沖縄はじっこ旅W

A史跡というわりには
南風原レストランを後にして,来た道を戻る。次に立ち寄ったのは「業務スーパー」なるスーパー。レストランに行く途中に見つけ,名前があまりにストレートなのでこれまた気になった次第だ。「一般のお客様も大歓迎」ともあるが,濃い緑の屋根に赤文字で「業務スーパー」という素っ気の無さが“いかにも”って感じである。ちなみに,これまた沖縄特有の店かと思っていたら,兵庫県に本部を置く「神戸物産」という会社の立派なチェーン店で,店舗数も310店で業界最大手とのこと。業務用スーパーのチェーン店――うーん,どうしても味気ない印象から離れられない。
中に入ると,そのものズバリ。いわゆる“業務用”の食品が売られていた。アイスキャンディの束もあれば,漬物の大袋入りもある。「パパイヤスライス」は500g入りの袋で128円だった。細かいところでは各地方の特色も出したりしているのだろう。でもって,まとめ買いだけでなく,しっかりバラ売りもされているから,なるほど「味なんかどーでもいい。安けりゃいいさ」という人には,安さ爆発で購買意欲も爆発状態ってところだろう。もっとも,壁際にくっついて置かれている鉄骨製の棚に食料品が整然と乗っかっているのを見ると,ちょっと殺風景で温かみを感じない印象を持つが,値段の安さからしたら,こういうディスプレイもやむを得ないのかなと思う。
個人的には,高菜の油炒めの袋が500g入りで98円というのが結構印象に強く残った。というのは,今月の頭に那須に行ったとき,南が丘牧場で土産に同様のものを買ったからだ(「管理人のひとりごと」Part44参照)。値段はたしか500円以上したと思う。いくら牧場で生産したオリジナルで,土産ものだとはいえ,500円以上ってのは高いなーと思ったのだが,今回“98円”というその価格を見て,いよいよ確信になった……って,保存料とかが入っていたりいなかったりの差なのか。いずれにせよ,原料と原価自体は何気に同じだったりするのではないか。
――スーパーを出てそのまま真っ直ぐ,今度は素直に兼城交差点に入る。北は首里や中城,南は糸満へ行く県道82号線と,那覇から与那原を経由して南は知念,北は沖縄市方面へ向かう国道329号線との交差点。今では単なる“交通の要衝”といった感じの,特に何の変哲もない交差点である。かつて,ここはそのまんま「南風原交差点」と呼ばれたそうだ。
さらに,ここにはもう一つの名称がある。「死の交差点」――今から60年前の第2次世界大戦時,アメリカ艦隊は海上から十字路や三差路,井戸のようなポイントを徹底的に艦砲射撃(戦艦の大砲による地上攻撃)を行った。航空写真でもって精密な地図を作成しての攻撃だったそうだが,当時この十字路は首里方面などから南部へ避難するのための唯一の道筋だったため,人々は砲弾の間隙をくぐって突破することになったそうだ。結果,多くの人々が砲弾の餌食となって命を失い,周囲はいくつもの死体が折り重なって“土手”を作った――これが名称の由来である。
ここから南下して,町役場の方向に歩いていく。県道沿いにちらほら商店があるにはあるが,ほぼ周囲は住宅街となっている。そのまま5分ほど歩くと「農協前」というバス停を発見。デカいボード状のバス停だが,残念ながら時刻表は張り紙のようなものがされていて,脇にはめ込められた時計も止まったままだ。まったく,こんな意味をなさないもの,フツーならばこういうのは撤去されてしかるべきだろうが,はて撤去する代金がもったいないってことで残っているのか。
さらに右手に南風原町役場を見ると十字路があった。この十字路は……ま,フツーの十字路だが「←南風原文化センター」という看板があった。そうだ,ここも見ておきたい場所である。左に南風原小・中学校の校舎と校庭を見ながら進むこと1分ほど,右手に2階建ての「一昔前の学校とか個人病院とかがたしかこーゆー感じっぽかったなー」って建物がある。「南風原文化センター」だ。入口には樹齢300年という,幹が空洞のフクギがあった。南風原にあった番所に立っていたものらしい。
入ってすぐ,受付がある部屋は何だか職員室みたいな広さの部屋だ。数人いるが,誰もこちらに興味なぞないかのように静かである。ま,わざわざ何か積極的にアピールしなくても,そもそも入館料はないわけだし,かといって彼らも食いっぱぐれることもなかろう……とりあえず,帳簿に署名をしておくことにした。見れば,前日に墨田区の女性が来ていたみたいだ。

まず,入ってすぐにあるのが「宇平(うひー)橋碑文」という背の高い石碑。高さは2mくらいあるだろうか。びっしりと刻まれた文章はすべて漢文。すっかり色もあせていることもあるし,それ以前に読めるわけがないので,脇に訳文がついている。それによれば,この“宇平橋”とは琉球王朝時代に王府が造った石橋の一つ。たくさんの工夫や農夫の力を借りて1690年9月,着工からわずか1カ月で完成した……そのことに感謝・感激している文章である。残っている“琉球王朝プロデュース”の石橋の着工記念石碑としては最古のもの。そして,私は気づかなかったが,戦車のキャタピラに轢かれた跡があるらしい。割れずに済んだためこうして展示されているそうだ(土台は沖縄戦の爆風で飛ばされた)。
「この宇平(地名だろう)という場所に流れる川は,中山の南から発して島の西の海に流れるが,その流れは澱みなく早い。しかし,その川を渡らないと首里の王府に行くことができない。だから,昔から木の板をかけて渡れるようにしていたが,虫食いや風雨で痛みやすく,人々は渡るのにかなり苦労していた」というのが,冒頭に書かれた着工の経緯。“中山の南から発して島の西の海に流れる”というから,地図から見るにおそらく国場川のことだろう。行きに兼城交差点そばで渡った数m幅の川がその国場川だが,単なるドブ川にしか見えなかった。もっとも,315年前からはその流れも違っているだろうし,当然現在は整備されているものだろう。でも,たかだか数mの幅でも当時の技術からしてみれば,かなりの高度さが必要だったのかもしれない……そうテキトーに想像しておく。
そのそば,柱と2階に上がる階段の角になって少し引っ込んでいる場所には,戦争の遺品がその当時のまま置かれている。一番手前にある黒く小さい布切れは,一見黒い生地の一部のように見えるが,これは「熱で蒸された毛布」という表記があった。壕の入口から中に向かって砲撃なり火炎砲を打ち込む,いわゆる“馬乗り戦法”なんかで蒸し焼きになったのだろうか。その他には錆びついた日本軍のヘルメット(厳密には“兜”),手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさの地雷,はたまた万年筆もあれば,髭剃りなどのアメニティ類もあった。
そして,一番奥にあるいくつかのビン――元々なのか,時間が60年経ったからなのか,鈍色をしたとある一升ビンには「戦時中の物。石油です」という張り紙がついていた。中には濁った色の液体が入っていたが,ホンモノの石油なのか。沖縄には年季ものの泡盛で“古酒(クースー)”と呼ばれるものがあるが,こちらはさしずめ“古油(クーユー)”ってところだろうか。ただし,今となってはただの“使えない液体”以外の何物でもないし,かえって蓋を開けたらとんでもないことになるかもしれない。
その隣には,ガマを模したレプリカがある。人1人が中に入れる程度の入口があるので入ってみると,なるほど真っ暗である…といっても,数m先には出口があって明かりが見えるのだが,防空壕の暗さはよく分かる。壁も適度に凸凹している。そして,入ってすぐ脇に2段ベッドがあって人が横たわり,足元にはうす汚れた衣服の人が座っていた……もちろん,いずれも布で作られた人形であるが,大きさも等身大だし,これがうす暗い中だと結構なリアリティでもって迫ってくる。ちょっとタイミングを間違ったら,大声を出してしまったかもしれない。
さて,暗闇を出ると「南風原と戦争」というコーナーになる。沖縄戦に関する展示が並んでいる。先ほど,兼城交差点のところでも書いたように,ここ南風原町は位置的にも交差点的な“要衝”となっていて,それによってかなりの集中砲火を浴びた。当時の犠牲者数は3345人。人口の42%もの割合というから,町に与えたダメージはかなりのものであろう。それでも,今年2005年4月1日現在,南風原町の人口は3万3000人余。当時の人口は計算をすれば約8000人になるから,それからは4倍以上,犠牲者数からいえば10倍にも膨れ上がっている。戦後60年でこれだけの数になるには,それなりの…というか,想像以上の苦難があったであろう。
……話を戻そうか。改めて後述していくが,南風原にはまた,陸軍によって野戦病院の“施設”があちこちに設けられた。その位置関係が模造紙みたいなヤツに描かれていたが,ちょうどいま現在する場所から南西にいった津嘉山(つかざん)地区あたりには,2箇所“慰安所”が設けられていた。その内情はともかくとして,さしずめ,町全体が軍事施設になったようなこともまた,犠牲者数を増やした原因だったと言えるだろう。
そして,このコーナーで一番インパクトがあるのが,天井と壁の角に貼られた無数の顔写真の切り抜きだろう。「この顔写真は沖縄戦で戦死した南風原出身者の数――3,340人を表現しています(実在する人物には一切関係はありません)」という注釈があった。なるほど,意図はよく分かった。それらはすべて,雑誌や新聞などから切り抜いたかのように大小形もさまざまで,色は再生紙の灰色ないしはそれが年を経て古ぼけたないしは照明で焼けた茶色である。
数m幅に渡って貼られているそれらを見ると,かなりの数の芸能人の顔が貼られていた。それこそ,3300余りのすべての中から芸能人すべてを探してみれば,今日1日が過ぎてしまうくらいにハマる可能性もあるだろう。ちなみに,私が発見した芸能人10人は(敬称略・順不同),酒井法子・小林幸子・安部譲二・所ジョージ・ゴクミ・林家こん平・山崎努・喜多嶋舞・陣内孝則・斉藤由貴であった。実際どこいら辺に貼られていたかは直接行って確かめるべし。はたまた他の芸能人・有名人の顔写真があるかもしれない――でも,こーゆーのって著作権だの肖像権だのを思いっきり無視した展示だと思うのだが,そのへんは沖縄風に“テーゲー”なのか。いやいや,多分これの展示が開始されたころは,日本ではまだ現在みたいにうるさくなかっただろうし,このくらいは見逃してやってもいいだろう。ま,でも,勝手に“死なせちゃ”いかんけどね。
さらに進む。今度は「南風原と移民」というコーナーとなる。パスポートや当時の写真などが展示されている。石灰岩の土地ゆえに土壌が貧しく,資源もないことから,1899年のハワイ移民を期に,南西諸島や中南米への移民が多く行われている。財を成して成功する者もいれば,いろんなトラブルに巻き込まれて挫折する者もいた。さしずめ,沖縄が明治時代から現代まで,この100年で歩んだ道と同じような光景が繰り広げられていたわけである。
ちなみに,展示はブラジル移民のものが中心であったが,このブラジル移民の第1回は,いまから約100年前の1908年3月26日のこと。12〜45歳までの島民45人を乗せた船がブラジルに向けて出航している。沖縄では現在,名護市にブラジル料理の店があったり,横浜は鶴見区のいわゆる“沖縄タウン”のレストランにも,南米料理の店がある(「管理人のひとりごと」Part8参照)。はたまた,2002年の日韓共催のワールドカップで,THE BOOMの『島唄』がアルゼンチンチームの応援歌として話題になったが,いずれもこうした移民の歴史でつながっているゆえのことであろう。当然ながら,いまでも“沖縄会”なんてのが行われているようだし。
そして,最後には「南風原と民俗」「南風原と芸能」なんてコーナーがある。ま,こちらには井戸の写真とか製糖工場の写真,はたまた道具やら衣装やらが飾られているってことだけ説明しておこうか(まったく,いい加減である)。2階に行こうかと思ったが,何やら地元の人たちが企画している展示があるらしく,観光客が行くべきではないと思って諦めたが,2階にも戦争に関する展示があったようだ。ま,1階にあったのと同じようなものであろうことは想像に難くないが。

南風原文化センターを出て,さらに南下していく。あと見ておきたいのは南風原陸軍病院壕と,その近くにあると思われる井戸とガジュマルである。左に小高い丘が見えてきたが,地図やガイドブックにも載る陸軍病院壕の案内は一切ない。そして,道がいよいよ上り坂になってきたあたりで「←悲風の丘」という白く小さい看板を発見。その方向を見れば,一旦下った後で小高い丘に向かって細い一本道がスラーッと伸びている。うーん,時間はまだ12時ちょっと過ぎだし,まあせっかくなので,ここも見ておくことにしようか。
周囲が畑地や資材置場と化しているあたりは,道路よりちょっと下っている。はて,あんまり遠かったらば引き返そうかと思ったが,見上げると案内板みたいなものが見えたので上がっていく。勾配は急にきつくなって,やがて階段となる。周囲は木々に囲まれ,いよいよ森の中に入ろうとするあたりに,ちょっとした広場があった。その真ん中にあったのが「悲風の丘」と書かれた黒い大理石の碑だ。その下には“佐藤栄作著”とあった。
そして,もうちょっと奥に行けそうだったので行ってみれば,ここにあったぞ,「南風原陸軍病院壕址重傷患者二千余名自決之地」という碑が。なるほど,ここがあの陸軍病院跡だったのか。でも,この程度か。名前が割と出てくるわりにはこの扱いか。何よりもとっても分かりにくいぞ。せめて入口に「←南風原陸軍病院跡石碑」くらいの表示をしてほしいぞ。「悲風の丘」なんていかにもセンチメンタルな名前では,もし車で来ていたら私は確実に見過ごしていたであろう。ちなみに,目の前に広がるのは数m四方のスペースと,土が盛り上がって塞がれたようになっているガマっぽい岩場しか見えない。どうやら落盤によって自然に塞がったらしいが,パッと見ではガマという印象は持ちにくい。ま,逆に言えばこの程度だから,あまりアピールしないということかもしれないが,それを差し引いても,もうちょっとはっきりした表記はしてほしいと思ってしまった次第だ。
――さて,この南風原陸軍病院。坂から見えた案内板にいろいろと内容が書かれている。まず,この森は「黄金森(くがにむり)」と言われ,先ほども書いたように陸軍病院の施設がこの森の至る場所に置かれることになった。第32師団直属・球18803部隊の「沖縄陸軍病院」として,当初は本部・外科・伝染病科が開南中学校(当時。以下同じ),外科が済生会病院,兵舎が県立第2中学校にそれぞれ置かれていた。いずれも那覇市にあったわけだが,1944年10月10日の那覇大空襲とともに南風原にあった国民学校に移転することになった……ということで,正確にはここは「沖縄陸軍病院」なわけだが,南風原にあったために「南風原陸軍病院」と呼ばれるようになっているわけだ。
そして,病院はいつか来る“そのとき”に備え,町にあった黄金森に横穴壕の構築を始めた。やがて,“そのとき”がやってくるのはそう遠くはなく,翌年3月下旬には南風原国民学校は空襲で焼かれ,いよいよその横穴壕で病院を始めることになったのだ。当時配属されたのは,軍医・衛生兵・看護婦が450人。そして従軍看護学徒として200人配属されたのが,あの「ひめゆり学徒」なのである(「沖縄はじっこ旅V」第9回参照)。
“クチャ土(つち)”と呼ばれる脆い土のため,抗木があてがわれ,ただ2段ベッドが置かれただけの粗末で真っ暗な施設は,まさしく上述の南風原文化センターにあったレプリカそのものの光景である。無論,レプリカはレプリカに過ぎないが,そこに繰り広げられた光景は……いまさら説明する必要もないであろう。先ほど私が上がってきた急勾配の一本道は,ひめゆり学徒が離れた場所にあった炊事場への行き来に,何度となく上り下りをしたのだという。
しかし,ここですべてが終わることはなかった。それからわずか2カ月後の5月25日には,いよいよ米軍が那覇の町を占領することになったため,一行は南部の現・糸満市摩文仁に撤退を余儀なくされることになった。当然だが,この病院にはケガ人が相当数収容されていた。しかし,すべての人間を非難させることは事実上不可能になってしまった。そこで,1人で歩ける患者以外の重傷患者は,青酸カリによって“処置”されたり,はたまた手持ちの手榴弾で自決することを余儀なくされる。「重傷患者二千余名自決之地」の言葉の意味はこういうことである。ただし,実際のところホントの犠牲者数は,誰も把握していないようだ。一体に複数掘られた壕の数や規模から想定しての数だという。
そして,病院関係者および患者などは,現在の「ひめゆりの塔」がある伊原第3外科壕へと避難するに至ったのである(「沖縄はじっこ旅V」第9回参照)。しかし,この伊原外科壕での病院業務も1カ月足らず,6月16日の病院解散命令をもって終了する。もはや,あとは飛び交う砲弾の中を逃げ延びるしかなす術がなかった…というわけである。
――話を戻そう。さらに一本道は奥に続いていた。藪になっているが,足元は悪くない。あるいはその奥に壕があったりするのだろうか。そのまま2分ほど歩いていくと,あったのは「仏ぬ前」と掘られた小さい石碑。草地になったスペースの途中には,高さ・幅とも1m弱ほどの石積みの御嶽があった。道はどうやらここを峠にして下って引き続き伸びているが,これ以上は壕ないしはガマらしきものは見つからないだろう。ということで,これにて黄金森を後にする。

さあ,後は井戸とガジュマルだ。県道をはさんで西側であることはたしかなので,とりあえず“←喜屋武集落”と書かれた看板のところを入っていく。周囲は静かな住宅街で,路地があちこちに入り組んでいる。多分,昔から建っていたものばかりだろう。黄金森側の荒れ地とは対照的だ。とはいえ,このまま簡単に目的地に辿りつけるかどうか,少し不安にもなってくる。
そんな中,いかにも「整備しました的」公園が現われる。喜屋武農村公園だ。中にあるのは小さいゲートボールのコートと御嶽。御嶽は「名護の殿」という名前がついていた。高さ・幅とも3〜4mの社だが,香炉みたいな石がある以外は何もない。普通,石みたいなのが置かれているはずだが,その香炉の右側に三つ並んであった石がそれだったりするのか……それにしても,こんな整備された場所に御嶽とはミスマッチであるが,神聖なる御嶽を移動させるわけにはいかないし,かといって整備はしないとカッコがつかないし…といったところか。
そのままさらに路地に入り込む。もはや,頼るのはカンのみである。そのうち,駐車場脇の狭い通路から,草が生え放題になっているどっかの家の脇道を通りぬけて,再び私道に出てテクテク歩く。こんな姿,まったく恥ずかしい限りである。どんな観光客が,こういう日常の生活空間に入ってくるというのか。「オレは一体何者なんだ?」――そんな自問自答を頭のどこかで繰り返す。
しかし,それらしきものが見当たらない。早いもので時刻は12時45分になっていた。1時間前に空港に着くためには,ここは13時の早い段階で出るのがベストだろう。そのうち,ちょっと広い通りに出た。もっとも,車がスレスレですれ違える程度の広さだが,割と行き来はあるし,北の方向を見るとさらに大きな通りとの交差点が見えた。そして,そちらの方向に進んでいくとファミマがあった。なるほど,ここで地図を見れば分かるか。外から見えるブックスタンドに地図がちょうど乗っかっていたので,早速ファミマに入る。無論,場所を確認するためだ。どうしてもダメならば店員に聞けばいい。
……あ,あった。「ナカヌガー公園」というのがある。「ガー=井戸」だ。これに間違いない。その近くにガジュマルもある。地図を辿っていくと……なーんだ。このファミマに向かったのと逆方向に行けばあったのだ。なので,急ぎで来た道を引き返し,歩いていくこと200mほどか。ちょっとしたロータリーになった角に三角形の公園。ブランコと滑り台とバスケットのネットがある,その園内の縁に「中の井(ナカヌガー)」という案内板があった。
この「中の井」は現在,1m四方のマンホールっぽい四角いコンクリのフタがされている。フタの上には箸箱みたいなものが置かれているが,ひょっとしてこれは香炉の代わりだろうか。パッと見では,それが井戸かどうかは案内板がなければ分かるまい……1928年に掘られ,飲料水・洗濯・馬の水浴び…など,用途に分けて使われたという。水のある所,人の姿あり。地元民に親しまれ,1962年に埋めたてられるまで,賑やかな声が絶えなかったという。
そして,その公園の向かいにはこれまた芝生がきちっと整えられた10m四方くらいの公園。土手っぽく少し高台になっている。でもって,これまた端っこに5本のガジュマル。これが「中毛小(なかげぐぁー)のガジュマル」と呼ばれるヤツだ。ちょうどそれらが互いにからみつくように枝葉が伸びており,天然の木陰を作り出している。樹高は4.8〜9.2m,幹の胸高周囲は最大で3.7m,枝の広がりは全体で19m×19.5mの広さだという。ただし,どこか“ウジャウジャ”したガジュマルらしさはなかったような気はした。
――ふう,これにて観るべきものは観た。後はさっきのファミマがある大通りに戻ろう。無論,タクるためである。道は引き続き県道82号線。幹線道路なわけだが,これがどっこいタクシーが来ないのだ。兼城十字路より北側では頻繁に見たはずだが,あるいは役場のある辺りまで戻るのか。かといって,距離はそこそこある。とりあえず,少し立ち位置をズラしたりして(自分なりに)素早くタクれるようにしていると,ちょっと怪しい動きのオジさんが1人――ま,ホントに怪しいわけではないが,要するに彼もまたタクろうとしているのだ。あちこちを見てソワソワしている感じが,車を待っているように見えたのだ。うーん,彼に獲られてしまったら那覇空港行きは一気に雲行きが怪しくなってくるぞ……。
すると,私の後方から「空席」の文字のタクシーがやってきた。オジさんは進行方向のほうに少し進んでいた――ということで,無事タクシーをゲットして乗り込む。空港行きを指示すると,何やらブツブツ言いながら,おもむろに路地をウネウネと入っていき,結局は国道329号線に抜けた。乗った時刻は13時5分。後はもう流れに任せて進むのみである。(第3回につづく) 

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