父との別れ(2)
ーホスピスー
 ホスピスというと、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。モルヒネで痛みを和らげて、じっと死を待つところ?

 上演時間が2時間のつもりで演じていた、作・演出・主演が自分の芝居をある日突然、あがなえない力によって1時間半にしなさいと言われたら皆さんはどうしますか? まず動揺しない役者はいないでしょう。そのまま演じ続けて時間がきたら、そこで幕を下ろして締め切りトンボのまま終演にしますか?せっかくあらかじめ上演時間が短くなった事がわかったのなら理不尽と感じながらも上演時間に合わせて台本の後半を書き替えませんか? ちゃんと芝居を完結させて自分の思い通りのラストシーンで終わらせたいと思いませんか? これを人の一生と考えた時、ホスピスとはそんな人間らしい望みをかなえてくれるところだと思うのです。

 私が初めてホスピスを訪れたのは去年の9月、父が初めて入院した時でした。年が明けてから、ずっと通院で様子を見ていたのですが9月に入って肺に水が溜まってしまったので、それを抜く為の入院でした。始め、2,3日の入院なので私は来なくていいと言われていたのですが、主治医のS先生の指示で家族全員が集められました。そこで先生は「早ければあと一週間」という、私にとっては信じられない短い期限を切りました。もちろん、それは一番短い場合で場合によれば一ヶ月と言うお話しでした。それでも、私はもう涙が溢れて止りませんでした。

 この時、父は10月に自分が幹事の旅行を計画していて、父は行く気でいました。母はS先生にその事を話し、先生の口から諦めるよう父を説得してもらえないかと頼みました。しかしS先生の答えは私たち家族にとって思いもよらないものでした。「私は行ってもいいと思います。確かに旅先で亡くなるような事があるかもしれません。でも、本人が行きたいというのなら、人の死に様として、そんなことがあっても良いと私は考えます」
 私たち家族は、このS先生の言葉によって初めて父の死を父のものとして考えてあげなければいけない事を知りました。
 家族にとっては父の命そのものに価値があります。一日でも長くと考えるのは家族にとって当たりまえの感情です。しかし本当に本人の気持を考えれば、どう生きるか、どう死んでいくかは誰にも口出しできるものではないのです。

 幸い父は、もう幹事として世話するどころか、みんなに迷惑がかかりそうな状況を自分で判断し諦めると言ってくれました。

 父の希望で肺の水を抜いたあと一時退院したものの、またすぐに入院しました。かなり弱っていましたし、父も不安だったのかもしれません。 そまま、もう家に帰るとは言いませんでした。

 父にはもひとつ譲れない希望がありました。10月14日の天皇主催の園遊会への出席です。この年の春の叙勲で勲五等双光旭日章を受けていた父には園遊会への招待状が届いていました。旅行は諦めた父でししたが、この園遊会出席は諦めるとは言いませんでした。そこでS先生は自ら宮内庁と交渉して出席する方向で動き出しました。宮内庁にしてみれば天皇主催のおめでたい席で、もしもの事があっては大変です。始め遠まわしに欠席してほしいような事を言ってきました。そこでS先生は記帳して、お土産を頂くだけでもいいからとねじ込むと、それならという事で了解してくれました。しかし、それでも、いろいろ難しい条件を言ってきました。まず患者を搬送する車は黒っぽいもので白くて病院などの文字の入ってないものである事や、医療関係者が付き添う事、また白衣などではなく、ちゃんとしたスーツを着てくる事など、挙句のはては一般の受付けが始まる前に来て、すぐ、お帰りくださいという事でした。

 まず、医療用の酸素ボンベ付きの寝台車で黒っぽい車なんてなかなか見つかりません。どこも、広告ロゴの入った白っぽいものです。家族に諦めの色が見えても、S先生は諦めませんでした。電話帳繰りながら、とうとう探し出してくださいました。 そして看護士のNさんは休暇を取ってボランティアで付き添ってくださる事になりました。
 しかも驚いた事にS先生は宮内庁との約束を無視し父を一般の受付け時間に合わせて向わせ、そのうえ体調がよければ中に入るように看護士さんに指示していたのです。

 末期のがん患者をたとえ寝台車にせよ車で何時間も搬送するという事は、かなりの心臓への負担がかかるそうです。この計画実行にあたって私たち家族は父が途中で息を引きとるような事があるかもしれないという事を言われました。しかし、もう私たちは迷いませんでした。父の希望を叶えてあげたいという思いで一つになっていました。

 前日、出張理容師さんに髪を切ってもらってモーニングに勲章をつけた父は酸素の管を付け車椅子という姿でしたが先生を始め大勢の看護婦さんや家族と写真を撮ってから母と付き添いの姉、看護士さん運転手さんとともに赤坂御苑へと向いました。長い長い一日の始まりです。携帯電話で密に連絡をとっていたものの、それでも待つ身にとっては、やきもきする時間でした。
 そんな病院関係者や私の待つ病院へ父は元気で帰ってきてくれました。みんなの心配をよそにとてもいい顔で帰ってきてくれました。疲れてはいましたが、けして疲れ果ててはいませんでした。

 園遊会では接待係の宮内庁職員は皆さん親切で一つも嫌な思いをする事はなかったそうです。そして、なにより、「皇族方全員にお声を掛けて頂いた」と父が何度も何度も嬉しそうに言っていたのが、そのまま家族の喜びなりました。

 父はそれから、ほぼ一ヵ月後の11月17日、夜明けを待たずに息をひきとりました。前日から家族は泊り込み、夜中じゅう父の傍らで話をしました。肺の病気でしたから多少は呼吸は苦しそうでしたが身体をくねらせるような苦しみもなく、モルヒネで意識がもうろうとする事もありませんでした。私たちはいろいろな話をしました。時には冗談を言って笑い合いました。「お父さん、浮気とかしなかったの? この際だから白状しちゃえば?」と私が言うと父は指を一本立てました。「えっ、一人いたの?」父は慌てて顔を横に振りました。はっきりしない言葉でしたが「おかあさん」と言っていました。お母さん一筋とでも言いたかったのかもしれません。話が園遊会の事になると父はとても満足そうに微笑みました。とても穏やかで楽しい時間でした。いよいよ手足が冷たくなり始め「お父さん」と呼びかけても少しず反応が少なくなっていきました。そして静かに息をひきとった時、私たちは誰も泣きませんでした。素敵なお別れが出来た事に私たちは充実感さえ覚えていました。

 そんな思いになれたのはS先生を始めとするホスピスのスタッフの皆さんが、いつでも父の希望に前向きに最善を尽くして下さったおかげだと思っています。    (Oct.2000)