月刊エッセイ 7/18/2004
■ あっちもこっちも“三菱自動車”
三菱車のリコール隠しや欠陥自動車騒ぎは、新聞やテレビのニュースなどで、皆さんもよくご存じのことでしょう。「隠蔽体質を改めます」と覚悟のほどを示しているそばから、また新たな隠蔽が明らかになって、どこまで続くぬかるみぞ、という眺めであります。
私の小説の中でも、昔、書いたペンション・シリーズ(「白い森の幽霊殺人」「赤い森の結婚殺人」など)で、主人公のペンション・オーナー里中邦彦の所有する4輪駆動車が三菱パジェロだったりして、かつては三菱車に悪いイメージを抱いてはいませんでした。それが、バックミラーにスリー・ダイヤモンドのエンブレムをつけた車が映るだけで、
〈ああ、ブレーキが壊れて、追突されるんじゃないか……〉
と思い、つい車線変更してしまったり、スーパーの駐車場などで三菱車が駐まっていたりすると、
〈火を吹くんじゃないか……〉
心配になって、隣に駐車することをためらったり、いやあ、なにか病原性の細菌を体にぴっしりつけたゴキブリかネズミを見る思いになっております。一種のすりこみに近いものができてしまったわけで、ここまでくると、どんなに経営陣が悲壮な決意を固めても、会社再生は不可能なんじゃないかなあ。牛肉偽装事件の雪印食品や、鶏インフルエンザを隠した養鶏業者も廃業となっているんだから、まだ余力があって、従業員に退職金を払える今、自動車作りを止めたほうがいいんではないかと思いますけど。
こんなふうになる兆候は以前からあったみたいです。
10年くらい前のことでしょうか。三菱の4WDワゴンのリベロという車に興味を持って、販売店まで足を運んだことがあります。すると、店の奥から出てきたセールスマン氏は面倒くさそうにカタログを渡してくれただけで、また店の奥に引っ込んでしまった。ふつうのディーラーなら、丁寧に説明をしてくれる、試乗を勧めてくれる、さらには、なぜか不自然なほど短いスカートをはいた若い女子社員がコーヒーなんぞを出してくれると、こちらの気分を良くする数々の応接をしてくれるのですが、その三菱ディーラーは殿様商売で、ぜんぜん売る気なし。私だって、そんなに貧乏くさい恰好はしていかなかったのになあ……。
一方で、対照的だったのが、トヨタ車のディーラーでした。
数年前、ミステリー小説(「黒い箱の館」)の資料にするため、客を装って、ハイブリッド車のプリウスのカタログをもらいに近くのディーラーまで行きました。すると、セールスマンの丁重なこと。当然のように試乗も勧められたし、帰る時には、私の車を道路に出やすいよう誘導してくれます。そして、驚いたことには、バックミラーに、私を見送って深々と頭を下げているセールスマン氏の姿が映っているではありませんか。
道路を倉庫代わりに使うカンバン方式とか、あれだけの国際企業なのに社員にサービス残業をさせていたとか、トヨタという会社にはあまり良いイメージは抱いておりません。しかし、社員教育がこれほど徹底しているとは、さすがに収益力超優良企業。その点では、頭が下がります。
しかし、最初のリコール隠しがバレたあと、内部の責任追及を徹底して、体質改善をはかっていれば、ここまでの致命傷を負うこともなかったでしょう。だいたいが人間や人間の集団なんて、手抜きとかミスとかルール違反とか、ついついろくでもないことをする存在なのです。だけど、ろくでもないことが露見したあとの対応で、その人物の器や力量がわかってくるんだなあ。浮気がバレた時でも、どんな態度をとるかで、その後の経過が大きく変わってくる(いえいえ、私自身のことを言っているわけではありませんよ。クリントンさんやミュージシャンの布袋さんのことを言っているのです。念のため)。
ところで、参院選で自民党が敗れました。負けたことは、まあ、すんだこととして、その後の対応ぶりが滑稽でした。幹事長をはじめとして、幹部は誰も責任を取ろうとしない。責任を追及する声も上がらない。小泉さんにしたって、
「逆風の中で、よく、これだけ当選してくれた」
と、他人事のようなことを言っている。その逆風を作り出したのは誰なんだって、訊いてみたくなるんだけどねえ。
そうこうするうちに、橋本派に歯科医師会から1億円の献金がなされ、それが政治資金終始報告書に記載されていないことが露見しました。御大将の橋本さんは自分で小切手を受け取っていながら、
「何か、私に責任があるんでしょうか」
と、不機嫌な声で言い放つし、派閥幹部の津島さんとかいう人は、記者会見の席で、質問にまともに答えようとしない。
こりゃ、あかんと思いました。都合の悪いことが起こった時こそ、その人物や集団の現在の力量がわかってしまう。自民党、もうあきまへん。今後どんどん“三菱自動車化”が進みますですよ。
三菱自動車(三菱重工が出発点の会社です)も自民党も、古くて伝統のある集団です。こうした伝統集団は日本にたくさんあって、私自身もかつてはそうした会社の一つに勤めていたし、友人もその種の会社に数多く就職しましたから、旧友と集まったりすると、よく“古い会社の信じられない話”が酒のサカナになります。
ある古い造船会社では、いい加減な勤務をしても、滅多に責任を取らされないんだとか。幹部社員はよく言うそうです。
「うちは、ドックで船がひっくり返ったって、責任取らされることはなかったんだから」
なんでも、進水式の時、スルスルスルと船台を滑っていった新造船が海面に到達するや、ドテッと横倒しになったんだとか。手順に大きなミスがあったんでしょう。でも、お咎めはなかった。いいなあ、そういう楽な会社。
私自身も古くて伝統のある出版社に就職し、しかも、最初に配属された先が、古くて伝統のある月刊の家庭婦人誌でありました。その編集部、12月の校了日(編集を終了する日のことです)がばかに早い。あと3日くらいあれば、内容を深めることができるのにと思っても、進行係から「はい、お終いです」の声がかかってしまう。発売日から逆算すると、日にちはまだあるはずなのに、「なぜ、なんですか」と先輩に訊いたところ、
「いやな、会社の偉い方に来年の最初に出る号を、年内にお見せするため、校了を早めているんだよ」
との答が返ってきました。ちょっと驚きました。読者に面白い記事を読んでもらうより、偉い方々に早く見てもらうというほうが、優先順位として高かったんですからね。そういえば、三菱自動車も三菱グループの社長・重役に乗ってもらうために、わざわざデグニティという超高級車を作っていたなあ。
さて、その古くて伝統的な家庭婦人誌、時代の変化についていけなくなり、売り上げは落ちる一方。そして、ある日、思いがけないことが起こりました。かつてその編集部で名編集長とうたわれて、今は専務に昇進している方が、テコ入れのため、再び編集長になるというのです。編集部員たちは皆、びっくり仰天。かつて名編集長とうたわれたといっても、ずいぶん昔のことで、御歳60歳を越えるご老体。時代の変化についていけるわけないじゃありませんか。
しかも、彼氏、専務兼任の編集長ですから、取締役としての仕事も忙しく、プラン会議のたびに編集部員たちは専務取締役編集長様のご到着を待たされる羽目になります。そして、専務が会議室に到着し、御自身のアイデアを披露するんですが、勘弁してくれえなと言いたいくらい時代錯誤のものばかり。それをナンバー2の編集次長が「さすがは、専務!」とゴマをするんだから、もう目の前が暗くなります。
売れるわきゃない。販売はさらに下降を続け、編集幹部たちは、どうやったら専務様を傷つけることなく、元の重役室にお戻しするのか苦慮したみたいです。むろん、その雑誌、だいぶ前に廃刊になっていて、今は跡形もありません、チャン、チャン。
少し前のことになりますが、ソフトウェア開発会社に勤めている友人がこんな話をしてくれました。古くて巨大な電気通信会社に企画書を持っていったところ、担当者が下敷きみたいな透明ボードを取り出し、企画書の書類に当てたんだそうです。その透明ボードには、なぜか長方形の形に線が引かれている。そして、担当者氏が言いました。
「これは、当社では受け付けられませんね。うちでは、この四角に入る書類しか受け付けないことになってるんで」
びっくり仰天して社に戻り、書類を指定のサイズに書き直して、また持参したそうな。
内容さえ充実していれば、極端なほどおかしなサイズでない限り、企画書は通すのが常識というもんですけど、常識が通用しないような閉鎖集団もけっこうあるみたいですね。
そういえば、その古くて巨大な電気通信会社、業績がかんばしくなく、最近では大リストラをめぐって労働組合と揉めてるみたいです。そのうち、餌がとれなくなって恐竜みたいに、どさっと倒れるのかしらん。
四角の中に入る書類しか受け付けないというのは、ギリシャだったか、エジプトだったかの神話を思い起こします。旅人をベッドに寝かせ、足がはみ出した場合は、足を切り落としてベッドに合わせてしまうというお話です。
これと似たようなことをする編集者が少なからずいます。古手の編集者で「文芸一筋30年」とか「読んだ本の数は数千冊を超える」「本の虫です」なんてタイプで、なぜか口数が少なく、顔にはいつも不機嫌そうな表情を浮かべ、
〈私は何でもわかっちゃってるんだぜ、チェックは厳しいんだぜ〉
なあんて威圧感を全身から発散させている人々です。
こういう人のもとに、新しい野心作を持ち込むと、えらいことになります。彼の頭の中には「良い作品とはこういうものだ」というモノサシが入っていて、そのモノサシで上手く計れないものに出会うと、自動的に「ノー」の判定が下りるようになっているのです。なぜ、「ノー」なのか、理由を訊ねても、明確な返事は返ってこない。
「もう少し簡略に表現すべきです」
「ここは饒舌なくらいに畳みかけたほうがいい。簡略にしたら、味もなにもなくなるよ」
「いいや、無駄な文章は不要です。それが小説というものです。○○さんの作品でも読んで、勉強したら、どうです」
禅問答みたいなことになってきます。要は、自分が持っている基準に当てはまらないんで、認めることができないというんでしょう。
こういう人を、私は編集者だとは思っていません。“検品係”と密かに呼んでおります。出来上がった製品が基準に合っているかどうか、確かめることを仕事にしている人々ですね。若手にまで、こうした検品係病が蔓延している出版社は、業績のほうも、あまり良くないみたいです。
なにか古くて伝統のある集団の悪口ばかり書いてしまいましたが、伝統集団のすべてがよろしくないと言っているわけではありません。中には、伝統を生かしながら、今の時代に活躍している団体や個人も、いくらでもいます。そして、そういうところは、時代の変化に合わせて、変えるべき点は柔軟に変えている。その業界での新陳代謝も常に行われている。
と、ここまで書いてきたところで、我が業界のことが、またまた心配になりました。ここ30年くらいの間で、新しくできて、一定の地位を占めるようになった出版社は、幻冬舎1社きりだもんな。出版流通に乗せるのが大変だとか、在庫管理をどうするとか、いろんな障壁はあるにしても、新陳代謝がほとんど行われていないのは事実だもんな。こうした業界は、やはり“三菱自動車化”が避けられないんだろうなあ。
いいや、出版業界ばかりじゃないよ。我が日本国だって、ほとんど反省もないままに、負債が膨らみ、国と地方を合わせると、借金が700 兆だ、いいや、1000兆円だとか言われてる。それらをどうするのかは、すべて先延ばし、先延ばし。出生率だって年金法改正がすむまで隠してたし、放射性廃棄物を直接処分する場合のコスト計算も隠していたし、うーん、隠蔽体質は、国も三菱自動車といい勝負なんだよなあ。
これがアートや音楽関係の人間だったら、海外に逃げて、一勝負ってこともできるけど、日本語で生きている作家は日本に留まるよりないんです。これだけの累積債務を抱えてれば、きっと円が大暴落して、輸入品の価格、とくに食料品の価格が暴騰して、超インフレになる。そうなったら、どう生きていけばいいんだろう。生活が苦しくなれば、みんな本なんて贅沢品、買わなくなるだろうし……三菱自動車の事件を、新聞で読んだりするたびに、日本の行く末、そして自分の行く末を案ずる、最近の私なのであります。




