沖縄はじっこ旅W

(1)プロローグ
那覇空港,9時20分着。数人遅れてやってきた客がいて羽田を出るのが遅れたのと,機長いわく「風速40mほどの向かい風が上空で吹いている」ために,20分遅れでの到着だ。ま,でも滑走路を間違えてしまったとか,機材に異常があったとか,急激な乱高下で酸素マスクが出てきたりとか(ま,これは気象のきまぐれか),昨今“いろいろなこと”が続いているJAL――ま,厳密にはJTAだから別会社だけど,とりあえず系列グループってことで――だけに,無事に着いただけでよかったとしようか。上空は梅雨に入っていることもあって,陽射しはあるもののいかにも梅雨っぽい花曇りってとこで,湿気たっぷりにムンムンしている。
さて,今回の旅のメイン・北大東島への飛行機は14時半。すなわち,5時間のトランジットである。しかし,1時間前に空港に戻ってくるとして,移動で往復で20分ほどかかるとしたら,実際は3時間少々になる。ホントはもっと遅い時間の羽田発那覇行きにして,北大東島オンリーの旅にしようかと思ったのだが,どうにも東京で“くすぶっている”時間がもったいないので,朝もはよから沖縄に来てしまったのだ。かといって,レンタカーを借りるには金がもったいない。3時間とかいう短い時間で借りられるかもしれないが,そこまでしてどこか遠い場所に行きたい気分でもない。
……ということで,このトランジットで近場の南風原町に行くことに決めたのだ。この町もまた通過はしているが,立ち止まって何か史跡を見学したという機会はない。だが,地図や町のホームページを見ればそれなりに史跡はあるようだし,「町のすべての史跡を制覇する」とかでもない限り,“主要なヤツ”が南風原町の中心である「兼城(かねぐすく)交差点」からほぼ半径1〜2kmの範囲内に集中しているのが,最終的な決め手になったのだ。

まずはコインロッカーを探す。南風原は那覇の隣町だし,バスもちゃんと通っている町だが,何しろ那覇バスターミナルに出ないと事は始まらない。そんな時間なぞもったいないから,タクることに最初から決めていた。タクシー乗り場はターミナル1階。到着口からそのまままっすぐ行けるのだが,おそらくは帰りもタクシーになるだろう。空港に客を乗せて入るタクシーは大抵3階の発券カウンターに車をつける。そして搭乗口および手荷物検査場は2階になる。
なので,1階のコインロッカーではなくて2階にあるコインロッカーへ行くことにする。わざわざエスカレーターで上がるわけだが,こういうことは,多分ターミナルの構造を知っていないとできないだろう……って,ちょっと頭をひねれば初めての空港でもできる対処か。ま,自慢することではないのだろう。ロッカーは200円。パソコンとアダプター(「管理人のひとりごと」参照),そして東京ではさすがに冷えるので着てきた薄手のセーターも置いていく。
タクシーは,中距離・近距離の乗り場より乗車する。最初の行き先は「沖縄県公文書館」(以下「公文書館」とする)だ。名前は忘れたが,乗った車は初乗り440円の個人タクシーだった。公文書館に行こうと思った理由は後述するとして,公文書館と名乗るからには立派に公的機関であるが,メジャーな観光地というわけではないから,はたして分からなかったらどうしようかと不安になった。でも,この運ちゃんはあっさりと「ハイ」と返事して,そのまま空港の敷地内を快調に飛ばしてくれた。
やがて,国道331号線に合流したあたりで「バイパスから行きましょうか?」と聞かれたので,「はい」と応えておく。“バイパス”とは国道329号線のそれ。分からないと言われたときのために,こちらも道はほぼ覚えていたのだ。そのバイパスから行ってくれるのが一番近道なのだ。このままバイパスを行くと,上間交差点で東西に走る本道と交差する。そのまままっすぐ行けば沖縄自動車道の沖縄インター。ここで右折して本道に入り,最初の大きい交差点が上述した兼城交差点だ。これを左折して北上すると左に公文書館――おお,地図をまったく見なくてもここまで書けるぜ…って,別に何の自慢にもならないな。あいかわらず自意識過剰なヤツだ。
国道331号線を北上し,明治橋より右折して件のバイパスに入る。この明治橋も,15時過ぎになると大渋滞して,右折はおろか直進も1回でできないこともある場所なのだが,対向車線に車はあまりなくてすんなりと一発で右折できてしまった。そして,ここからとよみ大橋辺りまで続く高架道路も,いまは空いているが,夕方になるとかなり混雑する道路である。
この道路は,自分で運転している回数のほうが圧倒的に多いだろう。こうして運転してもらうのは,ひょっとしたら初めてかもしれない。運転回数は複数回あっても,所詮自分の住んでいる場所ではないから,なかなか景色を見る余裕は生まれない。だからだろうか,現在のように朝の空いているイメージはなくって,夕方以降の混んでいる道を走るというネガティブな印象が強くあったりもする。国場川や漫湖などといった水辺沿いを走っていく道路なのだが,改めて見れば景色が拓けていて清々しさすら感じるから,「立場が変わると考え方が変わる」とはよく言ったものである。漫湖は干潮時だからか,すっかり干上がっていた。
そんな中,車内ではNHKのラジオが流れる。さっきまでは各市町村の狂犬病注射のスケジュールを紹介していて,豊見城市が「22〜25日までをのぞく26日まで」と紹介され,心の中で「だったら今日と26日って言えよ」とつぶやいたりしたのだが,いつのまにか人生相談の番組になっていた。そして,タクシーは上間交差点をそのまま直進。もちろん,そうやっても行けるルートはある。おそらく,北側から公文書館に入るルートなのだろう。
さて,その人生相談。今日は中年のおじさんから。22歳の娘が妊娠したのだが,同い年の相手の男性は結婚も子育ての意思もない。加えて男性の両親も出産には反対している。「息子だけのせいではない」という。はたして裁判で慰藉料とかを取ることは可能なのかどうか。男性は大工をやっているが,若いゆえに収入は少ない――やがて女性弁護士らしき回答者が淡々と答えていく。そんなとき,
「○□△;+@&×◇□×○−△だよねぇ?」
バイパスを通るかどうかの相談以来,ずっと静かだった車内に運ちゃんの問いかけだ。でも,何を言っているのかよく分からない。かなり早口なのだ。なので,テキトーに「そうですねー」と相槌を打つしかない。だが,それに続いて「取れないところからは取れないからねぇ」と言っていたから,おそらくは「誰がどうアドバイスしたからって,実際のところは大して金は取れないんだよ。まったく若気の至りだよ」……かどうかは本人にしか分からない。ま,せいぜい裁判でがんばってくれや。あ,そういや運ちゃんの運転席に「上海○○○○」と書かれたカセットがあったけど,あれって……。

(2)「何気に要衝」南風原町
@少しだけ賢くなった?
9時50分,公文書館到着。1950円。名前にふさわしく,重厚そうな建物だ。「赤瓦の急勾配な屋根にコンクリートの建物」ということ,過去の沖縄の公文書を収めるということで,デザインのテーマ的には「過去と現在と未来を結び付ける」で決まりである。玄関からのアプローチのレイアウト,緑の効果的な配置。まさしく,これぞ「デザイナー建築」って感じである。地上4階・地下1階建て。ま,これがもし萱葺きで平屋の木造建築だったら……それはそれでオレは結構好きだ。でも真っ当な感覚から行けば,ちょっとデザイナーの1人も絡めなければ,自治体としてはカッコの一つもつかないだろう。後でホームページで確認したところ「沖縄の原風景としての高倉部落をイメージ」とあった。へぇ〜。1995年8月の開館というから,間もなく開館から10年になる。
さて,エントランスにはコンクリート製の楕円柱が1本横たわっている。長さは4mほど,幅は長いほうが70cm,短いほうが40cmくらいか。アメリカ統治下時代は琉球政府の立法院(自治権や施政権の返還,あるいは基地問題にかかわった機関)として,日本に返還されてからは沖縄県の議会議事堂としての建物で使われていたそうだ。建物自体が1999年の暮れに取り壊された後,この場所に移築されたものだという。まさしく「過去と現在を結び付ける」意図,バッチリである。
そして中へ入る。エントランスの開放感と上品感は,いかにも書物を取り扱う施設らしきそれである。実は公文書館については,何かの折にホームページを見つけて,すでにネット上でいろいろな写真や資料を閲覧していた。戦闘場面,民俗,風土……結構,こういう写真を見るのは好きな人なので,ちょっとハマってしまったというのが,足を運んだ理由である。もちろん,ネットに載せられる量なんてたかが知れていよう。「この続きは公文書館で…」とはページのどこにも書いていなかったが,あたかも私を呼んでいるような気分になってしまったのだ。
そのホームページでは「初めて利用される方は,身分証を呈示してください」といった内容の文章を見た。木のデスクには若い女性が1人,「おはようございます」と挨拶をされた。しかし,その先は続かない。はて,身分証は?……「あのー,見たいんですけど」と,決して怪しくないのに完全に余所者みたいな位置に陥れられた感になる。しかし,「1階の閲覧室はご自由にどうぞ。2階では△□×…」――最後のほうはあまり聞いていなかったが,とりあえず彼女のいるデスクの脇にある入口が閲覧室なのは,いくら余所者であっても検討がつくってところだ。とりあえず,持ち帰り自由なパンフレットだけもらって閲覧室に入ることにする。
中は@琉球王朝時代,A1879年の琉球処分以降,第2次世界大戦辺りまで,B戦後,1972年までの米軍統治下,C日本復帰後の四つの時代に分けて,まあ名前の通りの公文書と,一部個人寄贈の資料が展示されていた。後でパンフで確認したら,7月までの展示のようだが,内容は…まあご想像のとおりのものだろう(逃げてすまん)。
で,一番印象に残ったのが,Aの時代に沖縄県の知事になった人物が歴代27人いるのだが,1人たりとも沖縄県出身者がいないのだ。ちなみに,初代の鍋島直彬氏は肥前(いまの佐賀県)鹿島藩出身。だいたいは鹿児島県の出が多かった。そして,ラスト・27代目の兵庫県出身の島田叡(しまだあきら)氏は,たしか沖縄戦が激化したことで他の幹部とともに糸満市の轟の壕に移動し,その後摩文仁方面に向かったきり行方不明になった人物だ(「沖縄はじっこ旅V」第8回参照)。
地元出身の知事がいないというのは,現代ではまず考えられないことだ。「地元を知らないヤツに何ができる?」と,選挙民にそっぽを向かれて当選すらしないのが関の山である。だが,沖縄県はあくまで“処分された地域”なのである。扱いはたかが知れている。だから当時は,「“外部の人間”でテキトーに押さえ込もう」って魂胆だったのかもしれない。
2階の閲覧室へ上がる。階段を上がると,シンプルに閲覧室に着ければいいのに,ちょっとした通路があったりして「余裕を楽しもう」ってことか。ガラス張りの閲覧室の入口には男性1人と女性2人が,パソコンの前に座っている。ここが受付で,彼らは多分学芸員であるとみた。これまた図書を扱う施設らしく,ピーンとした静寂が覆い尽くしている。あの,咳払いやクシャミすら拒まれる雰囲気である。そして,パソコンをいじって作業をしているようには見えるが,実はとってもラクチンな勤務であって,それでいながら一定の給料が保証されるという“オイシそうな”学芸員のその姿もまた,図書を扱う施設独特の“在り方”だったりする――って学芸員の方,ホントに勘違いしていたらごめんなさい。私めの“色眼鏡”にはどうしてもそう見えてしまうのです……。
入口には,今度は「利用証の交付を受けてください」という表示がある。うーん,今回1回限りの利用である確率はほぼ100%だが,かといってここまできて何もせず引き返すのももったいない。身分証があれば交付を受けられるそうだし,とりあえず自動車免許証は持っているから,言葉は失礼ながら“ひやかし”に行ってみようか。
「すいませーん。あの初めてなんで,利用証の“交
付”を受けたいんですけど」
「あ,資料の閲覧とパソコン(受付の前に検索など
で使うのが数台あるのだ)の利用でしたら,そのま
までOKですよ。ただ,複写される場合は必要にな
りますので」
なーんだ,問題ないんじゃん。ややこしい書き込みだぜ。それじゃあ,と中に入りかけたとき,
「それと,そちらの(私が抱えている)バッグの持ち
込みができませんので,出られて右奥のロッカー
に入れていただけますか」
後でパンフで確認したら,この2階は「参考資料室」とそれを見るための「閲覧室」があって,その奥のほう,私が見えないあたりに「各文書庫」とか「特別閲覧室」があるらしい。後ろ二つは間違いなく,利用証の交付がないとダメなのだろう。それにしても,バッグが持ち込めないというのは,やっぱり資料をくすねられてしまう危険があるからか。仕方ないのでそのロッカーに100円を入れて荷物を入れる。無論,使用が終わったら100円は返ってくるのだが――ホントならば盗難防止のシールでもつければいいと思うが,膨大な量の書物にシールをつけて金をかけるよりも,ロッカーの設置料金のほうが安いのだろう。あと,考え方によっては上記と矛盾するが,利用者をある程度信用しているのかもしれない。入れるバッグをなくせば,わざわざ他の手を使ってまで盗んだりしないってことだろうから。
そして,参考資料室のほうに向かう。まあ,どこの図書館でも見られる光景なので特筆すべきものはない。ちなみに資料や書籍はすべて,湿気や害虫から護るために減圧された機械の中でガスが吹きかけられ(「減圧くん蒸」という),地上階にすべて保管されるそうだ。自分が勤務している会社の業種ゆえ,労基法関係の法令集だとか労働白書などは目に入った。前者は30年以上前の発刊物だが,当時の沖縄県の労働者にはいろんな法律が適用されていたようである。ただし,もちろんアメリカが主に絡んでいるものではあるが――今でも「沖縄振興開発促進法」だかいう法律のトップあたりで,“沖縄の特殊な事情に鑑み…”なんてフレーズがあると思うが,「本土並み」とかいうスローガンの一方で,どこかやっぱり件のフレーズがないと自治体としてやっていけない部分もあるのだろう。できればコピーの一つもすりゃよかったか。
あとは「ゼンリン住宅地図」で南風原町のあったので,それで史跡の類いと,気になっていたメシ屋の場所を確認しておく。これができたのは助かった。あいかわらずいい加減なので,南風原町のホームページを見てもプリントアウトしなかったからだ。もっとも,この地図もまたコピーなんかしなかった。これからずっと通いつめるわけでもないから,手続なんてやっぱり面倒くさいのがホンネだ。
後はやっぱりというか,ネットでも見た写真のファイルにまたもハマってしまった。「第2次大戦シリーズ」「政府関係写真資料」……これらが整然と何冊も棚に入っていると,そりゃあ「オレも見てくれ」って言われているようなもんだ。こういう整理ってやっぱり重要だよな。それに比べてウチの部署の書庫といったら……ま,いいや。肥やしが入ったつるべを持っている農夫,藁葺き屋根の古民家,はたまた日本の戦闘機の残骸。もちろん白黒写真である……いかんいかん,こういう“アーカイブス系”は私には毒である。次から次へと資料をあさってしまっているのだ。どこかで切らないと,ここだけで3時間を過ごしてしまいそうだから,とっとと出ることにする。時間は10時半になっていた。もう少し遅れていたら,次は12時になるまで気づかなかったかもしれない。

とりあえず南に向かって歩く。道は県道82号線。公文書館は丘の上にあるようで,結構な勾配の坂を下っている。周囲はほぼ住宅街。テクテク歩いていると,水の音がした。鬱蒼と木が生い茂ってよくは見えなかったが,井戸のような区画が見えた。あるいは単なる下水だったのか……。
さらに行くと「育成園前」というバス停があった。時刻表を見れば,1時間に1本か2本程度。91番系統「城間線」馬天行きというバスだ。やっぱりこれならばタクって正解だった。ちなみに,バス停にもなっている“育成園”とは知的障害者用施設。休みだからなのか,校舎は“もぬけの殻”という言葉が似合うがごとく,窓ガラス越しに教室の向こう側の景色まで見えてしまった。土であるというだけで,それ以外は何とも無味乾燥,それでいてなぜかだだっ広い校庭もまた,寂寞感を演出してくれたりする。
県道82号線は,途中で西に大きくカーブして兼城交差点に入っていく。その手前に「スッパイマン 上間菓子店」という看板があった。「スッパイマン」というと,初めて知ったのは2年前。銀座の「わしたショップ」でのこと。ちょうどわしたショップを知ったのも,この頃だったか……そう,『ホテル・ハイビスカス』のマンガ本(「参考文献一覧」参照)を買ったときに,おまけでこれがついてきたのだ。そのときは「なんだ,こんなもん」と思ったものだった。「こんな“子供だまし”がおまけかよ」と。名前からして,1文字違いで鳥山明氏からクレームがつくぞ,と。
肝心のブツはといえば,水あめの中に梅干が入っているほのかに金色の飴だ。細胞の“核”のごとく,真ん中に赤く鎮座している梅干に舌が触れると,水あめの甘さとあいまって絶妙な味わいとなる。なになに,これがなかなかくせになってしまって,あっという間に食してしまったのだ――エピソードはこのへんにして,話を元に戻そうか。その看板があった建物は……平屋立ての単なる事務所だった。なーんだ。「スッパイマン」は看板だけか,と思っていたら,ちょっと先にその上間菓子店があったようだ。ガッカリ。
さて,私が次に行きたい場所は,その兼城交差点を左折する。そうなると,このまま県道を道なりに行くのは遠回りとなる。なので,ちょっと路地に入ることにする。ま,特段に見るものはない住宅地だが,哀しいかな道に慣れていないと,せっかくの近道も単なる迷い道になってしまった。とりあえず目印がほしくなる。すると,おあつらえ向きに信号が目に入った。それを目指していったら,やっぱりというか県道5号線に戻っていてがっかりする。で,おまけに既述の上間菓子店まで見逃したのだ――仕方がないから,交差点直前で路地に入って少し東側から国道329号線に向かってせめてものリベンジだ……って,こんなんで満たそうとする私って一体……。
さて,その国道329号線を歩くこと5分。私が行きたかった場所に着いた。「南風原レストラン」である。早い話がファミレスだ。看板には“since 1972”とあるから,日本復帰直後に建てられて,それ以来地元民に長く愛されているレストランなのだろう。この店を目につけたのは,先日購入した『沖縄のそばと食堂 '05〜'06』から(「参考文献一覧」参照)。南風原町内にいくつかあった中でも分かりやすい位置にあったのと,何たって名前がシンプルではないか。
中に入ると,典型的なファミレスの造りだ。とはいっても,窓際に座敷が10席あるのは沖縄ならではだろう。カウンターは5席,テーブルは8人席が二つ(うち一つは隔離されたような位置にある),4人席が二つ,あとは奥のほうにもテーブルがあるし,2階には150人も収容できる座敷があるらしい。私は4人席の一つに座ることにする。時間はちょうど11時といったあんばい。店内はカウンターに中年男性が2人新聞を読んでいて,あとは私とほぼ同時に入ってき(て邪魔だったので追い越し)たオジイとオバアが,座敷の一角に座ったようだった。
目の前には懐かしいというのか,ロッテガムの小さいサイズの自販機が数基置いてあり,“ガチャガチャ”があり,プリクラの機械もある。「飽きたらこれらに興ぜよ」ということか。これで,100円を入れて自分の星座の位置にバーを合わせ,レバーをガーッと回すと白い球が落ちてきて…みたいな機械があったなら――って,いかんいかん,どーでもいいことを書いてしまった。加えて,ウェイトレスの制服が白のブラウスに紺のスカート・ピンクのエプロンなんてのも,チェーン店「馬車道」の“はいからさんが通る”スタイルには及ばないまでも,なかなかレトロ…いや,トラディショナルな格好である。
さて,メニューは沖縄料理もあれば洋食もある。ラインナップがこれまたファミレスだ。それでも宴会用の和食もあったりするから“チャンプルー”である。うーん,朝は羽田で穴子とエビの小さい天むすが入った“空弁”を買って食した。量的には「軽食以上,中食以下」な感じだったが,夜は北大東島の宿「ハマユウ荘」で夕飯がきっちり出てくる。ここで,とんかつ・ハンバーグ・ポークなどが入った“肉・肉・肉”なランチをガッチリ食すべきか,はたまた沖縄そばあたりを押さえるか……結局,迷った末に「チキン・フライライス」なるものを注文した。520円。注文した後で「ちゃんぽん」あたりがあったのに気がつくあたり,「まだまだだなぁ」と勝手に後悔してみせる。
店内には次第に客がボチボチと入ってきている。いろんなホームページを見れば,地元客でかなり混むそうではないか。朝飯が5時台だったのでメシの時間としてはおかしくなかったといえど,私は早めに入って正解だったかもしれない。そして,沖縄の食堂といえば,メシを食べ終わった後もグズグズといつづけ,座敷にいる者の中にはそのまま昼寝に入ってしまう者もいるという。開店は10時。カウンターの男性2人はさぞかし,メシを食った後の“まったりタイム”なのだろう。
おっ,ウェイトレスがトレイを持って出てきた。「早いなー。もう“フライライス”ができたのかー」と思っていたら,何のことはない。カウンターにいた男性に出していたのだ。おい,ひょっとしたら調理場は動き出したばっかりか。ちなみに,その男性が頼んでいたのは足テビチの煮つけ定食。もう1人の男性が頼んでいたのはステーキの定食だった。そして,座敷の老夫婦が頼んでいたのは“本日のランチ”である「しょうが焼定食」。少し年がいったウェイトレスからは「20分くらいかかりますけど,大丈夫ですか?」と言われていた。しょうが焼に20分もかかるとは,はて,しょうがをすりおろすところからスタートでもするのだろうか。はたまた先客がいるからってことなのか。

「しょうが焼の前に,チキンライスだからねー!」
「だから,しょうが焼,20分かかるからって言ったら,
待つって言ったのよ! 11時半まで待たせたら申し
訳ないじゃない!」
そんな女性の声が厨房のほうから聞こえてきた。声からしたら,件の少し年がいったウェイトレスの声だろう。若いウェイトレス数人が苦笑している。おいおい,オレのメニューを忘れたりしたんじゃないだろうな。そうだったらイヤだぜ。でも,こーゆーやりとりが見られるのも,また面白いものだ……それにしても,自分で頼んどいて何だが,“フライライス”っていうのはどーゆーものなのだろうか。“チキン”と“フライ”とあるから,チキンカツが乗っかっているライスか。長崎名物の“トルコライス”に似たようなものだろうか。どこかで書いたかもしれないが,沖縄では“カツ丼”といっても本土のそれとは趣を異にするというし,出てきたときの驚きにしろ感動にしろ落胆にしろ,自分なりにどういう感想を持つのかを客観的に楽しもうということで,あえてどーゆーものなのかは聞かないでいたのだ。
でも,値段はといえば520円。隣の4人席に後から座ったオジさんは,麩チャンプルー定食を頼んでいたが,こちらは630円。そして,上述したような“肉・肉・肉”なランチだと1000円近くまで跳ね上がる。安くてボリュームがあると言われる沖縄のランチだが,値段と量はやっぱり比例するものであろう。もしかしたら,チャちいものが出てきたりなんかするのだろうか。
そして,「お待たせしましたー」と若い女性が私のところに持ってきたものは……あ,チャーハンだ。ものすごく細かく刻まれたニンジン・ネギ・タマネギと1cm角のチキンが入って,卵がからんだチャーハンである。彩りは鮮やかだ。20cm×15cmくらいの楕円系の白い皿に,標高3cmくらいに盛られて出てきた。……いや,これはケチャップが入っていない“チキンライス”と言うべきか。伝票をみれば「チキンライス」と書かれてある。でも,私が頼んだのは間違いなく「チキン“フライ”ライス」だ。うーん,もう1回メニューを見てみたが,「チキンライス」「チキンフライライス」と2種類は書かれていない。だから間違ってはいないだろう。ちなみに「フライライス」には,他にも“ポーク”と“ビーフ”があるが,それぞれ入っている肉が違ってくるだけで,やっぱりこういうチャーハンなのだろうか。
肝心の味は塩気が効いていたのと,チキンのコクがあったのか,ほどよい味だった。量的にも“しかるべき量”だと思う。これで夕食をがっちり食えるだろうし,あるいはデザートないしはおやつを入れこむための“別腹”は確保できたと思う。でも……うーん,“フライ”は邦訳をすれば,やっぱり「揚げる」となるはずだろうし,チャーハンだったらば……あ,英訳が「fried rice(フライド・ライス)」になってるわ。なるほどね。「少しだけ賢くなった」ってことで,このメシは“当たり”だったってことだろうか。(第2回につづく) 

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