を御神体にした御嶽「マーカー」もある。高さ・幅とも1m程度で,これまた自然の岩の窪みを利用して,そこに石を組んだような印象である。私には一升瓶に見えたが,これは説明書きでは「男女が抱き合っている姿」ということで,子孫繁栄の拝所になっているようだ。うーん,その発想がどこか原始的というかプリミティブというか……。
そして,そこから臨む海はとても穏やかに凪いでいる。打ち寄せる波の音が,子守唄のように心地いい。そして,船のエンジンの“パタパタ…”という音が聞こえてきた。赤いライフジャケットを着た人をたくさん乗せたボートが,沖にゆっくりと向かっていた。スキューバダイビングでもするのか。多分,神谷荘あたりから出航しているのだろう。
ホートゥガーを後にする。藪の中とはいえ一応道が続いているようなので,そのまままっすぐ進むことにしよう。特に整備もされず,原生林が生い茂る。「クボーグスクの植物群落」というエリアのようだ。拝所らしきものがあるかと思ったが,見つからなかった。私よりもやや背の高い程度の南国の樹木ばかりだが,これらすべてが御嶽なのだろう。その樹木に時々寄り添うように,民家も建っている。男性2人がちょうど屋根に上って,タンクらしきものを掃除していた。タンクはおそらく,雨水を溜めるそれなのではないか。あるいは,いい加減古くなったので解体でもしようということか。
さらに藪の中を進むが,道は突然階段になった。その気になればオフロード式に……って,いやいや押して進むこともできるのだろうが,ムリは禁物なのでとりあえず虚しくも引き返すことになる。そして,民家の軒先にある私道あたりから内陸に入り込む。海岸沿いに建っているからか,ほとんどは屋根の平べったいコンクリートの家ばかりである。
やがて,トタン屋根の御嶽らしき,この一帯では唯一かもしれない木造の家の角で,集落の北のほうに長く伸びていきそうなメインストリートに出る。もちろん,メインストリートといっても,都内の1本入った道程度の広さである。車が何とかギリギリですれ違えそうな程度の広さだ。そして,結構な急勾配である。たまーに地元観光業者の名前が入ったワゴンがゆっくりと上がっていく。こちらはまたも懲りずに炎天下のサイクリング。無性にワゴンが恨めしく思えてくるが,そこは自分で選んだ道である(って,大げさか)。地味に押して上がるしかない。
そして,島でもちろん唯一の小・中学校「うるま市立津堅小・中学校」の前を通る。ごくごく普通の校舎であるが,小学校が15人,中学校が9人(昨年5月現在)という全校生徒には,当然ながら贅沢な広さである。それにしても「うるま市」とは聞き慣れない。まだ「勝連町」のほうがピンと来る。ちょうど,正門のところにデイゴの大きな木があって,そこが木陰になっていたので,ここで一休みする。たまーに通り抜けていく車が,みな一様にこちらを“チラ見”していく。
この小・中学校の前には,「新屋商店」という商店がある。ここもまた,平敷屋の「高良商店」と同様に(前回参照),ホントはもっと目立たなきゃいけない場所にもかかわらず,店内はかなり暗い。戸が開け放たれているので,一応は営業しているようである。外から見ると,何か無造作に積まれているような感じだ。中に入ればごく普通なのだろうが,どうにも余所者を弾くような外観である。でも,捉え様によっては,必要以上に改築も増築もしなくていいという典型のような気もする。

さて,再び出発である。まだまだここは上り坂の途中。すると,間もなく「ちばりよー」の手書きの看板がプロック塀にかかっている。「ちばりよ=がんばれよ」ということで,これは何に対する,あるいは誰に対する言葉なのだろうか。あるいは,私のようにワッセワッセと坂を上っていくサイクリング客や徒歩客へのエールなのだろうか。
この看板や津堅小・中学校,新屋商店のそばには,これまたひっそりと「根神輝夫先生頌徳碑」というのがある。碑に刻まれた略歴を見ると,この根神輝夫(ねがみてるお?,1892-1953)氏は,津堅島をはじめとして,戦前に沖縄県内の小学校の校長を歴任して,1950年には当時の勝連村議会の議長を務めた人らしい。ちなみに,津堅では1931年からと1943年からの2度務めている。「第1次根神政権」「第2次根神政権」というフレーズが存在したかどうかは分からないが,それだけ人気の高い人だったのか。はたまた,他に適任者がいなくって“ロートル”みたいになったのか。これだけ長い期間を置いてというのは,プロ野球の巨人終身名誉監督・長嶋茂雄氏みたいだ。
さらに上り坂を進むと,今度は「よいぐわぁ〜」の手書き看板。「ぐわぁ=小」で小さいもの・可愛らしいものにつける接尾語。でも,どーゆー意味をなすかいまいち分からない。「いい子ちゃんね〜」とか「可愛い子ちゃんね〜」とかいう意味なのか。あるいは「いいぞ,その調子」……ま,勝手にこう訳しておこう。「いい子ちゃん」なんて言われるほど,いい子していないし。
その手書き看板のそばには,大きな衛星塔とともに御嶽があった。白くコンクリートで固められた地面が,これでもかと放射熱を出している。20m四方ぐらいの広場になっているから,あるいは御嶽でイベントがあるときは会場になるのだろう。肝心の御嶽は,幅・高さとも4m程度の鉄筋コンクリの社で,中には香炉も榊もあった。階段の脇についたスロープは,お参りに来るお年寄りへの配慮だろうか。
そして,いよいよ上り坂が終わり,平坦な道となった。すると「なぁーいひぃぐわぁー」という手書きの看板。ますます意味が分からなくなってくる。つくづく謎だ――観光客にとっては。多分,この意味が“解読”できると,津堅の人たちに1歩近づけるのかもしれないが…って,どーでもいいか。この付近は民家が集中しており,その民家のある方向に行ってみる。
民家のほとんどは,海沿いの集落と同様にほとんどがコンクリートの家ばかりだが,たまに赤瓦に石灰岩の石垣を見る。石垣は途中までは石灰岩,途中からはブロック塀と“新旧チャンプルー”状況だ。あるいは余計な金をかけられなかったのか……また,石灰岩の石垣をガジュマルの根が締付けるように絡んで,下まで伸びているのも見た。これもまた沖縄独特の景色であり,これを見ないと最近は満足できなくなった。“HG”風にグ・ロ・テ・ス・ク,フォー!
再びメインストリートに戻る。少し進むと「津堅公園」という公園。「農村総合整備〜」という看板があった。1987年に造営された公園だ。すべり台とネットがある。入口には四阿と,ここにもまた御嶽があった。こちらはさっきのよりも一回りぐらい大きい。8畳の畳敷きの奥に,香炉と榊と湯呑み茶碗が。そして,ここで12時の時報。ポール・モーリアの『恋はみずいろ』が流れてきた。
ちょうど,この公園が集落の外れだったようで,一気に景色が開けてきた。右手は茶色い土がキレイにならされて広がっている。これは津堅島の愛称であるキャロット=にんじん畑のようだ。収穫時期は2〜3月で,普通のニンジンよりも甘くて栄養も豊富。生で食べてもとても美味しく,高級料理店などで使用されるそうだ。機会があれば飲んでみたかったが,搾っただけというニンジンジュースが,とても甘くて美味しいとのことだ。ちなみに,沖縄といえばサトウキビ畑だが,サトウキビ畑はここ津堅島では今まで見なかったと思う。そして,対岸の海がはっきりと見える。距離は数百mほどであろう。
また,ここ津堅島には実はニンジンが突き刺さったような格好の展望台がある。事前に調べてはいたのだが,イラスト地図に描かれていなかったのですっかり忘れてしまっていた。島内をくまなく見下ろせる絶好の展望台のようだ。灯台とペアになった写真が多かったが,灯台というとイラスト地図ではホートゥガーの近くに描かれている。ということは,通り過ぎてしまったらしい。
話を戻して,少し進んで手書き看板第4弾。「もう少し」と書かれてあった。どこまで「もう少し」なのか。そう思っていたら「神谷荘」の看板が出てきた。左に海へ向かって坂を下るようだ。もしかしたら,この神谷荘が“ゴール”だったりするのだろうか。ま,観光拠点として成り立っているわけだし……その下り坂を勢いよく下ると,道は左手にカーブする。受ける風が気持ちいい。
そのどんづまりにあるのが「神谷荘」だ。軒の茶色と白壁で2階建ての旅館だ。右手には「トマイ浜」と呼ばれる遠浅の浜辺。海水浴客がそれなりに多いが,同じ離島でも渡嘉敷の阿波連ビーチなんかに比べれば断然少ない(「サニーサイド・ダークサイドU」第5回参照)。ちょっとまったりした雰囲気もある。屋外の白いベンチに腰掛けて昼飯を食べている人もいる。

とりあえず,1階がレストランのようで入ってみる。中は50〜60人程度入れるなかなか大きなレストランだ。すでに子連れの客が2〜3組いた。パッと見は“ドライブイン”のような造り。カウンターがあり,メニューはというと「麩チャンプルー」「沖縄そば」「焼きそば」「カレー」「玉子丼」の五つが,短冊として下がっている。ま,昼間の食堂だからこんなものだろう。なお,予約をすれば「海産物定食」ができると,神谷観光(神谷荘はいわばそのグループの一会社である)のホームページにはあったが,そんなもの予約していてもちゃんと作ってくれるかどうか分からないような,何ともマッタリとした空気が包んでいる(いや,ホントは作ってくれるんだろうけど)。
一番奥にはステージがある。そこに座っていた女性に「すいませーん」と声をかける。見た目が店の従業員に見えたからだが,すると彼女は厨房のほうに「すいませ〜ん」と声をかけてくれた。別にまわりくどいことをしたかったわけじゃない。「すいません」はこちらのほうだ。あなた,お客さんだったのね。とっても馴染んでいましたよ。たしか,波照間島に行ったときもやらかしたが(「沖縄はじっこ旅U」第9回参照),またもやらかしてしまった。まったく,東京ではそんなことしない人間なのだが,沖縄に来ると,いささか判断力が弛緩してしまうらしい。
すると,右手のステンレスのカウンターの奥から女性が出てきた。カウンターの奥が厨房。そして,左手奥には大きな畳敷きの部屋がある。テーブルがあるが,電気が点いておらず真っ暗だ。多分,もっとお客が入ってきたら,ここを開放するのだろう。あるいは,泊まり客専用の食堂なのか。外観に比べると,中は思ったよりもかなり広い造りである。
さて,オーダーは結局「麩チャンプルー」にした。680円。五つの中で一番高い。カウンターで前金を払う。いろんなスナック菓子類が置かれたそばには,ゴスペラーズの安岡優氏と,大塚愛嬢のサインが飾ってあった。なお,大塚愛嬢は音楽雑誌『B‐PASS』にこの神谷荘の従業員と撮った写真を載せたらしい……あいかわらず話がそれるが,セルフサービスということで,番号札をもらった。番号を呼ばれたらステンレスのカウンターに取りに行く。何だか合宿に来たような気分だ。店の端っこにあったポットから勝手に水を汲んで,しばし休憩する。
ステージにはドラムセット・和太鼓・ギターに三線と,楽器が雑然と置かれていて,マイクスタンドもある。チューニング機材も本格的なスピーカーもあった。これまた神谷観光のホームページによれば,ツアーで来た客には島唄の実演があるらしい。そして,観光客が増えてきたからか,はたまた私が入ってきたからか(まさか),店内に島唄のCDを流し始めた。間違いなく気を遣ってくれたことだけは分かる。別にこっちはいいよ,静かだって。
なお,この神谷荘が実家で,現在若手女性島唄歌手として活躍しているのが,神谷千尋(かみやちひろ,1982〜)嬢……といっても,私は写真でしか知らないのであるが,彼女もたまにはここで唄ったりしているらしい。元から一家そろっての島唄民謡ファミリーで,彼女もまた小さいころから,その島唄の世界で鍛えられて出てきたのである。ちなみに,『花』で有名になった石嶺聡子嬢とは従姉妹同士。そして,この神谷荘自体は千尋嬢が生まれる前年の1981年に建てられたそうだ。もちろん,彼女は生まれも育ちも,この津堅島である。
5分ほどすると,私の番号が呼ばれた。出てきた麩チャンプルーは,20cm大の器に標高5cmほどにたっぷり盛られて出てきた。ピーマン・もやし・キャベツ・ポークと麩がたんまり入っていて,ほどよい塩気で食欲がそそられ,どんどん疲れた身体に染み入ってくる。ご飯も茶碗に大盛りで味噌汁つき。小鉢にはイカが透明な液体に入っていた。水に漬けたのかと思ったら,これが猛烈に塩辛い。ホントに塩辛だ。これもまた白いご飯に合う。
メシを食い終わった後は,トマイ浜に降りていく。階段の脇にはアイスクリームを売っている小屋があったが,誰もいなかった。その上にはヤシの木などが南国ムードを出すように植えられている。降りて行ったビーチは全長で2kmにもなるというが,いまそこにいるのは40〜50人程度だ。かなり余裕がある。パラソルの下で休んだり,シュノーケリングに興じる人,ヨットやバイクに興じる人,波打ち際で海水浴の人など様々である。よく見てみると,岩場も結構多い。でも,もう少し外れたところに行けば,誰もいないプライベートビーチが楽しめるかもしれない。
ちなみに,ここは「FAC6082 津堅島訓練場」という別名があるという。何と米国海兵隊の訓練地に指定されているのだ。実際はここで演習が行われる事は少ないそうだが,こんなノドカなところで演習するって,砂地の抵抗を利用した匍匐前進でもするのだろうか。迷彩服を着た白人や黒人の兵が号令の下で一糸乱れぬ行動をするには,あまりに緊張感に欠けるロケーションのような気がする。

神谷荘を後にして,もう少し北側に行ってみる。とある史跡を目指すためだが,こちらは海の家とか民宿が数軒立ち並び,神谷荘の付近よりもこちらのほうが実は人が多かったのではなかろうか。飲み物やかき氷を持った老若男女がウロウロする中,サイクリング姿の私は明らかに場にそぐわないかもしれない。中にはビーチにテントを張っている家族もいた。道路沿いにはモクマオウの木が防風林のように続いていく。この景色もまた沖縄らしい。
さて,私が行きたかった史跡は「中の御嶽」と呼ばれる御嶽だ。「喜舎場子(きしゃばぐわぁー)」という人物の墓らしい。自然にせり出した岩の窪みを利用して作られた破風墓で,その前には幅・高さ2〜3m程度,石でできた唐風の門みたいな拝所がある。その中には石と香炉があるのみ。墓へのアプローチは10mほど。灯篭などもあり,周囲はちょっとした広場のようになっている。
喜舎場子は,現在の北中城村は喜舎場地区を興したという人物という。その喜舎場の丘から海を臨むと波に浮かんだり隠れたりする島が見えた。それがこの津堅島だった。妹の真志良代(ましらよ)に「あの島に行って新しい村を建てよう」と持ちかけ,辿りついたのがこの目の前にあるトマイ浜だとされている。そして,喜舎場を臨める高台のガマに暮らして,津堅島でも島を興すことに成功したという。いわゆる「島建て」の話だ。亡くなる直前に「墓を故郷が見えるように建ててほしい」と遺言。こうして墓は,名前の由来でもある喜舎場を臨むように海に向かって建てられたようだ。
それにしても,この史跡に訪れてくる観光客はまったくいない。隣に海の家や売店があるにもかかわらず,観光客の流れは二つの敷地の境界線で見事に途切れる。ビーチがそばにあるということで,水着や上半身ハダカの輩も多かった。彼らのうちの何人が,この御嶽の存在と島建ての話を知って帰っていったのだろうか。あるいは,地図を見て知ったとはいえ,この御嶽をはるばる訪ねた私のほうが,よっぽど“珍種”だったりするのだろうか。(第6回につづく)

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