月刊エッセイ       8/15/2004


「さようなら、ホットドッグ・プレス」

 数日前、新聞を読んでいたら、青年誌「ホットドッグ・プレス」(講談社発行)が年内で休刊するという記事を見つけました。“休刊”というのは、“敗戦”を“終戦”と言い換えるのと同じく、表面上の体裁をとりつくろうという日本独特のやり方で、実際には「はい、さようなら。二度と墓場から甦りませんよ」といった、つまりは“廃刊”なのであります。
「ホットドッグ・プレス」といえば、「ポパイ」誌と並んで、1980年代の若者文化を象徴するような雑誌。とくに“デート・マニュアル”が売り物で、現在、30代、40代の男性の中には、この雑誌の言うがままに女の子とのデートを実践した人も少なくないでしょう。その雑誌がお終いとなるのですから、なにか60年代、70年代に隆盛を誇っていた「平凡パンチ」が何年か前に休刊となった時と同じような淋しさを覚えてしまいました。

 しかし、単に淋しさを覚えただけではありません。じつは、私、30代の前半の3年ほど、この青年誌でライターの仕事をしていたのです。32の歳で出版社を退職した私は、その前の7年間をオジさん向けの週刊誌の編集部で過ごしていたため、若者文化に疎くなり、これでは作家活動をしていくのに差し障りも出てくるだろうと考え、ちょうど「ホッドドック・プレス」に後輩の編集者がいたのを幸い、
「ちょっとちょっと、女子大生特集とかデート特集とかに限って、取材をやらせなさい。女の子が出てこない仕事は、したくないからね」
 と申し入れて、めでたく取材スタッフの一員となったのです。ミステリーを執筆する傍らで、ライターとしての仕事もして見聞を広める。これは、作家の鑑というべき行為でしょう。ま、あわよくば読者モデルの女子大生と仲よくなってやろうという魂胆が、誰の目にも見え見えでしたけどね。

 当時、隔週刊誌だった「ホットドッグ・プレス」誌は4回に1度くらいのペースでデート特集を組みましたから、その度ごとにデート・ロケのディレクター役を務めたり、デート・マニュアルを書いたというわけです。湘南のドライブ・デートやら、ペンションのお泊まりデートやらにもつきあったし、車の中での会話をどんなふうに進めるかなんてマニュアルを書いたりもしたなあ。
 おいおい、7年間もオジサン向け雑誌にいて、若者について疎くなってしまった人間に、そんなマニュアルが書けるのか、だって? いえ、手段というものは、あるものなのですよ。
 この広い世の中には、ナンパの名人、デートの達人といわれる人が、少なからずいるものです。まずは、そういった人間を探し出す。そして、取材をする。

「たとえば、その女の子と初めてのドライブに行ったとしますよねえ。そんな時、この車は何馬力だとか、エンジンはDOHCだとか、ついオタクっぽい話をしていしまう男が多いんです。男同士だったら、そういうのもいいんだろうけど、隣に彼女が座っている時はメカの話はダメなんだよね」
「とすれば」
「この前、仲間同士でドライブに行った時、こんな面白いことがあったとか、バカな友達がこんなバカなことをやったとか、面白おかしい体験談をしてやるんです。すると、女の子のほうは、この人とつきあっていると、ワッ、楽しいこといろいろあるんだわ、と、いい印象を持って、ぐっと接近できるというわけです」
「なるほど」

 上記の会話の中で「とすれば」「なるほど」など意味のない相槌を打っているのが、私なのであります。そうして、デートの達人から得たハウツーを編集部に持って帰って、面白く読めるようにまとめ直したり、グラビアで再現写真を撮れるよう構成してみたりと、そんなふうにして、誌面作りをしていったんですね。
 むろん、特集記事にする時には、誇張も混じるし、わかりやすく簡略化もするし、かなり漫画っぽい内容になっていましたが、芯となっているものは、意外やリアリティに富んだ“すぐれもの”(おーっといかん、ホットドッグ・プレス調の言葉づかいになってしまったですぜ。気をつけるべし)ばかりだったのです。そうでなけりゃ、読者である若者の支持を受けないものね。

 そうしたデート特集を中心にして、ファッション、シェイプアップなどなどを取り混ぜ、80年代の半ば「ホッドドッグ・プレス」誌は売れ行きトップの黄金期を迎えたのです。思えば、時代が味方してくれた。
 戦後の“独身男女の交際”をおおざっぱに定義してみれば、60年代までは、結婚するまではセックスはダメよ、という時代でした。石坂洋次郎から庄司薫に至るまで、小説の中にも、1本の線がはっきりと引かれていたような気がします。
 それが、70年代に入る頃からヒッピー文化や学生運動の洗礼を受け、そのあたりが緩くなってきた。「同棲時代」「婚前交渉」といった言葉がマスコミにもよく登場するようなになりましたが、それでもセックスまで行くのは、結婚を前提にしたりと、“真面目な”おつきあいをしている男女に多かったはずです。
 ところが、キャンパスから学生運動の空気がすっかり消え、テニスやスキーのサークルが幅をきかすようになった80年代では、男女のおつきあいも大きく変わった。女の子のほうが、結婚なんて関係なく、親しくなったんならセックスもOKよ、とシフトを大きくチェンジさせてきたのです。青年期の男性ホルモンが噴出していて、女性のフェロモンに出会うと、頭の中は性のことでいっぱいになってしまう男の子たちが、このチャンスにおとなしくしているわけはありません。なんとかセックスをしたい。そのためには、なんとか女の子と親密にならなければならない。そういう男の子たちは、競ってデート・マニュアルを求めたのです。

 時代はバブル期の直前。いや、若い人の間では、生活がもうバブル状態に入っていたかもしれません。ホイチョイ・プロダクションとかいうわけのわからない集団の書いた「見栄講座」なる本がベストセラーになったり、そういえば「私をスキーに連れてって」なんて映画もあったなあ。ホンダ・プレリュードなるけっこう高い車がデート・カーとして売れたのも(恥ずかしながら、私もこの車を買ってしまいました)、この頃でした。
 若い人の親たちも豊かでしたから、子供にたっぷりお小遣いを与えた。お小遣いをもらえなくたって、割のいいバイトが山とあった。「ホッドドッグ・プレス」のロケにしたって、リゾート・ホテルまで繰り出したり、都内のフランス料理店で食事をさせたりと、文字どおりのバブル。そのデート・マニュアル雑誌から教えを受けた男の子たちも、高級レストランでお金を使いまくったはずです。その男の子たちが、今は中年のオトーさんとなって、マグドナルドや吉野屋で昼食を食べているのは、時代の皮肉というしかないのでしょうけど……。

 しかし、90年代も前半を過ぎる頃から、また男女交際事情は大きく変化しているはずです。最近の若い人のことはあまりよく知らないのですが、どうも“おつきあいの申し込み”みたいなことをする人が多いようですね。
「俺とつきあってくれない?」
「うん、いいよ」
 てな確認事項があることは、まことに礼儀正しいといえるでしょうが、その後の進行が早い。つきあいの確認が行われると、ほどなくラブホテルに行ったり、彼女が彼の部屋にお泊まりしてしまう。
 80年代と90年代の違いを簡単にまとめてみましょう。
 80年代 @交際開始→Aデートを繰り返して親密になる→Bセックスする
 90年代 @つきあい確認をする→Aセックスする
 早い話が、80年代にあったA親密になるという部分が、欠落してしまっているみたいなのです。手間ひまかけずに女の子とセックスできるなら、誰もお金と時間を使って、デートなどしやしません。
 しかも、時代は大不況に突入。親からの小遣いは期待できず、バイトの時給もしれたもの。その上、ケータイ料金の支払いという必要経費を支払わなければならない。デートなんぞに金はかけられません。

 以上に述べたような理由で、デート・マニュアル雑誌が衰退を迎えたのは時代のなせるわざだと思っております。しかし、それだけでしょうか。売れている時の雑誌というのは、いろんな面白い人間が集まるもので、黄金期の「ホッドドッグ・プレス」にも、後に名を成した人物がたくさんいました。
 社外スタッフとしては、後に作家となった永倉万治さん、今は音楽評論家として活躍している萩原健太くん、消しゴム版画家兼エッセイストとして人気を博したナンシー関さん、それから、どうでもいい存在として本岡類さん、などなど。
 社内編集者としても、後に退社してタレントとなったいとうせいこうくん、会社は辞めていないけど、テレビでよく見かける山田五郎くん。
 そういった連中がわいわい騒ぎながら、アイデアを練ったり、原稿を書いていたのですから、雑誌が面白くならないはずがありません。

 あれは、あの雑誌がいちばん売れていた頃だったと思います。忘年会だったかの流れで、メンバーが新宿の飲み屋に集合しました。大いに盛り上がり、盛り上がるうち、即興の歌を歌うこととなりました。なにしろ萩原健太くんはサザン・オールスターズの草創期のメンバーで、ギターの名手ですから、彼がリード役になる。永倉万治さんは若い頃、東京キッドブラザースの一員として世界をまわっていたエイターティナー、いとうせいこうくんはといえば、芸人がたまたま編集者になったような人ですから、これはもうプロの宴会であります。
「ホットドッグ・プレス、アズ、ナンバーワン−−」
 と、アドリブで作った曲を全員で歌いまくり、締めは「H、D、P!(ホッドドッグ・プレスの頭文字です)」と、西条秀樹が「YMCA」でやったような振り付けをやらかして、ああ、狂乱のうちに夜は更けていったのです。

 なぜ、あれほど多士済々の人間が集まったかというと、当時「ホットドッグ・プレス」の編集部は、講談社の本館ではなく、少し離れた別館にあったのです。本館とは違って、3階建ての粗末な建物で、粗末だけど、守衛さんが目を光らせているわけではなく、社外の人間も自由に出入りができたのです。それゆえ、近くまで来た時には、ちょっと寄っていって、油を売ったり、編集者にコーヒーを奢らせたりしていたんです。そうした梁山泊的な世界があったからこそ、雑誌の内容にも活気が満ちていました。
 でも、今は違います。立派な高層新社屋が建って、編集部もその中に入った代りに、社外の人間が気楽に訪ねていくわけにも行かなくなりました。なにしろ、建物を入ると、受付という名の関所がある。そこで、アポがあるか否かを問われて、めでたく内部に入れたとしても、記録簿に名前を書いたり、入館証を胸に付けさせられたりと、やあ、面倒くさいこと。これじゃ、気楽に立ち寄るなんてことはできず、社外の人間の足は自然と遠のいてしまいます。
 こういったシステムは、今や大手の出版社はどこでもそうだし、テレビ局、新聞社とマスコミ各社は似たようなものとなっていて、まあ、テロを防いだり(朝日新聞神戸支局での殺人、たけし軍団のフライデー襲撃など、いろいろありましたし)するためには、致し方ないことなんでしょうが、社会とマスコミとの風通しが悪くなっている一因にもなります。とくに雑誌については、外の世界の風が吹き込んでこないことが、売れ行き不振の大きな要因となっているような気がしておるのですが。

 ともあれ、万物すべてには寿命がありますので、「ホットドッグ・プレス」が幕引きとなったのも、寿命がきたと割り切るしかないでしょう。
 でも、黄金期の新宿での大騒ぎ。あんなに元気だった永倉万治さんは4年前、急死して、今はこの世の人ではありません。ナンシー関さんだって、数年前、若くして亡くなっています。永倉さんがボンゴを叩いていたのが、まだ目蓋の裏に残っていて、あの狂乱の夜が終わったばかりの夏の花火のように思えるのは、 8月も半ばを過ぎようという季節の感傷なのでしょうか。




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