月刊エッセイ       7/16/2002


■  高村薫さんが去ったあとで



 ミステリー関係者にとってはショックな、とくに高村薫ファンにとっては大ショックの出来事が起こりました。高村さんが、さる月刊誌で「私がミステリーを捨てる理由」と題して、もう推理小説は書かないとの決意表明をしてしまったからです。なんでも、ミステリーは人ではなく事件が中心に据えられている小説なので、人間を深く描くことができない。阪神大震災をきっかけに心境が大きく変化したんだとか。
 高村薫さんは「マークスの山」「神の火」などの作品で知られている人気抜群の(元?)ミステリー作家ですが、この決意表明のことを詳しくお知りになりたい方は、月刊「現代」8月号をお読みになってください。

 ところで、高村さんのようにミステリーから離れたり、離れようと思っている作家は、中堅、ベテランを中心に、けっこう多いんじゃないかと、私は想像してるんです。私自身も長編の謎解き小説からは完全撤退することを言っておりますし(高村さんとは違い、知り合いの編集者などにぼそぼそと語っているだけですが)、ええ、それは、ミステリーがもともと自由度の少ない小説形式である上、ここ10年ほど、刺激が強くなければ目立たず、目立たなければ店頭からあっという間に撤去されてしまうという傾向が強まっているからなんです。

 自由度が少ないというのは、ミステリーは出発地と目的地がはっきりしている小説なんですね。だいたい殺人が最初に起こって、まあ、誘拐とか失踪の場合もありますけど、途中いろいろあって、めでたく最後の部分で解決する。途中にトリックが入っていれば本格モノ、社会状況を描けば社会派、追いつ追われつの緊迫シーンを多くすればサスペンスとジャンル分けされるわけで、言ってみれば、東京始発で鹿児島まで行くみたいなものでして、ルートは新幹線から鹿児島本線経由にしようか、日豊本線をまわろうか、いいや、飛行機で直行したほうが早いか、などと頭を悩ませるのが、推理作家の日常なのです。
 ルートは自由だが、どうしても最後は鹿児島に到着しなければならない。途中、山陽新幹線の車中で隣り合わせた魅力的な女性と親しくなり、
「これから、どちらに行かれるんですか?」
「わたし、由布院の映画祭を見に行くつもりなんです」
「ああ、偶然ですね。じつは、ぼくもそうなんですよ」
 なあんて嘘ついて、由布院まで行ってしまう。もう鹿児島なんて、どうでもいい。由布院だ、由布院だ、鹿児島なんて行かんぞ、彼女と温泉に入るぞ,あとはもう知らない−−という訳にはいかんのです。どんなに美しい女性とうまくいきかけていても、それを諦め、鹿児島に行かなければならないのがミステリーの定めなんです。辛すぎるよねえ、そんなの。

 去年、将棋名人戦の観戦記の仕事で九州まで行った時、プロ棋士の大内九段と十何年かぶりにお会いしました。大内さんは、私にこう訊いてきました。
「本岡さん、まだ推理小説ってのを書いてるの?」
「え、ええ、相変わらず」
「よく飽きないねえ、人が殺される小説ばかり書いてさ」
 大内さんはもともとフランクすぎるくらいフランクな人ですから、悪気はなかったのでしょうが、私としては返答に窮しました。
 でも、あとで冷静になってみると、一般の方の「健全な常識」だと、そうなるのかなあと思ってみたりもしたんです。

 そんな人の殺される小説が、限られた書店のスペースの多くを占拠している。長編の新人文学賞といえば、ミステリー畑がほとんどで、乱歩賞、横溝賞、サントリー・ミステリー大賞、ええと、あとは新潮社とか幻冬舎、光文社とか創元社とか、うーん、よくわからなくなるくらいあるのに対し、他のジャンルはといえば、時代小説大賞は消滅したし、ファンタジー・ノベル大賞の他に何かあったかなあ、と首をひねるくらいの極端さです。
 なぜ、こうもミステリー系の新人賞が多いのか? 売れるから? ベストセラー作家を次々と産み出せるから? いえいえ、そうでもないようですよ。ずいぶん長く続いてるのに、一人の人気作家も出ていない賞だってあるし、最近では「○○賞受賞の衝撃作」と宣伝コピーを打っても、さほど売り上げが伸びないケースも増えてきているようです。

 ここで突然、サッカーのワールドカップの話になります。日本戦の行われた日、たまたま新聞のラジオ欄を見たら、驚きましたねえ。民放のほとんどが日本戦の実況をやっているじゃありませんか。それも、アナウンサー、解説者が同一の、つまりは同一の放送。文化放送では「日本、トルコに敗れる」の放送をやっていても、ニッポン放送に合わせれば「やりました、中田、逆転ゴール。ついにベスト8進出が決まりました」という歓喜の声が聞こえてくるのならともかく、みんな同じなんだから、文字どおりの電波の無駄づかいということになります。局の中では、こんな会話が交わされてたんだろうな。
「ワールドカップ、うちだけやらないわけにはいかねえだべよ」
「同じ放送流すんなら、どこの局も勝ち負けないでしょうしねえ」
 それと同じようなことが、出版社内でも言われてるんじゃないかしらん。
「ライバル社がやってるんなら、やっぱ、うちもミステリーの賞を作らにゃならんよな」とか「もう止めたいけどさ、やっぱ、うちが最初に止めるわけにはいかないじゃん」とか……。

 以上のような、日本独特の横並び意識が働いているのか否かは定かではありませんが、現実にはたくさんのミステリー新人賞があって、本賞ばかりでなく、読者賞とか佳作というものまでが本になるし、さらに新書判ノベルスの世界ではアイドル並の量で新人作家が登場してきますから、はて、1年間に30人でしょうか、40人でしょうか、長編デビューする新人の数は、業界内にいる人間にも見当がつきません。

 じつは、このミステリーという分野、新人がデビューするには、技術的な点でもっともハードルが低い小説なんです。誤解を恐れずに言うならば、アイデアを立てるセンスさえあれば、文章や人物描写、情景描写の能力に多少難ありでも、けっこう通用してしまう。
 たとえば、新人作家がこんなアイデアを小説化したとします。日本国の首相が初の国産スペースシャトルの打ち上げを地上から見守った。ところが、その大泉首相が、なんとスペースシャトルの内部で他殺体となって発見された。地上で打ち上げを見ていた人間が、どうして宇宙空間まで運ばれたのか? まさに「前代未聞の宇宙密室トリック」となり、ミステリーファンの注目を一身に集めることでしょう。
 しかし、しかし、300 ページにもなる長編ともなれば、一つの事件だけで引っ張っていくのは、ちょっと辛い。第二、第三の事件を起こさなければなりません。それが、次期首相と目されている人物が南氷洋の巨大氷山の中で氷詰め死体となって発見され、さらにはナンバー3が鯨のお腹の中から出てきたとかなれば、凄いことになりますが、さすがにそこまでのトリックは作れない。で、ただの殺人を次から次へと登場させることになる。それも普通の殺し方では目立たないから、なるべく残虐なやり方にする。生い先の短い大人よりも、子供を犠牲にしたほうが悲惨さが増す。ええい、いっそ教師が一クラスの生徒を皆殺しにする設定にしよう−−てなことが、最近の流行りになっているような気がします。

 こうした刺激の後にまた刺激という小説を、私は「電気ショック小説」と呼んでおります。この「電気ショック小説」というやつ、なかなか威力があって、私も過去、ついついページをめくっていき、夜更かしをしてしまったという経験が幾度もあります。が、不思議なことに、読み終わるや、興奮はスーッと引いていき、
(あらら、僕はどんな小説を読んでいたんだろう……)
 内容も思い出せぬ、健忘状態になることもしばしばです。余韻ってもんが、まるっきしないんだよなあ、「電気ショック小説」には。

 T君はエンターティメント小説を読むのが大好きだという、年下の友人です。その彼が言ったんですね。
「最近、僕、書店で本を買っていないんです。図書館で借りるか、ブックオフで買うのね。だってさ、このごろの小説って、1800円、2000円の金を出すほどの価値があるの、ほとんどないじゃない。ええ、ええ、やっぱ本好きの、それ、○○のマスターも、同じこと言ってましたよ」
 作家を前にして、なんというセリフ。しかも、その時、彼は私のおごりである酒を呑んでいたんですよ。失礼なやつ、手討ちにしてくれると思いつつも、(もしかしたら、そんなこともあるのかなあ……)と考えてしまうところが、私の性格なのであります。

 読者が2000円に近いお金を出すのは、読後その本が(ああ、読んでよかったなあ)と思えることを期待するからじゃないでしょうか。そして、読んでよかったなと思える本ならば、また読み直すかもしれないと、本棚にしまいこむ。反対に、ただ読んでいる時だけの楽しみ、つまり一時の楽しみならば、格安のブックオフか無料の図書館を利用するだけで充分でしょう。
 ブックオフや図書館が繁盛しているのは、本が側にも原因があるからじゃないでしょうか。そして、その原因の多くは、お手軽なハウツー本や電気ショック小説の氾濫にあるような気がするのです。

 というわけで、高村さん以外にも(このまま、ミステリーを書き続けていいんだろうか……)と悩んでいる作家は多いんじゃないのかな。
 ほんとう言っちゃいますとね、ミステリー関係の新人賞は半分以下に減ったほうがいいし、ミステリー作家も三分の一くらいになったほうがいいと思うんですよ。そして、減った分は、恋愛小説とか時代小説とか、大人が楽しめるファンタジーとか、向田邦子さんの短編小説集みたいなものとか、筒井康隆さんがかつて書いていた破壊的なスラプスティック小説みたいなものとか、ともかく、多様なジャンルの、多様な形式の小説が書店に並んだほうが、本の畑は豊かになる。いろんな人が、書店やインターネットで、本選びを楽しむことができると思うんです。

 この文をお読みになられた方は、どうお思いでしょうか。意見などがありましたら、掲示板のほうに寄せてくださいね。

 あーあ、今月はちょっと過激なことを書いちゃったみたいだなあ。
「天にツバ吐く行為じゃないのか。あんた、長編の謎解きミステリーはもう書かないにしても、型にはまらない短編のミステリーとかはまだ続けるんだろう」
「ミステリー作家は三分の一でいいと言ったけど、そうなると、カットされるのは、まず、あんたからじゃないのかい」
 などなどという囁きが耳元で聞こえます。
 でも、もう書いちゃったもんなあ。書き直すのは、面倒くさいもんなあ。でも、いいのかなあ。
「俺も男だ。吐いたツバは呑み込まねえ」
 小心な作家は、そう意気がって、葛藤にケリをつけるのでありました。






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