(注) この物語に登場する人物・団体などはすべて架空のものです。
「……じゃあ、まずは文字から説明するね。エスペラントで使う文字は、この28文字なんだけど、この表のように、文字と発音は一対一で対応してるのよ」
《作者注》 以下の音声 (♪) は、Wikipediaの音声ファイル (Ogg形式) にリンクしています。ブラウザの「もどる」でもどってきてください。あまりいい音声じゃないけど……。
大文字 | A | B | C | Ĉ | D | E | F | G | Ĝ | H | Ĥ | I | J | Ĵ |
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小文字 | a | b | c | ĉ | d | e | f | g | ĝ | h | ĥ | i | j | ĵ |
音素 (単語内の発音) | [a] | [b] | [ʦ] | [ʧ] | [d] | [e] | [f] | [ɡ] | [ʤ] | [h] | [x] | [i] | [j] | [ʒ] |
音声 | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ |
大文字 | K | L | M | N | O | P | R | S | Ŝ | T | U | Ŭ | V | Z |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
小文字 | k | l | m | n | o | p | r | s | ŝ | t | u | ŭ | v | z |
音素 (単語内の発音) | [k] | [l] | [m] | [n] | [o] | [p] | [r] | [s] | [ʃ] | [t] | [u] | [w] | [v] | [z] |
音声 | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ | ♪ |
「……って、いきなり勉強が始まってるんですね」
そうだ。うっかり忘れるところだったが、ここは外国語を勉強する部活だった。俺はお茶を飲みにきたわけじゃなかったのだ。
「ええっと……。あれっ!? この Ĉ とか、字の上にこんな記号『^』が付いたのがあるんですね」
「うん。それは文字と発音を対応させるためよ。たとえば [ʃa] (シャ) って発音を sha って書く書き方があるよね。でも、それだと [sha] (スハ) も sha になって区別が付かなくなるじゃない? ……エスペラントでは、文字と発音が一対一の対応になるように、別の発音は別の文字になってるのよ」
「……つまり [ʃa] (シャ) って発音なら ŝa って書くわけですか」
「そう。一対一対応のおかげで、初めて見る単語でもつづりを見ただけで発音がわかるし、発音を聞きとれたらつづりもわかるって仕組みね」
「この記号『^』は『字上符』って言うんでしたね」
「うん。メールとかで『ŝa』って打てないときは、『代用表記』って言って『s^a』や『sxa』って書くよ。ほかの字上符の付いた文字も同じね。『x』の文字はこの表にないから別の発音と区別が付かなくなることがないのよ」
「あれっ、そういや、この表には Q W X Y がないですね」
「その四文字はエスペラントの単語には出てこない文字なのよ」
「発音記号を見たらだいたいわかるとは思うけど、発音に注意する文字は次の文字ね」
「つまり『c ĉ ŝ』はローマ字で言うと『ts ch sh』の発音になるよ。だから『ca ĉa ŝa』は『ツァ、チャ、シャ』って読むわけね。日本語の『ツ、チ、シ』の音だったら『cu ĉi ŝi』って書けるよ」
「へぇ、『ca』は『カ』じゃないんですね」
「うん。『カ』だったら『ka』って書けばいいんだから、違う文字ってことは違う発音ってことね。『c』はカ行やサ行じゃないから注意してね」
「小文字の『ĵ』は『j』の上の点を書かずに字上符を書くよ。この二つはヂャとジャの違いね。『ĝi』は『ヂ』、『ĵi』は『ジ』になるよ」
「えっ、それ同じ発音じゃ……」
「舌の動きが違うのよ。ほら……『ヂ』と『ジ』」
「うーん。舌って言われても、口の中だからよく見えないです。もっと近くで見ていいですか?」
「うん、いいよ。じゃあ、私の舌をよく見て」
俺は身を乗り出して美音先輩に顔を近づけた。美音先輩の舌が部屋の明かりを受けて光っている。
「えっ、そんな近くで? ……って、ちょっと待って。これ、結構恥ずかしい」
美音先輩はかなり照れてしまったので、こっちも意識してしまう。よく考えたら知り合って間もない女子の舌を間近で観察するっていうのは、すごい状況だ。
「これは、濁点を取った『チ』と『シ』を考えるといいのよ。『チ』って言うときは舌先が上の歯の付け根に一瞬付くけど、『シ』って言うときは舌先がどこにも付かないでしょ。『ヂ』と『ジ』もそれと同じ動きにするの。……『チ・チ・ヂ・ヂ』、『シーシージージー』って練習するといいよ。二人とも言ってみて」
「えっと……チ・チ・ヂ・ヂ。シーシージージー。……って、わ、わたしの舌は見なくても……。や、ちょっと……恥ずかしいです」
別に女の子を恥ずかしがらせる実験をしているわけではない。間近で見ている俺のほうも恥ずかしいんだが。
「あっ、ごめん。……えっと、チ・チ・ヂ・ヂ。シーシー・ヂー・ヂー」
「ううん。濁点が付くときに舌の動きを変えちゃダメよ。濁点が付いても付く前と同じ動きで発音するの。『シーシージージー』のほうは最後まで舌を動かさないでね」
「えっ。……チ・チ・ヂ・ヂ。シーシージージー。……ああっ、わかった。『ヂ』と『ジ』の違いか。微妙だ……」
「現代日本語では『ジ』と書いてても、発音は『ジ』や『ヂ』が混ざってるから、意識しないと区別できないかも」
「うん。でもまあ、実際の単語では『ĝi (ヂ)』と『ĵi (ジ)』を区別することより、『gi (ギ)』と『ĝi (ヂ)』の違いのほうが重要だけどね」
「これは、息を荒らげながら言う感じのハ行よ。でも、重要単語の中にはこの字はぜんぜん出てこないから、最初はこの字は気にしなくていいよ」
「そんなこと言われたら余計に気になるんですけど……」
「『バッハ』のハの音なんだけど、英語にはない発音ね」
「次は『j』と『ŭ』ね」
「あれっ? この『ŭ』の字上符は『^』じゃなくてU字形なんですね」
「『^』だと筆記体のときに『a』と見分けにくいってのもあるかも」
「そう。これはヤ行とワ行の子音よ。つまり、『ja ŭa』なら『ヤ、ワ』と読むわけね。『aj aŭ』なら『アィ、アゥ』って感じの発音になるよ」
「『ja』が『ヤ』で、さっきやった『ĵa』が『ジャ』ですね」
「ええっ。……あれっ? でも、エスペラントでは Y と W の字は使わないんですよね。さっきの表になかったし。なら、ヤ行とワ行を Y と W にすれば、わざわざ J がヤ行なんて変なことしなくても済むのに……」
「うーん、私もくわしくはないんだけど……。Y がヤ行で W がワ行っていうのは、アルファベットを使う言語の中では案外少数派らしいのよ。……ローマ字と英語だけしか知らないと、Y と W を使うのがふつうだって思っちゃうんだけどね。ほかの言語の中で見ると、意外とこの読み方は例外的って感じなのかな」
「『W』は、『V』が二つくっついてあとからできた文字だから、『V』みたいな発音をするって言語も多いらしいよ」
「へぇ、そうなんですか」
「発音記号でも [ j ] がヤ行になってますし……」
「そうか。英語と違ってるから変に思っただけってことか。その英語が実は例外だったってこともあるんだな」
「これは英語にもある区別ね。『l』は舌先を上の歯の付け根に押し当てて発音するよ。『r』は舌先を付けずにちょっと巻き舌っぽくふるわせて発音することが多いね。日本語のラ行はふつう、どっちの発音にもならないから注意してね」
「『r』のほうの発音は英語の『r』ともちょっと違うんですね」
《作者注》 さっきの音声ファイルで聞いてみてくださいね。
「エスペラントは L と R の差が英語より激しいことが多いから、違いは聞き取りやすいかも。逆に発音はちょっと練習が必要かな。『r』の音は『ブロロロロー』とか『ブルァ』とか叫びながら練習すると出しやすいかもね」
「それはちょっと恥ずかしいような……」
「わたし、『r』の発音が一番むずかしかったです」
「でも、正確な発音よりは意味が通じることがたいせつだから、あんまり発音にばっかり、こだわりすぎる必要はないよ」
「これから発音をカタカナで書くときは、『r』は『ラ゛』って濁点、『l』は『ラ゜』って半濁点 (マル) を付けておくよ」
「あとの文字はだいたいローマ字どおりね。もちろん『si ti tu zi』とかは『シ、チ、ツ、ジ』じゃなくて、発音記号どおり『スィ、ティ、トゥ、ズィ』って読んでね」
「今まで言った発音は、単語の中の文字の読み方なんだけど、アルファベット単体の読み方は別にあるよ。母音 (a, i, u, e, o の五つ) はそのまま伸ばして、子音 (それ以外) は後ろに [o] (オ) を付けて伸ばすのよ。j や ŭ も子音ね」
「じゃあ、『ABC』は『アーボーツォー』って読むんですね」
「そう。そのあとは『Ĉ (チョー)』『D (ドー)』って感じ。あとは?」
「えっと、『E (エー)』『F (フォー)』『G (ゴー)』……」
「……あれっ? じゃあ、『E』が『エー』で、『I』が『イー』になるのか。まぎらわしいな」
「これも、『E』は『エ』の発音の文字なのに『イー』って読む英語のほうが変わってるって見方もできるかな」
「単語のアクセントは、どの単語も必ず後ろから二番目の母音にあるって決まってて、そこを強く発音するのよ。母音は a, i, u, e, o の五つだけで、二重母音はないから母音が連続してても一つ一つ数えるよ」
「英語と違って、アクセントのない母音があいまいな音にはならないよ。弱くても、はっきりわかる発音をしてね」
「全部同じか。じゃあ、知らない単語でもアクセントの位置がわかるってことですね」
「そう。……で、アクセント母音の直後に、子音が一つ以下のときはアクセント母音を伸ばす。子音が二つ以上つづくときは伸ばさないってのがふつうよ」
「つまり、後ろから二番目の母音と、一番後ろの母音の間にある子音の数ってことか……」
「……で、でも実際は、母音は伸ばしても伸ばさなくてもいいんですよね」
「うん。アクセントの位置は文法規則だから重要なんだけど、母音の長さは違っても意味は変わらないのよ。だから長さは自由なんだけど、この伸ばし方をすると文にリズムが付いて聞き取りやすくなるから、おすすめって感じね」
「へぇ、エスペラントでは音の長さはそんなに重要じゃないんですね」
「じゃあ、まだ単語の意味は考えなくていいから、つづりを見ただけで発音できるように練習してみよう。アクセントの位置も間違えないようにね」
発音してみよう。
「正解はこうね」
「そうか。全部規則どおりに読むわけですね。これって、英語を知らないでローマ字だけ知ってるって小学生のほうがうまく読めそうだな……」
「たしかに、英語の変則的な読み方に慣れると逆に引っかかるかもしれないけど、書いてる字のとおりに素直に発音するってことね。……じゃあ、今日の勉強はここまで」
(つづく)
次回は学習をお休みにして、挿入話1「とんでもない失敗」をお送りします。お楽しみに。