月刊エッセイ       12/18/2004


「負け犬」に「オニババ」そして「ヨン様」

 毎年、年末になると、流行語大賞なるものが発表され、それがマスコミで話題になります。今年は、水泳の北島選手の「チョー気持いい」が大賞だそうですが、この言葉を街で聞いたことがありません。たしかに新聞の活字ではお目にかかりましたが、この言葉を口にした人がどのくらいいるでしょうか。とても流行語の資格はなくって、まあ、せいぜいが話題語といったところでしょう。大賞候補のトップ10に入った言葉を見ても、「新規参入」とか「サプライズ」とか、そういえばあったなという程度。
 だいたい、流行語といったもの自体が昨今の世の中からは消えつつあるような気もします。ずっーと昔、谷啓さんが「ガチョーン」を流行らせた時は、子供からいい大人までが「ガチョーン」をやっていましたし、その後も有名人、話題の人が幾多の流行語を産み出したのですが、ここ何年かでその資格があるのは「リストラ」とか「構造改革」とか、わずかなものになっているはずです。
 にもかかわらず、毎年、流行語大賞が発表されると、新聞もテレビもこぞって、そうそうNHKのニュースでも時間をとって報ずるとは、いったいどういうことなんでしょうか。まあ、マスコミなんて、「よそがやったのに乗っかれば楽だ」といった程度の人間がたくさんいるんだから−−おおっと、横道にそれてはいけません。今回のエッセイは流行語大賞やマスコミを批判するものではないのですよ。

 話題語と呼んだほうがいい流行語大賞トップ10の中で、けっこう人の口に上ったなと思われるのが「負け犬」です。「30歳を過ぎて、女の独身、子供なしは、どんなに経済的に恵まれていても負け犬だ」と定義する、酒井順子さんの大ベストセラー本「負け犬の遠吠え」の中で使われたこの言葉は、私の周囲でも口にする人がけっこういたし、新聞や週刊誌は特集を組むは、テレビのバラエティー番組は芸能界の負け犬の女性タレントをゲストに招いて、あーだのこーだのつつきまわしたりするはで、賑やかなものでありました。

 酒井さんの本は多角的な視点にたって現象を分析したものですが、「負け犬」「勝ち犬」という言葉が一人歩きしてしまうと、なにか30歳を過ぎた子無きの独身女は人生の敗残者のようなイメージが出来上がって、女はなにより結婚して子供を産んだほうが大得するといった風潮が生れつつあるみたいです。負け犬本のせいばかりではないんでしょうが、実際、世の中では、
「会社で働き続けても大変なだけで、婚期も逃すかもしれない。それより、稼ぎのいい男をつかまえて早く結婚し、専業主婦になったほうが賢い生き方ってものよ」
 と考え、生活力のありそうな男性に狙いを定める若い女性が増えてるんだとか。なにか時計の針を40年くらい昔に逆まわししたみたいな感じになってます。
 しかし、そう簡単に女性の方が、皆さんそろって勝ち犬になれるものでしょうか?

 知人にAさんという50代前半の独身女性がいます。最近、彼女から都内にマンションを買って引越しをしたという転居通知が来ました。「転売がきくように駅近の中古マンションを購入」と書いてあるのを見て、いかにも彼女らしいなと笑ってしまいました。
 Aさんは大学の薬学部を卒業したあと、大手の医療機器メーカーに就職しました。しかし、会社での仕事に飽き足らず、20代の後半でアメリカの大学に留学。帰国後、大学の恩師の研究助手などを務めた後、医療機器も手がける大手精密機械メーカーに転職し、現在に至っています。つまり、ばりばりのキャリア・ウーマンなんですね。
 しかし、どんなにばりばりのキャリア・ウーマンだって、独身の子無しでは、酒井さんの定義する負け犬になってしまいます。Aさんに過去どんな恋愛があったのかは知りませんが、彼女の生き方を見ていると、結婚する確率は、「稼ぎのいい男をつかまえて、主婦になるぞ」と戦略を練っている女性に比べれば、圧倒的に低いものだったでしょう。でも、Aさんの性格からすれば、結婚至上主義の戦略は最初からとることができなかっただろうな。

 人には、どうしてもこうなってしまうという道があるような気がします。
 私は32歳の時、出版社を辞めてフリーランサーになりました。辞めたのが、大手出版社だったため、
「まったくバカなことするよな。作家なんて、成功するの10人に1人もいないだろ。大手の出版社なら給料は高いし、安定してるし、そっちのほうがずっといいのにさ」
 陰では、さんざん言われたようです。
 でも、私はまったく迷うことなくフリーの道を選びました。要は、組織の中では生きて行くのに耐えられない人間だったのですね。
 ぼんやりしているうち負け犬になってしまったという女性は別にして、社会で活躍している負け犬女性はそうなるべくしてなった、ま、しゃーないやないか、というケースが多い気がします。

 でも、キャリア・ウーマンの中にも、酒井さんの言う超勝ち犬の存在があります。国連事務次長を務めた緒方貞子さんのように、仕事はできる、家庭にも恵まれて子供もいるという人たちです。私の周辺にも、女医さん、女性弁護士さんと、仕事もするし子供にも恵まれている超勝ち犬の方が何人かいらっしゃいます。女医だったら男性が圧倒的に多い大学医学部時代に、また女性弁護士なら司法試験にパスしてほっとひと息つける司法修習生の時に、生涯の伴侶を見つけるようです。
 そして、この超勝ち犬になれるかどうかは、どうも大学の学部選択の時にもう決まってしまうみたいです。医師、弁護士といった難関コースだけでなく、超勝ち犬になる女性は薬剤師、保健婦といった社会的需要の多い国家資格がしっかり狙える学部を選んでいる。国家資格がとれるわけでもない学部に入ってから、あるいは会社に就職してから、
「私、仕事もバリバリやるし、結婚して子育てもするんだ」
 と一大決心しても、前途はなかなかに厳しいみたいです。

 テニスに例えるなら、男性の仕事探しはフォアハンド・ストロークで、女性の仕事探しはバックハンド・ストロークとなるでしょう。えっ、何を言ってるのか、わからないって? いえ、フォアハンドは多少、構えが遅れたって打つことができるけど、日常の生活とは腕の使い方が違うバックハンドは少しでも構えが遅れると、もう打ち返せないってことです。ピンとくる例えではない? テニスに凝っているからって、無理やりこじつけるなって? 女性の社会進出ってのは元来あまりなかったものだからバックハンドと同じで、つまり無理やりこじつけたわけではないんですけど、うーん、やはりわかりにくい例えかなあ……。

 いずれにせよ、世間の風は“30過ぎて独身、子無し女性”に冷たいものになっているみたいですけど、最近さらに追い打ちをかけるような本が出版され、これまたベストセラーになっています。女性の保健を専門にする大学教授・三砂ちづるさんが著した「オニババ化する女たち」が、それ。山奥に住んでいるオニババや山姥が小僧さん襲うという伝説は、じつは社会から阻害された独身更年期女性が「性と生殖」に関わるエネルギーをもてあまして、若い男性を襲ったという意味ではないかってのが、題名の由来であります。

 かなりいいかげんな本のようにも見えますが、中身は案外、真面目なものです。簡単にいってしまえば、生理や出産という女性の身体性を軽んじている女性は、体から思わぬしっぺ返しを受けるって内容。昔の女性は月経血をコントロールしたり、出産もせいぜい産婆さんの助けを受けるくらいで自分でした。なのに、現代女性は生理用品に頼ったり、病院で医師の言うまま出産したり、女性の身体性を他人まかせにしている。これでは体からの復讐を受ける、といったことが書いてあり、著者の三砂さんは、女性はセックスができる歳になればセックスを楽しんで、結婚相手を見つけ、10代後半から20代前半のいちばん女性性の盛んな時期にさっさと出産してしまったほうがいいと、勧めているのです。

「20代の頃は男の人からいくらでも声がかかったのに、最近はご無沙汰なのよねえ」
 と嘆いている負け犬女性は立つ瀬がない、といった内容の本です。
 しかし、20歳前後で理想の結婚相手を見つけることができるのでしょうか。三砂さんは「ともかく縁があった方と、誰とでもいいから結婚するというくらいが、大事だと思います」と、かなり大胆なことを書いておられます。つまりは、大きな欠点のないオスだったら選り好みするなと言うんですね。

 少し前、私よりひと回り年上の既婚女性、数名とお話しする機会がありました。彼女たちは、今の女性が男性を選べる自由を持っていることを、羨ましそうに話しておりました。そこで、私が、
「じゃあ、皆さん、お見合いの席で、男性を選べなかったのですか」
 と問うたところ、
「私たち、選ばれたんですのよ」
 胸を張られてしまいました。
 昔と今とは違う。今の女性は「男性を選ぶ」という美味しいリンゴを食べてしまったイブなんです。もう楽園には戻れません。だから、三砂さんのいう「縁があれば、誰とでも結婚を」というのは、現実的な話ではないんじゃないかな。

 負け犬がさんざん揶揄されている反面で、立場を大いに盛り返したのが、勝ち犬の面々、つまり専業主婦です。そして、その主婦の方々が今年、テレビなどで脚光を浴びたのが、ヨン様を巡る一連の騒動でした。

 あれは5月だったか6月だったか、画家の片岡球子展を観るために、日本橋・三越デパートに行った時のことです。美術展の隣で開かれていたのが、韓流スターの写真展だったのであります。
 中年女性が次から次へと押し寄せてきて、写真展の入口に吸い込まれていきます。恐々、中を覗き込んでみると、韓流スターの写真を前に、「キャー、いい」「私、ウォンビンのほうが好きー」とか、声を上げているのです。出てくる方々の顔つきは上気していて、なんか風呂上がりのような、すごく元気な感じ。平日の昼間だったから、彼女たちの大半は専業主婦だったんでしょうね。

 ヨン様を追っかけた中年女性の中から怪我人まで出て、この韓流ブームにはうんざりしている向きも多いようですが、一方で、大変によろしい行動だと評する人もいます。ある人が、こんなことを言ってました。
「中年を過ぎれば、夫婦間のセックスも少なくなるけど、ヨン様に恋して、おっかけをすれば、また女性ホルモンがたくさん出てきて、女性の健康にはプラスになるんです。旦那さんのほうだって、ヨン様が相手なら本当に浮気されることもないし、多少お金がかかるといっても、新宿のホストクラブ通いするよりは、ずっと安い。奥さんの機嫌が良けりゃ、ご主人だって楽だ。双方にとって、メリットがあるんですね」
 そうなんです、リスクがほとんどない、安全な“疑似浮気”というわけです。これは、生活の知恵なんでしょうね。うん、賢い。でも、賢すぎて、ええ、賢くはない人生をずっと送ってきた私なんかは、なにか割り切れない思いもしてくるのです。

 ヨン様騒動を報ずるテレビを観てから、「オニババ化する女たち」を読んでいると、別な考えも頭に浮かんできました。小僧さん襲ったのは、性的エネルギーを持て余した独身オニババではなく、旦那さんもいる奥さんじゃないかって。韓流スターという小僧さんを襲ったのは、負け犬女性ではなく、勝ち犬女性のほうじゃないかって。
 先ほど「私たちは選ばれたんですよ」と胸を張った主婦の方たちは、外で仕事をして男性も選ぶことのできる現代の女性を羨む話をずっとしていました。経済的に不自由なく、家庭にも恵まれた彼女たちですが、彼女たちも何かやり残した大きなものを心のうちに感じていて、それが、たとえばヨン様の追っかけとして表現されるんじゃないでしょうか。
 フェミニズムというんですか、日本では60年代くらいからずっと女性の社会進出の重要性が言われていて、土井おタカさんが党首だった社会党から女性議員が大量に誕生した頃には「これからは女の時代」という言葉が叫ばれていました。でも、ここにきて、どうもそう簡単にはいかないぞという空気ができてきた。そうした空気が、はっきりとした動きとして表れたのが、2004年という年だったのではないでしょうか。
〈まあ、「ヤマアラシのジレンマ」という言葉もあるし、最適のポジションを見つけるまでには、試行錯誤の時間が長くかかるんだろうな……〉
 イ・ビョンホンとチェ・ジウが出ている韓流ドラマ「美しき日々」を忘我の表情で観ている妻を横目に、私は人の世の難しさを思ってしまうのです。



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