父が肺がんで亡くなったのは、去年の11月の事でした。三人も子供もいる、いい大人のはずなのに、私は父の死を乗り越えるのにとても時間がかかっています。父はとてもまめな人で、私が小さい時に母が出かけていると、ちゃんと旗の立っているお子様ランチを作ってくれるような人でした。成人してからも車の運転ができない父は海外旅行をする私の大きなスーツケースを担いで電車で空港まで送ってくれました。普段背広しか着ない父はよそ行き用のスリーピースを着込んでスーツケースを肩に担いで私の後ろから歩いてきました。すれ違う人の視線を集めたのは言うまでもありません。孫ができると里帰りをするたび、何もしないでくつろぐ私のかわりに、へとへとになるまで子供の面倒を見てくれました。 ちょっと失敗すると、私に怒られたりするのに文句も言わずに・・・そして帰り際にはかならず「また来いな」って言ってくれたんです。
 そんな父との別れが、こんなに早くやってくるなんて、私にはいまだに納得がいきません。
 
 辛い作業になるのは覚悟しています。それでも、今、文章にしておく必要があると思うのです。そして遅ればせがら、これが親離れのきっかけになればと思っています。

 父の声がかすれ始め体重が減ってきたのは、おととしの春頃でした。さすがにどこかおかしいのは素人目にも明らかで、父はかかりつけの医院で検査を受けました。その時点でははっきりしたことがわからず大きな病院での再検査を勧められ、何度も検査に通った末、はっきりした病名がわかったのは、もう秋になっていました。11月4日、母から届いた手紙は「喜ばしくない知らせです」と言う書き出しで、父が肺がんであること、治療しても完治しないこと、余命を半年と告げられたことなどが、淡々と書かれていました。また、本人が入院による治療を望んでいない事や、ホスピスでの最後を望んでいる事、治る望みのないものなら、たとえそれによって短くなったとしても残された命を父の好きなようにさせてあげたいという母の意見が書かれていました。その当時の私の様子は日記を抜粋しましたのでそちらをみてください。→日記

 父への告知をかかりつけだった医院のM先生にお願いしたのですが、若いM先生は最後まで父の前で癌という言葉を口にすることはありませんでした。そのかわり、入院による治療を強く勧めました。父は諸々の状況から自分の病が癌であることに気がついている様子で、さかんに抗癌剤による治療は絶対しないことや、最後はホスピスで迎えたいということを言っていました。そんな父の意思を尊重して、治療を勧めるM先生に同調しない母にM先生は「のんびりしている」というような事を言ったそうですが、永年連れ添って一番、父に近い母が決めた事に私達、子供は誰も異論を唱えるものはいませんでした。また仮に母が迷ったとしても私達は同じ事を勧めたと思います。

 父はM先生に何度も、自分の病名を問いただしたそうですが
いつも、はぐらかされてしまうと特に苛立つ様子もなく言っておりました。家族に問い正すようなことはありませんでしたが、釜をかけるように、「癌だったら・・・・」という話をしました。私達は否定も肯定もしないで聞いていました。ひょっとしたら、「何言ってるのよ、お父さん、癌のわけないじゃない」という言葉を期待していたのかもしれません。

 歳をとっていて、進行がゆっくりな為か、父は割りあい元気に1999年の正月を迎えました。その頃になると父は治療を煩く勧めるM先生のところにはもう行かないと言い出しました。家族としては、まったく医師の監視のないところでは心配だったので、この時初めてホスピスのある病院の診察を勧めました。
 癌であることをはっきり告知していない人にホスピスを勧めるというのは、とても不自然に聞こえるかもしれませんが、父と母の信頼関係だったのでしょう。それはごく自然で、父は納得してホスピスに向かったのでした。 (Sep.2000) 
   
   父との別れ(2)ーホスピスー に続く