萌えるエスペラント語っ!

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『萌えるエスペラント語っ!』(1)
プロローグ 「放課後は引っ越し」

(注) この物語に登場する人物・団体などはすべて架空のものです。


放課後

今日はとくに何もない日のはずだった。いや、実際に放課後まではなんでもない一日だった。

俺の名は橋田公平(はしだ・こうへい)。高校二年生だ。一学期の中間テストが先週末に終わって、少し解放的な気分の五月下旬だった。

今日の放課後は、帰ろうとすると先生に雑用を頼まれて一人で残された。なんで俺だけ……。「部活やってないからひまだろう」などと言われたが、先生の雑用部に入った覚えもないんだが。でもまあ、雑用の内容はたいしたものじゃなかったので、わりとすぐに終わり、あっさりと解放された。

用が済んだら、これ以上一人で学校に残っていてもしょうがない。さて、帰って何をしようか……などと考えながら廊下を歩いていると。

ドンッ!!

いきなり廊下で何かとぶつかった。んっ!? 女の子?

それを確認する間もなく、何かがドサドサッと俺の足下に落ちてくる。な、なんだ!? 俺はとっさに二、三歩後ろに下がってそれを避けた。

(絵) 廊下の角には何かが大量に散乱していて、そのそばには一人の女子生徒。

【 ?? 】「いたた……。あっ、ごめんなさい」

かわいい声。……女の子だ。軽く肩にかかった黒髪。引き込まれるような澄んだ目。そして、あどけない顔だち。あれっ、たしかこの子はとなりのクラスの……。

そう。この子とは廊下で何度かすれ違ったことがある。となりの教室に入っていくのを見て、「へぇ、となりにかわいい子がいるんだなぁ」と思っていた。……って、そんなに特別な感情があるわけでもないんだけど、ちょっとだけ気になっていた子……かな。

話をしたことはないけれど、名前はたぶん沢渡(さわたり)さん。ほかの女子がそう呼んでいるのを聞いたことがある。

そのとき、もう一人の女子の声がした。

【 ?? 】「だいじょうぶ!?

【沢渡さん】「あっ、美音(みお)先輩。だいじょうぶです」

声がしたほうを見る。「美音先輩」と呼ばれた人は、ポニーテールのきれいな人だ。なぜか大量の本を抱えている。

【美音先輩】「あぁ、だからそんなに持ったら危ないって言ったのに……」

あたりを見渡すと廊下にも大量の本が散らばっていた。

ここでようやく今の状況がわかった。さっき俺がこの子 (沢渡さん) にぶつかったせいで、この子が持っていた本を落としたって状況だ。これはまずい。

【俺】「あっ、ごめん。俺がぼうっと歩いてたから」

俺はそう言ってあわてて散らばった本を集める。英語の本!? ……じゃないな。よくわからない外国語の本が大量に散らばっている。

【俺】「この本は……」

【沢渡さん】「ご、ごめんなさい。部室の引っ越しで運んでたら……」

沢渡さんも本を集め始めた。

…………。

本は思ったよりたくさんあった。積み上げると結構な高さだ。こんな量を一人で運んでいたのか。これはそのまま「はい、どうぞ」と渡す分量とも思えない。

【俺】「すごい量だな。えっと……運ぶの手伝おうか?

【沢渡さん】「えっ、そんな……悪いですよぉ。……ほら、ちゃんと一人で持てま……うーん!!

ふんばって本の山を床からわずかに持ち上げたはいいが、上まで持ち上がらないみたいだ。

【沢渡さん】「ううっ、さっきは……」

【美音先輩】「ふふっ、さっきはテーブルの上にあったから持てたんじゃない?

なるほど。テーブルの上にあるものなら横にずらすだけで腰の上に抱えられる。こういうものは、抱えて運ぶよりも床から持ち上げるときのほうが力がいるのかもしれない。

【俺】「やっぱり手伝うよ」

二人の部員

美音先輩が持っていた本も少し引き受けて三人で本を運ぶことにした。

【俺】「部室の引っ越しって言ってたけど、なんの部?

運びながら聞いてみる。

【沢渡さん】「え、エスペラント部です……」

エスペラント部ってなんの部だっけ? うーん、去年の部活紹介のときに名前を聞いたことがあったような気はするけど……。

【俺】「でも引っ越しにしちゃ、ほかの部員が……」

まわりを見渡してみたが、ほかに引っ越し作業をしているような人は見当たらない。

【美音先輩】「部員はこの二人だけよ。部員が少ないから、せまい部室に替わらされることになったってわけ」

【俺】「ふーん、そんなことがあるんですか」

…………。

引っ越し先の部屋に着いた。校舎のこっちのほうにはほとんど来たことがない。授業で使う部屋もないし、おそらくだれも用がないところだろう。周囲は人のけはいもなく、ひっそりと静まり返っていた。

ドアノブの付いたとびらが一つ開いたままになっている。荷物を運び入れやすいように開けておいたのだろう。中に入ってみて、かなりせまい部屋だと思った。せますぎて使いづらいということで、しばらく使われていなかった部屋らしい。

部屋に入って左側に大きな本棚がある。あとは小さなテーブルが一台と、折りたたみのパイプいすがいくつか置いてあるだけだ。まあ、せまいと言っても部屋はふつうに明るいし、部員が二人だけならこんなものなのかもしれない。でも……まるで隠れ家だな。

さて、運んできた本はこの本棚に入れればいいわけか……。本棚はまだほとんど空だった。

【俺】「本はこれで終わり?

【沢渡さん】「ま、まだ何往復か残ってます……」

【俺】「じゃあ、ついでだから最後まで手伝うよ」

【沢渡さん】「えっ、あっ……。ありがとうございます。でも……」

横にいた美音先輩がその言葉をつづけた。

【美音先輩】「……でも、この時間って、部活とかはないの?

【俺】「まあ、帰宅部ってやつですから」

【美音先輩】「ふーん。まあ、どっちにしても助かったよ。私たちだけじゃ今日中に終わるかもわかんなかったし」

それで一度にあんな量を運んでいたのだろうか。

【俺】「あ、まだ名乗ってなかったですね。俺は橋田公平って言います」

【美音先輩】「ああ、私は東山美音(ひがしやま・みお)。三年生でここの部長よ」

【沢渡さん】「わ、わたし、二年二組の沢渡七海(さわたり・ななみ)です」

そうか。沢渡さんは七海って言うんだな……。

思い出の部室

さて本格的に手伝うとなると、俺のかばんと制服の上着 (詰めえりの学ラン) は引っ越し作業のじゃまだ。ここに置かせてもらうことにする。それから三人でエスペラント部の元の部室に向かった。今日までこの二人が使っていた部屋だ。

なるほど、さっきの部屋とは大きさが段違いだ。ほぼ普通教室と同じ広さの部屋。横開きの戸が部屋の前後にあって、中は30人ぐらい部員がいてもおかしくないぐらい広い。

美音先輩の話によると、広い部室を希望している部は多いらしい。だったら、こんな広い部屋に部員が二人だなんて、目を付けられても仕方ないんだろうな。

【俺】「本の残りは……。ん!? なんでこんなとこに……」

部屋のすみにあった小さな戸棚にはティーカップやマグカップが入っていて、電気湯わかしポットやティーポットなどもある。

【沢渡さん】「あっ。……それも部の備品なんです」

【美音先輩】「うん。お茶を飲みながら部活するのが、うちの部の伝統なのよ。このお茶道具も私が入部する前からあったし」

【俺】「へぇ、部活中にお茶を入れて飲んでるんですか」

部活をやっていない俺としては、そういうのがふつうのことなのかどうかもよくわからない。

【俺】「ふーん、お茶か……」

【美音先輩】「ううっ、そんなに言わなくてもわかったよ。じゃあ、これが終わったらいっしょにお茶にする? 手伝ってもらったお礼ね」

【俺】「あっ、さいそくしたつもりはなかったんですけど。……でもせっかくだからいただきます」

その後も部屋にあった残りの本や古いノートなどを運んだ。お茶道具が入っていた小さな戸棚も運ぶことにした。でも、本棚は大きいし、引っ越し先の部屋にすでにあるので置いておくことにする。備品にはCDラジカセなどもあった。これはまた古そうな機械だな。

最後に残った荷物は箱が一つ。こまごましたものを詰めてあるらしい。これは俺が一人で持ち、二人は自分たちのかばんを持った。二人はこの広いほうの部屋にかばんを置いて作業をしていたようだ。

さて、あとはこの箱を引っ越し先のせまい部屋に運べば作業は終わりか。

【美音先輩】「忘れ物はないよね」

美音先輩が部屋のかぎをかける。沢渡さんは戸の前に立ちつくしていた。

【沢渡さん】「もうこの部室ともお別れなんですね……」

(絵) さびしそうな表情で部室の戸に手を当てる沢渡さん。その後ろから美音先輩が沢渡さんの肩に手を置いている。

そうだった。この二人は部室を追われた身だったのだ。

【美音先輩】「うん。私もここにはいろんな思い出があるからくやしいよ……」

この二人にとって、この部屋は思い出の部室なのだろう。でも部員が少ないから引っ越さなければならない。二人のつらい気持ちは伝わってきたが、部外者である俺にはどうすることもできないことだ。かけてあげる言葉も見つからなかった。

部の現状

最後の荷物を持って、引っ越し先のせまい部室に着いた。たいていのものは本棚に詰め込んで、戸棚は部屋の右奥すみに設置した。

【沢渡さん】「じゃあ、わたし、お茶を入れますね」

このせまい部屋にも電源のコンセントぐらいはあるので、湯わかしポットはふつうに使えるようだ。水は、湯わかしポットを運ぶときに途中の水飲み場でくんできてある。

【美音先輩】「どうぞ、どこでも座って」

【俺】「じゃあ、俺はここでいいです」

部外者の俺が奥に座るのもなんだろうし、入り口側の席に座った。部屋にあったテーブルは、高さはふつうのテーブルだが、広さは正方形のこたつぐらいしかない。小さめの二人用テーブルだろうか。美音先輩が俺の向かい側の奥に座って、沢渡さんは俺の右側に座ることになった。

【沢渡さん】「ど、どうぞ」

沢渡さんが少しふるえる手でお茶を差し出してきた。うっ、なんか緊張する。こんなせまい密室で、同学年の女子にお茶を入れてもらうなんて、俺にとっては、かなりの非日常だ。それに、席もせまくて、沢渡さんが座ってくるときに、俺のひざと沢渡さんのひざがくっついてしまった。

【沢渡さん】「ご、ごめんなさい」

【俺】「あ、いや……」

【美音先輩】「なんか、予想以上にせまいね」

【俺】「そうですね」

……しばしの沈黙。……何を話せばいいんだ。

【俺】「ところでエスペラント部って何をしてる部なんですか?

とくに話題もなかったし、そんな話を切り出した。

二人の話によると、この部は「エスペラント」とかいう外国語を勉強する部らしい。エスペラントは、自然発生の言語ではなくて、国際語にするために、あとから人工的に作られた補助言語なのだそうだ。うーん、そんな言語があったのか。

【俺】「つまり、授業が終わってから、また授業とは関係ない勉強をしてるってことですか。それも外国語を?

俺の通っている、この梅野台(うめのだい)高校はいちおうは進学校に分類されている。でも俺から見れば、そんなに勉強熱心なやつが集まっている印象はない。授業が終わってからの部活で、テストにも出ない勉強をしようなんてのは、ちょっと珍しい人たちのようにも思った。

【美音先輩】「まあ、授業に関係ないからこそ楽しいってのもあるかな。義務からの勉強じゃないし」

【俺】「そんなもんですか。……そう言えば、ここ、先生はいないんですか?

【美音先輩】「いちおう、顧問の先生はいるけど名前だけだよ。部室にはただの一度も来たことがないし。第一、あの先生、エスペラントのことも知らないみたい。だから、いないのも同じかな」

【沢渡さん】「わたし、顧問の先生は名前しか知らないです」

【俺】「そんな状態……」

生徒だけで勉強している部活なのか。

【俺】「ちょっと思ったんですけど……。二人は新入部員がどうしてもほしい状況なんですよね。でも、さっき俺が帰宅部って言ったときに、俺を入部させようとは思わなかっ……」

【美音先輩】「ああっ!! そうか。男子部員ってのは考えてなかった」

【俺】「えっ!? ここって女子専用の部なんですか?

【美音先輩】「あ、そんなことないんだけど……。ただ、私が一年のときからずっと女子しかいなかったから、男の子が入ってくるなんて考えてもなかったっていうか……」

【沢渡さん】「男子の見学も一度もなかったですよね」

【俺】「まあ、たしかに男は、じっと座って勉強するような部活はあんまりやりたがらないかもしれないけど……。でも、それじゃあ、やりたいやつがいても……」

【美音先輩】「たしかに部のことを考えたら……。七海は、どう思う?

二人が何かこそこそと話をしている。なんだろう。

…………。

【美音先輩】「わかったわ。そこまで言うなら、今からでも入部する?

【俺】「へ!? いきなり? 俺が? ……って、わかったって何が?

どうやら、さっきこそこそ話していたのは俺を入部させるかどうかという相談だったようだ。

【俺】「あっ、そうか。いや、今のは俺が入部したくて質問してたんじゃなくて、ただ疑問に思っただけで……。まぎらわしくてすみません」

【美音先輩】「ええっ? ……そうか。通りすがりで手伝ってくれただけだったんだもんね」

そのとき、下校時刻がどうこうとかいう放送が流れてきた。

【俺】「あっ、もう帰る時間のようですね。えっと、お茶どうも」

【美音先輩】「えっ!? あっ、今日はありがとう。えっと、帰りは電車? じゃあ、……駅までいっしょにどう?

と言われて断る理由なんてない。もちろんいっしょに帰ることにした。

下校

学校から駅までは、道幅三メートルぐらいの小道がつづいている。本当は大通りを通って駅まで行くこともできるのだが、それだとかなり遠回りになる。だから、みんなこの近道を使っているという状況だ。今日は三人でこの小道に入っていった。

朝は道幅いっぱい大勢の生徒がいて、歩きにくいぐらい混雑しているこの道が、今はひっそりとしている。部活帰りの時間だとこんな感じなんだろうか。いつもはこんな時間帯に帰らないからなぁ。

【俺】「下校時刻とか言ってたのに、人通りが少ないですね」

【美音先輩】「えっ!? ああ、さっきの予告放送ね。実際の下校時刻はもうちょっとあとだし、運動部はこれから着替えるからもう少し遅いんじゃない?

なんだ。あれは予告放送だったのか。

【沢渡さん】「この道、帰りは美音先輩と二人しか人がいないこともありますよ」

【俺】「へぇ、そうなのか。いつも美音せんぱ……あっ、東山先輩といっしょに帰ってるの?

【美音先輩】「美音先輩でいいよ。……まあ、学校がある日は毎日部活があるから……」

【沢渡さん】「いつもいっしょですね」

そんなこんな話しているうちに駅に着いた。もちろん駅前通りに出れば人も車も多いふつうの街だ。この駅は、駅ビルの二階に改札があって、一階のホームにわかれて降りるようになっている。二人がどっち方面の電車に乗るのかわからなかったので、改札の前で切り出した。

【俺】「じゃあ、俺はここで……」

【美音先輩】「あっ……。あの……。本当に入部する気はない? あそこまで話を聞いてくれた人って、実はほとんどいなくて……」

二人が間近で見つめてくる。やばい。

【俺】「う……。でも俺、もう二年生だし、今から部活って……」

【沢渡さん】「あっ、わたしも二年生だから……」

【俺】「……って、あれっ? 沢渡さんも二年生になってから入部したのか?

【沢渡さん】「あっ、そうじゃなくて、同じ学年だから……その……いっしょにがんばろうって」

【俺】「ああ、そういう意味か」

【美音先輩】「まあ、もちろん実際に入部するかどうかは活動を見てから決めていいからね。実際に活動してみて合わなかったらそれでもいいし。……ね? 明日どう?

【俺】「う、うーん……。わかりましたよ。じゃあ、とりあえず明日も行くことにします。でも、まだ入部するかはわからないですよ」

はぁ、なんか俺、こういう押しに弱いのかな……。

…………。

翌日

翌日の放課後。部室に行くと二人が出迎えてくれた。そして今日は美音先輩がお茶を入れてくれた。

【俺】「えっ、部長みずからお茶を入れるんですか?

【美音先輩】「ええっ? 部長って言ったって、この人数よ。こんなちっちゃな部なんだし、そういうのはあんまり意識しなくていいよ」

【俺】「そうなんですか」

【美音先輩】「あっ、このかばん、こっちに寄せとくよ。本当、せまくて、かばんの置き場所にも困るよね」

いや、さすがにかばんが置けないほど部屋がせまいわけじゃない。でも、部屋の中を人が動き回ることを考えたら、どこにでもかばんが置けるってほど広い部屋でないのは確かだ。

【美音先輩】「じゃあ、……橋田君……だったよね。エスペラントはぜんぜん知らないようだし、まずは文字や発音から始めようか?

【沢渡さん】「わ、わたしもいっしょに復習します」

こうして、俺のエスペラント部での活動が始まったのだった。

(つづく)


次回は…

いよいよ次回からエスペラントの学習が始まります。次回は第1課「文字と発音」の予定です。お楽しみに。

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