(注) この物語に登場する人物・団体などはすべて架空のものです。
「今日はまず場所の表し方をやりますね」
「『〜の中で』は前置詞を使って『en 〜』って言うんですよ。『手の中に』は、英語と違って『私の手の中に』とか言わなくていいです」
「まあ、他人の手の中に持つわけないもんな」
「でもここ、『mano (手)』に冠詞が付いてるとこを注意してね。不特定の人の手じゃなくて、その人の手って意味で特定って考えるのよ。つまり、その人の体の一部とかは所有形容詞の代わりに冠詞で言えるよ」
「もちろん『en mia mano』でも間違いじゃないよ。日本語でいちいち『私の手の中に』って言うのと同じで、大げさな表現になるだけね」
…………。
「『estas』は『〜がある (存在してる)』って意味もあるから、『上で存在してる (= 上にある)』って感じですね。そして、前置詞は前の名詞にかかることもできましたね」
「『sur la muro』なら壁の面に接してる状態を表しますよ。上下の上じゃなくて、壁面上のことですね。つまり、『sur』は、上の意味っていうよりは表面にくっついてることを表す前置詞って感じなんです」
「場所に関する前置詞は多いけど、ほかによく使うのを挙げますね。つづりが英語に似てても発音は違うから注意してくださいね」
「『ĉirkaŭ』は副詞としても使えて、だいたいの数を表すよ。『約千冊の本』だったら『ĉirkaŭ 1000 libroj』ね」
「略して『ĉ. 1000 libroj』とも書くよ。この略し方ができるのは『およそ〜』の意味になるときだけね。発音は略さないよ」
「ここで語順の話をしておきますね。エスペラントは語順が自由ですけど、初めて話題にする新しい情報は文の後ろに置くことが多いみたいです」
「えっ、なんで?」
「それは、いきなり新情報から始めたら、なんの話かわかりにくいからよ。だから、『既知情報 → 関連づけの動詞 → 新情報』って語順がよく使われるよ」
「こういう語順か。つまり、話題の前振りをするってことですね」
「主語でも新情報なら後ろか。……あれっ、そういや、この日本語訳……。『家』と『女の子』の順序は、日本語でも新情報をあとに言うほうが自然だ」
「うん。動詞の位置は違うけど、この語順の感覚は日本語にもあるよね。語順自由だからこそ、わかりやすい順序にできるって感じかも。エスペラントではさらに『Venis Nanami. (七海が来た)』みたいな文でも、初めて話題にするものを後ろに持ってくる傾向があるよ」
「もちろん、語順自由だから、この順序じゃなくてもいいよ。よく使われる順序ってだけの話ね。それに、ほとんどの文は主語が既知だから、そういうのは主語を前に置くのが自然だけどね」
「次に方向の表し方です。場所を表す前置詞の後ろが対格 (-n 付き) のときは、その場所への方向を表すんです」
「へぇ、この二つは後ろが対格かどうかで区別するのか」
「こういう使い方の対格は『方向の対格』って言うよ。エスペラントで対格を使うのは目的語のとき (目的語の対格) だけじゃないのよ」
「ちなみに、『Ŝi kuris al la lernejo. (学校へ走った)』だったら途中の道を走った感じね」
…………。
「『b/m/p』の直前では口を閉じて『ン』と言えば自動的に『m』の発音になるよ。『チャムブロ』だと母音が入ってしまうよ」
「この文はたまたま日本語訳が『中を』になってるけど、方向の対格と日本語の助詞は対応してないから、さっきの図でとらえてね。主格だと中だけで起こってる感じで、対格だと中に向かう感じになるよ」
「ほかの前置詞でも同じですよ。対格だとその場所に向かう感じです」
「もちろん、この語順は違っててもいいよ。これは『目的語対格』と『方向対格』が両方出てきてる文ね。エスペラントには目的語二つって形はないけど、対格 (-n 付き) が二つになることはありえるよ」
「そうか。これもテーブルの上じゃないところからテーブルの上に向かうから対格か。……ってことは、この方向対格をなくすと、最初からテーブルの上だけで起こったことになって……こんな感じか?」
「わ、わたしで想像しなくても……」
「対格を付け忘れると変な誤解をされるってことだな」
「って、文法上はそうだけど、だれがそんな誤解をするのよ。それぐらいの言い間違いは文脈でわかるって。……エスペラントはだれにとっても外国語だから、お互いに言い間違いはあるものよ。必要以上に間違いを恐れないでね」
「ということで、ほかの前置詞でも全部同じですよ。後ろが対格のときは、その前置詞が示す場所への方向を表すんです」
「場所に関する前置詞には次のようなのもありますけど、これはもともと方向を表してるから、ふつうは後ろを対格にしないですね。『al (〜に)』ももともと方向を表すから後ろを対格にしないです」
「『laŭ』は『laŭ la vojo (道に沿って)』とか場所も表すけど、『(指導など) に従って』や『(情報源) によると』の意味もあるよ。『内容に沿って』って感じかな」
「実は、副詞もそこへの方向を表すときは対格になるんです」
「副詞形で『hejme (自宅で)』と『hejmen (自宅へ)』か」
「副詞は目的語や複数のものにかかっても語尾変化しなかったけど、方向を表すときだけは対格になるのよ」
「それから、前にやった前置詞の副詞形 (品詞語尾 -e を付ける) は、場所の場合は、さらにその副詞形を方向の対格にできますよ」
「形容詞形『ena (中の)』『suba (下の)』などもありよ。ほかの前置詞でも同じね」
「前置詞がここまで変化するのか。でも全部規則変化なんだな」
「あと、場所を表す相関詞も、対格にすると方向を表すことになりますよ」
「英語は『動かす』と『動く』が同じ単語だったりするけど、エスペラントは『movi (動かす)』と『moviĝi (動く)』を区別するよ。『(A) が (B) を動かした』=『(B) が動いた』って関係ね」
「『kie (どこで) → kien (どこへ)』とかになるのか」
「そう。ちなみに『どこから』は『de kie』よ」
「前置詞も語根の一つだから、合成語を作れますよ。前置詞と何かを合成するときは、ふつう前置詞のほうが前にくっつきます。接頭辞みたいな感じですね」
「さらに『-ej- (場所)』が付くと『enirejo (入り口)』ね」
「こんなふうに、合成した動詞はふつうの動詞と同じように使えるから、さらに同じ前置詞が出てくるとかは、ありですよ」
「最後に、男女ペアの単語を紹介しますね。エスペラントでは、男女を表す単語は、品詞語尾の直前に -in- があるなしの関係のものが多いんです」
「男女でアクセント位置が違うよ。後ろから二番目の母音ね。『sinjoro』の発音は [sinjóːro] (スィニョーロ゛) よ。j はヤ行」
「女性の方がつづりが長いのは、ヨーロッパ言語の特徴みたいね。英語でも man → woman、male → female、prince → princess、hero → heroine とかいろいろあるよね。この追加するつづりを覚えやすいように統一したって感じ」
「ええっ、そこを統一するんですか」
「うん。日本語の感覚からするとちょっと変な感じだけどね。日本語でも『彼←→彼女』が、この形なのかな」
「ちなみに『gepatroj (両親)』『geedzoj (夫婦)』って感じで、男女ペア自体を表す語には『ge-』が付くよ」
「……で、この『-in-』を、どの単語にも付けられる女性化の接尾辞として使う用法があるんです。でも……」
「発音が kraci になってしまわないようにね。英語っぽい発音に慣れてる人は、アクセントのない u が落ちやすいよ」
「うん。『医者』って言葉はもともと男女関係なしに使える言葉なのに、男なら『医者』で、女は『女医』って言うのも……」
「変だってことですね」
「ってことで、以前はそういう使い方もされてたけど、今は、-in- は男女ペアの単語以外には付ける必要はないって言われてるよ」
「なるほど。……ところで、さっきあった『男性敬称』とかって……」
「それは、名字の前とかに付けて敬称にするんです。『sinjoro Hashida (橋田さん)』とか『sinjorino Higashiyama (東山さん)』とか」
「略して『s-ro Hashida』『s-ino Higashiyama』って書くよ。これは書き方の省略形で、発音は省略しないよ。もちろん、親しい友達どうしなら敬称自体いらないけどね」
「対格にするときは敬称だけ対格にして、固有名詞の部分はそのままでいいよ。『sinjoron Hashida (橋田さんを)』とかね。あと、この敬称は肩書きにも付けられるよ」
「『先生さん』?」
「日本語では『先生』だけで敬称だけど、エスペラントでは肩書きだけでは敬称にならないのよ」
「じゃあ、今日の問題です」
エスペラントに訳そう。
…………。
「えっと、正解はこうですね」
「そうか。方向の対格で、所有形容詞もいっしょに対格だな。二つ目は前置詞が名詞にかかるやつか」
「じゃあ、エスペラントの勉強もだいぶ進んできたことだし、そろそろあの単語カードをやってみようかな」
「えっ、単語カードって?」
なんの話だろうと思っていると、美音先輩は部室のすみに置いてあった箱を開けて、中から大量のカードを取り出した。あの箱はトランプの入っていた箱だが、こんなものも入っていたのか。
「うちの部に昔から伝わるカードゲームよ」
と言っても、カードには手書きで単語が書かれているだけだ。裏側は色画用紙で補強してあって、結構、使い込まれている感じがする。
「じゃあ、ルールを説明するよ。……まず、カードをみんなに同じ枚数ずつ配るね。残りのカードは裏向けとくよ」
美音先輩がルールを説明し始めた。
「自分の番が来たら、裏向きのカードから一枚引いて、手持ちのカードと合わせる。そして、カードに書かれてる単語を全部使って文を作るのよ。……正しい文ができなかったら、いらないカードを一枚表向きに捨てて、自分の番は終わり」
「それを一人一枚ずつやって、早く正しい文ができた人が上がりですね」
「ああ、なるほど。……ええっと、一枚引いてきて、それで文ができれば上がりで、まだできてなかったら一枚捨てる……の繰り返しですね」
「そう。文ができたらその文を読み上げて、日本語訳も言えたら上がり」
「えっ、訳も言えなきゃ上がれないんですか?」
「うん。だから、知らない単語を引いても使えなくて、捨てるしかないの」
「ってことは、知ってる単語を引くまで上がれないってことか」
なるほど……一回勝負なら運もあるが、何回もやれば確実に単語力で勝負が決まる。これはそういうゲームと見た。 (ざわ…)
「でも、わかんない単語は、捨てるときに聞けば教えてくれるよ」
「そう。わからない単語は何回でもどんどん聞いてね。でも、意味が聞けるのは捨てるときだから、意味を聞いたカードはその回は使えないのよ。次のときまで意味を覚えてたら使えるカードになってるってわけ」
「ああ、ゲームの目的がわかりました。単語を覚えて文を作る練習ですね」
「そんなとこかな。作る文も意味のある文じゃなきゃダメよ。じゃあ、私たちは六枚ずつ配って、橋田君は初めてだから三枚配っての勝負ってのはどう?」
ということは、一枚引いてから文を作るから、二人が単語七個の文を作る間に、俺が単語四個の文を作れればいいわけか。よしやってみよう。
…………。
わからない単語だらけで、ぜんぜん勝負にならなかったが、何勝負かしたあと、偶然に手札が三枚とも知っている単語だった。これは上がれるかも。……よし、俺の番だな。カードを引いて……。へ!?
なんと、引いてきたカードには「manko」と書かれていた。……な、なんだ、これは。どう見ても「マン○」と書いてある。なんでこんなカードが……。
待て、あわてるな。これは美音先輩のワナだ。そんなエサでこの俺が……。うーむ、どうする?
……いや待てよ。本当にこういう単語があるんだとしたら、ワナだと思って反応したほうが墓穴を掘るぞ。それに、知っている単語を捨てて知らないこの単語を抱え込んだのがバレてもおかしなことになる。
そうだ。ここはワナだとしても本物の単語だとしても通用する答え方がある。「これはどういう意味ですか?」と聞けばいいんだ。ワナなら「こんなカードを入れるなんてどういう意味!?」と解釈される。本物の単語なら「この単語はどういう意味?」と解釈され、どちらにも対応できる。 (0.5秒)
「これはどういう意味ですか?」
「あはは、それね。それは『不足』って意味よ。動詞形は『manki』」
って、本物の単語だったのか。変な反応をしなくてよかった。しかし、『manko』が『不足』とは……。
「この単語はどういうふうに使うんですか?」
「なるほど。私にその単語を言わせたいってわけね」
「そ、そういう意味じゃなくて……」
「ふふっ、冗談。こんな感じで使うよ」
…………。
そうか。現在形にすると「マ○カス (mankas)」になるんだ。恐るべし規則変化。
「そんなに堂々と言われると、俺のほうが恥ずかしいです」
「でも、ほかの言語で変な意味があったとしても、その言語では立派な意味があるんだから、それを恥ずかしがってちゃダメよ。……ほら、七海も言ってやったら? 『manko は、やらしい言葉じゃないから恥ずかしくないもん!』って」
「そ、そのセリフが恥ずかしいですよぉ」
「『kun ni (私たちと)』も恥ずかしがらずに言おう!!」
(つづく)
次回は第9課「時刻や量の表し方」の予定です。お楽しみに。