この、世界の片隅で  〜中 
 
 
 
 
とてつもなく重たく感じる身体を普段では考えられないくらい重力を振り切るように保とうとしている。こんなに歩くのがつらい物だとは実感したことがない。
 
 
「………っっ」
運が良かった。
今日幾度かついた気もする深い息を吐く。視線を少し横にずらせば自分以上に力のない少年が支えている肩からずり落ちそうで気懸かりだ。
そうして一歩一歩進んでいるようには思えない速度だと心で嘲笑いながら、 それでも止まることはしない。一歩ゆけばそのたびにしたたり落ちる水が空虚な長細い空間に反響する。
幸いまだ日が沈みきっていないので、灯りをともして歩ける余裕のない身にはとてつもなくありがたい。
それでも薄暗いので十数歩先は闇色に呑み込まれているように見える。もしかすると進んでいるうちに本当に穴が開いているのに遭遇するかもしれない。
おそらく平常時に歩けばどうと言うことも無い距離だったのだろうが、 距離感が掴めない上に疲弊していたので一時間も二時間も進み続けた気がする。もしかしたら時間的にその半分はかかっていたかもしれない。
 
 
ようやくのこと、少し広い場所にたどり着いた。広間のような場所ではあるが、なんの一見には調度もなく、すこし高めの半円形の天上だけが印象に残った。その崩壊具合から広間と呼ぶか、 洞窟と呼んでしまうかは微妙なところである。 足下には絨毯でもしいてあった名残かほそい布切れともいえない縮れた繊維のかけらがぽつりぽつり散らばっている。 自然による腐食か獣か魔物だかにあそばれたのか。
慎重に広間全体に目を走らせ、出入りできうる様な通路が通じているかどうか見た。崩れた壁だか天上だかに覆われていない場所に、二つの扉らしい物が薄暗がりに見て取れた。 一つは完全に閉まっているが、 もう一つは半分剥がれかかっていて上側の蝶番でかろうじて接着している様なものだった。
しばらく考えた。ここに来る途中に魔物の気配は何一つ、また近日のその存在を知らせるような形跡すらなかった。 このように扉がしまっているということは少なくともここは魔物の領域から外れているのかも知れない。そうでなくとも、今来た通路にも扉がついていたのだからこれを閉めれば侵入してくる魔物の察知が可能となる。
 
 
「ここで休むぞ」
 
かがんで少年を肩から慎重に下ろしたが、少年からは何の返答もない。意識はあるようだがよほど参っているのだろうか。
そのことは気にかかったが、今は冷えた体を温める方が先であった。体温が下がればそれだけ体の機能も低下する。 そうでなくともかじかんだ指先と体はもしもの戦いには役を成さないにちがいない。長年の経験から暖をとるのがこういう場合は先決であり、生き残るには必要なことであると身をもって体感している。今更疑うことも方針変更も不要だ。
落ち着いてきてよく見れば壁際にばらばらと木片らしき物が黒々と見える。無いと思っていた調度のなれ果てなのかも知れない。そんなことよりどうやらあれは木で燃えるらしいと言うことを確かめるのが先決だ。 多少の湿りならここにあるぼろ切れと油紙で包んだ火付け用の布を浪費することで炎を宿せるかもしれない。
 
 
 
 
どうやってここに流れ着いたのかはほとんど記憶にない。海面に叩きつけられてから、おそらくそこから意識を飛ばしかかっていたのだろう。はっきりとした認識能力を取り戻したときには黒のかかった海面から突き出す数ある岩の一つに乗り上げるようにしていた。
水に浸かっていた下半身を水面上に出そうと動かすと足先がしっかりと岩肌に届いた。浅瀬のようになっているのか、どうやら十分に立てるだけの深さでしかない場所にいるらしい。
そう考えて、重たげに濡れそぼった髪を掻き上げかけて止まった。
 
少年は?
この手にしっかりと握り込んでいた少年はどこに?
 
背筋に冷たい物が上から下へと急速に動いた。
だが、幸いなことにさほど焦る間もなく少年が数歩離れた位置に同じように岩に項垂れているのを見いだした。これ以上暗くなっていたらこれだけの距離でも見つけるのは困難になっていただろう。
瞼を伏せ、血の気の薄い様子の少年が意識が無いにしても呼吸があることに安堵した。
それから少年を起こしにかかり、気付けとして酒を飲ませて意識を取り戻させたが、完全に少年の自我が戻ってくる前にすぐさま少年の腕を自分の首に回し肩で支えて引きずり加減にその場から動き出した。
夜の闇に遮断されかかった最後の陽光だけを頼りに巨大な黒い影に向かって進み出す。影に近づくにつれ、水深が浅くなっているのは確かだったので自分の判断は間違っていないと確信した。
幾度も水の流れに足をすくい上げかけられ、岩肌の凹凸に足を取られる。 黒い水面下に渦巻く水のうねりはやっかいな代物だった。そのたびに崩れそうになる姿勢を立て直し、幾程それをしたことだろう。足に水の抵抗を感じなくなり、しっかりとした地表を踏んだときはそこで座り込んでしまいたくなった。
だがそれをしなかったのはそうすれば次に自分が立ち上がる労力は凄まじい物であり、それ以上に少年をどうにかしないといけないという強固な意志が男の原動力となっていたからだ。
 
海面に突きだした巨大な岩の小島だったとしても波を被り、さらわれることは逃れられるのでないかという気持ちでいたので、自分の踏んでいる地が岩肌のみならずわずかの植物も生やした正真正銘の島であったことは嬉しいことだった。
巨大な岩に見えた影は崩れかかった建物だった。造りからして寺院に縁のありげなものであったが相当前に放棄されたのであろう、凄まじいまでに損害を受けている。元々が大造りだったので、切り出した岩のブロックが歪んで積まれている様は文化的な建物とは見なしにくかった。 それでも建物を構成しているパーツの一つ一つがしっかりとした物なので崩れ落ちそうな不安定さはなくむしろこの地に昔から根を生やしているような印象さえ持つ。
これで魔物さえ頻出しないのなら、願ったりである。潮風に吹きさらされて休息を取ろうとするのはつらい物がある 。屋根がある、それだけでずいぶんと精神的に楽になれる物だ。
 
一人で歩けると自分の手を振り払おうとする少年を無視して再び目標を捕らえなおして歩き出した。砂浜はなく、足には岩の硬い感触が相変わらず続いている。
地面を踏みしめる。 それを体感したように、追い込まれている精神のどこかで他人事のように思ったのはそれだけ参っている証。
 
 
 

どうなるかと危惧したが、何度か試すと木片にも火がついた。出来るだけ乾いている物を選んできたのだがなかなか火が燃え移ってくれず、無意味に着火用具だけを浪費していくようでこのまま火がつかなければどうしようかとひやりとしていた。 崩れた岩の影などに隠されていた木まで集めると意外な量になった。一晩分は優にありそうだ。通路を辿って他の場所も調べてみればいろいろ出てくるのだろうが、今はとにかく体を温めたかった。
 
「ティーダ?」
 
せっかく火がつき冷え冷えとした立ちこめる冷気にも圧されない熱気を放つようになったというのに、少年は動こうとしない。
なぜだか今日は妙に少年の動向に不理解が生じる日のようだ。
だからといって「好きにしろ」と放置して置くわけにも行かない。初めから男にはそんなことをするような気はなかったが。
 
「ティーダ、ここに来い」
 
赤い炎の色に照らされて、その整った顔立ちの陰影が際だって見える。炎が揺らぐ度に少年の影も揺らめいたが少年自身には動きがなかった。
焦れた声を男は発した。
 
「そのままにして置くわけにはいかんだろう
 冷やしたままにして置くな、下手をすれば凍えて───  」
 
「 凍えて?」
 
少年の平面的な抑揚の無い声が、無意味なような言葉を返す。 男の言葉のその先に続く物がわからないというように。いな、その単調な声はまるで何かを再確認するかのようにも聞こえる。
その所作が理解できずに男はさらに声を荒げた。
 
「凍えたら死ぬだろうが」
 
 
死ぬ。
死が訪れる。
 

冷え切った体は次第にその機能を低下していき、いつしかその動きの全てを停止させ緩慢な死の訪れを受け入れるほか無くなる。低下してゆく体温は生をつなぎ止められない。
何を当然の事を言わせる、といぶかった男は初めて少年の異変に気付いた。
 

「……おい?」
 
少年の硬い表情が今し方灯された灯りで赤く照らされて見えた。なのに反射で赤く色づいた肌が青ざめたような色が付いている気がする。 初めは少年が寒いのだと思った。けれどそれはどうもはき違えているらしい。
色の白さ云々よりむしろ気になるのはその表情の乏しさだった。
 
「…死ぬ……」
 
わずかに開かれた青紫の唇から掠れた声が漏れた。
 
「凍えたら、死ぬんだ……そんなに、簡単に、死ぬんすか………」
 
それはどこでも当たり前のことであり、この世界に置いては顕著なことだった。だから男は少年の内を読みとるのが遅れた。 男の常識と、少年のそれがすれ違っていたということを。
 

ここは、『死』が、近いところ。
 
「……どうして、来たんすか」
 
自分が忌避したいのは、何?
 
「なんのことだ?」
「さっき!オレが落ちるときに!どうして来たんだって…!!」
 
何を少年が激昂するのかわからない。
 
「来て、何が悪い?助けようとして、何が悪い?」
 
当然だ。ほうっておけるはずもない。自分の大切な存在のことだ。何としてでも手放したくなかった。 たとえそれが無益以上に不利益さらには有害なることに繋がる行為だとしても、これだけは譲れないことであった。そんなことは知らせないが。
 
「死ぬかもしれなかったのに……!!」
 
落下してから、海面に叩きつけられての打撲死、海面に漂流しての溺死、今面する凍死。
どれもがあり得たのだ。
遠い別空間の存在ではない。
 
「死ぬからと考えて行動が出来……!」
「それでもアンタは死ぬかもしれなかった!!」
 
ここは、とてつもなく、死に近い。
 
「──── わからない!!」
 
怖いと思う。
信じられないことが多すぎた。理解の出来ないことが、受け入れられないことが多すぎた。
ここは自分が生まれてからずっと身を置いていた世界とは全く異なる世界であると認識を落ち着かせるのにすら、途方もない努力と、有耶無耶と紙一重の納得でどうにかこなしてきた。 なのにそれらは全て容赦なく矢継ぎ早に降りかかってきて、自分の内を混ぜ返していくのだ。
 
もう自分でも何がわからないのかも言えない。
漠然とした不安が混乱を呼び、増幅させる。溜まり溜まったそれは抑圧の元に、ついには逆流を始める。無我の内での抑えが強いほどその反動は凄まじい。
 

「ティーダ?」
 
やめてくれ。何も、その声で、その表情で、言わないで欲しいんだ。
 
「何を、拒否している?」
 
自分の愛しいと思うそのアンタを構成する一つ一つを突きつけて。
 
「何を、」
 
頼むから。
暴き立てないでくれ。
 
「恐れている?」
 
そのアンタが曖昧な輪郭を取り払って、色を付けて、目を背けた『ソレ』を完成させる。
 

  怖いんだよ
 
 

圧死。轢死。焼死。爆死。窒息死。毒死。餓死。水死。凍死。病死。中毒死。溺死。窒息死。墜死。失血死。焚死。窮死。
 
ありとあらゆる『死』がここには氾濫している。
紙上、映像上の絵空事だと思っていたそれらと隣り合わせの世界。
考えてもなかったそれらを突きつけられて、拒否を押し通すには現実は生々し過ぎ。
他人事として客観視する事ももはや出来はしない。
 

『死』は怖い。だって。
 

ようやく、少年の抱える物が自分の前に形を取り始めた。
自分にとっての当たり前の概念が、少年にとっての概念との差異を明確化していたことなど思いも寄らなかった。
いや、少年がそんな自分の姿をさらそうとしなかったのだ。
 
「どうしてそんなに平然としてられるんだよ!!」
 
少年にとって『死』は遠い物のはずだったのだ。なのに世界を移った途端、あっけなく散らされてゆく人々の姿を目の当たりにしたのだ。
『シン』によって、魔物によって、足りない物資のせいで死に追いやられた人々。そしてその死を悲しんだとしても、どこか諦観を見せ受け入れている人々。 前者で受けた衝撃を後者が緩和と逆方向の働きをもたらす。
自分とどこか相容れない世界の要素に少年の心は悲鳴をあげていたのだ。
 

『死』は嫌だ。
 

けれど少年にとっての『死』と言う物はまるっきりに隔絶した次元の話でもなかった。
幼い頃に決別した彼の母親。その別れは絶縁などと言う形ではなく、死別という形で訪れた。二つの意味はどこか繋がりを持ち始める。
そして死んだ者と生きる者は二度と会うことはないという想いを抱える。
だからきっと彼の中には「『死』イコール『恒久の別れ』」という図式が固められているのだ。
 
「わからない!」
 
近いと思っていた、自分の善き理解者だと思っていた男とのぶちまけられた隔たりが少年を混乱に落とす。
少年との隔たりを見せつけ、小さく芽吹きかかった孤独感を大きく確固たるものへと煽り立てる。
 

そして、わからないじゃなくて、わかりたくない。
『死』が自分と彼の間に等距離に挟み込まれ、どちらかにそれが寄り、喰らい尽くされれば存在は消えるほか無い。
繋がりは断ち切られ、もう二度と彼を感じることは出来ないのだ。
そんな恐ろしい事態と毎日、この一瞬にも隣り合わせに居ると言うことが。
失えるはずがないと思っていた存在の暖かさを感じられなくなる瞬間がいつ訪れるかも知れないという緊張が膨張しすぎて弾け富んだ。 今の今までそれは少年の内に放出することもなく内包されてきたのだ。ただ男が気づけずに、少年が気付かないようにしてきただけ。
 

「オレはっっ」
 
この人のそばにいられなくなる日が来ることの恐怖。
決して口外にすることは赦されなかったこと。それは保護者に対する想いにしては激しすぎるのがあからさまだったから。
口外に出来ないから一層知らぬ間に鬱屈した。
その全容の幾程を男が理解したかは知れない。
それでも男はそんな不安定な少年を愛おしく思い、未熟な自分を罵倒し、
 
 
すでに『死』に浸りきった我が身を呪った。
 
 

「……ティーダ」
「アンタまでっっオレのそばからいなくなるんだ!!」
 
自分が最も恐れること。
それが『死』という事象を通さなくとも生じることはわかっていた。
どちらが怖いだろう。男との別れが男の死によってもたらされるのと、男が他の誰かの元へ身を寄せることによるのと。 むしろ他ならぬ自分の『死』によって起こってしまうのが一番つらいということが軽減されているかもしれない。
 
「けど、わかってる!」
 
召喚士の旅は、『死』と隣り合わせだと言うこと。
自分たちはガードだ。アーロンがワッカ達に向けて叫んだのと同じように、ガードは召喚士を守るために存在する。それこそ死守──  死をもってしても守り通す。
それを一番理解し、獣人ほど盲目的でないにしても実践している彼のことだ。どれほど自分より『死』に近く位置するのだろう。 死に神に手を引かれかかった彼を引き戻して、現世に留めて守るだけの力があればいいと願っても自分の無力が邪魔をする。
いくら彼が強いと言っても、自分がなけなしの力の全てを振り絞っても無意味に終わる事の方がきっと多い。今回の地崩れといい、『シン』の振りまく威力といい。
そのことをわかっているつもりなのに、受け入れられない。
自分以外の誰もが受け入れていることなのだろうに、自分だけの異質。
喩えようもなく追いつめられ、独りよがり気味の孤独と架空の恐怖に苛まれる。健全そうに見えた裏に押し込まれた不安定な要素が笑顔の仮面を突き破って漏れた。
 
「わかっていてもダメなんだ!わからないんだ!」
 
葛藤の中でむき出しの魂のまま、叫ぶ少年に揺さぶりをかけられた。
『死』とそれに付随するものが怖いと、自分を失いたくないのだと叫ぶ少年に仮初めである自分は何が出来るだろう。
少年が、必要とするのは何だろう。
 

「………っ…」
 
ぱたりぱたりと床に落ちる音は濡れそぼった身体からしたたり落ちる海の残留のみではない。
新たに少年から産み出された水滴が頬に跡引き、炎に小さく煌めきを作る。
 
男の中で何かが大きく揺さぶられた。
 
 
 
二人の距離が男の一歩で消え去る。
廃棄された室内に揺らめいていた二つ分の長い影が一つに統合される。
 
はね除けようとした男の体から回された腕の存在感に、目眩がして足掻くことも忘れ去った。
甘んじて、受けたいほどのことだったから。
 
「ティーダ 俺はここにいる」
 
腕の中に抱え込んだ存在が抜け落ちるのを恐れるように強く力を込めた。
少年の呼吸が嗚咽を堪える以外で詰まるのを聴いても、ほどくことはしない。
 
「何があってもお前の傍らにいる」
 
いつか自分を全く必要としなくなっても自分は最もらしい名目で少年のそばに居続けようとするのだろう。
 

「そばに、いる」
 

言質をとられないようにどこかあやふやな言葉。偽りを含まないようにと無難な言葉を探し出して、それにせめてもの精一杯としても罪悪の入り交じった想いを込めてして。それがどれだけ少年を埋められると言うのだろう。
『死なない』とは、どう理を歪めても約束のできない言葉だったから。
言葉で補えない分を自分の他の部位で埋め合わせるように、少年を抱き込んだ腕の力に少年のしなやかな体躯がしなる。
邪心も何もない抱擁とするには自分側には雑多の要素が入り交じっていたが、少年を想う事には虚偽がないのだと言い逃れを深くに呟いた。
 
 
信じられないような近距離に少年の顔があった。
わずか俯き加減の頭部から伸びる金の髪が額に乱れかかっている。少年の瞳から生まれる透明な粒の伝う音すら聞こえそうな距離。
こんなにも大胆な行為に及んでいるというのに不思議と動揺はなかった。開き直ってしまったのではない。ただ、少年をひたすらに慈しみたい、支えを作ってやりたい、そんな想いに紗がかかったようでさらに思考が鈍くなったと言う方が近いかもしれない。
どうせ二人しかいない空間だから、そうなったとも言える。いろいろな要素が男を後押しし、少年の無垢を呼び起こした。
 
凍えていた体が熱を持ち始める。
勢いを増した炎は室内に熱を放出している。たしかにそうではあったけれど、同じく冷え切ったはずの相手から経由する熱の方が熱いと感じるのはどういうことだろう。そっちが自分の熱源を刺激するのだと思ってしまう。
 

少年の額に指を伸ばす。そっと長い指で濡れた前髪をのけると覗く額は湿っている。
少年は身じろがずに男の成すがままに任せている。彼の細かに震え、瞬きの都度大きく上下するながい睫毛の煌めきにしばらく目移りしていた。
それはさほど長い時間ではなかった。それでも必要な期間ではあったと思われる。
 
いつか、そう今となっては遠い昔に幼い少年にしてやったことを繰り返した。
自分でも驚くほどに躊躇いもなく、その前髪を抑えた指の下の額に口づけた。
 
幼子の不安を取り除くように、形と見える愛情を欲する幼子のために庇護する者が成す行為。
たとえそこに込められた想いが過去のそれとは逸脱してしまった情愛を交わらせていたとしても。
せめてもの形と目的は、変わりない。
 
なぜだか唇からもたらされた少年の熱に、額からもたらされた男の熱に、泣きそうになった。
微かに痛む胸を、相手の存在に埋め合わせる。
 

なんだか誤魔化されたというか、曖昧になってしまった気もあるのにこの安定した空間と位置に追求をやめた。
ティーダは、そっと目を閉じた。
 
  アーロンの、熱……ほんとに安心するんだ
 

たくさんの事を考えた気もする。けれどそのいづれも彼がここにいる、たとえうたかたのことであろうとそれだけでもう全てが良かった。
彼こそが、自分の全てであり、存在意義であり、世界であり。
行く末も知らず惑う幼子が自分の位置(よりどころ)を再確認したかっただけだったのかもしれない。
 
 
彼の言ってくれた言葉。
自分はずるい。
彼はその外観からは想像がつきにくいほど優しくて
 
自分はその優しさにつけいった。
 
彼がそう言ってくれるのをきっとどこかで知っていた。
期待してた。
 

  ごめん、アーロン……
 

こんな汚いことを考えている自分じゃなくて、アンタの目に映るのは昔のままの自分でいたいと、恋愛の対象外と見られていることを望む。
 

  これはアンタの優しさを裏切る背徳だろうか
 

間近に感じる男がそんな自分の堂々巡りを消していった。
今は彼の優しさに甘えて、自分の弱さから目を逸らしたかった。
自分の弱さは。
今は考える必要がないこと。
寒さでこわばっていたはずのまぶたをゆっくりおろした。