Maggie's J‐POP論

その13 米米CLUBというクラブ

昨日(2006.3.22),あの米米CLUB(以下「米米」とする)が9年ぶりに期間限定ながら再結成するというニュースがあった。米米というと,メロディアスな部分とコミカルな部分を絶妙にミックスさせたパフォーマンスで80年代後半から90年代半ばまで,J‐POPシーンのスターダムにい続けた巨大バンド……いや「パフォーマンス集団」…いや,やっぱり名前の通り「クラブ活動」だったのかもしれない。このクラブ活動,ホントに巨大である。最後には何人になっていて,どこからどこまでがオリジナルメンバーで,どこからどこまでがサポートメンバーなのか分からず,どーでもいいような状態になっていたと思う。

1.米米CLUBと私
彼らについて,個人的に印象に残っていることを二つ挙げたい。まずは,@ヴォーカル・カールスモーキー石井氏(&妹の金子美奈子氏(米米のバックダンサーチーム“シュークリームシュ”の1人))の実家を訪れたことがあることだ。彼(ら)の実家は茨城県北茨城市,大津港に近い昔ながらの集落の中にある。解散間近の97年1月ごろだったと思うが,うちの家族は茨城方面にドライブに行くのが好きで,何度もそっち方面に行ったものだった。もちろん,いきなりその実家に行ったというものではないので念のため。
で,ちょうど国道6号線沿いに今でもあると思うが,たまたま「米米まんじゅう本舗」というでっかい看板があったのを見つけたのだ。兼ねてからその付近が彼(ら)の出身であることは知っていたので,「こりゃ,記念に行ってみよう」ということで行ったのだ。国道から海岸沿いの道を入り,たしかさらに1本内陸に入ると,集落の中心がある。昔ながらの木造の古ぼけた民家が多い中,1軒だけ「あ,これだな」と思わせるような,今で言う「デサイナーズハウス」のようなきらびやかな家が建っていた。きらびやかだったのは,ガラスタイルの壁があったことによるものだろう。そこが紛れもなく,彼(ら)の実家だった。
別に彼(ら)がいるわけでもないのに,メチャクチャ緊張しながら店の中に入ると,本来は和菓子屋のようだが,洋菓子屋…いや横文字で“パティスリー”のように洗練されたデザインが施され,小さいながら喫茶スペースがあった。そして,カウンターにいたのは多分父上様であろう。お顔は佐々淳行氏に似ていらっしゃったと思う(なぜか敬語になってしまった…)。何となく似ているような感じはしたが,もっとも,もしかしてこの方が父上様じゃなかったら,それはそれで笑い話になってしまうが……。
米米にちなんだものということで多分売られていたのか,今でははっきりと覚えてはいないが,ここで「ダブルドリブル饅頭」というのを2箱買わせていただいた(まだ丁寧になっている…)。たしか,1箱が8個入りで1000円。別に“本人”じゃないのに,1000円札を出す手が震えていたのを覚えている。すると,向こうも多分慣れているのだろう。石井氏のものと思われるサインのコピーを2枚一緒に入れてくれたのだ。そのコピーはまだ実家にある。

もう一つ。これは個人的にはガッカリしてしまったことなのだが,A95年年末のテレ朝「ミュージックステーション」でのブチ切れシーンである。『JUST MY FRIEND』という,この年の春にリリースした曲を歌ったのであるが,売上げとしてはたしかにイマイチなものだった(オリコンで20位にも入らなかったのではないか)。たしか「なるほど!ザ・ワールド」(懐かしい!)のエンディングテーマになっていて,いかにも,このころの「米米王道ポップス」って感じで悪くはなかった曲だが,この曲を歌っている途中から,半ばブチ切れた歌い方になっていた石井氏の異変に気づいたのは,私だけではないはずだ。
どう考えても歌詞を忘れたとは思えないのだが,やがて「ラーラーラー」なんて言い出すと,しまいには「売れねぇんだよ,こんな曲歌ってもよ」と思いっきり言い出す始末。そして,とどめには「おい,やめよやめよ。アレやろ,アレ」と言って,曲を中断させてしまったのだ。呆気に取られる出演者と観客。テレビ局もさぞ焦ったであろう。私もやっぱり焦ってしまった。「何をする気だ?」と。
すると,彼らのもう一つの持ち味ともいえるコミカルな“チンドン屋”が演奏するような曲(タイトルは忘れてしまったが)を突然演奏しだして,片や石井氏は「もー,どーでもいいや」とばかりに,マイクスタンドに跨って“ズッコンバッコン”するような踊りを踊り,やがて曲が終わったのか,「ハイ,次シャ乱Qよろしく!」と言い残し,ステージを足早に去ってしまったのだ。何度か“珍場面”のコーナーで取り上げられたと思うが,タモリ氏の呆然とした顔が今でも印象に強く残っている。完全に,これは石井氏がキレてしまっての結果であろう。その後で出場することになっていた紅白でちゃんと歌えるのか,マジで心配になってしまったものだ(さすがにちゃんと歌っていたけど)。
ちょうど,このころだっただろう,石井氏が「人間不信に陥ってしまった時期」というのは。結成時からのオリジナルメンバーだったギターのジョプリン得能氏とドラムスのRYO‐J(坂口良治)氏が「自分たちの音楽をやりたい」と,脱退してしまったタイミングが重なった。『ワンダフルSUNでい』『すべてはホントでウソかもね』は,オリコンでベスト10に入っていた95年の米米だったが,売上げそのものは確実に下降線だった。
多分,ホントに彼らが「やりたい放題すぎねーか?」と言われてまでもやりたかったものと,世間が彼らに求める「米米ポップス」とのギャップが,相当にあったのもあろうと思う。前年には,石井氏がソロプロジェクトで『河童』という映画を撮ったが,「HEY!HEY!HEY!」に出演したとき,浜田雅功氏の“ツッコミ”に逆ギレしたとかで放送が取り消しになったなんてこともあった(これは,テレビ局が神経質になりすぎて勝手に放送を取りやめたものだと,浜田氏が自著『読め!』で書いている)。石井氏の著書として幻冬舎文庫から出版された,個人的にはすごい面白かったと思っている自伝『アートの祭り』では,その繊細な氏の心中が随所にうかがえるが,いろんなストレスが氏の繊細な心にどんどんと積み重なり,あの“ブチ切れ”につながったのだと私は思っている。

2.米米CLUB・私的音楽論
こんな長ったらしいエピソードを書いたところで,ようやく音楽に話題を移したいのだが(笑),私は完全に彼らの音楽に対しては「正統派好き」である。一方の「コミカルなほう」は正直言ってあまり好きではない。彼らがブレイクするきっかけとなった『KOME KOME WAR』も,プロモーションビデオがアメリカの名誉ある賞でグランプリだかを獲った『FUNK FUJIYAMA』も好きではない。
なお,『君がいるだけで』は嫌いではないが,どうしてあんな駄作なドラマ「素顔のままで」のテーマソングなんかに使われたのか,しかもよりによってドラマが高視聴率を残したのか,いまだに納得できない(と言いつつ,ヒロインの安田成美氏が好きだったので観てしまったが)。たしか,中森明菜氏がドラマに初出演で,ものすっごく大げさな演技が鼻について仕方がなかったのを記憶している。
そんな彼らの時代を,私の勝手な主観で分けるとするなら,
@売れなかったけど曲がよかった時代(1985-87)
Aそこそこ売れて安定しだした時代(1988-91)
B異常に売れすぎてマンネリ化した時代(1992-97)
といったところだろうか。以下,それぞれつらつらと書いていきたいと思う。

@
はデビューから,いまやカラオケスタンダードになってしまった『浪漫飛行』が収録されているサードアルバム『KOMEGUNY』(1987)までの時代。それほどメディアに出てこなかったころで,私は実はこのころの彼らをオンタイムでは知らないのだ。『KOMEGUNY』がオリコンで3位になって,「そういう人たちがるのを知っている」程度だった。とはいえ,特に彼らのデビューアルバムである『シャリシャリズム』(1985)は,このコーナーのその4その6で絶賛しているアイテムだ。
私としては,後半の米米によく見られたような「人数が多いことで生まれる壮大さ・大らかさ」みたいなものは,この辺りではあまり見られないが,だからこそメロディが引き締まって際立った印象を持ち,聞いてて心地いい感じがするのである。もちろん,これは好みの問題だから,あくまて私見ということで……というのは,アレンジャーを務めていた中村哲氏のアレンジが,当時の米米のメンバーにとっては本意な形ではなかったようだからだ。「彼らが本意でなかったものを好きになる」というのは,彼らにとってホントに有難いことなのだろうかと思ったからだ。無論,それは私なりの敬意の表し方でもあったりするのだが(って,あいかわらず勝手な妄想だが)。

で,それが証拠に…というか,ちょうどAの時代の終わり頃。1991年1月にリリースしたセルフカバーベスト『K2C』では,デビューシングルであり,デビューアルバム『シャリシャリズム』にも収録された『I・CAN・BE』,『KOMEGUNY』にも収録されている『シュール・ダンス』,シングルのみオリジナルアルバム未収録の『PARADISE』など,いずれも彼らが「ホントはこうやりたかった!」と思われる別バージョンで収録されている。
それらはどちらかといえば,もっと素朴…というか純朴でシンプルな造りであったと思うが,私にはやっぱりいずれもオリジナルのほう(もちろん,大元のオリジナルアルバムないしシングルのほうである)が好きなのだ。『K2C』バージョンはいずれも,ボンヤリとしていて中途半端な感じがして好きになれない。ホントに米米が好きな方には申し訳ないところである……ま,でも『シュール・ダンス』なんかは,ご丁寧に“元祖”って言葉がマクラについているが,あえてやるにはいいタイミングだったのか。前年90年に『浪漫飛行』がJALのCMで使われてミリオンセラーとなったのが,最終的に「好きなことができる余裕ができた」後押しのようなものになったかもしれない。
ちなみに,話題をそらしまくって恐縮だが,『浪漫飛行』はオリジナルアルバムがリリースされてから2年以上経って日の目を見る形となったが,私自身は「この曲はシングルで出したら絶対に売れる」と思っていた。「メロディアス・シンプル・ポッブ・キャッチー」の“四拍子”がそろっているのだから,売れないはずがない。たしか,カップリングを2パターンにしてシングルを2種類リリースしたおかげで,厳密には1枚1枚がミリオンセラーではなくて,「2枚合わせてミリオンセラー」という扱いなのだが,こうしてあえて2枚にしたというのも,彼ららしいと言えば彼ららしいのだろうか。
このAの時代に出したオリジナルアルバムは,88年『GO FUNK』と89年『5 1/2』だったか。2枚ともどっちかというと,個人的には「大味」「散漫」な印象を持っている。前者は曲数が多いのと,何がインタルードなのか何が本格的な曲なのか,よく分からなかったりする。いいと思ったのはスローバラード『TIME STOP』と,コンパクトにまとまったミディアムナンバー『Sexy Power』ぐらいか。後者はもはや,どれもこれも「散漫」に聞こえる。もちろん,その散漫なのは見方によれば「何でもありの幅広さ」なのかもしれないが……こちらのアルバムで「これだ!」というような印象深い曲はない。強いて挙げれば『Melon Tea』ってでもしとこうか。

Bの時代は,何というか「好かれようぜ」という姿が垣間見られることが多い。94年に「LIVE UFO」とかいうフジテレビのイベントで『ア・ブラ・ガダ・ブラ』がイメージソングに使われたときが,その最たるものだと思う。何とバンドのメンバーがCMに総出演しているではないか。多分に,上述の『君がいるだけで』で日本レコード大賞(ただし,このときは2部門あってその片方での受賞だったはず)を獲り,どこか「国民的バンド」「高好感度バンド」にさせられたのが何よりも大きいところだろうが,個人的には「メディアのために曲を作ってパフォーマンスしている」という印象が最も強かったと思う。
例えば,93年に出たシングル・アルバムの曲はいずれも何がしかのタイアップがついていたはずである――『俺色に染まれ』(シングル)はTBSのゴールデンタイムのバラエティのテーマソング。『上を向いて歩こう』(アルバム『Phi』に収録された曲)は日テレの「投稿!特ホウ王国」のテーマソング。『ときの旅路』(シングル)はまだ小学生だった安達祐実嬢が出演して,結局1カ月ぐらいで“大人の事情”により上映が打ち切りになった「REX」という角川映画のテーマソングだった。翌94年は上記の『ア・ブラ・カダ・ブラ』とともに,同年リリースのアルバム『PhiU』に収録の『Child's Day's Memory』が幼児番組「ポンキッキーズ」で使われたり……タイアップがとにかく多かったと思う。
一方,その翌年95年に出た,上述のコミカルなほうが生かされた『ワンダフルSUNでい』はアサヒビールのCMで使われ,これまた彼らがイメージキャラクターで出ているが,ここいら辺りは,ある意味彼らのやりたかったことができて「面目躍如」だったかもしれない――いずれにせよ,どっちかといえば「高好感度」のほうで,とかく米米が扱われている印象があったのは確かだ。その分,当たり障りのない「好感度優先」っぽい曲ばかりが多くなって,前述したようにホントにやりたかったことがやりづらかったのではと推測するのだ。
そして,解散前のオリジナルラストアルバム『押米』(1997)で,いよいよ決定的なことが起こった。それはクレジットで作詞・作曲のところが各個人名になったことだ。知っている人は知っているだろうが,米米の曲はそれまで「All Songs written by 米米CLUB」と表記されていたのだ。いつまでそうだったのか分からないが,「ギャラを人数割りした」というエピソードもある。元からほとんどは石井氏が中心になって曲を作ってきたようだが,意識的に「みんなで作り上げた形」にしていたと聞いたことがある。こうして各個人名でクレジットに出したというのは,彼らの中で…いや,石井氏の中で「何かがあった」,少なくともいいほうではない悪いほうで「何かがあった」のかなという印象を持った。「あ,これなら解散というのも分かるな」という感じだった。
さらには,クレジットに載っているサポートメンバー(のはずの人)までがすべて「米米CLUB」として扱われていたのにも驚いた。ギタリストもキーボーディストもバックダンサーも,元はサポートメンバーだったはず。いまやサザンのツアーなどで,そのサザンのオリジナルメンバーである野沢秀行氏に代わって(野沢氏がヘルニアを患っているためとか)パーカッションをやるなど,あちこちからパーカッショニストとして引っ張りダコとなっている三沢またろう氏も,初めはサポートメンバーであったはずなのに,しっかりとメンバーに加えられていた。三沢氏って,私は米米での印象がすごく強かったけど,今じゃすっかり売れっ子だね……って話題がそれたが,その代わり途中で抜けたジョプリン得能氏,RYO‐J氏,そして“シュークリームシュ”で金子美奈子氏とともに踊って,最後のほうでは三沢氏に師事してバーカッションもやっていた天ヶ谷真利氏は,完全に「別扱い」っぽくなっていた。
97年3月,東京ドームで彼らは解散することになった。wowowでコンサートの中継をやっていたはずだ。このコンサートもまた人を食ったようなもので,2曲だけ歌ってとっととステージから姿を消し,アンコールの声で再び出てきてからが本格的な2時間以上のコンサートだったなんて構成だったはずである。こんなやり方もまた「彼ららしい」というべきなのか――とはいえ,ホントの彼らのコンサートの舞台は,莫大な金をかけてハンパな造りを一切しないものとして兼ねてから有名だった。派手な衣装,壮大なセット,一糸乱れぬパフォーマンス……その一端をプロモーションビデオなどで垣間見ることはできるが,一度でいいからオンタイムでコンサートは見てみたかったと思う。

――その解散から9年経った米米。石井氏がかつて米米を称して「我々はいつでもメンバーになっていいし,いつでも抜けていいようにできている」と言ったり,解散時には「今日解散するといっても,明日また再結成するなんてことになるかもしれない」とも言っていた。そんなクラブ活動のノリな彼らがどんなメンバーで復活するのか楽しみである。今年7月にシングル,9月にアルバムを出し,その後でアリーナツアーをやるという。シングル・アルバムを買うかどうかは別としても,あるいはコンサートぐらいは記念に見ておきたいものではある。(おわり)

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