旧宮城町はニュータウンとして変貌著しい。

      
(2006年)
蕃山が削られ、その土砂で麓を埋め立てていった。

       
(1988年)
蕃山頂上より大東岳方面を望む。国道48号線バイパスの土盛りが見える。
      
(1986年)




盆地の中心を東西に国道48号線のバイパスが横断する。写真右方向は、西道路経て仙台市内に行く。
(西館跡より)
宮城県
仙台市
2006年9月、蕃山
1986年、蕃山より愛子方面を望む
1987年、宮城県、宮城郡、宮城町は泉市とともに仙台市に合併しました。この時の広域合併によって、仙台市は政令指定都市になりました。現在仙台市は東北地方の中心都市として市域の拡大と共に市内整備も進み発展しているまっただ中です。2007年は地下鉄東西線の工事も始まります。
1983年から筆者は仙台市内の大学に通うために、かつての宮城町に住んでいました。大学まで10キロほどの道のりを仙山線と市バスで通ったものです。その当時は、宮城町から仙台市まで通勤通学する人も極めてまれでした。
蕃山の里山に開けた宮城町。広瀬川を挟んで北は泉ヶ岳を望む芋沢地区。蕃山からは山形県境の大東岳、小東岳、さらに東の頂上からは太平洋を見渡すことができました。仙台市に合併される前の宮城町はまさに、日本の農村風景がそのまま凝縮された里山でした。その麓に、稲作を中心とする農村が散在し、農業を守る神々への信仰とともに人々の生活がありました。
江戸時代の石碑からそれらを検証することができる貴重な里山でした。山神、水神、雷神、道祖神、蛇塚、馬頭観音などなど、日本古来からの信仰の移り変わりと、変わることのない自然への信仰の姿がありました。
広瀬側に注ぐ、さいかち川。緩やかに蛇行し、淵をつくり木々でおおわれクヌギの散歩道となり、村と村を結ぶ道は上へ下へと波打ちジグザグにつながっていました。到るとことに、信仰の碑がそこここに見ることができました。
狭い宮城町ですが地域により農業に特色が見られます。特に稲の乾燥には地域差が見られます。里山ははさ垣、大倉や赤坂などの開拓地ははさ杭、丘陵地は地干しといった具合です。東北地方に見られる稲の乾燥法が宮城町では一度に伺うことができました。
あの頃から約20年。宮城町は青葉区として都市化の波にあらわれ、変貌をとげました。20数年間に取材した資料をみなさんにご紹介し、その当時の宮城町を思い出すとともに、稲作を中心とする  農村文化を理解する手だてになったらと願い、ここに編集いたしました。

阿彦慎平画帳         

宮城町へようこそ











                                                    
  
  




















稲架掛け(はさかけ)にみる農村の生活
一 宮城県仙台市に見る稲架掛け(はさかけ)

(1) 旧宮城県宮城郡宮城町の稲の乾燥法

  1 宮城町の概況
 宮城町は宮城県中部、宮城郡の町です。1963年に町制が施行されました。人口は1970年当時16,068人。仙台市に合併時1987年は29.093人。2005年には62,981人。東西に長く東は仙台市、西は山形県に接し、広瀬側の中上流を占め、大部分が山地です。東は奥羽山脈が南北に走り、舟形山系から源を発する大倉川は関山峠に源を発する広瀬川と白沢で合流し、東へとゆっくり流れていきます。その広瀬川の北は台地であり、近年暗渠排水ができるまでは畑作が多く行われていました。昭和42年、大倉ダムができ、芋沢の青野木が開田されました。広瀬川の南から蕃山にいたる平地は水田地帯です。その他林業も盛んです。また、定義、作並、白沢、鳴合などの温泉や八森、作並などのスキー場があり、また西仙台ハイランドがあったり、仙台市内からのレクレーション地帯となっています。現在は宮城県仙台市青葉区となっています。
 稲を乾燥させることを「稲架掛け(はさかけ・はさがけ)」といいますが、宮城町では「ハセガケ」と呼ばれています。「稲架」も「ハサ」ではなく「ハセ」といいます。

  2 はさかけ(ハセガケ)
@ 宮城町上の農家
 宮城町では稲架掛け(はさかけ)をハセガケといいます。山地の多い宮城町では、ハサ材が入手しやすい。ハサ材とはハサを組み立てる材料のことです。材種は、杉・楢・栗が使われます。杉は間伐材を用います。一番丈夫で長持ちするのは栗の木です。栗の木は堅くだいたい10年〜15年位は使うことができました。これをしまっておくところがクイボウゴヤです。雨に当てっぱなしであると2・3年で使えなくなります。クイが黒くかぶれてブヨブヨになってきます。そこで柱を立て屋根をつけて小屋にしまっておきます。これらは田圃の脇につくられました。ハサ材の柱はクイですが、横には竹を渡します。竹は自分の屋敷内の竹藪から伐ってきますが、ない場合は竹藪のある人から買ってきました。この竹は10年くらい使えてそうです。古くなったハサ材は焚き物に使われました。  
A 同町愛子宮の農家
 ハサ材をカラクイ小屋という屋敷内の小屋にしまっておきました。以前は田圃の中に置いていましたが、竹でもクイでももっていかれることが二・三度あったそうです。自分のところに山がない、あるいはすくない人がこっそりもっていくのだそうです。はさかけ(ハセガケ)はたくさんの材料が必要です。この方の場合、一反につき約80本、長さにして15間分ののハサが二つ必要でした。一間ごとに二本。それらが一五間分で計三二本必要です。支えにはクイを五本使います。合計三七本いります。これが一つのハサに必要なクイであり、この一五間のハサが一反あたり二つ必要でしたから、合計七四本、約八〇本のクイが必要でした。クイガケの場合、杭三本で米一俵分であり、一反部で三五本必要ですから、はさ架けはクイガケの倍の材料を必要としました。さらにはさかけの場合は竹を必要とするので材料に困る人も出てきます。
B 同町芋沢青野木の農家
 この地域には暗渠排水ができてから入植した人が多く、ここではボウガケというクイガケが行われています。入植当時ハサ材は自分の山から採ってきましたが、足りなくてまた、竹藪をもたなかったので、竹材も手に入らなかったからです。入植後すぐは苗を植えても稲が育たなかったそうです。
C はさかけにかかわる呼び名
 はさかけを支える縦の杭をカラグイ、横の竹をハセダケ。縛る縄をハセナワと言ったそうです。材料は売っていなかったので自分のもつ山で採ってきて、冬の間に手入れをして材料をつくったそうです。山の少ない、あるいはない人は、もっている人から買いました。クイガケは裏返すのが大変であるし、山形県に見られるような背の高いハサ架けは組み立てるのも手間がかかります。平野部のように反数が多くなく、かつハサ材に恵まれていることからはさかけ(ハセガケ)が一般的になりました。はさがけは掛け替えは不要です。稲が広げられている面積が広いからです。組み立てることをハセツギといいます。強風で倒れることもありました。重さもあり大きなはさかけが風で倒れるのは意外ですが、はさかけは帆のような状態ですから、案外風には弱かったそうです。時にははさかけ(ハセガケ)全体が倒れることもありました。そのようなときは、全部稲をはずして、ハサ材をばらしてまた組み立てました。はさかけ(ハセガケ)は杭の差し方が悪いと風によって倒れます。立てるときは日向きよりも風向きに注意したそうです。
  雨が降っても秋の風でけっこう乾くもので、1ヶ月もすれば稲の束ねたところも乾いて、取り入れることができました。乾燥の具合は米粒を歯でかみつぶして具合をみました。パリッと軽い音を立ててつぶれれば取り入れました。そいなれば藁も十分乾燥した状態でした。はさかけ(ハセガケ)は早くて二五日。遅くて一ヶ月でイネアゲしました。イネアゲとはハサの稲をはずすことです。これは天気のよい時に行います。イネは納屋に重ねておいて、その都度ニワに出てイネコキ(脱穀)を行いました。イネコキは10月初めから11月中頃までかかりました。ハサ架けの横に渡したさをの端を草で包んでおきます。これは、竹の先で眼をつつくと悪いからです。昼もそうですが、日が沈んで暗くなってからも仕事をすることがあるからです。実際昔は眼を突いてけがをする人もいました。

 昔、はさかけ(ハセガケ)にブランコをつくってもらって遊んだこともありました。ブランコといっても今風の立派なものではなく、ただ藁縄をくくりつけたものですが、子供たちを遊ばせて、親たちは手を煩わされないで仕事をしました。その当時は幼稚園や保育園などなかったので、乳幼児も田圃へ連れて行きました。雨が降ったりしても、親たちは仕事をしなければならなかったから、親は田の端に竹を打ち付け、そこに傘をくくりつけて、その下で子供たちは親の仕事が上がるのを待ちました。
  はさかけ(ハセガケ)の材料をばらすことをハセホゴシ、またはハセホグシといいました。イネアゲが済んだ後に行います。はさかけ(ハセガケ)は二段のもの、三段のものとがあります。収量の多少によって異なります。どちらも人間の背の高さぐらいなので仕事がしやすかったそうです。山形県の一二段もあるハサ架け、新潟県の立木を利用したハサ架けのように脚立やはしごは必要なかったそうです。

 3 ボウガケ
  ボウガケの材料はクイを用います。クイの材種は杉の他ナラ、クリといった雑木を用います。用いる杉は間伐材です。クリは堅く一番よいとされました。宮城町の場合、山地の林に恵まれ、自分の山から採ってこれました。
  ボウガケに使うクイは、クイボウといいます。クイボウは地面に突き刺して立てます。乾燥のいい田では30cmくらい、ぬかるむ田ではそれ以上で40〜50cmくらい掘って立てました。ヨコボウといわれる押さえの横木は1本だけです。地面より50cmぐらい上に縛り付けました。地面より高くするのは風が入るようにするためです。一番下に重ねるイネは、ボウガケ全体の支えになるアシになります。一番下のイネは4カ所に井型に組みます。この上に干すイネを同じく井型に組んでいきます。井型に組むのは風通しをよくするためです。
  クイボウは少ない材料で多くのイネを干すことができます。七尺(210cm)のクイを用いれば、3本で約1俵分のイネを干すことができます。クイボウは田の中に立てます。クイボウは風の強い時は倒れやすく、将棋倒しのように全部倒れることもありました。その時は一旦全部ばらして、クイを立て直して、イネをかけ直しました。ハサが重くても重心がとれずに倒れるし、乾いて軽くなっても風で倒されやすかったそうです。ボウガケは乾きは遅いのですが、一度乾くと雨が降っても中までは濡れませんでした。一度架けて干すと、天候次第では早くて10日、遅くて2週間してから掛け替えを行いました。最初は穂を外側にして干し、掛け替え後は穂を内側にして干しました。乾燥したイネを取り入れることをイネアゲといいました。クイをしまうことをクイカタズケといいました。しまっておくところをクイボウゴヤといいます。普通は田の中の畦の広い所に屋根をつけた場所に置きました。畦に置くと運ぶ手間がかからず仕事がしやすかったそうです。
  宮城町でボウガケが行われている地域は、芋沢青野木です。以前は雑木の生い茂る丘陵地でしたが、戦後開拓されました。昭和42年に大倉ダムができ、青野木にも水が引かれるようになってから開田されました。それ以前は畑作が主でした。Aさんは新潟県旧南鯖石村の出身ですが、昭和15年満州に開拓農民として大陸に渡りましたが、昭和22年に引き揚げ、現在の地に入植しました。新潟県にいたときはハサ木を用いていましたが、青野木にきて水田を開いてからはクイガケを行いました。村の人から教わったそうです。ハサ木では木が育つのに年数がかかり、その間かわりに干す方法が必要です。ハセガケでは材料が要ります。クイは山から採ってこれましたが、竹材がありませんでした。また、一時に購入するお金もありませんでした。新潟県と違い洪水もなく田も堅いのでクイがよく立ちました。ボウガケの方が架け替えの手間はかかりますが、手軽でした。また、それで十分に乾燥できました。そのAさんも昭和60年の秋、久しぶりにハサ木を用いました。この年は長雨続きで、イネがいつまでもダラダラと濡れたそうです。機械を入れるために田の角を四角に刈ることをカドガリといいますが、このカドガリしたイネを干したのだそうです。故郷での干し方を思い出してつくりました。屋敷林の杉の下に竹をくくりつけてイネを架け干しました。
 
Yさん一家は昭和25年、大倉からこの青野木に入植しました。現在大倉は大倉ダムの湖底となっています。大倉当時はハセガケで、入植して2・3年くらいハセガケでした。ハサ材は年々古くなったのを新しいものと取り替えなければならないし、青野木ではそれが思うように手に入りませんでした。この地域には竹藪がなく、ハセダケが手に入りませんでした。そこでボウガケを行いました。

4 地干し
  宮城町でははさかけ(ハセガケ)が中心で、地干しは行われてきませんでした。しかし、1980年代までは、青野木でも地干しが見られました。それは他から入植した方たちがこの地に地干しを伝えました。入植した人は、里前といわれる仙台市の大郷、七郷の農家の二・三男でした。里前では地干しが行われ、地干しをソクタテといっていました。このソクタテは稲穂が上になっています。田の畦に一列に並べて干しました。また、下愛子字宮においても地干しの方法が知られていました。ドデガケといってやはり、穂を上にしました。一ヶ月ほど干したそうです。

5 ヒドロタ
  昔は田といえば湿田でした。宮城町では湿田をヒドロタと呼んでいました。ヒドロタは膝下までぬかるんだそうです。その田の上にハセをこしらえましたが、あまりにもぬかるんで、仕事がしにくいのでイボリを切りました。稲株の間を一直線に掘り、水路にして水を流し、田を乾かしました。イボリを切る時期は、稲穂が黄金色になった頃でした。イボリを切る道具はクマデでした。また、稲株を一株ずつ一列に引っこ抜くと一直線の溝ができますが、これもイボリキリといいました。

6 イネタテ
  雨や風で倒れた稲は、六株くらいずつ寄せて結んで立てました。しめった土に穂がついたままにしておくとモエル(発芽する)からです。これをイネタテといいます。しかし、地面が十分に乾いている場合は、むしろ倒れたままにしておきます。というのは束ねていじると茎が折れて、土中の栄養分が穂にいかなくなり、実入りが悪くなるからです。これに対し、稲を束ねないで、竹竿を使って自然に立たせておく方法もあります。
 宮城町の農家では、稲をできるだけいじらないで済むイボリキリをして稲を乾かしたそうです。

7 米の保存
  米は乾燥させないと冬の間に黄ばんだりカビが生えたりして腐ってしまいます。干した稲は、ミオに積んで外に置いたままにしておきました。ミオにすると雨に当たっても中までは濡れませんでした。それを崩して稲束を物置にもっていって、脱穀しました。
  ワラも保存するために十分乾いていなければいけません。ワラは冬仕事に使います。ワラは、ワラナワをなったり、ムシロを織ったり、タワラ・ワラジを編んだりする材料です。また、牛・馬の飼料にもなり、敷くのにも用いられました。ワラが十分に乾いていないと、保存中も腐りますし、ムシロやワラジにして積んでおくだけでも腐ってきます。

8 その他
 宮城町では地の神さまを祀る風習はありませんでした。ただ、上愛子字宮では、山から流れてくる水が最初に入る田では、お諏訪さままらもらったお札を立てました。



 (2) 宮城県迫町での調査
1 概況
 『伊豆沼をはさみ、栗原郡若柳町畑岡と接し、また東南は長沼を隔てて北上地区に接している。東西と南北にわたり、丘陵地が多いが、他地区に通じる道路は平坦で、畑地は大体丘陵地を開墾したものであり、水田は山沢の開墾地であるが、現在は山上まで水田として利用されている。』
 『伊豆沼湖沼群は、西方の丘陵の谷間を流れる水が、迫川の土砂の堆積作用によってせき止められてできたものである。仙北平野にはかつて多くの沼があったが、多くは水田に干拓されてしまった。伊豆沼は大沼ともいわれ、大昔は二千ヘクタール、藩政時代には一千三百ヘクタールもあったが、水深が最深部でも1.3mと浅く、昔から何回となく干拓され、辺縁部が水田となった。さらに、昭和18(1943)年から大規模な干拓事業が行われ、当時の総面積890ヘクタールのうち、260ヘクタール余りが美田となった。長沼もまた入江や浅い部分が干拓されて、90ヘクタール余りが干拓されて耕地化された。』 以上は「迫町史」からの引用です。迫町新田地区の地形、地勢について述べられた部分です。新田地区は沼が多い低湿地もありますが、一方で小高い丘が並び、集落はその上にあります。平坦な麓に水田が広がっています。

2 はさかけ(ハセガケ)
 迫町では、ハセガケはあまり行われていませんでした。ハセガケはハサ材をたくさん必要とするからです。丘はたくさんありますが、雑木の生えた山林がないため、材料が得にくく、水田面積が広く収量が多いために、材料もたくさんいるからでした。ハセガケを行えた家は材料のある農家に限られました。

3 ボウガケ
 昭和のはじめに、村役場より稲の乾燥について指導が行われ、杭を使ったボウガケを行うようになりました。昔よりこの地域は、地干しが主でしたが、地干しでは米の乾燥が十分ではなく、保存がきかず腐るので、再三に渡り県が主体となって稲架掛け(はさかけ)の指導が行われました。
 杭は自分のもつ山から採ってきました。材種は杉の間伐材でした。山のないひとは山のある人から買ったり譲ってもらったりしました。杉の他、クリ、ナラ、クヌギなどの雑木も利用しました。
 ヨコギは二本用いました。地面と杭の真ん中に結わえると、空間ができるので風通しがよくなりました。杭が稲の重さで田にのめり込まないように、杭の根元をワラ縄で縛りました。土の中へは、30cm位突き刺して、杭を立てました。一番下は脚をつけて安定させました。乾くと脚がもろくなりますが、その頃にはボウガケ全体が乾燥して軽く、かつ棒も地面にしっかり突き刺さっているので、倒れにくくなっていました。しかし、台風などの大風では倒されることもありました。その場合は、バラしてもう一度かけ直しました。風があれば10日でトッカエシ(掛け替え)を行いました。はさかけの杭はクロ(畦)に立てましたが、田が締まって堅く、立てられない場合は田に立てました。

4 地干し
 昭和のはじめまでは、ソラタテという地干しが行われていました。刈り取った稲は、原っぱや空き地に干しました。その場所は村有地で、干すのは早い者勝ちでした。誰がどの場所へどのくらい干すことができるかは決まっていませんでした。田は、低い平坦地にありましたが、家・屋敷・村有地といわれる原は小高い丘の上にありました。自分の屋敷内に干しては、場所が足りなかったそうです。田は湿田で、水が多いときには畦も水に浸かっていたために、丘にあげて干しました。原には20日〜30日位干しました。
 ソラタテとは、穂を上にして稲束を立てることです。ロッパダテともいいました。また、カゴダテともいいました。ロッパダテ、カゴダテとは、稲束を六把にして立てることからきました。田の比較的乾いている田では、稲束を太くできたし、乾きにくい田では稲束を細くしました。また、田の面に土を2尺位の高さに盛り、稲束を四方より立てかける干し方もありました。これらは乾いた田で行った干し方です。天気次第ですが、半月から20日程干しました。 

5 ドベタ、ハヅキ
 かつて迫町には沼が多く、伊豆沼は雨が降ると水があふれました。新田地区の平坦な場所は迫川より低く、堤防もまた今よりずっと低かった。土盛りの堤防のため、大水になると土手を越えて水があふれ出ました。稲刈りの時も、あふれることがあり、そのようなときは、フネガリといって、舟に乗って刈り取りました。湿田の場合、刈り取った稲はソリにつけてクロ(畦)まで運びました。湿田が多く、ドブタあるいはヒドロタといいました。腰の下まで泥にもぐるほどでした。これに対し、乾いた田をハヅキといいましたが、これは丘の下など比較的高い場所にある田でした。
 湿田の場合、山から土をもってきて田に入れたりしましたが、昭和16年に暗渠排水ができてからは、この地区も乾田になりました。このあたりは湿田でしたが、クロは人が歩けるくらいに地面は堅かったそうです。

6 ニオズミ
 以前の農作業は人手がかかり、取り入れ・脱穀をすますのに冬までかかりました。穂が十分に乾かなくても、雪が降り出せばすぐに取り入れました。天気がよければ半月、悪ければ20日程干してから昼間にイネアゲして、夜にコイだそうです。イネアゲとは、干した稲を取り入れることで、コグとは脱穀することです。 
 イネアゲした稲は、ナガヤといわれる納屋に、ダンコヅケという馬車を使って運びました。ダンコヅケは四輪の馬車です。昭和にはいってからは二輪車ができ、ひくのも馬から牛にかわりました。牛はぬかるむ所でも平気で仕事をしました。新田地区では、家は丘の上に建てました。洪水に遭うからです。ナガヤも丘の上にあります。そのために急な坂を運ばなければなりませんでした。車のない家では、馬の両側につけて運びました。馬は一家でだいたい二頭飼っていました。
 運ばれた稲はニワ(作業場)にイナニオを積みました。高さは一二尺位、直径は一間半位でした。迫町新田のSさん宅では、15山もできたそうです。イナニオを積む場合、下にはワラを敷き、頭にはボッチというワラの帽子をかぶせました。このボッチは雨よけです。穂を内側にして重ねるので、稲束は外に向かって斜めに積まれることになります。そのため、雨水は外側へ流れ落ちました。脱穀は、雪の降る頃から始められ、旧正月には脱穀が終わりました。
 その当時は、秋の長雨が過ぎてから稲を刈ったので、刈っているうちにある程度、穂が乾いていきました。刈るのに、一ヶ月くらいはかかりました。仮に、一反を二人で刈るとすれば、半月程かかる具合です。脱穀は、11月後半から正月15日頃まで続き、旧正月(新暦の2月)に稲仕事が一通り終わり、正月を迎えることができました。
7 その他
 稲刈りの前に宮城町で見られるようなイボリキリを切ることはありませんでした。一面水浸しで、道や畦が頭を出しているくらいで、排水しようにも水を流すところがありませんでした。
 わら加工するために、あるいは米の保存のために、稲の乾燥に十分気を遣いましたが、政府に供出する米は、あまり乾燥させないこともありました。納める時は、石数で測るので、乾くとガサばらず重くもなくなるからだと、笑いながら話してくださいました。
 わらはナガヤに積んでとっておきました。なわ工場や畳工場の人が買いに来るからでした。

 (3) 宮城県南郷町での調査
1 概況
 南郷町とは宮城県中部、遠田郡の町です。1970年当時人口は8011人。鳴瀬川の下流と旭山丘陵との間の湿地帯にあり、集落は鳴瀬川の自然堤防に沿って一列に並んでいます。道路に沿って水路が流れる様は、水郷の趣さえあります。
2 地干し
 南郷町においては、古くより地干しが行われていました。ソラタテのことですが、ここではボッチダテと呼ばれています。はじめは穂を上にして干しますが、10日ほどすると次にモドウエといって、ワラの部分を上にして干し替えます。これも同じく10日ほど干しました。南郷町下二郷のOさんが子どもの頃に行われていた方法ですが、大正時代までこの方法が行われていました。また、これとは逆に、初めにワラの部分を乾かし、約一週間後にこれを逆にして、天候にもよりますが、1・2週間くらい穂の部分を乾かす方法もありました。この場合、六把ずつクロ(畦)に立てました。
 他には四角取り、三角取りというのもありました。穂を内側になるようにし、直接雨が当たらないようにするためです。二週間くらい干しました。同町二郷のIさんの父親の時代まで行われていました。昭和の初め頃のことです。
 以上、地干しは比較的乾いた田で行われた方法です。ヒドロといわれている湿田では、杭が使用されていました。三尺間隔にクイかタケを地面に突き立てます。地面とは田の面です。タケかワラ縄を横に渡して稲を掛けます。重さでずり落ちることはなかったそうです。他にはクイガケも行われていました。湿田にクイを立てて干します。地干しにするために畦を使う場合、ウワグロ(上畦)を使うという決まりがありました。隣の田と畦で接している場合、畦の使用権の問題が起こります。ウワグロとは川の(ここでは小川)上流よりのクロのことをいいます。
3 クイガケ
 古く明治・大正の頃から、クイを使った稲の干し方がありました。おもに地干しできなかった分とか、湿田のためクロに地干しできなかい場合に用いられました。クイのかわりに長さ七尺ほどのカラダケを用いた場合もありました。
 クイガケされたイネは、ホニオと言いました。ホニオに用いられるクイは、山をもつ人は自分の山からとってきましたが、多くは山をもつ家から買いました。現在は農協から買っているそうです。(1980年時点)ちなみに、一本約700円で、一反に30本使います。二町の田をもちハサ材を一度に揃えるとなると、20×30×700円で42万円かかることになります。クイは15・6年は使えます。
 作り方は初めに、クイを田に立てます。ツナギという横棒を二カ所結わえます。掛けたイネがそれ以上下へ下がらないためであり、稲束の間隔をつくるためでもあります。隙間があれば風通しがよくなり、乾きも早くなります。ツナギが棒でない場合もありました。ワラを縛るのですが、この場合、ワラが乾いてくると折れ曲がって、上に掛けた稲束が垂れてきて、穂が地面につくとモエル(芽をだす)のであまりよい方法ではなかった。
 ヒドロがひどくぬかる場合にはクロに土を盛ってイナグイを立てました。クイを安定させるためです。
 稲刈りは10月の半ば頃で、刈ったら順次干していきました。半月以上干すので、イネアゲ(取り入れる)するのは11月の時雨れる頃でした。年によっては雪の降る頃まで干したこともありました。イネアゲの後、クイはクイゴヤにしまいました。クイの材料は杉の木でした。まっすぐで使いやすく、間伐材としてよく出回りました。間伐材は使用するクイ全体の8割で、2割は用材の上の細い部分です。用材とは、山から伐りだされた材木の、上の細い部分で、製材の際使えなくなる部分です。昭和になってから地干しはなくなり、ホニオが一般的となりました。 

4 ヒドロ
 南郷町は湿田が多くありました。腰まで潜ってしまう田もありました。こういった湿田をヒドロといいます。鳴瀬川がそばを流れ、たびたび増水したこと、またヤジという湿地を開墾したこともあって、かなりぬかるんだ田でした。

5 その他
 稲刈りの時期は、早稲で9月の20日頃から、晩稲の場合は10月の初めからでした。イネアゲされるのは、しぐれる11月過ぎでした。干された稲は、馬の背に荷鞍をつけて運びました。一度に12・3丸ぐらい運びました。昭和の初め頃までどの家でも一頭は必ず馬を飼っていてものでした。
 ニワに運んだら、イナニホにします。イナニホに雪が積もれば、竹やほうきで叩いて落としました。イナニホにかぶせる帽子のことをボッチといい、縄をまいて縛り付けて、下の稲と三カ所で縛って固定させました。風で飛ばされないようにするためです。
 脱穀は家の中で行いました。脱穀することをコグといいます。コイだワラは、ワラ専用のニオに積まれます。これをカメニオといいましたが、最近は小屋に積んでいます。
 ワラは冬仕事に使います。ワラで俵を編んだり、縄をなったりします。また、家畜の飼料・敷きワラにも用います。稲乾燥の必要は、穂だけでなくワラの利用にとっても大切なことでした。
 昭和17・8年頃より、馬よりも牛を飼う農家が多くなりました。牛は繁殖用であり、おしまいは食用肉になるので、副収入が期待できます。馬を飼っていた時代は、馬で田起こしをしましたが、牛を飼うようになってからはそれも牛にかわりました。

6 ハヌキ
 南郷町二郷には、屋敷林としてハンノキが植えられています。南郷町ではハヌキといいます。屋敷林にはハヌキのほかにケヤキ、ヒバ、スギなどが利用されています。南郷は風が強いところであり。台風の被害もたびたびあり、冬には木枯らしが強く吹く地域です。屋敷林は防風林の役目がありました。戦前までは、田をもつ家はみな屋敷林を植えていました。ハヌキは防風林としてだけでなく、薪としてもまたハサギとしても用いられていました。道路沿いに木立が立ち並ぶのはそのためです。明治時代まで、特に濡れた稲や掛け干す場所がない稲は、立木の枝に掛け干すこともありました。掛ける、というよりは無造作に引っかけて干しておく、といった感じでした。
 ハヌキに竹ざおをわたして稲を干すこともありました。横にわたすタケの段数は、6,7段くらいでした。ハヌキに掛け干すのは、乾きやすかったが、一般には地干しが主でした。田から屋敷まで運ぶのが大変でしたし、反数が多いのでハサギだけでは足りなかったからです。
刈り取ったばかりの稲は、水分を多く含んで重く、そのため一旦地干しにして、軽くなったところで運搬するのが普通でした。車のない時代は、馬もありましたが、わずか1,2頭の馬に運ばせるだけでははかどらず、どうしても人が担ぐしかなかったそうです。田から屋敷林まで運ぶのは大変な仕事でした。
 それでも、ヒドロで濡れのひどい稲とか、特に自分のところで食べる飯米をとる稲をハサギに掛けて干しました。多くは掛けられず、稲一反部くらいでした。
 ハサギが南郷で一般的にならなかった理由について、南郷町二郷のIさんに話していただきました。ハヌキに掛けて干すのは、最初誰か始めたか分からないが、大正末期の子どもの頃には見ることができた。なぜ広まらなかったか、詳しくは分からないが、立木のため日陰ができるからではないか。寒い地方なので、イネの生育が遅れるおそれがある。だから、新潟県のように、田の中に木を植えることをしなかったのではないか。屋敷のまわりに木を植えるとなると、場所が限られるので多くは植えられなく、そのため多くは干せない。そのために、地干しや棒掛けが中心になった。次ぎに葉である。葉が落ちると大崎平野は寒い地方でもあり、腐りにくい。すると田にガスが出て、稲の生育が悪くなる。根がやられる。現在、コンバインで刈ると、ワラがバラバラになって敷かれるが、放っておくとやはりガスがでるそうです。十分に土にならないからです。
 ハヌキは、反数の少ない農家やイネがひどく濡れるヒドロをもつがクイを買う経済的余裕のない農家が利用しました。ハサ材にタケを用いないで、ワラ縄を用いたので、ハサ材が自給できたからです。分家した農家は貧しく、いざというときに木を切って薪にして売るために植えた家もありました。ハヌキは湿地に強く、成長も早く、枝がたくさんでて、根も丈夫なので、屋敷林に向いていました。必要ならば伸びすぎた枝を切って、焚き物にしました。

二 山形県の稲の乾燥法
(1) 村山市・大石田町における調査
1 概況
 村山市は山ノ内、大石田町は次年子を調査しました。それらは葉山の北東に位置し、ともに山間の集落で、雪深いところです。次年子の由来は、冬の間雪に閉ざされ、年の暮れに生まれた子は、よく春にならないと役所に届けられなかったことによります。

2 ハシェ
 ハシェというのは、ハセのことである。ハシェはまた、ハシェガケともいう。それぞれ、山間の沢のため、普段から風が弱く稲が乾きにくい地域です。稲束が重なる部分が多いクイガケでは、稲が乾燥しにくい。そこで、広げて干すことができるハセを行いました。クイガケはハセを組む必要がなく簡便ですが、稲束を掛け替える手間がかかります。また、藁を必要とするため、十分に乾かさなければならないので、稲架が行われていました。米の生産量が低い山村では、ワラも貴重でした。
 稲は9月末に刈られ、ハセユイ(ハセを組むこと)を行いました。組むときには2分5里の太い縄を用いました。刈ったら、クロタテという地干しを行ってからハセに掛けました。地干しを行うと半分の重さまで軽くなり、運びやすくなりました。ハセに掛けることを“イネツダシ”といいます。“ツダス”とは、地域で“シダシテケロ”のように使用します。“ヨゴシテケロ”の意味であり、「ものを手の届くところに近づけてほしい」という意味です。ハセを掛けるとき、ハシゴの上に一人、下に一人いて、上にいる人に稲を投げて渡してあげます。上にいる人は横に渡した竹ざおに掛けていきます。この場合、“シダス”とは「投げてやる」という意味です。夫婦で行うことが多く、上にいるのが夫、下にいてシダスものは奥さんの役割です。しかし、下から投げてやるのは大変難儀な作業なので、投げるかわりに竿を使うこともありました。竿の先に二股の枝を結わえ、そこに稲を一束づつ引っかけて揚げます。長木は自分のもつ山から採ってきます。木はスギの間伐材です。横に渡すのは竹ざおです。ハセダケといいます。最近は関東方面のタケを農協を通じて購入しています。
 ハセは刈り取り後の田に組み立てましたが、そこをハシェバといいました。田の畦や道ばたに組み立て、邪魔にならなければ長木を立てっぱなしにしておきました。本来は片づけておくのがよく、雨風に当てっぱなしでは長持ちしませんでした。かたづけないのは「ヒヤミ」(なまけもの)ですが、山が多くしたがって材料が手に入りやすかったからでしょう。本来は、大きな木の下に寄せて、立てかけておきました。木の茂みは傘の役割をしました。立木を使わず、畦の脇に円錐状に立てかけておく農家もありました。

3 クイガケ
 山ノ内でも次年子でもクイガケは例外でした。平坦部の西郷では、クイガケが一般的ですが、山間で日照時間も短く、普段風も吹かない両地区では、クイガケは行われていません。ただ、干すところがなくなった稲をクイに掛けることがありました。その場合宮城県のクイガケのように足はつけませんでした。底の部分は地面について乾きが不十分で、ワラが使えなくなるからです。むしろ、地面につかないように離して掛けていきました。

4 稲架木
 ハセをつくるとき長木を使わずに立木を利用する場合があります。これもハシェといいます。この方法は余り見られず、山ノ内で2・3軒、次年子で2軒程度の家が行っていました。樹種はスギや落葉松です。長木を組み立てる手間が要らないハセの工夫ですが、山ノ内のIさん宅の場合、田ががけの上にあるので、川からの突風でハセが倒れたことがありました。そこで、立木を利用しました。本来は崖が崩れるのを防ぐために植えていた木でした。立木のハセは長木を片づける手間が要りません。
 立木に直接ハセダケを結わえるのではなく、立木から三尺ほど離したところに長木を立てて、立木と長木との間を横木で結わえて、長木を固定させます。あるいは、長木を直接立木に結わえる場合もあります。Iさんは前のやり方であり、スギの立木49本のうち、約8本ごとに立木と長木を直接結わえていました。直接結わえた立木をタテキといいます。ハサギが一般的にならなかったのは、立木で日陰ができるからです。山間のため平地よりも日照時間が少なく、その分影響が大きくなります。田の中にハサギを植えた場合、他人の田も日陰になるから不都合でした。ハサギを植えているところは、自分の田の端で、他人の田と接していないか、自分の山の道ばたです。
5 その他
 大正時代まで、カナコギあるいはダイコギという千歯こきを使って脱穀しました。農繁期は忙しく朝は4時に起きて仕事をしました。まだ暗いので提灯をつけてイネをしょい、ハシェバ(乾燥場所)まで運びました。昭和20年にようやく次年子にも電灯がつきました。室内はランプでそれと比べると昼間のように明るいのでシゴトシナンネ(仕事をしなければならない)と思ったそうです。そこで、電気代のためにその明かりもとで縄をないました。子どもの時は毎日ホヤみがきをさせられました。ホヤには子どもの手しか入らない大きさでした。
 山ノ内、次年子ともに反数が少なかったのでニオには積むほどもなく、乾燥が済んだら小屋にもっていってすぐに脱穀しました。


(2) 飯豊町における調査

1 概況
 飯豊町は山形県西置賜郡郡にある町です。1958年に飯豊村が中津川村を編入し町制が施行されました。1970年の人口は12,129人です。町の北にある長井盆地に萩生という中心集落があります。米坂線が通じる白川沿いに水田地帯が広がっています。南の旧中津川村地域は飯豊山の登山路があり、木材の山地でもあります。

2 イネバセ
 飯豊町手の子には稲架をイナバセといいます。立木を利用したものも、長木を組み立ててつくったものもともにイナバセと呼んでいました。手の子での一般的な稲の干し方は、ホソキ(長木のこと)を組み立てたやり方でした。ホソキはスギの間伐材を用います。自分の山から採ってきます。立木を利用したイナバセは街道沿いに並んだ杉木立を使います。
 稲刈りは秋の彼岸過ぎから始まりました。稲刈りには20日ほどかかりました。刈った稲は、ハセに早ければ10日、普通は15日ほど干しました。天候が悪ければもっとかかります。ハセに雪がかかる年もありました。冬囲いや畑仕事が終わってから脱穀を始めました。突風によってハセが倒れることもあるので、1間間隔でササエを支えておきます。さらにササエの根元にクイを打ち付けて縄で結わえておきます。ハセは10〜11段が一般的な高さでした。
 稲が乾燥することをヒルよいいます。“ヒッタカラヨセロハ”とは「乾いたから取り入れなさい」という意味です。歯で噛んでパリッと音を立てて気持ちよく割れれば乾燥が十分でした。

3 地干し
 手の子ではヒドロといわれる湿田が多くありました。膝下、ところによっては腿切れまで泥にもぐりました。そのような田ではイナバセに掛けて干します。普段乾いている田では地干しが行われました。地面が乾いているので田に広げて干すことができました。朝露があがってから広げて干し、夕方取り入れてホンニオにしておき、翌朝再び干します。
 明治時代は今よりも湿田が多かったので、干す場所に困りました。そこでイナバという野原に地干しを行いました。穂を下にして広げて干します。イナバは自分の持ち山の斜面です。
 地干しは早くて5〜6日。遅くて7〜8日ほど干しました。乾いたら家に取り込み、また次の稲を干すといった具合でした。夜ホンニオに積むのは、広げたままにしておくと、露が付くからです。山間のため風がなく、昼と夜の気温差が激しいので露が多くでます。
 地干しをカノコダテといいます。寸胴に束ねるのはキネタバといいます。キネタバは立てたとき穂が広がりにくいので、カノコタバにします。稲を二つの束に分けて交叉させて縛ります。こうすると地面に手軽に広げることができます。

4 クイガケ
 山間は普段風が弱く、日照時間が少なく、夜はモヤがたち、露も降ります。そのような手の子では、クイを使っても十分には乾きません。そのため手の子ではクイガケは行われませんでした。しかし、最近、里前(飯豊町の平地)から嫁をもらった家では、クイガケをするところもあります。里前はクイガケが広く行われています。慣れない家ではクイガケの技術をもたないので、クイに掛けても地面にずり落ちて、なかなかうまくいかかったそうです。一番よく乾くのはイナバセです。また、手の子はヒドロが多く、クイを立てても倒れやすかったそうです。