今のうちに行っとこう

A…で,何がメインなの?
渡名喜小中学校の校庭の奥には,黒光りした石碑がある。はて,正面から入っていくのは学校の敷地に入るわけで,子どもたちの声が学校のあたりから聞こえてくるとなると,どうにも気が引ける。裏側(といっても,モロ丸見えではあるが)から入り込んでみたら,「平和之塔」と刻まれていた。そばには渡名喜島出身者の戦死者名がたくさん書かれてあった。その数,たしか200余名はあったと思う。この島は空襲の被害を受けたと聞かない島だが,それでもたまーに空襲があったりして,亡くなった人は十数人だという。圧倒的には戦地に駆り出されての戦死が多い。
この辺りの景色は障害物がなくてかなりひらけており,左手に小高い丘がそびえ,手前には白い風車が見える。その風車の方向に行ってみようかと思ったら,工事用車両が道を塞いでいて行けそうにもない。その向こうにある小高い丘の上から見下せるのが新鮮でいいと,ドットコム(前編参照)にあったので,そちらから見てみれば足りるであろう。
ちょうど,今いるのは集落の最北部あたりだろうか。道は南部のほうにしか伸びていないので,一旦南下する形を取る。畑なのか更地なのか,何もない土地の向こうにやたら黄色い2階建ての建物が。「民宿となき」である。「民宿」というよりは「民家」って感じの建物だが,たしか旅館らしき建物って,ここ以外には見られなかったと思うので(村役場のホームページではここを含めて4軒あるが),逆に言えばここが一番インパクトが強くて分かりやすい旅館だと(勝手に)思う。海もすぐそこに見えるから,部屋の位置によっては景色が抜群かもしれない。
その民宿の隣からは,丘に向かって小道が伸びている。木の手すりにコンクリートでしっかり舗装されたものだ。この先には島の拝所である「里御嶽(さとうたき)」がある。そして,島で数少ない観光スポットでもあるのだ。ここは寄らなくてはならない。小道はやがて階段となったり,スロープとなったりする。勾配がなかなか強烈だ。標高が80mある丘のてっぺんまで上がるのだからしょうがない。ジャケットはすっかり丸め込んで,バッグにしまい込んである。ワイシャツだって袖を半分まくっている。空は青空が出てきたし,ましてや山登りとあればなおさらである。
とはいえ,ドットコムにも書かれてあったハエの存在が気になる。たしかに,他の島にはない多さである。ハエなんてどこの場所にもいるものだが,蚊がブンブン飛んでいるならまだしも,別にそばに汚いものがあるわけでもない。所々とはいえ,ちと観光にはマイナス要素のような気がする。そばに建つNTTの鉄塔が原因なんてこともないのだろうし,何とか駆除できないものだろうか。その道中に東屋があって,そこから見下ろすフクギの集落の緑や,東側の海岸「東の浜(あがりのはま)」の青がなかなかよかったりする。できれば,そこでたたずんで弁当でも食べたい人もいるだろうし,私もそれを否定しないクチだ。でも,ハエがこうも多くちゃそれもできないのだ。
平坦な小道から上がっていくこと5分,てっぺんにコンクリート製で,高さ5m×幅2.5mほどの本殿があった。これが里御嶽である。扉が閉まっていて,何が中にあるのかは分からないが,14〜15世紀のころの建造で,沖縄では「グスク時代」にあたる遺跡とされている。その左手奥には赤瓦の一回り大きい家屋があった。周辺にはまたブロック塀だけの拝所もあったりした。
ちょうど,丘の上に上がったときに草むらから中年女性が突然出てきてビックリしたが,彼女はそのまま赤瓦の家に入り込んで何かやっていた。見ていた感じでは香炉のようなものが見えたので,ここも別の御嶽で,彼女は“そういう人”なのか。そして,後ろを振り返れば,たしかに白い風車を見下ろせる位置にあった。その向こうには白砂島の島影と,周囲を囲むリーフがはっきりと見える。

スロープを下りて,村道何号線あたりから集落内に入っていく。特に何があるというわけではない。どっかの村道と交わるところに,5〜6m四方のコンクリートの一段上がったスペースがあって,小さい祠が端っこに置いてあった。これもまた御嶽であろう。ゴミ一つ落ちておらずキレイだった。そのまま海に向かって進むと,出たのは「村道1号線終点」という看板のあるところだった。素朴な砂浜が目の前に広がる。幅にして500〜600mぐらいはある広さか。島で唯一と言っていいくらいの海水浴場・東の浜。とはいえ,オフシーズンだからか,人はまったくと言っていいほどいない。
ま,ここにたたずむのも悪くはないが,その前に腹ごしらえをしたい。この際,食堂なんてものは期待しない。どっかの商店でテキトーに菓子パンでも買えればいいと思っている。ドットコムとともに,村役場の観光ページも会社でプリントアウトしていたのだが,集落の細部を確認するには,村役場の観光ページのほうが役立つ。それによれば,いま出てきた近くに商店がある感じだ。
再び集落の中に潜り込むと,商店と思しきビールのダンボールケースが軒先に置かれている家があった。多分,これは「上原商店」であろう。しかし,ちょうど親類らしき女性が自分の家であるかのように入っていったので,「はて,このまま入り込んでいいのか?」と思ってしまい,結局この店に入るのは断念してしまった。サッシは閉ざしたままで,無論,看板なんてものは立っていない。商店だったらばせめてサッシくらい開けてほしいと思うのは,観光客のわがままだろうか。
仕方なく,もう少し路地の中に入っていく。すると,中庭が少し広くてオリオンビールの古い自販機がある民家。こちらは近くにいた子どもたちが,さも親しげに入り込んでいった。民家にオリオンビールの自販機があるとは到底思えないので,ここも商店に違いないが,いかんせん地元民が簡単に入り込んでしまうってのは,余所者にとってはかえって入りづらくさせるものがある。向こうはそんなつもりがなくても,目に見えないバリアみたいなものを感じるのだ。
しかし,ドットコムに載っていた「商店」という写真を見ると,門扉およびそこにあったシーサーの形が,この店に間違いない感じだった。「ここの店が一番分かりやすくて入りやすかった」と,ドットコムにはあるが,たしかに軒先は開放されているし,薄暗いが中を見る限りは商品がそれなりに置かれている感じである。何もビビる必要もないだろう。ここは入ってみることにする。少しばかり先に,地元民らしき女性が入り込んでいった。彼女の後を追う格好になる。
店といっても,中は民家の軒先を借りている感じだ。まるで駄菓子屋の延長みたいだ。すぐそこに“上がり”があって,さっき入り込んだ子どもたちが上がり込んでいた。多分,ここの家の子どもなのかもしれない。店先は横長でかなり狭い。上がりの手前に何やらパンがある感じだったが,一足先によさげな菓子パン1個を女性が持っていってしまった。それでも,一つだけ残っていたのが「ピーナツバターパン」というヤツ。横20cm×縦8cm×暑さ3cm程度と,結構な大きさがある。パッケージには95円とあった。こんなのでも,都内で買ったらば120円ぐらいするかもしれない。見た目は「たかが25円の違い」でも,客観的には「物価指数が2割違う」のだろうから,結構これって大きいのではないか。
ただ,これだけではどうにも足りないかもしれない。ホントに駄菓子みたいなものも売っている感じだったが,どうにも食指をそそられない。仕方なく,そばにあった「ガーナチョコレート」を一緒に買うことにする。店番していると思われたオバアに声をかけると,何やら子どもに合図を送った。「子どもにそんなことさせていいのか?」とは決して思わなかったが,少なくとも何のためのオバア…と書くと“人権侵害”になりそうだが,何のために店にいるのかという疑問は確実に残った。
「これは,いくらですか?」と,菓子パンを指して子どもが言ってきたので,ここはシメシメと思い…ってのは可哀想だから,素直に「95円」と答えておいてやった。あと,チョコレートは100円だったので,合わせて195円。200円を出したら,ちゃんと5円をバックしてくれた。ま,小学校中学年くらいだったと思うので,こんな足し算・引き算くらいは楽勝だろう。学校で覚えたことは,こうして“実践の場”にも役立っているのだろうし,「一石二鳥」とはまさにこのことではないか。
店先にあったオリオンビールも一瞬だけ惹かれたが,どうしても飲みたいというものでもなく,それ以前に自販機がホコリをかぶっている感じがして,正直買いづらかったというのが大きいか。もっとも,ガーナチョコレートがパッケージの裏を見たところ,419kcalということでかなり高め。もう一つのパンも,見かけとは違って相当カロリーがありそうだから,あるいはどっちかだけ買っておいてもよかったような気もするが……ま,これから島内1周をもしかしてするとなれば,そこで少なからずカロリー消費をすることになるだろうから,今のうちにある程度摂取しておいてもいいような気もしてくる。
そんなこんなで,再び東の浜に戻る。最近,整備工事が完了したらしく,木のベンチシートとテーブルつきのイスが,海岸線沿いに並んでいる。いわゆる「憩いの場」に仕立てたのだろう。とりあえず,その一つに座って,パンを食ってみる。パッケージには沖縄県の住所と会社名が書かれてあったが,どこかは忘れてしまった。中身はパンの容積がやたらと大きくて,ピーナツバタークリームがもう少しあってもいいような気がした。美味いのかマズイのかは,私にはよく分からない。ただ一つ言えるのは,確実にカロリーが摂取されているということだろう。
あるいは,もう一つのガーナチョコレートは半分だけでも残そうかと思ったが,パンの甘味が少し足りなかったせいか,チョコレートの甘味が少し中毒っぽく感じられ,結局1枚ペロリと平らげてしまった。やれやれ,これでデブに逆戻りか……うーん,正直これから島の南部を1周するのが,乗り気になれなかったりするのだ。その1周のためのカロリー摂取だったのだが,いまさら“リバース”するわけにもいかない。少しばかり憂鬱になったりする。
ちょうど,東の浜では「祖母と孫」の構図が展開されていた。風は微風。海は穏やか…というか,干潮なのか大分干上がっている。朝がかなり早く目覚めてしまったので,しばしここでボーッとしてみることにする。よほど眠かったらば,そのままベンチシートに横になってしまってもよかったのだが,蟻んこがそんな気持ちを“ビミョー”にさせてくれる。やれやれ,沖縄は人間にとってもよく「楽園」と称されるように,虫たちにとってもそうなのである。

とりあえず西のほうに行ってみるか。やや重くなった腰を上げて,集落の南部を西に向かって歩いていくことにするが,その前に「ウィジョーヤー」というものを見る。実は私,すっかり勘違いをして,少しボロくなった古民家にあったヒンプンのことをそれだとすっかり思い込んでしまっていたのだが,実は「ウィジョーヤー=上門家」と書く。すなわち,家そのものが史跡だったのだ。
何でも,初代村長を務めた家柄だそうだが,建築年代は不詳という。大きくて角切りの石垣も印象的だった。中に入れる雰囲気じゃなかったのと上述の勘違いによって,外からしか眺めなかったが,主屋を中心として,蔵やウワフール(豚小屋)を配しているそうだ。写真で見て改めて,慶留間島の「高良家」(「沖縄惰性旅U」中編参照)の改修前っぽい印象を持った。規模もそれと同じくらいである。
集落を縁取るようにフクギが植えられ,所々で赤瓦の家を見つつ,歩を進めると古ぼけたコンクリートの2階建ての建物。学校っぽい建物だが,これが多分,次に探していた建物である「渡名喜中央歴史資料館」であった。裏側に入口があったので,そちらに回ってみると,図書館とか老人福祉センターと看板を同じにしていた。2階がどうやら資料館のようなので,上がってみたいところだったが,「アスベスト除去により立入禁止」などと,不気味なことが書かれた看板。「ま,でもちょっとだけだったら大丈夫か」と思いながら,誰もいない2階に上がっていったが,13時15分からの開館。現在,12時15分。ここはまた時間を改めて戻ってこようか。
再びダラダラと歩いているうちに,島の西側に出てしまった。地形としては,この辺りは島でもくびれた格好になっているから,東西にそれほど距離がないのかもしれない。ちょうど目の前にあった島で唯一の信号は,上陸したときから緑のままだと思う。一応,歩行者用の信号がついていたが,それをわざわざ赤にして渡る人間もいまい。無論,小学生たちの教育用に設置されたもので間違いない。こーゆー「冷静に考えればやっぱり意味のない信号」が,とかく離島にはつきものである。
「今までもこれからもダラダラと」ではないが,このまま南下してしまおう。右手にはひたすら,昔ながらの海岸が広がる。「呼子(よぶこ)浜」「南の浜」と二つあるらしいが,どこまでがどうというような線引きは,この際不毛であろう。「どこまでも浜」なのである。こちらも干上がっていて,緑色の藻が目立つ。あるいは食用として知られるアオサだろうか。あるいは砂浜に下りていこうかと思ったが,ビミョーな眠気のせいでその“一歩”が出ない。
ま,何か素晴らしい景色ってわけでもなく,ここもまたさんざん見続けた「沖縄独特の海原の一つ」でしかない。もちろん下りていったらば,それはそれで何かあったのかもしれないが,それを探求する気になれないのは,これから上がっていくことになる山道への緊張の表れなのかもしれない。そう,これから先には「大岳(うふだけ)」という山を通過することになるのだ。そういう山道を象徴するかのように,左手のあちこちではカルスト地形独特の岩肌が露出している。地学ファンとか石ファンにはたまらない光景だろうが,そうじゃない私には,荒涼としたイメージしか湧かない。
何でも,元々この島は二つに分かれていたそうで,長い年月を経て一つになったという。一つはさっき行った里遺跡あたりを頂上に,もう一つはこれから行く大岳あたりが頂上になっていたそうだ。で,おそらく,集落の一帯が二つの島の“つなぎ目”であろう。だから,極端にその集落だけが低くて,両方の頂上に向けて急勾配になっている地形をなしているのだろう。
そうこうしているうちに,左手に「通行止」の看板。森の中に入り込んでいく道だが,はて,これから行くことになる「大岳(うふだけ)」には上がっていけないのか。ここまで来たというのに……そんなとき,後ろからはオバちゃんが乗っかった自転車が2台,淡々と走ってきて淡々と私を抜いていった。海草でも取りに行こうというのか。どんづまりの崖に向かって走っていった。あるいは,あのどちらかが左手に入っていってくれれば,そこがホントの入口なのかもしれない。
すると,彼女たちを目で追っていくこと1分。その左手から軽自動車がムクッと出てきた。なるほど,あそこから上がっていけるのか――地図で確認したところ,標高はおよそ180m。島の東西は1kmほどだろう。ちょうど中心あたりに頂上がある感じなので,直線距離で500mの間に180m登る。すなわち,勾配が36%……もちろん,実際の道はグネグネと蛇行しているから,そこまで急ではないのだが,いざ足を踏み入れると,少なくとも自転車――ま,レンタサイクル屋らしきものがまったく見当たらなかったが――はアウトだ。まだ徒歩のほうがマシである。自転車は車輪がついた“お荷物”以上の何物でもなくなるであろう。…あ,言うまでもないが,今の格好はスーツである。ジャケットは着てないが。
それでも,たまに振り返って見える「V」の間の海原に,不思議な癒しを感じる。はたまた,白い1本の筋,すなわち今まで私が登ってきた道を見るにつけ,何だかよく分からないけど“進捗度”みたいなものを感じる。よく,登山家が「なぜ山登りするのか?」の問いに,「そこに山があるから」と答えることがあるが,私も「なぜそっちに行くのか?」との問いには「そこに道があるから」と答えたい。それ以前に「なぜ渡名喜島に来たのか?」との問いには「そこに渡名喜島があるから」と答えたい。ま,登山家に比べれば私の行く意義なんて薄っぺらい限りであるが,その“何万分の一”の欠片でも分かってきた感じがする。それは頂上の東屋が見えたら,確信らしきものに変わっていく。
西側の浜からテクテクと歩くこと30分,「大本田(うふほんだ)岳山頂」に着いた――いや,大岳も実在する山なのだが,道はそこには通っていない。ま,ホントのことを言えば「大本田岳に行く」と書くべきだったかもしれないが,この際そんなことは不問にしてほしい。だって,私もそこにあった案内板を見るまでは大岳に行くものだと思っていたのだから……。
かつてここには「火立て屋」と呼ばれる番所が置かれていたという。展望台までこれまた急勾配の坂を上がっていくと,そこから見えたのは,東側は座間味島や阿嘉島などといった慶良間の島々。西側はよりはっきりとした入砂島の地形に,西側の海岸から伸びてくる今まで登ってきた一筋の道。はるばるあれを上がってきたのだ。それ以外には特にすごいものが見えたわけでもない。それでも,何か「一段落した気持ちよさ」が身体を通り過ぎる。空も一時しぐれてかけていたのだが,再び青空と陽射しが出てきた。別に私を歓迎してくれた…わけはない。
ここからは多少のアップダウンはあるものの,道は次第に下っていく。西側の入口はしっかりした舗装道路だったのに比べて,東側のそれは細い小道が森に向かってヒョロヒョロと伸びている感じだった。こっち側から登ろうとしていたら,あるいは「ここからでホントに大丈夫だろうか?」と引き返していたかもしれない。下った先にもビーチが広がっていて,こちらは「南の浜」と呼ばれている。先ほどよりますます干上がった感じの海岸には棒がたくさん立っていて,大きく網がかかっていた。緑色のようなものが付着している感じなので,こちらは間違いなくアオサ採り用の網であろう。女性3人が頬かぶりして作業しているのが見えた。
一方の陸側は,あいもかわらずカルスト地形が広がっていて,途中には「アマンジャキ」と呼ばれる,先人が石を積み上げて作った小道があった。岩肌に沿うようにつけられた,距離にして100m程度の道だ。いまある舗装道路は,海に突き出た形でつけられている。なので,その舗装道路とアマンジャキの間には楕円形っぽい潮溜まりとなっている。

「村道3号線終点」「村道27号線終点」なんて看板を見つつ,再び東の浜に戻ってきたときは,14時を過ぎていた。フェリーは15時半の入船だし,先日の請島のようなことは,仮にも一自治体が仕切る島であるならばまさかないだろうが(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第3回参照),ちと早めに港に行くことを考えれば,ちょうどいい時間だろう。山登りはいいヒマつぶしになったってところだ。集落の家々の壁際にもベンチがあって,ご老人たちが日向ぼっこがてら,ゆんたくしている光景が見られた。“穏やか”というよりもややまったりした空気が流れているように感じられたのは,せっせと山登りした心地いい疲労が身体を包んでいたからであろうか。
先ほどは砂浜まで下りていなかったので,今回は下りていってみる。特に何があるというわけではなかった。別にこんなコーナーを突然設けたわけではないが,「本日の海の生き物」というコーナーがあるとするならば,今回は小魚がまとまって泳いでいたのを見たくらいだ。ヤドカリあたりがいたら遊んでやりたかったが,残念ながら今回は見つけられなかった。
テキトーに東の浜で時間をつぶした後は,さっき寄りそびれた歴史資料館に行こうとして,途中で面倒臭くなってやめた。道中ではさっき集落に入って最初に見た御嶽で,拝んでいる女性3人組がいた。何ともよく分からない呪文のようなお経のような言葉を唱えていた。また,別の小さい御嶽の前を通ったとき,軽トラックがこちらに向かってきたので避けようと思ったら,私のそばで停まった。何事だろうかと思ったら,これまた彼女たちだった。誰のご亭主様かは分からないが,男性運転手つき。今日は「そういう日和」なのか。はたまた毎日行われているものなのか。里御嶽で見た女性も,もしかしたらこの中の1人だったのかもしれない。
土曜日なのに明かりがついて開いている村役場の前を通る。中には入らなかったが,外から見えた限りでは一応課別に窓口があって,「○○課」と書かれた下には業務内容を説明するものが書かれてあった。年寄りや(めったに来ないだろうが)子どもたちに分かりやすくするための配慮であろう。仲間由紀恵嬢の確定申告のポスターで,この島にも時間が動いていることを確認する。
「村道1号線起点」「村道27号線起点」の看板を見て,どれがどう何号線足り得ているのかを謎に思いつつ,渡名喜港のターミナルには15時到着。ターミナルには最初,中年男性と私の2人しかいなかったが,最終的には15人ぐらいが集まったと思う。少し風が強くなってきていたので,帰りのフェリーは,それなりに揺れるかもしれない。それでもフェリーが出るだけ有り難いと思うのは,何度となく「欠航」という文字を“体感”しているからだろうか。

(3)エピローグ
15時40分,行きと同じ「フェリーなは」が入港してきた。船内の構造が分かっていたので,素早く後ろのデッキから船室内に入り込んだ。デッキに人が少なかったから,あるいは船室もそれほどではないだろうと思っていたが,やはり“隙間”は行きよりはかなりあった。それでも,パッと見て空いていたのが行きと同じく「右側の端っこ」だけ(中編参照)。どうやら,この位置には縁があるらしい。そこに座ることが決まっていたかのように,またも座ってしまった。
しかし,行きと決定的に違ったのは,船室内の寒さであった。クーラーが猛烈に効いているのだ。たしかに昼間は半袖でも平気な気候だったが,「だからといって,それはないんじゃないか?」って言いたいくらいに,夏場のクーラーの効き方をしているのである。おかげで,毛布が入っていたカゴはスッカラカン。たまたま通気口の真正面にいたからかもしれないが,つかの間の“快適船室ライフ”を読書がてら味わえたのは,最後の30分だけ。誰かが置いていった毛布を素早く奪ってのことだった。もちろんジャケットは着ていたが,それでも心底冷えてたまらなかったのだ。
行きは外が寒くて船室内に避難したというのに,もしかして帰りは外のほうが……うーん,やはり外のほうが今度はずっと暖かいのだ。とはいえ,波が行きよりもあって船が何度となく揺れたので,デッキのイスは軒並み濡れていた。どっちみち,私にとっては船室内にいるしか術はなかったということだろうが,「暖を取るために外に出る」という訳の分からない状況に陥るなんてのも沖縄ならでは……なわけないか。(「沖縄惰性旅V」おわり)

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