20th OKINAWA

(4)What a wonderful island
集落をさっさと通り抜け,久高島宿泊交流館も過ぎると,あっという間にコンクリートの道はジャリ道となった。左手は畑,右手に防風林の光景がしばらく続く。軽自動車ぐらいしか走れなさそうなくらい狭い道は変わらない。整備なんて必要ないだろう。いや,神の島に手を加えること自体,そもそもあるべき姿じゃないのだ。観光客はその不便をいい方向に解釈する頭を持ち合わせていなくてはならない。この島は決して「観光の島」ではないのだ。
そのジャリ道を進めていくと,防風林が一度切れたところに浜への通路が。「ピザ浜」という可愛らしい木のプレートが足元にある。そちらに行ってみると,コンクリートで護岸されていたが,エメラルドブルーの海。両端100mほどで,岩場が多い。ちょうど祖父・母・孫の3世代が水遊びをしていたが,あまり海水浴ができそうな感じはしないし,時間帯なのか人影はそれ以外ない。
再びジャリ道を進むと,今度は「伊敷(いしき)浜」というプレート。途中で70代ぐらいのTシャツ姿の老婦人とすれ違ったが,とりあえず無視…というかあまり気にせず,群生林を抜けると砂浜に着く。こちらはサンゴが堆積した美しいビーチ。大きさは両端で200〜300mほど。キレイさもピザ浜と比べてピカイチだ。ビーチとして十分なように見えるが,ここにも人影はない。小さいヤドカリがウロウロしているのを見ようかと思ったが,サンゴがこうも多いと見つかりそうにないか。
前回同様に安座真港でもらった手書きの地図(「沖縄・8の字旅行」前編中編参照。以下「手書きの地図」とする)によれば,久高島の祖先と言われる百名白樽(ひゃくなのしろたる)がこの浜に妻とやってきて,食物豊饒と子孫繁栄を祈ったところ,この沖から黄金の壷が流れてきた。しかし,これを取り逃すこと2回。今度は,島の西にある「ヤグルガー」と呼ばれる井戸で身を清め,白装束でこの浜に来たところ,三度流れてきた壷を今度は無事ゲット。中を開けると米や粟が出てきた――という謂れのある浜である。
10分ほどして戻ると,入ってすぐのちょっとした木陰に先ほどの女性が座っていた。目が合うと,彼女は私に「こちらを拝んで行かれてください。ここは男の子の健康を祈願するところです」と話しかけてきた。見れば,そこは不規則な形の石でテキトーに囲んただけのものだ。でも,せっかくなので,とりあえず言われたように手を合わせておく。すると「久高島は初めてですか?」「いや,2回目です」「何か研究で?」「いや,観光というか…」「今日は帰られるの?」「はい,5時のフェリーで帰ります」「それなら,随分ゆっくりね」――こうして,そのまま木陰に腰掛けて,2人でおしゃべりをすることになった。
まず,この場所に彼女は毎朝拝みに来て,キレイに掃き清めるのだそう。しかし,今日は午前中に別の拝所で用事があったため,午後に来ることになったということを話してくれた。さらに,先ほど私が手を合わせた拝所では,彼女は日ごろから「1000年先の将来」のことまで拝んでいるとも話した。「よく(本土では)“来年は…”“今年は…”って言うでしょう? そういう1年単位の話じゃないのよ。未来永劫に,1000年先まで拝むんですよ」とのことだ。「最近は,特に男性は弱々しくなってきているから。なおさらよく拝んとかないと」
「この久高島に来て,何か感じることはありましたか?」
「いやあ……“何もない島”ってことぐらいしか…」
「なるほどね。やっぱり“感じられる人”じゃないと,感じ
ないのよね……それじゃあ,今度は泊まりで来られる
といいわ。いろいろと教えてあげるから」
こんな会話から,やがて彼女は丁寧に,この久高島が「日本の原点(彼女の表現だと“日の本”=ひのもと=日本)」であることをはじめ,改めてこの島が沖縄や日本にとって特別な島であることを話してくれた。それをあまり思い出せないのがもどかしいが……そういえば,歴代国王がこの久高島に渡ったことは確実に話していたと思う。あと,サバニ1艘で東南アジアまで,星の動きを頼りに漁に出た話もしていた。もちろん,無事に久高島にちゃんと帰ってきたそうだ。
さらに,この久高島を遥拝する最高の御嶽として斎場御嶽があるが(「沖縄・遺産をめぐる旅」第2回参照),そこにある石や砂,すべてはこの久高島から運ばれてきたという話もしていた。砂を“本家”から持ってくることで,御嶽そのものを久高島に見立てて,それによって御嶽として“地位”が上がっていったという話もしていた。今では面倒臭がらなければ久高島に簡単に船で渡れるが,昔はいくら王朝といえど一大事だったのかもしれない。だからこそ“代替措置”という,ある意味都合のいい解釈が成り立ったのかもしれないし,もっと単純に王朝もまた,沖縄らしく“テーゲー”だったのだろうか。
彼女的には,この久高島が多少なりとも観光地化していることを愁いている節があった。「この拝所に飯盒なんか置いたりしてね〜」。なるほど,この島が神の島であることが分からないヤツは,単に「石ころで囲われている」という印象しか持たないだろう。囲いは即席のコンロ,生い茂る木は薪に使ったり,何かをひっかけるのにも好都合だ。でもって,キレイな石やサンゴの欠片があったらば,記念に持って帰ってしまうのだろうか。「久高島のビーチは最高だったよ〜」と。
もちろん,こんな久高島のこと以外にも,プライベートの話になったりもした。「彼女いるの?」「いません」「いま,いくつ」「もうすぐ,32です」「そう,それじゃあ,早いところ見つけないと。ここは縁結びの島でもありますからね」……って,こんな感じだ。別に一方的に女性からマシンガントークってわけでもなく,何となく探り合いながら会話を積み重ねていく感じである。

かれこれ20分ほど話していたころだろうか。キャップをかぶって紺色のTシャツを着た若い男性が,やはり自転車を降りてこちらにやってきた。「よかったら,後でこちらに拝んでいらっしゃい」――女性はその男性に話しかける。彼は何となくうなずいて,一旦ビーチに出る。私はといえば,そろそろおいとましたいところだが,いよいよタイミングを失いかけていた。決して嫌いではないのだが,こーゆーときに“詰め込みスケジュール”を恨まずにはいられない。
さて,男性がこちらに戻ってきた。彼女に言われたように拝むと,「久高島は初めて?」と,ここからは3人でのトークと相成った。
「はい,初めてです。実は佐敷町(注・知念村の隣町)
の出身で,いま京都の大学に行ってます」
「どうして,久高島に来られたの?」
「京都って…独特じゃないですか。で,そういうところ
で勉強することで――ホントに(実家の佐敷町に)住
んでいたころは分からなかったんですが,沖縄の宗
教…シャーマニズムみたいなものに興味を持つこと
になって,それでこの久高島に来ました」
「岡本太郎って人の『沖縄文化論』(「参考文献一覧」
参照)って本を読んで,その中の“何もないことの眩
暈”って言葉にえらい感動しました。岡本太郎さんは
まだ沖縄がアメリカの支配されていたころに訪問した
んですが……」
「あ,それ……僕も読んだよ」
彼女が久高島がいかに霊験あらたかな島であるかを話せば話すほどに,彼はいろいろとそれに食い付いていく。ホンネとしては早いところ場を去りたいところであるが,何となくタイミングを逸して,長くその場にいることになった。たまに,「そういえば,夜中の3時に明かりが見えるから何かと思ったら,あんな時間に飛行機が飛んでるのよね」なんて,夏季限定で羽田―那覇の飛行便を運航しているスカイマークエアラインズの話になってみたり,戦後すぐに本土で流行する以前からサーフィンに興じていて,今もやろうと思えばできるだの,沖縄の信念・信仰の一つである「ニライカナイ」が,時々解説で出てくる遥か彼方の理想郷の話ではなくて,「人が生まれて生きて死んで彼方に行ったら,再び元の場所に戻ってくる」という「輪廻転生」(だっけ?)の話だったとか――そんな感じで。
ところで,いわゆる“御嶽”という聖域は基本的に…というか絶対に石ころも木も持ち帰ってはならないのであるが,島全体が御嶽そのものであるこの久高島では,場所がどんな所であれ,自然に落ちているものは一切持ち帰ってはならない。決して法律も憲章みたいなものもないが,そういう不文律が存在しているのである。そんな話の中で印象的なエピソードを一つを紹介しよう。
それは,この久高島の木の枝を自分の家に持ち帰って庭に植えたという夫婦の話。2人の間には男の子が生まれたのであるが,その木を見るたびに「向こうにおじいちゃんがいる」と言っていたそうだ。でも,夫婦には特に何が見えるわけでもなかった。おそらくは「何を言っているのか?」と訝っていたに違いない。でも,子どもはある意味「すべてが分かっていた」のかもしれない。
そんなある日,その男の子が高熱を出して,何と40日も寝込むことになった。大学病院まで通っても一向に治らず,夫婦は最終的に祈祷師のところにかけこんだ。すると祈祷師は「何かそこにホントはなくてはならないもの,持ってきてはいけないものを持ってこなかったか?」――そう,久高島から持ってきた木が原因だと言い当てたのである。そして,その木を元に戻すよう説得したのだ。
しかし,この夫婦は幸か不幸か,2人とも久高島の出身であった。そして,彼らは「その久高の人間なのだから,問題ない」とした。すると,その男の子はしばらくして残念ながら亡くなってしまった。後になってその木を返しに来て,改めて女の子を授かったそうだが,やはり“自分らの不注意”で男の子を亡くしたことを後悔したということだ。
はたまた,ある日いつものようにこの伊敷浜に来ると,空に「9」という数字が浮かんでいた。“9月”なのか,“9日後”なのか……「一体,それは何を意味するのですか?」と,彼女は空に質問をしてみたが,残念ながらその答えが出てこなかった。「もしかしたら,見失ったのかもね」と言っていたが,その翌年にあの「9.11同時多発テロ」が起こったと話していた。ま,“翌年”ってのが何とも言えないが,彼女には空模様で吉兆が分かる能力も持っているようだ。
そんな話をする一方で,彼女はひらひらと飛んでくる白黒の蝶に「よく来たね〜」と声をかける。蝶は,南西諸島によくいる“オオゴマダラ”と呼ばれる蝶。彼女いわく,この蝶は「幸せを呼ぶ蝶」なのだそうだ。拝所をチョロチョロしていたイモリだかヤモリにも声をかけたりしている。それでいて,まったく“取り付かれた”ような雰囲気はなくて,とってもナチュラルなのである。そして,年齢はそれなりに重ねているが,決して老け込んだ感じはしない。でも,どこか不思議な雰囲気が次第に出てきている。
「もしかして,あの…ノロですか?」
すっかり話を聞き入っていた男性が,勢いに任せるように質問すると,彼女はコクンとうなずいた。ノロとは神事を取り仕切る女性のこと。私も「ノロ」という言葉を聞いたことはあるが,実物に会ったのはもちろん初めてだ。ちょっとドキッとした。彼も初めてのことで,ますます興奮してきたようだ。久高島では「久高ノロ」「外間ノロ」という有名なノロがいるが(「沖縄・8の字旅行」中編参照),彼女の家は,それらとは別に古くからのノロの家系と言っていた。ここでは省略するが,彼女の名前も聞いた。その名前を聞いて,島では知らない人はいないらしい。
男性が「後継者の方はいるのですか?」と聞くと,姪っこさんが後継者としていると答えていた。とはいえ,「(姪っこさん)本人が自覚するのを待ってから継承しないと意味がない」そうだ。理由は「私の身体は私の身体であってはならない」から。すなわち,24時間神様からの“コール”に反応できるだけの覚悟・心構えがないと,ノロとしての使命ははたせない。「身体を神様に奉げている」立場をしっかり自覚する必要があるのだ。「『今日は調子が悪いから後で…』なんて言って,取り返しのつかないことが起こってしまったら,一生後悔しなくちゃいけないからね」
最近では,夜中の3時に神様からの“コール”があったそうだ。彼が「どういう風に分かるのですか?」と聞くと,「独特の胸騒ぎでそれをキャッチする」のだそうだが……で,とりあえずそのコールのままにこの伊敷浜に来ると,キャンパーがキャンプを張っていた。聖なる島ではキャンプは厳禁。「何かあってからじゃ遅いから,夜中で可哀想だったけど引き上げさせましたよ」
ちなみに,彼女は元々久高島の出身なのだが,第2次世界大戦の戦局悪化で,現在の金武町にある屋嘉(やか)地区に疎開。その後,当時の石川市(現在のうるま市)あたりに移りつつ,10年ほど前に久高島に戻ってきたと言っていた。戦争が終わったときは,かなり久高島はメチャメチャだったとも話していた。ここで,男性が失礼にも「おいくつですか?」なんて聞いていたが,69歳だそう。「普通,そんな女性に年齢なんて聞かないぞ」と男性に説教したくなったが,とりあえず黙っておいた。
そして,現在はこの島でノロの傍らで観光案内人をやっている。宿泊交流館に泊まりに来た人たちに島内を案内したり,あるいは子どもたちにいわゆる体験学習をさせたりもするのだそう。本人は「アルバイトだから」なんて言っていた。案内するときの食事代とか移動の車の燃料費などが必要になってくるために,お金はどうしてもある程度徴収せざるを得ないようだが,基本的にはボランティアの立場でいるようだ。ノロの中には,当然というかお金を要求する者もいて,中にはボッタくるノロもいるそうだが,彼女はノロとしての活動でお金を取ったことはないと言っていた。

結局,伊敷浜を出たのは16時5分。気がつけば1時間20分も話し込んでいたのだ。若い男性がかなり満足した表情で「それではお元気で」なんて勝手に締めていたが,私としてもどっかで止めにしないと…と思っていただけに,ちょっとホッとした。「いやぁ,ノロに会うなんて…感動ですよ」「僕も…」「それでは,よい旅を」――こうして,彼とは分かれることになった。うーん,マジメなヤツだ。なお,立ち上がったときにケツについた砂をキレイに落としていったのは言うまでもない。砂粒一つだって,何を祟らせてくるか分からないじゃないか。
さあ,フェリーの出発まで1時間を切っているというのに,まだ島の外周のいくらも進んでいない。急ぎ足でカベール岬とクボーウタキに向かおう。もしかしたら,片一方が見られなくなるかもしれないが,やっぱりというか,島の端っこというのはどこか“押さえたくなる場所”である。ということで,カベール岬に向けてまずは猛ダッシュしていく。
たまに凸凹した土にタイヤを取られながらも,“ウーパマ”と呼ばれる浜の入口を過ぎると,右手にあった高い防風林はなくなって,左右とも背丈の低い――といっても,私の背よりは高いが――緑が続いていく。間もなく,後で行く予定のクボーウタキなどへの道が左から合流すると,まさに“貫く”ような緑の中の一本道となる。なぜか,ここからは土の道でも結構走りやすい。クネクネと動きようのない,決まった幅のまっすぐな白い道を見るにつけ,ダッシュした疲れが飛んで不思議とパワーが湧いてくる。もう少しで“終わり”である。
そして「はい,ここでおしまい」って感じであっさり終わる道。人が踏み入ったような,何だか“微妙な続き”があるわけでもなく,なだらかに落ちる岩場を前にあっさり終わっている。ここが「カベール岬」だ。漢字で書くと「神屋原岬」となるらしい。遠くでは白波が立っているが,目の前に広がる海は,神のごとく…というか,むしろ仏のごとくものすごく静かで穏やかである。集落の建物がある島影が,割と近くに見えるが,多分明日行く津堅島だろう。その向こうの陸地は与勝半島。そして,私のそばには軽自動車が1台なぜか停まっている。多分,釣りでもしているのだろうか。
ちなみに,私はそこには行かなかったが,この近くの浜に創世神として有名な女神のアマミキヨと,もう1人男神・シネリキヨが下り立ったとされている。ちなみに2人は兄妹とも言われている――天上にいたという“日の神”が下界をのぞくと,波間に漂っている島が一つ見つかった。そこでアマミキヨとシネリキヨの2人をその島に派遣して,島を使いやすくするよう修復する命令を出した。そして,2人が早速“修復作業”をしていると,すかさず日の神が「そこに神に似たものを作ってはならない。人間を作るのだ」と言った。この2人が派遣されて修復作業をしていた島こそが,久高島だったのである。そして,さらには「人間発祥の地」ということになったのだそうな。
そういえば,さっき会ったノロの女性も言っていたが,この久高島こそが日本国そのものの原点ではないだろうか。もちろん,人間発祥とは沖縄だけのことではなく,日本人そのものの誕生である。一緒に話をしていた大学生も「邪馬台国」の話を持ち出していたが,女性いわく,最終的に“あの辺り”にできあがったのであって,すべての大元はこの久高島にあると話していた。事実,沖縄の言葉は日本の“古語”に近いとされているし,本土に多くある神社も,元はといえば鳥居や社なんてものはなかったという。すなわち,沖縄の「御嶽」に似たようなものだったというから,さらに説得力は増すだろう。
――再び来た道を戻る。まさしく,この1本しかないのだ。途中で先ほどの大学生と会って会釈しあう。なぜか,こういう再会は恥ずかしいと思ってしまう。実に間が悪いというか……決して印象が悪かったってわけじゃないのであるが,ホントならば先ほどの別れでもって,2度とすれ違わないほうが,旅っぽくっていい感じがするからである。彼は途中からクボーウタキのほうにでも行ったのだろうか。
そして,今度はクボーウタキ方面への道に入る。こちらはコンクリートの道で,右手に防風林のような森,そして左手は畑地である。島には“県道”とか“1周道路”とかいうのはないのだが,この道をまっすぐ行けば,港までほぼ1本である。さっき走ってきた道と合わせれば,この2本でいわば1周道路……なんて勝手に思ってみる。途中に造成中の池を見る。コンクリートの白い壁が無機質な限りだが,いくら神の島といえども,動植物の生命線である貴重な水の確保は必須なのであろう。
途中で「ロマンスロード」という看板を見たが,多分景色のいい海沿いの通りだろうか。ホントならばそちらに回ってみてもいいのだが,いかんせん時間があまりない。せっせと漕ぎ続けなくてはならない。この後も百名白樽夫婦が身体を清めた「ヤグルガー」なども,この1周道路からそれていくことになるのであるが,これまた観ずに帰ることになってしまった。
それでも,一度だけ道をそれる。クボーウタキの道もまた,1本入ったところにあるためである。これはさすがに無視するわけにはいかない。下は完全なジャリ道である。心なしか,緑も濃くなってきたような気がする。御嶽にはうってつけの舞台である。ここの写真を何度か見たことがあるが,そのシンプルさにとても惹かれて,私が最も行きたかった御嶽なのだ。
そして,16時25分にクボーウタキ…の入口に到着。漢字で書くと「蒲葵御嶽」となるらしい。「蒲葵」はクバすなわちビロウである。それらしき樹木が入口付近に鬱蒼と生い茂る。ムード満天である。この奥にあのシンプルな空間があると思うと,何だかワクワクしてくる。とはいえ,葉っぱがいっぱいたまっていて,中に向かう小道が隠れてしまっている。
気がつくと,下でガサゴソと音がしている。見れば大きなヤドカリが葉っぱの上を1歩1歩踏みしめて歩いている。貝殻は枯れ葉に紛れるように茶色っぽいが,胴体は紫色をしている。実際,こんなデカイのを見たのは初めてだ。ちょっと感動。オレを邪魔するものは何もないと言いたいがごとく,マイペースで草むらへと消えて行った。もっとも,ヤドカリにはここが聖地だとは分かりゃしないだろうが。
さて,いざ入ろうとするが,そこにはいくつか看板があった。その中には「かみんちゅいがいのでいりをかたくきんじる/これにそむくはかみよからたたるべし」というものが。元からクボーウタキは男子禁制だ。ということは,私は入っちゃいけない場所である。そして,さっき何よりもノロに会ってしまった。どこか怖くなってしまい,情けなくも入れないまま引き返すことにした。
なお,ここは“琉球開闢の七嶽”といって,アマミキヨが作った七つの御嶽があるそうだが,その一つだとされている。ま,それだけ位の高い御嶽だというわけだが,その最高峰は斎場御嶽とされているらしい(「沖縄・遺産をめぐる旅」第2回参照)。でも,その斎場御嶽は,ここ久高島を遥拝するためのものであるから,ホントはこのクボーウタキこそが最高峰なのではなかろうかと思ってしまう。実際,手書きの地図には「最高の霊地」とあるし。
ちなみに,先ほど大学生が話題に出したが,岡本太郎氏はこのクボーウタキに入ったようだ。『沖縄文化論』で彼はこう評している。「高々としたクバの木が頭上をおおっている。その下には道があるような。ないような。右に曲がり,左に折れ,やがて,30〜40坪の空地に出た。落葉が一面に散りしいて,索漠としている。(中略)御嶽はいろいろ見たけれど,何もないったって,そのなさ加減。このくらいさっぱりしたものはなかった。(中略)とりたてて目につく神木らしきものもなし,神秘としてひっかかってくるものは何一つない。(中略)いくらとぼけたハイカーだって,こんなところじゃあ弁当もひろげないだろう」――このクボーウタキでの岡本氏のエピソードを読んでみると,気高い氏らしい分析がなかなか興味深い。とはいえ,帰り際にはやっぱり「なんにもないことに圧倒される」ことになったようだ。まさしく「何もないことの眩暈」を象徴する出来事だと言えるであろう。

そのまま集落まで猛ダッシュして,「たまき」には16時40分に到着。まだ家主はいない様子だった。あと,連名した2人も帰ってきていない。自転車はむしろ,さっきより減っている感すらある。ってことは,我々と同様の選択をした輩がまだまだいるってことだろうか。そういや,大学生もレンタサイクルだったはず。ということは,彼も“同胞”だったのかもしれない。そして私と同様,何気にノロに「黙って自転車借りたでしょ?」とツッコミを受けるのを密かに恐れていたのではなかったか。
さて,肝心のお金をどうするべきか。お金を入れずに出て行くのは,やっぱりはばかられる。さっき書き置きを入れたポストをふとのぞくと,「4台分1200円。ありがとうございました」と書かれた包紙があった。ってことは,1台300円?……いや,ホントは1時間300円だっておかしくない。かといって,中身を確かめるべく,ここでその紙を開けるのもヘンな話だ。こーゆーときは“先陣”に倣っておくのも手である。ということで,さっき書き置きした紙に,100円玉3枚を入れて包んでおく。あ,誰が入れたか名前も記しておかねば。あくまで,私は自分の分だけ払っておけばいいのである。
17時,フェリーくだか出航。帰りも,最終便ということもあるのだろうが,ほぼ満席であった。大学生とはクーラーのガンガン効いた船室内で会って,軽く挨拶しておいた。ただし,連名した女性2人とは会わなかった…というか,ちらっとそれらしき女性が見えたような気もするが,彼女たちは2階のデッキ席のほうに上がっていったようなので,顔を合わせることはなかった。彼女たちはちゃんと払っていったのだろうか。老婆心ながら,若者のモラールを勝手に問うてみる。
ちなみに,後で確認したらレンタサイクルは1時間300円だったようだ。ということは,2時間借りた私はホントは600円払わなくてはいけなかったようだ。ま,確実に向こうが留守なのがイケナイわけであるが,ちょっと悪いことをした気がして,気持ちが揺れてしまった。そして,その影響が出たのか,これを書き終わった私はいま,ちょっとした“人生の岐路”に立たされている。この後に自分で下していく判断は,はたして”吉”と出るのだろうか。はたまた”凶”と出るのだろうか。(第4回につづく)

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