(注) この物語に登場する人物・団体などはすべて架空のものです。
ずっと帰宅部だった俺だが、先月からエスペラント部という部活に所属している。ここは「エスペラント」という外国語を勉強する部活で、俺のほかには女子部員二人だけしかいない。
体育祭が終わって数日がたった。今日の放課後はそうじ当番で、いつもなら、さっさと終わらせて部室に向かうところだ。でも、今日は終わったあとに友達とムダ話をしていたせいで少し遅くなってしまった。
二人とも待っているだろう。急いで部室に向かい、とびらを開けると……。
あれ!? そこにいたのは沢渡さんだけだった。うつむいてノートを見ているようだ。
「一人?」
「わっ!? えっ? あっ、橋田くん、いつからそこに……」
……なんだ、その変な反応は。
「いま来たとこだけど……。ひょっとして寝てた?」
「あ……。べ、別に寝てたわけじゃ……」
「ふーん」
それにしては……。
「……あっ、よだれが」
「えっ。あっ。……って、えへぇ。さすがにそんな古典的な手には引っかからないよぉ。よだれなんて……うん。垂らしてないもん」
うーむ、古典的か。出ていないよだれをふこうとするという、お約束の展開を期待したのだが。……しかし、その妙な間と言い、「引っかからない」なんて発言と言い、寝ていたのがバレバレだという気もする。
「エスペラントのノートを見てたのか?」
俺はいつもの席に座る。沢渡さんが広げていたのは、エスペラントのノートだ。
「うん。今日、教えるところを見直してたの」
「そしたら、気が付いたら俺がいた……と。すごく集中してたんだな」
「う……ううっ。……ちょっと、うとうとしてたかも。二人ともなかなか来なくて……」
「はは、そんな状況なら俺も寝てるよ。……でも、部活のために予習までしてたのか。すごいな」
「そんな、ぜんぜんすごくないよ。……わたし、去年もやってるから、本当は予習じゃなくて復習なの。見直さなくてもわかってなきゃならないのに」
「いや。だから努力してちゃんと見直そうって考えるのが、沢渡さんのいいところだと思うな」
「そ、そんな……」
そんな話をしていると、美音先輩がやってきた。
「ごめーん。来る途中、文化祭の話を聞いてたら遅くなって……」
「文化祭?」
「うん。そろそろ文化祭に何やるか決めなきゃなんないから」
「もうそんな時期なんですね」
文化祭とは、もちろん学校の文化祭のことだ。うちの高校の文化祭は、九月の土日に二日間に渡って行われる。
「毎年何やってるんですか? 俺、去年、この部は見てなくて……」
「あっ、そうか……。去年はエスペラントについての展示だったよ。でも、ただ展示してるだけじゃおもしろくないからって言って、三年生の先輩が解説をしてたけど……」
「ちょっとした劇みたいな解説でしたよね。美音先輩が廊下で呼び込みをしたり、わたしがお客さんの誘導をしたりで……楽しかった」
「なるほど。歩いてる人を呼び込んで、解説を聞かせるわけか。そして、来た人を誘導する。心を変えさせるわけだな」
「って、誘導の意味が違う!! どこの怪しい団体よ」
まあ、それは冗談として、もちろん、沢渡さんのやった誘導とは順路の案内のことだ。……冗談はこれぐらいにしておこう。
「もう……。おととしは体育館で劇をやったよ。あの年は三年生がいっぱいいたから大がかりなのができたな。もちろん、セリフが全部エスペラントの劇ね」
「へぇ。それはなんかすごいです」
「でも、今年は三人しかいないから劇は無理ですよね」
「まあ、体育館でやるような大きなのは無理でも、教室で朗読劇みたいなのだったら三人でもなんとかなるかもしれないよ。工夫次第かもね」
「そっか……。じゃあ、劇もいいかもしれないですね」
「たしかに、展示よりは劇のほうがおもしろそうだな」
「じゃあ、劇ってことにする? 希望場所はふつうの教室ってことで」
文化祭の参加届は、とりあえず今は、出し物のジャンルと希望場所を提出するだけでいいらしい。夏休み前にそれを元に場所割りが決まる。そして、プログラムに載るような、具体的なタイトルと内容は九月の頭に提出すればいいのだそうだ。
というわけで、とりあえず劇ということで届けを出して、劇の内容は場所が決まってから決めようという話になった。
三人だけでやる劇か……。今までこういうのはあまり熱心にやってこなかったけど、不思議と楽しみな気持ちがわいてきていた。
でも、そのあと美音先輩は意外なことを口にした。
「この文化祭は、私が部長としてやる最後の活動になると思うから、いいものを作りたいな」
「えっ!? 最後の活動って、まさか、美音先輩……」
「うん。三年生は九月末までっていうのが通例だからね。だから、文化祭が終わったら……二人のうちどっちかに部長をゆずることになる」
「そんな……」
美音先輩が部を引退する!?
三年生は九月末まで……。おそらくそれは、十月以降、三年生を受験に専念させるための規定なのだろう。だったら、俺たちが美音先輩を引き止めることなんてできない。
ずっとこの三人での部活動がつづくような気持ちでいた。でも……。
「入部の順番から言ったら、七海が次期部長ってことになるけど……」
「そ、そんな、わたし、部長なんてとても……」
「でも、俺も先月末に入部したばっかりだし……」
「……まあ、まだ三か月先の話だし、そのときに二人がどうしたいかを聞いてから決めようと思ってる」
美音先輩が辞める。次期部長候補は二人……。俺は、そして沢渡さんは、そのときどう結論を出すのがいいのだろうか。
…………。
そして、六月も終わりかけのある日のこと。
「明日から期末テスト前か……。部活がなくなると張り合いがなくなるよ」
「うーっ……さびしくなります」
「……あっ、そうか。テスト前は部活が休みなんだ」
そう言えば、そんな校則があったな。期末テスト前一週間は部活動が禁止になる。その期間はみんなが早く帰っていたので、もちろん俺もその校則は知っていた。でも、自分が部活をやっていたわけではないので、そんなに実感がなかった校則だ。……そうか、休みになるんだ。
「まあ、さっさと帰って勉強しろって言いたいんだと思うけど、テスト前だけ勉強しろだなんて、この校則はおかしいよね」
「つまり……、ふだんから勉強してれば、テスト前だからと言って特別に勉強する必要はないというわけですね。さすが美音先輩です」
「いや、まあ、私がどうかは別問題だけど……」
「ええっ、せっかく尊敬しようと思ったのに」
「もう、最初からその気がないくせにー。このー」
まあ、それはともかく、弱小のエスペラント部としては、校則違反でにらまれるのは避けたいところだ。禁止期間はきっちり休まないとまずいだろう。ということで、次回の部活は期末テスト後ということになった。
翌日からは部活がなかった。俺がエスペラント部に通い出してから一か月ちょっと。放課後はいつもあの二人といっしょ。そして、学校の帰り道もいつもあの二人といっしょだった。でも今日は違っていた。
久しぶりに、同じクラスの男友達といっしょに駅まで帰った。しとしとと梅雨の雨が降っていた。
俺、以前はこんなに早く学校を出ていたんだな……。
家に帰り着いてからも、何かがもの足りなかった。早く帰ったからといってテスト勉強をするわけでもなく、七月になった。
帰りの駅でのこと。改札に入ろうとしたら、ズボンのポケットに入っているはずの定期入れがない。あれっ? あっ、そう言えば……今日、体育で着替えるときにズボンから落ちたんだった。あのあと拾って……どこに置いたんだっけ。ああっ、へたすると更衣室に置きっぱなしか。
「悪い。俺、取りにもどる」……友達と別れて元来た道を引き返す。
駅ビルの外に出ようとしたところで……。ん!? ああっ、反対側のポケットに入っているじゃないか。そうだ。ズボンを脱いだあとで、拾ってポケットに突っ込んだんだ。どっちのポケットかなんて意識していなかったけど。……うーん、なんで今まで気が付かないんだ。
改札前までもどってきたが、ちょうど電車が出ようとしているところで、今から改札を通っても間に合わないだろう。あーあ、何やってんだよ、俺。……なんか、部活がなくなってから、張り合いがなくなった感じで、つまらない失敗が多い。
ふと駅の反対側を見ると、大きな笹(ささ)が見えた。そうか、もうすぐ七夕か……。次の電車までは少し時間があるので、そばまで行ってみた。
そこには結構大きな七夕かざりがあった。そばには「ご自由にかざってください」と書かれている。実際、笹には色とりどりの短冊がつるされていた。幼い子供が書いたような字もあれば、大人の字もある。
「期末テストのヤマが当たりますように」……おいおい。だれだよ、こんな短冊をつるしたやつは。
……などと見ていると、いつの間にか俺の横に女の子がいることに気が付いた。着ている制服から言って中学生だろう。いまちょうど短冊をつるそうとしている。
なんて書いているのだろう。ちらっと短冊を見てみた。
「梅野台高校に入れますように! ともか」
……ん!?
「梅野台高校?」
「えっ?」
「あ、ごめん。俺の高校の名前が見えたから、つい……」
「あっ、梅野台高校の方ですか? 私、来年、梅野台高校に行きたいって思ってるんです」
はきはきしたしゃべり方の元気そうな女の子だ。
「じゃあ、いま中三か。俺は高二だから、うまく行けば来年は後輩だな」
「そうなんですね。はい。後輩になれるようにがんばります。あこがれの高校ですから」
「へぇ、そうなのか。何か入りたい部活でもあるとか?」
「えっ、それはまだ決めてないです。何かやろうとは思ってるんですけど」
「そうか。じゃあ、入学したらエスペラント部に入部するといい」
「エスペラント部? ……ですか?」
「そう。そういう部活がある。それが一番のおすすめだ」
「ふふー、わかりました。先輩がそこの部員なんですね。じゃあ、入学したら見学にいきます」
「ああ、待ってるよ」
よし、これで来年の新入部員を一人獲得。
……って、そんなうまい話はない。っていうか、なんで俺は会ったばかりの子にいきなり部の宣伝をしているんだよ。……でもまあ、合格できるといいな。
…………。
翌日の昼休み。学校の渡り廊下で美音先輩とばったり会った。二年生と三年生は教室の棟(とう)が違っていて、その二つの棟の間は渡り廊下でつながっている。
「あっ、美音先輩。……しばらく会えないから、なんかさびしいですよ」
「ええっ。だったら会いにきてもいいのに。部活が禁止なだけで、部員どうしが会うのは禁止じゃないよ」
「えっ? ……あ、そうか。そうですね」
……二人で渡り廊下の窓ぎわに並んで外を見た。
この渡り廊下は吹きさらしではなく、両側に窓がある廊下だ。窓からは中庭の様子が見えた。中庭には噴水やベンチがあって、晴れた昼休みには外で食事をしている生徒も少なくない。でも、今は雨が降っていて外にはだれもいなかった。
「……じゃあ、今日はいっしょに帰らない?」
えっ!? この、美音先輩からのおさそいは……。ま、まさか二人っきりで帰ろうって話じゃないよな。
「え、えっと……沢渡さんも、さそうんですよね?」
「うん、もちろんそのつもり。……あれっ、二人だと思った?」
「いえ。……でも、もし俺が二人だけで帰りましょうって言ってたら、なんて答えてました?」
「ふふっ、何言ってんの。……ひ・み・つ」
その答えが聞けなくて、ちょっと残念なような気もした。
「……七海もエスペラント教えるの、だいぶ慣れてきたよね」
美音先輩がそんな話を切り出した。たしかにそれは言えるな。
「はい。俺も練習台として役に立ってるってことですかね」
「練習台……か」
「ん?」
「ううん。ただ……来年、新入部員が入ってきたとき、橋田君は何をしてるのかなって思っただけ」
「えっ?」
「じゃあ、放課後、ここで待ち合わせってことでいい? 七海は橋田君がさそっておいてね」
そして、美音先輩と別れた。俺は美音先輩の最後の言葉が少し引っかかっていた。
俺は、沢渡さんがうまく後輩を指導できるようになるために練習台をやっている。だったら来年、新入部員が入ってくるころには……。
俺はふと昨日の七夕かざりの前で会った子を思い出していた。あの子が新入部員になるかどうかなんてまだわからない。でも、そのころには、沢渡さんもちゃんと後輩を指導できるようになっているだろう。そして、そのとき俺は……。練習台でなくなった俺は、この部で何をやっているのだろう。
…………。
その足で沢渡さんをさそおうと、二年二組の教室をのぞいてみた。すると、ちょうど教室にいた沢渡さんと目があった。沢渡さんはニコッと笑って、俺のほうにかけよってきた。
「あ、今日いっしょに帰ろうって……」
「うん」
「えっ?」
いきなり、後ろから米原が現れた。
「うわぁ!! どっから出てきた」
「あっ、ごめん。立ち聞きするつもりじゃなくて。……っていうか、『出てきた』って言い方は何よ。あたしは自分の教室に入ろうとしただけ。そっちこそ、となりの教室から出てきてるんじゃない」
「まあ、それを言われたらそのとおりだけど」
すると、米原は沢渡さんと俺を見くらべるように見ると……。
「なるほど。二人はそういうことか」
「えっ、あっ、わたしたち……」
「ちょっと待て。いま、なんか、すごいかんちがいをしてるだろう。別に二人っきりで帰るわけじゃなくて、部活の先輩もいっしょだぞ」
「えっ、そうなんだ。……って、別にそんなこと聞いてないって」
米原は教室に入っていき、自分の席に向かった。うーむ。
あらためて、沢渡さんに用件を伝える。
「あ、今日の帰り、美音先輩がいっしょに帰らないかって。それとも、もう予定があった?」
「ううん、だいじょうぶ」
……あれっ。沢渡さんは、さっき俺がいっしょに帰ろうと言いかけたときにも「うん」って答えていたような……。あのとき、美音先輩もいっしょだって、伝えていたっけ? ……ん!?
「じゃあ、放課後。……でも、さそってよかったのか? 部活のないときぐらいクラスの友達と帰りたかったんだったら……」
「ううん。橋田くんのほうこそ今日はいいの? いつもお友達といっしょみたいだったから……」
「ああ、俺のほうは、なんの問題もないよ」
そうだ。部活がなくても、さそえばよかったんだ。この一か月以上ずっと三人でいっしょに帰っていたんだもんな。
放課後。久しぶりに三人でいっしょに駅まで歩いた。梅雨の合間で雨は上がっていた。俺が七夕かざりの話をすると、三人で見にいこうという話になった。
「わぁ、大きい……」
「へぇ、みんないろいろ書いてるね。……よし、私も短冊を書こう」
「えっ、何を書くんですか?」
「私たちの願いと言えば、決まってるじゃない」
そして、美音先輩が短冊に書き上げたものは……。
「新入部員希望!! エスペラント部」
……へっ!!
「美音先輩、ポスターじゃないんだから……」
「『部員が入りますように』とかじゃないんですか」
「まあ、こっちのほうが短くて簡潔だし」
たしかにそうだけど……。そして、美音先輩はその短冊を笹につるした。うーむ、なんか恥ずかしい短冊だ。
「ところで、二人ともテスト勉強は進んでる?」
「ははは……。部活がなくなっても勉強時間が増えるわけじゃないですね」
「わたしも、進んでるってわけじゃ……」
「じゃあ、なんなら、どっかでいっしょに勉強しない?」
もちろん、俺たちはいっしょに勉強することにした。
…………。
俺、この部に入ってよかったと思う。部活のない日を経験してようやくわかった。
最初は、成り行きで入部したようなものだったかもしれない。沢渡さんの練習台にならなきゃとか、どうせ毎日顔を出すのならいっそのこととか、そんなことを考えて入部届を書いていた。でも、そうじゃなかったんだよな。
「来年、新入部員が入ってきたとき、橋田君は何をしてるのかな」
俺は、美音先輩の言った言葉をもう一度思い出していた。来年の俺は……。沢渡さんといっしょに後輩の指導ができるぐらいになっていたい。だから、俺はもう練習台なんかじゃない。俺はちゃんとしたエスペラント部の一員なんだ。
(つづく)
物語も後半に入りました。次回は第8課「場所の表し方」の予定です。お楽しみに。