(注) この物語に登場する人物・団体などはすべて架空のものです。
俺は帰宅部の高校生。ある放課後に学校で知り合った女の子は、エスペラント部という部活をやっていた。そこは「エスペラント」という外国語を勉強する部で、部員は女子二人だけしかいなかった。
エスペラント部での初日の勉強が終わったあとのこと。
「エスペラントの勉強はこんな感じだけど、どうだった?」
いきなり美音先輩から感想を求められた。しかし、「どう」と言われたが、感想ははっきりしたものではない。エスペラントに関しては、非常に興味を感じたってほどでもないし、ぜんぜん興味を感じなかったわけでもなかった。
でも、「授業が終わってからも勉強するのか」と思っていたことに関しては、意外と悪くないと思った。なにせ、かわいい女の子二人に囲まれて、いろいろ教えてもらえるという状況だ。いやな状況でないことは確かだ。
「いやじゃなかったら、これからも来てくれるとうれしいんだけど……。まだ仮入部ってことでもいいし」
正直言って、二年生になって部活を始めるなんてぜんぜん考えていなかったことだ。でも二人の熱意に負けて…………いや、違うな。この二人ともう少し親しくなりたいという気持ちもあったのかもしれない。俺は「じゃあ、また来ます」と返事をしたのだった。
すると、その返事を待っていたかのように美音先輩はとんでもないことを言い出した。
「そうだ。次回からは、七海が橋田君に教えるってのはどう?」
「ええっ!? そんな……。わたし、まだ人に教えるほど……」
「だいじょうぶよ。……ほら、去年も私が教えてたときがあったでしょ?」
最初は何を言い出すのかと思ったが、美音先輩の話はこうだった。……来年は沢渡さんが新入部員にエスペラントを教えることになる。だから今年のうちに、人に教える練習をしておいたほうがいい。……俺はその話を聞いて、なるほどと思った。
「じゃあ、俺のことは練習台だと思ってくれたらいいよ」
「ま、私も横にいるんだから、心配しなくてもだいじょうぶよ。ちゃんと私が補足するから。……ね?」
「ううっ……。はい……」
話の流れから練習台になると言ったが、ということは、俺は沢渡さんの練習台になるために部に来なきゃならないわけだ。ふと思ったが、これは沢渡さんに練習をさせると同時に、俺に部に来させるという、美音先輩の二重の作戦だったのかもしれないな。でもまあ、沢渡さんの練習台になるのは俺もいやなわけじゃないし、いいか。
そのあとはまた三人でお茶の時間が始まった。話題はなぜか体育の話だ。
「今日の体育、かなり走り回って大変だったんですよ」
「へぇ、いま体育で何やってるの?」
俺のほうにも話が回ってきて、たわいのない話題が展開される。体育の授業は男女別だから、知らなかった話もいろいろ聞けた。部活中はずっと勉強をするのかと思っていたがそうでもないらしい。半分はこういうお茶の時間なのだろうか。
途中、おかわりのお茶まで美音先輩が入れてくれるので気になったが、「お茶は当番で入れてるんだから気にしないで」と言われた。……って、すすめられるままお茶を飲んでいたらトイレに行きたくなってきたな。
「あっ、俺ちょっとトイレに……」
「じゃあ、五、六分ぐらい休憩にしようか」
「えっ、俺、トイレ行ってくるのに五分もかかりませんよ」
「いや、その……私たちも行くから……」
どうやら二人もトイレに行きたかったらしい。まあ、お茶を飲みながらの部活だもんな。というわけで、トイレの前までいっしょに行くことになった。女子と連れションとは、なんとなく恥ずかしい。
しかし、トイレが休憩なら、さっきまでお茶を飲んでムダ話をしていたのは休憩じゃなかったのか?
…………。
部活が終わったあとはまた三人いっしょに駅まで帰った。昨日は改札の前で別れたので気が付かなかったが、実は三人とも電車が同じ方向だとわかった。
三人でいっしょの電車に乗り込む。一番先に降りたのは美音先輩だった。つまり、ここからは沢渡さんと二人っきり……。いや、もちろんほかの乗客もいるのだが、まわりに知った人はいない。
急に二人とも言葉数が少なくなってしまった。さっきまで三人でふつうにしゃべっていたのに……。
しばらく二人でいたが、俺のほうが先に降りることになった。「じゃあ、また部室に行くよ」……なんとかそれだけを言って別れた。
なんか二人っきりって意識しすぎだな。
…………。
沢渡さんと別れて、俺は家に帰り着いた。自分の部屋で着替えて……あ、そうだ。かばんから弁当箱を出しておかなきゃな。うちの親は、かばんの中に弁当箱を入れっぱなしにしておくと結構うるさいのだ。
では、かばんを開けて……。
……えっ!?
…………。
最初一瞬、何がなんだかわからなかった。かばんの中に、明らかに俺のものじゃないものがある。……とりあえず、この袋はなんだ? なんでこんな袋が俺のかばんの中に入っているんだ?
袋の口から中をのぞき込むと、どうやら中身は体操服のようだ。でも、俺は体操服をこんなふうに入れたことはない。どういうことだ?
……ここで、ようやく気が付いた。
このかばん……。これは俺のかばんの中に別人のものが入っているわけじゃない。このかばん自体がだれか別人のものだ。俺は間違えて、ほかのかばんを持ってきてしまったんだ!!
うわぁ、どうしよう!! どうしたら……。
予想もしない事態に、頭の中がぐるぐる回っているような感覚を覚えた。ええっと、どうすればいいんだ……。
……そうだ。まずは「このかばんがだれのものか」だ。それがわからないと対策の立てようがないじゃないか。まずは持ち主を調べなきゃ。どこかに名前を書いたものがあるはずだ。どこか……。
体操服だ!! 体操服の左胸には名前が刺繍(ししゅう)されている。
俺は体操服を袋から出して広げて名前を見ようと思った。でも実際には広げるまでもなかった。袋から出した時点で、めくれたところから名前が見えたのだ。
「沢渡」……それが見えた文字だった。俺が知っている「沢渡」は一人しかいない。
…………。
何秒間だったか、頭の中が真っ白になって固まってしまっていた。
……と、とりあえず、状況を整理しよう。もうこれは沢渡さんのかばんで間違いないだろう。俺は間違えて沢渡さんのかばんを持ってきてしまった。
ということは…………
この体操服は……
今日……沢渡さんが着ていたもの……。
うっ……。
思わず体操服を持つ手がふるえる。
体操服からは微妙に湿り気が感じられた。これは俺の冷や汗のせいなのだろうか。それともこれは……沢渡さんの……。
そっと近づけると、ほのかに感じるやわらかなにおい。……はぁ。頭が混乱してきそうだ。
……って、ダメだ。落ち着け。何をしている!!
問題は体操服だけじゃないだろっ。いまここにあるのは、かばん丸ごとなんだ。かばんの中のほうは見ていないが、この中には沢渡さんの私物がいっぱい入っているはずだ。それがいま、俺の部屋にある。あらためて、とんでもないものが目の前にあるという事実を思い知らされた。
この状況を冷静に考えると…………。終わった。もう終わりだーっ!!
女子の体操服を無断で家まで持って帰ったというだけでも終わっている。それが今回は、かばん丸ごとなんだ。いくら間違いだったとは言え、こんなことをしてしまった以上、もう沢渡さんには完全にきらわれただろう。どうすんだよ、俺!?
……って、なんだよ、その選択肢は。……そうだ。ここに沢渡さんのかばんがあるってことは、いま沢渡さんは、かばんがなくて困っているってことだ。それが一番重大なことじゃないか。ならば、やるべきことは決まっている。まず、この体操服は元にもどして、かばんは閉じて……。よし、沢渡さんに連絡だ。
……って、ああっ!! 俺、沢渡さんの電話番号を知らないぞ。
沢渡さんとはクラスが違うので、俺が持っている二年三組のクラス名簿には載っていない。美音先輩なら沢渡さんの番号ぐらい知っているだろうが、俺にはその美音先輩の番号もわからないのだ。メールアドレスも何も聞いていなかった。
だいたい、部に勧誘されて「また行きます」と返事したんだから部長である美音先輩の連絡先ぐらいは聞いておくべきだったんだよ。……なんて、いま言ってもしょうがないけど。
うーん……。
もうこのまま持っていて、明日、学校で返すか?
……いや、ダメだ。シャーペン一本とかじゃないんだ。かばんが丸ごとないだなんて、沢渡さんはきっと困っている。なんとかしてすぐ連絡しないと……。
ええっと、沢渡さんは二組だったな。二組……二組ってだれがいたっけ。……あっ、米原(よねはら)!?
米原というのは、米原綾乃(よねはら・あやの)といって、去年、俺のクラスで学級委員をしていた女子だ。クラスの用事で何度か連絡を取り合ったことがあった。今年はクラスが変わったが、たしか二組だったはず……。とりあえずの手がかりに電話してみるか。
「わぁ、橋田がかけてくるなんて久しぶり。何、何?」
いきなり耳元で元気な声が響いてきた。
「えっと、いきなりだけど……。沢渡七海さんって二組だよな。連絡が取りたいんだけど、電話番号がわからなくて……」
「なーんだ、そんな話? まあ、番号はわかるけど……それ、明日、学校で会って聞くとかじゃ遅いの?」
「うん。今すぐ連絡を取りたいんだ。……あ、本人に無断で教えるのがまずいなら、俺の番号を沢渡さんに伝えてくれるだけでもいいんだけど……」
「なんか事情が気になるけど、あたしには言えないこと?」
と言われてみて気が付いた。よく考えたら、もしこんなうわさが広まったら……。俺が後ろ指さされるのはともかく、沢渡さんにも迷惑がかかりはしないだろうか。まあ、米原はそんなことを言い触らすようなやつではなかったが、うーん……。
「まあ、ちょっと学校の連絡事項で……」
「ふーん、となりのクラスに連絡事項ねぇ。……まあ、ほかならぬ橋田の頼みだし、番号伝えるぐらいならいいよん」
「悪い。助かる」
連絡事項ってのはあまりいい言い方ではなかったが、なんとか俺の番号を沢渡さんに伝えてくれるということで話はまとまった。
しかし、電話を切ったあとで恐ろしいことに気が付いてしまった。もし、沢渡さんがこのかばんの中に携帯電話を入れていたら……。ああっ!! それじゃあ、米原が電話をかけても、沢渡さんに連絡が付かないじゃないか。なんてことだ!!
もちろん、これは悪い想像だ。実際は携帯電話をかばんに入れているとは限らない。それに、米原は「番号はわかる」と言っただけだから、沢渡さんの自宅にかけようとしている可能性だってありえるわけで……。まだ、連絡が付かないと決まったわけではない。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。いまこのかばんの中から着信音が鳴ったら終わりだということだ。まさしく終わりを告げる音。……鳴るな。鳴るなよ。
…………。
いきなり耳をつんざく着信音!! うわぁ!! ……って、なんだよ、俺のじゃないか。あっ、ひょっとして……。
「橋田くん……ですか?」
沢渡さんだ。……ってことは……最悪の事態は避けられたってことだ。
「沢渡さん? ごめん。俺、かばんを……」
「ごっ、ごめんなさい!! わたし、橋田くんのかばん、間違えて持って帰っちゃって……もうなんてあやまったらいいか……」
沢渡さんの声は少し涙声のようにも聞こえた。
「えっ!? …………ええっと、ちょっと待って。話が逆になってるよ」
俺が沢渡さんのかばんを間違えて持って帰った、の間違いだろう。
「えっ、逆!? ……あの……わたし、かばんが違ってるの、家に着くまで気が付かなくて、さっき開けてびっくりして、どうしようって、そしたら電話がかかってきて……」
「……あっ、そうか。お互い間違ってたってことか」
そうだ。つまり、かばんが入れ違っていたということだ。そしてそれを二人とも家に帰り着くまで気が付かなかった。
考えてみれば、二人はいっしょの電車で帰ったんだ。どっちかが途中で気が付けばこういう問題は起きなかっただろう。そう言えば、電車の定期券は制服のポケットに入れていた。駅でかばんを開ける必要もなかったわけだ。
では、どっちが先に間違えたのか。二人とも自分だったかも……なんて言い出す始末だが、いっしょに帰るときだから、ほぼ同時だったような気もする。まあ、二人ともはっきり覚えていないのなら、二人で間違ったってことでいいのかもしれない。
「……じゃあ、俺、このかばん、今からそっちまで持っていくよ。でも家を知らないから……」
「そんな……。こんなとこまで持ってきてもらったら悪いですよ」
こう言われたら強引に家を教えてというのも問題だろう。なにせ相手は昨日知り合ったばかりの女の子だ。気楽に家を聞けるような関係ではない。そんなわけで、沢渡さんの家の最寄り駅で受け渡しをすることにした。
…………。
電話を切って、ようやく落ち着いてきた。きらわれるものだとばかり思っていただけに、こういう状況は想像していなかった。そうか。沢渡さんのほうも、俺のかばんを開けてびっくりしたって状況だったんだな。
……って、あれっ? 俺、かばんに変なもの入れていなかったよな。……あっ、そう言えば今日、中間テストの答案が返ってきたんだった。点数、あんまり良くなかったけど……見られたかな?
……って、そうじゃないだろっ!! こんなことで沢渡さんを疑ってどうするんだよ。
そうだ。俺がこんなことを思うってことは、沢渡さんだって、いま俺に対して同じようなことを思っていてもおかしくない。あまりよく知らない男に、かばんの中を見られただなんて、気持ちのいいものじゃないだろうし……。
電話で話せてホッとしていたところだが、少し気まずい状況であることに変わりはないのかもしれない。
それから家を出て、待ち合わせの駅に着くころには日はすっかり暮れていた。
へぇ、ここが沢渡さんのいつも利用している駅なのか。……なぜか、ちょっとドキドキする。初めて降りる駅だったが、想像したよりずっと小さな駅だ。
電車を降りると、ホームに沢渡さんが見えた。私服姿だ。初めて見る私服姿にさらに鼓動は速くなった。
駅に降りた数人の乗客が足早に改札を出ていく。すると、ホームは俺たち二人だけになった。見渡すかぎり人はいない。夜の駅に二人っきり……。まさかこんなに人のいない駅だとは思わなかった。
「ごめん。待った?」
「ううん。いま来たとこです……」
さっそく、かばんを交換する。
「俺、かばんが違ってることぜんぜん気が付かなくて、かばん開けてしまった。……もちろん沢渡さんのだってわかってから、それ以上、中は見てないけど……ごめん」
「う、うん……。わたしも橋田くんのだって思わなくて開けてしまったから……。ごめんなさい」
「いや、俺のほうはいいんだ。やっぱり、沢渡さんにはいやな思いをさせてしまったと思うし、迷惑かけたと思う」
「そ、そんなこと……わたしだって同じだから」
…………。
二人の間に沈黙の時間。気まずい空気。
「……あの……じゃあ、俺、これで……。今日は本当にごめん」
「わ、わたしのほうこそ……。あ、あの……、せっかくここまで来てもらったんだから、お見送り……します」
「えっ……。そこまでしてくれなくても……」
正直なところ、気まずくて早く立ち去りたい気持ちが大きかった。でも、俺の帰りの電車が来るまでいっしょに待ってくれると言う。本来なら俺が見送らなきゃならないぐらいかもしれないのに、ちょっと申し訳ない気もする。
帰りの電車は向かい側のホームで、電車が来るまでまだ時間があるらしい。二人でホームを移動した。その途中、改札の近くに自動販売機があった。
「あっ、何か飲むか?」
お金を入れて、どうぞと手で合図をした。
「えっ? いい…………あ、ううん、ありがとうございます」
沢渡さんはいったん断りかけて、一瞬考えてから受け取ることにしたようだ。おわびの品ってわけでもないのだが、ジュース一本であれ、受け取ってもらえたので俺は少し気が楽になった。それから二人で反対側のホームに移動して、ベンチに並んで座った。
ベンチのどの位置に座るのかちょっと迷ったが、二人の座った間には微妙な空間が空いていた。
「重さもほとんど同じなんだな」
もどってきた俺のかばんは、さっきまで持っていた沢渡さんのかばんとほぼ同じ重さだ。二人ともかばんにかざりを付けていなかったので、外見も変わらない。かざりがないのが自分のかばんという認識もあったかもしれない。
「本当。外からじゃぜんぜんわからないですね。だから開けたときはびっくりして……」
「俺もだ。最初は、かばんが入れ替わってるって思わなくて、俺が一方的に持ってきてしまったって思ったよ」
「あっ、それ、わたしもです」
「へぇ、沢渡さんもそうだったのか。……いっしょに帰ったんだからそんなわけないんだけど、やっぱり、あんまりな出来事で混乱してたよ」
「うん、わたしも……。でも、二人で同じように混乱してただなんて……」
「いま考えたら変だな」
「変ですよね」
沢渡さんがほほえみかけてきて、ばっちり目が合って見つめ合ってしまった。
「あっ……」
気まずくて二人ともうつむく。
…………。
「……あっ、ちょっと気になってたんだけど、俺たち同級生なんだから、俺に敬語使う必要はないよ」
「えっ。そ、そうですよね。……あ、ううん。そうだね?」
「うん」
「わたし……、男子と気軽にしゃべるのってあんまり慣れてなくて……」
「ああ、それで……。そういや部活も女子ばっかりだったって言ってたっけ」
「うん……。あ、あのー、部活……。こんなことがあったから、もう来たくないかもしれないけど……」
「そんなことないよ。じゃあ、明日も行くよ」
実際言うと、ついさっきまでは気まずくて顔も合わせづらかったところだ。でも、二人で話しているうちにその気持ちも少しやわらいだ気がする。
「ありがとう。わたし、橋田くんにエスペラント教えるの、がんばりま……あっ、がんばるよ」
「そうか。俺もがんばって練習台にならなきゃな」
やがて俺の乗る電車が来て、沢渡さんの振る手に見送られて電車に乗った。
…………。
翌日の放課後。俺は今日もエスペラント部のとびらを開けた。そこには昨日と変わらぬ笑顔の二人がいた。
「あのぉ、今日、わたし、クッキー焼いてきたんだけど……」
沢渡さんが手焼きのクッキーを出してきた。
「お!! さすが、七海」
「お口に合うかわかんないけど、橋田くんの歓迎ってことで。それと昨日のことと……」
「昨日?」
「ああ、そんな気を使わなくても……。おおっ、すごい!! へぇ、沢渡さんって、料理が得意なんだな」
昨日のおわびを兼ねてってことかな。うーん、俺はジュース一本で、沢渡さんは手焼きのクッキーか……。
「じゃあ、七海、お茶を……」
「あっ、今日は俺が入れましょうか?」
お茶は部員の日替わり当番で入れることになっているらしい。仮入部中は別にやらなくてもいいという話だったが、当番の順番に加わるぐらいだったらたいした仕事じゃない。
「あっ、今日はミルクティーかなと思って、さっき、牛乳を買ってきてたんだけど……」
ん!? これは食堂前の自動販売機で売っている200mlパックの牛乳だ。
「えっ、これでミルクティー? ……って、どうやって?」
「じゃあ、私が入れ方教えてあげるよ」
結局、美音先輩に教わりながら入れることになった。まず水をくみにいって、美音先輩の指示どおりポットを温めてから紅茶を入れた。濃いめに入れるのがコツらしい。
「……じゃあ、紅茶が入ったら牛乳パックにストローをさして、カップに向けて押して注ぎ入れて」
「へっ!? ……なんか、すごい作り方ですね」
「うん。冷蔵庫がなくて大きな牛乳パックが買い置けないからね」
それで、この小さな牛乳パックで入れるってわけか。
「ええっと、ストローをさして、これで押すんですか?」
「うわっ、こっち向けて押さないで」
美音先輩があわてるだけあって、ちょっと押しただけでピュッと勢いよく出る。ストローの向きには注意しないとならないようだ。
そして、お茶の時間の始まり。沢渡さんからクッキーの説明を聞いた。
「これはバター味で、これはココアで、これは塩づけの桜の花を入れてみたんだけど……」
「桜の花? あっ、和菓子に入ってるやつか。へぇ、クッキーに花びらが入ってる」
沢渡さんのクッキーはうまい。こんなのが毎日あるなら……って、もちろん今日が特別なのはわかっているが。
「橋田くんのミルクティーもおいしいよ」
なるほど、本格的に入れたミルクティーなんて飲んだことがなかったが、我ながらうまいかも……。
「ふふーっ、私が入れ方を教えたってこともお忘れなくぅ」
「そうそう。美音先輩の教え方がいいんですよ」
「って、なんか私が言わせてるみたいじゃない?」
「はい。思いっ切り言わせられました」
「ええーっ」
沢渡さんは横でくすくす笑った。
「じゃあ、今日から七海が教えるってことでよかったよね?」
「はい。自信はないけど……変なとこがあったら二人ともどんどん指摘してくださいね」
そう言って、沢渡さんは、かばんからノートを取り出した。
「それは?」
「あっ、これはわたしが一年生のときに付けてたエスペラントのノートなの。……うーん。昨日もノートを出してたら、しまうとき気が付いたのになぁ……」
そうか。昨日は部活中にかばんを開けなかったからな。……って、わぁ、きれいな字だ。沢渡さんって、部活の勉強でもノートを付けているんだな。
…………。
かばんのことでは一時はどうなるかと思ったが、こうして、沢渡さんにエスペラントを教えてもらう日々が始まった。俺はこれからもこの部に顔を出すだろう。この二人と過ごす放課後は楽しいし、俺には、沢渡さんの練習台になるという役目がある。でも、ずっと顔を出すのならいっそ正式に……。
そして俺はエスペラント部への入部届を書いた。
(つづく)
次回から実際の文の学習に入ります。次回は第2課「人称代名詞と基本の文」の予定です。今後は三課ごとぐらいに挿入話が入るぐらいの配分になる予定です。お楽しみに。