月刊エッセイ  Back number


[2002年4月]


■  ぼくが、青春小説を書けない理由


 先日、知人から言われました。「本岡さんのホームページは面白いですね。うん、小説よりも面白い」と。これ、どう解釈すればいいのでしょうか。今月はひがまず、またウケ狙いもせず、ただ誠実に書いていきたいと思います。

 先月末の「本岡類の今」で高校の同窓会のことに触れ、私があまりぱっとしない高校時代を送ったことを少しだけ書きました。実際のところ、高校三年間の思い出はほとんど残っていないのです。しかし、世間一般では違うらしくて、出版業界でも、最近では川上健一さんの「翼はいつまでも」が話題になったように、青春小説というものは、いつの時代にも書かれて、読者の支持を集めています。また、青春小説といえないまでも、十代を主人公にした小説も、山のように書かれている。なのに、私の場合、その種の作品は、短編も含めて一本も書いてないのです。

 なぜなんだろう? と考えて、お前さんが世間一般で言うような「熱くて爽やかな青春時代」「夢と希望の青春時代」を送っていないからだという、当然の結論に達しました。私の卒業した県立高校は千葉県でも二番目に古いという伝統校で、「質実剛健」が校風。なにかあると「一致団結しよう」と先生も生徒も当然のように言っていたような学校でした。しかし、私、その校風には言葉だけの嘘っぽさを感じていたし、人にはいろいろな意見があるのだから安易に「一致団結」するのはよくないとする立場に立っていましたから、これは周囲と上手くいくはずがありません。野球も強くて、同級生たちは夏の甲子園予選になると、こぞって応援に行っていましたが、私はそれにも背を向けていた。うーん、これじゃ、浮いてしまうのも当然だよなあ・・・。

 同窓会の席で、かつての級友から「村岡(私の本名)は卒業式に出なかったよな」「よくベランダで叫び声を上げてた」と言われたのに、その記憶がまったく残っていないことは、3月末の「本岡類の今」で書きましたが、自宅に帰って卒業アルバムを開き、さらに驚きました。クラブ活動にも背を向けていましたから、クラブ紹介のページに私の写真がないのは当然ですが、体育祭や文化祭の写真を見ても、いっさいの記憶がない。級友の顔が仮装行列の中にあるのに、えーっ、体育祭に仮装行列なんてあったっけ、この先生いたっけ、といったような始末でした。封じこめたい体験は記憶から欠落するというのは、サイコ・ミステリーによく使われる仕掛けですが、実際にあるんですね・・・。

 一つだけ、よく憶えていることがあります。高校時代の僕は将棋が好きで(あ、それだけで、クラーイと思ったでしょ)、将棋部を作ろうと思い立ちました。ちょうど若手教師のA先生が二段だと聞いたので、顧問をお願いしたところ、快諾を得ました。ところが、話を聞きつけた生徒指導のB先生がやってきて、許さんと言うのです。将棋なんて遊びを学校のクラブ活動にするのはけしからん、という論理なのですね。私は「将棋は日本古来の伝統文化で、A先生も顧問になるのを引き受けてくれた」と反論しました。そこで、A先生が呼ばれました。すると、古参のB先生の前で縮こまった若いA先生は、予想もしていなかった言葉を口にしたのです。
「いいや、私、顧問になると、約束したわけではありませんです」
 ここで、私が「大人は、なんて汚いんだ」と怒り狂えば、これはこれで青春小説のワンシーンになったことでしょう。しかし、私が心の中で思ったことは違いました。
(まあ、人間、こんなものかもしらんな・・・)
 私は、そういう少年だったのです。あーあ、嫌なこと書いちゃったなあ。
 そして、この話には、後日談があります。私が卒業して、2年ほどが過ぎ、将棋雑誌のページに我が母校が全国大会に出場したという記事を見つけたのです。時は移り変わっていて、文部省が課外活動として将棋を認めるようになっていたのですね。きっと、A先生もB先生も、率先して将棋部を作ったんでしょう。私は思いました。
(まあ、人間、こんなものかもしらんな・・・)

 一浪して大学に入ったのが1970年でした。いわゆる70年安保の年ですが、学生運動は前年の安田闘争のあたりでピークを過ぎて、この年になると、形だけはあったが熱の入らない、言ってみれば、燃え殻状態でありました。6月の条約延長を前にして、いちおう私もヘルメットをかぶって国会に向かいましたが、なんとなく力の入っていないデモ隊でした。緊張感のなさを機動隊も感じたのでしょうか、軽い蹴りを一発食らったくらいで、あとは優しくジュラルミンの盾に左右を護られ、定置網に入りこんだ魚みたいに解散地点まで誘導されていきました。ジグザグデモをする時は、すぐ前にいる参加者の腰のあたりを抱えます。たまたま前にいたのが女子学生で、瞬時(瞬時ですよ、瞬時。ほんとだってば)、妙な気分になったことを、ここで白状しなければなりません。

 条約が延長になったあと、クラスの集会で「今後も闘いを続けるため、勉強会を開いていこう」という提案がなされ、満場一致で採択されました。その勉強会が何度、開かれたかって? いーや、一度も開かれていないと記憶しております。時が過ぎ、クラスの皆は独占資本である大企業への会社訪問に熱を上げ、セクトのシンパで、クラスで一番のアジテーターだった男は、日本で最大の生命保険会社に就職を決めました。70年代初頭に大学時代を送った者の多くは、ホンネとタテマエを使い分けていたような気がします。ホンネは資本主義、タテマエは社会主義。そして、そんな自分のいかがわしさを自覚していたから、元気なくキャンパスを歩いていた者が多かったよう記憶しております。

 しかし、一方で、私とはまったく違った生き方をした仲間もいました。高校時代、親しくしていたC君でした。同じ大学の文学部に入学した彼は某セクトに入り、その後、リンチ殺人事件を起こしてしまったのです。実家に帰る時、郷里の駅に降り立つと、駅舎にC君の指名手配書が顔写真入りで貼ってある。それを見ると、胸塞がれる気持ちになるのですが、同時に、C君を羨む気持ちも心の底に生じておりました。むろん人を殺したのは最悪の行為ですが、そこまで学生運動にのめりこめたのは羨ましい、と。

 一昨年、50歳そこそこの若さで脳溢血のため逝去された作家の永倉万治さん。あの方とは、ずーっと昔、某雑誌のライターとして、ごいっしょさせていただきました。彼は大学時代はレスリング部に属し、その後、東京キッドブラザースの一員として世界を巡った人ですから、ああ、これが青春だ、という話は山のようにある。とくに、湘南の浜で夏、バイトをやった時の思い出なんてのは、若さいっぱいの話だったな。また、今は音楽評論の世界で活躍する萩原健太君も同じライター仲間で、彼はかつてサザン・オールスターズの初期の頃のメンバーだったから、こちらも楽しい話はいくらでもある。酒を飲みながら、二人の話を聞いていて、スポーツとか音楽とかができなければ、青春時代はスカなんだな、と、私はつくづく思ったものです。

 そう言えば、青春小説というのは、スポーツや音楽が登場するものが多いですね。いいや、ほとんどが、そうなんだ。主人公は野球やサッカーをやったり、バンドを作ったりしている。性への目覚めがあって、仲間同士の友情があって、なにかのイベントをやり遂げて、そして、仲間とは別れ、大人への道を旅立っていく。うーん、どれも同じじゃねえか。
「青春小説というのは、テレビの時代劇と同じなんですよ」
 と言った人がいました。つまり、お約束ごとが決まっているというのですね。私も、青春小説はオリジナリティーの希薄なジャンルだと思うのですが、一定以上の技量の作家が書くと、これがウケる。文学賞レースにも強く、賞を取る確率もかなり高い。きっと、多くの人が、過ぎてしまった青春は美しいものと考え、ついつい評価基準を甘くしてしまうからなんだろうな。でありますから、話題になっている青春小説の新聞広告を前にすると、「ずるいよ、ずるいよ」と、私はぶつぶつ文句を言ってしまうのですが、それは青春小説を書けない作家のひがみなのでしょうか。

 上記のようなことを言っていると、ある編集者が言いました。
「本岡さん、そういった暗い青春を送った人は、純文学を書くべきなんですよ。吉本ばななさんとか、おかしな青春をテーマに書いている人は、あっちの世界にいくらでもいるでしょ」
 なにを言うか、私はエンターティンメント小説村の住人なんだぞ。悪魔の囁きはやめてくれよ、と、私はまたぶつぶつ言うのです。

 この先も、私がミステリーを書き続けるか、今のところ自分でもよくわかっておりません。大人のためのファンタジーやSFにも心が動いています。恋愛小説や家族小説を書くかもしれません。しかし、青春小説を書かないことだけは、断言できます。でも、それって、人間としては、あまり幸せではないってことなんでしょうね・・・。

 あーあ、今月は冴えないエッセイを書いてしまった。来月は明るくするぞ、と決意しつつ、次号へ。



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