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創作・ 演劇落語1                   山茶花さいた

「胸 の 肉」
                            原作  シェイクスピア
                             [ベニスの商人]より
                            訳     小田島雄志
                            脚色  六代 三遊亭圓窓
                            口演  六代 三遊亭圓窓
 
                    登場人物
                        金貸し 清六   (三八歳)清
                        医者  安藤似蔵 (三〇歳)安
                        町奉行 大岡越前守(四五歳)奉
                        大家  志兵衛  (六五歳)家
 
  世の中、次から次へといろんな事件が起きてますが、これが後で裁判になると、また
 様相が違ってきて、被害者、加害者だけでなく、いろんな人が出てきまして、いろんな
 ことを言い始めます。
 「真実を求めるために」とかなんとか言いましてね。いろんな立場の人が「真実は一つ
 だ」なんて主張してますから、真実がいくつも増えてきます。ですから、判事も大変で
 しょうね。
  事件が法廷に持ち込まれると、事件ではなくなり、検事と弁護士の法律ゲームになる
 んだそうで。
  確かに、そうかもしれません。
  昔から、名奉行という言葉はありますが、現在、法曹界では名判事という言い方もあ
 るのかもしれませんが、一般人には聞こえてこないですね。
  もっとも、昔の町奉行は判事だけでなく、検事、弁護士までも兼ねていたといえます
 ので、スター性もあり、講談、芝居になりやすかったんでしょう。
  ですから、落語の登場人物は、なんぞてぇと「大岡越前守」を味方にしていたようで。
 
安藤似蔵「今晩は…、ごめんくださいまし…」
清六「{詰将棋を指しながら}はい…。まだ、寝ちゃァいませんよ。どうぞ、開けてお入
 りなさいな」
安「夜分、失礼いたします。お初にお目にかかります」
清「{客の名を聞くまで、顔を上げず将棋を指し続ける}今、いい手が浮かびかけたとこ
 でね。ちょっとお待ちくださいな。あたしは、毎晩、こうして一人で詰将棋をしてます
 ので。あなた、将棋はどうです?」
安「いやァ、下手ですが、好きで、ときおり」
清「おや、そうですか。じゃ、これ、どうです。ちょいと、梃子摺ってましてね」
安「実は…、伺ったというのは…、こちら、清六さまで…」
清「そうですが」
安「金子をお借りしようと思いまして」
清「ああ、じゃァ、あたしにとってはお客だ。で、いかほど?」
安「五両……」
清「で、お仕事は?」
安「医者をしております。安藤似蔵と申します」
清「あんどう、にぞう…。{将棋をやめて初めて相手の顔を見る}おお、お名前は聞いて
 おります。しかし、天下の名医と言われるお方が、なぜに、こんなところへ……」
安「昔から金子には縁のない医者でして…」
清「だからこそ、名医と言われるんだ。腕あり金なし名前立つ、ですかな…。あたしから、
 こっそりと五両借りて、息抜きにどっかで遊ぼうというわけですかな」
安「いえ、そんな浮いたことではありませんで。実は…、ある病家先のその患者を治すた
 め、ちと高額な薬がいるので、五両…、こちらでなんとか…」
清「偉い。さすが名医だ。病家先の金の工面までするんですから、並みの医者にはできま
 せんやな。で、その患者というのは、どちらかのお子さんですかな?」
安「いえ、実は…、いずれ、その者と所帯をもつことになっている女で」
清「ホー…、そりゃ、目出度いな。早く治ってくれなくちゃいけませんな。つかんこと伺
 いますが、お名前は?」
安「お藤と申します」
清「お藤…さんね…。それに、病いの塩梅は?」
安「それが、あまり思わしくなくて…」
清「不治の病いってぇやつだ」
安「なにしろ、その薬がなかなか手に入りにくく、どうしても、値も高く……」
清「そうでしょうな…。じゃ、先生。こういうことでどうでしょうな。あたしも先生のお
 話を伺って黙ってはいられません。五両では足りなかろうと思います。十両、お持ちな
 さいな」
安「十両となりますと、利子も嵩んで…」
清「そういう先生から利子をとろうなんざァ、これっぱかりも思っちゃいません。期限の
 内に元金だけ返していただければ、それで結構。その期限、どうしましょうか…。今日
 は三月の二一日でしたな。では、三ヶ月と一七日間ということで、どうです? 細かい
 のは、おまけですよ。ということは七月の八日までに、ということですな」
安「十両となりますと、それまでに返せるか、どうか…」
清「なにをおっしゃる、天下の名医が。ちょいちょいと治せば、ちゃらちゃらちゃらっと
 懐に入ってくるでしょうが」
安「いや、あるように見えて、ないのが金で」
清「じゃ、こういたしましょう。そんなことは万に一つもないでしょうが、もし、返せな
 いということになりましたら、カタをいただきましょう。それですみますから」
安「しかし、十両に相当するようなカタもありませんし」
清「なんでもいいんですよ。こりゃ、先生がそうおっしゃいますので、借りるときの心ほ
 ぐしですから。お家になにか、ございませんかな」
安「と、申されても……、拙宅にはなにも…」
清「あるのは、その立派な体だけですかな、先生」
安「はぁ…、自慢にもなりますまいが、父母からいただいた、この体は丈夫で」
清「じゃ、こういしましょう。先生のその大層立派な体格をなすっている、その体をカタ
 にいたしましょう」
安「と、申されますと? あたくしが寄せ場で働きますかな」
清「とんでもない。先生にそんなことはさせませんやな。これは借りるときの心ほぐし、
 貸すときの気休め。もし、お返しいただけなかったら、先生の分厚そうな胸の肉を…、
 そうですな…、五百匁ほどいただきましょうか」
安「この肉を…?」
清「こりゃ、ほんの心ほぐし、気休めですから」
安「さようですか、では…、こんな胸でよいのなら」
清「ま、先生のことですから、そんなことはないと思いますが、心ほぐしに、証文を拵え
 ておきましょう、ねェ、先生」
安「ええ…」
  安藤似蔵は言われるままに、ごく軽い気持ちで証文を交わして、血判を押した。清六
 も判を押した。
清「じゃ、先生。話はついたところで、一番、やりますかな?」
安「それはまたいつか、ということで。早速、薬のほうを」
清「そうですよね。先生はまだ仕事がありますものね。こっちは自分の仕事を終えると、
 すぐこれですよ。将棋、将棋って。じゃ、落ち着いた頃、やりましょうや」
安「ああ、伺いますので。ありがとう存じました」
  安藤似蔵は何度もなんども礼を言って、帰って行きました。
 
  あれから、安藤似蔵も忙しいのか、顔出しはありませんで。
  早いもんで、期限の三ヶ月と十七日もすぐにやってきて、今日までという、七月八日。
  いつものようにお天道さまも傾いて、日長、輝いて疲れてだるいのか、近くの寺の大
 きな本堂の屋根の向こうに柿色の大きな丸い身を寄せつけるように、やがて、静かに沈
 んでいった。その天道にあとを託された夕闇がゆっくりやってくると、世間はもう夕飯
 をすませたのか、風が物を揺るがせる音はあっても、人の作り出す物音はほとんど聞こ
 えないという。
安「ごめんくださいまし…。もう、お休みでしょうか…」
清「はい。一人で将棋をやってますよ。お入りなさい」
安「夜分、あいすいません…。安藤ですが…」
清「ああ、先生。お久し振りですな」
安「は…、実は、お借りした十両……」
清「ああ、お藤さんと言いましたかな。その後、どうですな、塩梅は」
安「ええ、いい塩梅になんとか、良いほうに向かっております」
清「そりゃ、よかった。さすが、天下の名医だ」
安「いえ、こちらで十両、お借りできたおかげで、よい薬が手に入りまして」
清「なにをおっしゃいます。先生の腕ですよ、きっと。そうですか。よかった、よかった」
安「つきましては、今日が期限ということで」
清「おや、そうでしたかね。もうそうなりますかな。早いもんですな」
安「で、なんとか工面をしたのですが、なかなか思うようにいかず、来月までにはなんと
 か、めどを立てますので」
清「なんですね、先生。今日は期限とおっしゃいますが、まだ、今日は七月の八日ですよ。
 期限の内ですよ。もう言い訳なんて、縁起でもありませんよ。それより、折角いらした
 んですから、将棋はどうです。あの日、先生にいづれと言って逃げられましたよ。今日
 はそうはいきませんよ。さ、一番いきましょう」
安「しかし、お借りした…」
清「今日はまだ期限内。さ、いきましょう」
安「でも、なんです…、将棋は…」
清「今度は将棋の言い訳ですか。先生は言い訳が好きですな。さァ、並べて、並べて」
安「はい…、では、一番だけ…」
清「じゃ、あたしが先手でいきますよ」
安「いけません、それは。あたしが先手で」
清「そうはいきません。あたしが言い出したんですから、あたしが先手」
  てんで、勝ったり負けたり、いい勝負。二人は夢中になった。
清「先生は強いや、こりゃ」
安「清六さんの攻めはきついですな」
清「先生。攻めと言えば、こないだ、こういう詰将棋に出っくわしたんですが、いかがで
 すな」
安「ほー、どのような?」
清「これなんです」
安「ほー。まず、これですかな」
清「そう行きたくなるでしょう。ところが、それでは生涯、考えても駄目なんです」
安「こちらに生涯いるわけにもいきませんな」
清「とすると、どうします」
安「こうですかな」
清「こっちは、こうでしょう」
  一見、易しいようで、難しいという厄介な詰将棋で、安藤似蔵、時が経つのも忘れた。
 そのうちに、九つの鐘がボーン……。
清「先生。いつまで考えるおつもりです。生涯、いるつもりですかな」
安「やァ、この金は きついですな」
清「その金もきついでしょうが、鐘もきついでしょうな」
安「は…?」
清「先生。聞こえませんでしたかな。今、打ったのは九つの鐘ですよ」
安「そうですか。うっかりしておりました。すっかり甘えて、こんな刻限までお邪魔して。
 では、この辺で…」
清「先生。九つを打ったということは、期限は過ぎたことですな」
安「まことに、お恥ずかしいことで、十両は近々なんとかいたしますので。無利子でとい
 うことでしたが、ちゃんと利子を付けまして」
清「十両も利子も、もうよろしゅうございますよ」
安「は…?」
清「こういうことになろうとは思いませんでしたな、先生。致し方ございませんな。証文
 の通り、先生の胸の肉を五百匁いただきましょうか」
安「いや、それは、ほんの心ほぐし、気休めということで」
清「あのときはそうでした。でも、まさか、こうなろうとは思いませんからな。しかし、
 こうなったからには、証文を作っておいてよかった、とほっとしてますよ、あたしは」
安「それは…」
清「お見せしましょうか」
安「まさか…、本当に胸の肉を切るとわけでは…。いや、しかし、それは」
清「先生。子供じゃないんですから、『まさか』とか『しかし』ってぇのはよしましょう」
安「しかし、あまりにも」
清「あまりにも、なんです? 書いた証文がなによりの証拠じゃありませんか」
安「確かに、証文にはそうしたためられているでしょうが」
清「先生。この清六を甘く見ちゃァいけませんぜ。五両を十両にして、しかも、無利子で
 お貸ししたんだ。出るとこへ出りゃァ、書いた証文が口を利きますぜ」
大家「{突然、大家が入ってくる}はい、ごめんなさんよ」
清「ああ、大家さん。今、ちょいと客人でして」
家「だから、入ってきたんだ。『このよる夜中、大きな声がして、なんか揉めているよう
 だ』ってんで、長屋の者から知らせがあったもんで。こっちゃァ起こされちまってさ。
 悪いと思ったが、戸袋の所で立ち聞きさせてもらった。
 {安藤に}安藤先生ですな。あたしはこの長屋の大家をしております、志兵衛ですが」
安「は、お初にお目にかかります。あたくしがこちらへ伺ったのは」
家「いやいや、あらまし話はわかっております。先生も厄介な者に引っかかってしまいま
 したな。この清六、手前の長屋の店子ですが、普段からあたしも手を焼いております。
 ま、とりあえず、この場はあたしに任してくださいな」
安「お願いをいたします」
家「{清六に}おい、清六。また、しでかしたな」
清「なんです、『また、しでかした』ってぇのは。外聞が悪いですね。あっしゃ、なにも
 やましいことはしちゃァいねぇんですよ、大家さん。してるのは、こちらの先生なんだ」
安「だから、この先生だって、『遅れてもちゃんと利子を付けて返す』と言ってるじゃね
 ぇか」
清「じゃ、証文はなんのために書いたんですか。ほれ、この通り、書いてありますよ」
家「確かに書いてある。でもな、まさかその通りにはできねぇだろう」
清「できますよ」
家「できる…? 人の胸の肉を切り取ってどうするんだ。食うのか」
清「食やしませんやな。切り取ればいいんです、証文通りに」
家「十両返してもらうより、お前は胸の肉が貰いてんだ」
清「ああ、そうですよ」
家「なぜなんだ。あたしにはそれがわからねぇ。なぜ、そんな物がいいんだ」
清「そりゃァ誰にもわからねぇだろう。女房にしか…、わかってもらえねぇ……」
家「ほー、そりゃまたどういうことだ。話をしてみろ。こっちが聞いてもっともだと思っ
 たら、大家と言えば親も同然、力になろうじゃねぇか」
清「じゃ、そう言うんなら、話をしますがね……。
  あっしの女房は大家さんもご存知の通り、普段から腹痛で悩まされていました。一昨
 年の七月でした。夜、あっしが帰ると、いつもの腹痛で唸ってんです。ところが、いつ
 もと苦しみようが違って、あっしの腕を掴むその手が必死なんですよ。腹から胸にかけ
 て、太い錐でグイグイ差し込まれるようだ、と言うんですよ。ただ事じゃねぇと思って、
 掛かりつけの逐伝先生のところへ飛んで行ったんですが、いねぇんです。それから、あ
 っしの知っている限りの医者の所を回ったんですが、運に見放されたか、みんないねぇ
 んです。あっしを嫌がって、揃ってどこかへ行っちまったんですかね……。
  それから、ひょいと頭に浮かんだのが、安藤似蔵。天下の名医ということを聞いてい
 る。こっから半里はあるが、頼めば来てくれるだろう。だが、金貸し風情の頼みを聞い
 てくれるだろうか。そんなことより、藁をも掴みたいのだ。薮医者だろうが、天下の名
 医だろうが、女房を治してくれるのなら、誰でもいい。あっしゃ、すっ飛んで行きまし
 た。
  訪ね訪ねてやっと辿り着いた安藤似蔵の家の前。戸を力いっぱい叩きました。力いっ
 ぱい声を掛けました。近所の人の『先生はいねぇよ』の声に、あたしの体は一遍に萎え
 ました。
  重い足取りで帰ってみると、女房は半狂乱のさま。あっしゃ、直ぐにまた家を飛び出
 して、安藤似蔵の家へ。呼ぼうが叩こうが、返事はありませんでした。
  何度、行ったり来たりしましたか。天下の名医なんだから、いるに違いない。天下の
 名医なんだから、女房を治してくれるに違いないって、いいことばかり考えて、己れを
 元気付けました。
  明け方近く、雨が降り出しました。女房の痛みはおさまりません。ますますひどくな
 ってきました。見るのも辛くて、目をそらすことさえありました。
  よし、もう一遍、行ってこよう。横殴りの雨の中、突っ走りました。傘も役には立ち
 ません。すぐにずぶ濡れになってしまい、安藤似蔵の家の前に立ったときは、手に傘も
 ありませんでした。
 『どうか、いてくれ』と祈るようにして戸を叩きました。声は泣き叫んでました。でも、
 中からはなにも返ってはきませんでした。
  顔を上げる力もありません。うな垂れて路地を出たところで、人とぶつかったんです。
 どろんこの上に崩れるように倒れました。すると、女の声で『安藤先生、大丈夫ですか』。
 と、男の声で『ああ、お藤。あたしは酔っててもこの通り平気だ。ぶつかってきた者が
 倒れたようだ』。二人はあっしを見ながらかすかに笑ったじゃありませんか。泥酔して
 いるのが医者の安藤似蔵。それを支えているのがお藤。こんな、女とうじゃじゃけた泥
 酔野郎に女房は診せられねぇ。手を差し伸べられましたが、あっしはそれを払い除けて
 立ち上がりました。よろよろ歩きだすと、後ろから聞こえてきたのが二人の笑い声。無
 性に腹が立ちましたが、その分、また惨めになりましたよ。
  泥だらけになって家へ帰った。妙に静まり返ってんです。そのはずです。
  女房が…、女房のやつ…、痛さに耐え切れなくなったのか、自ら包丁で乳の下を突い
 て、こと切れてました。日頃、信心する観音さまをしっかりと握ってました。
  もう、あっしにはすることはなんにもねぇんです。ただ、女房をしっかと抱きしめて
 泣き崩れるだけでした。朝方、仕事へ行く長屋の連中が声を掛けてくれるまで、泣いて
 ました。
  あっしは観音さまに言いましたよ。『安藤似蔵が女房を殺したも同然だ』って……。
  ……、……、……。
  そこへ、この三月だ。安藤似蔵がそうとも知らず、のこのこと金を借りに来やがった
 んだ。仇を討ちたくなるだろう。女房が引き合わせてくれたんですよ、きっと。
  だからこそ、『証文通り、胸の肉をいただきたい』と、言うんでさぁ」
安「清六さん。そういう苦しみがあろうとは露知らず……、その上、金子を借りに来て、
 ますます苦痛をつのらせて……、みな、あたしの不徳の至すところです。許していただ
 きたい」
清「許すも許さないもありませんやな。ただ、こっちは証文の通りにしてもらいたいと言
 ってるだけです」
家「おい、清六。なるほど気の毒だ、お前も、女房も。でもな、清六。安藤先生にはこれ
 っぱかりの悪意はねぇぞ。だって、お前と同じ人間だぞ。好きな女と遊びてぇやな。酒
 だって飲みたいだろう。その留守にお前が尋ねたんだから、ちょいっと巡り合わせが悪
 かったんだ。それを、医者が女房を殺したも同然って、そりゃねぇぞ。それに、こうし
 て先生はお前に頭を下げてんだから」
清「『頭を下げてくれ』と頼んだ覚えはねぇやな。天下の名医なら、家にいろよ。家でう
 じゃじゃけろよ。家で酔っ払えよ。そうしていたら、女房だって治ったかもしれねぇ」
家「そう勝手なことを言うなよ」
清「女房が殺されたのが、勝手なんですか」
家「殺されたんじゃねぇ。定命だったんだよ」
清「それこそ、大家さんの勝手でしょう。ちゃんと医者が家にいれば、女房は直ったかも
 しれねぇ。定命じゃねぇや」
家「お前はわからない男だな」
清「わからねぇのは、そっちだ。大家さんだ、医者だ、世間のどいつもこいつも、みなわ
 かっちゃいねぇ」
家「じゃァ、どうするんだ」
清「こうなったら、お上に訴えますからね」
家「ああ、訴えろ。
 {安藤に}ああ、先生。心配しなさんな。こいつはうちの店子ですが、あたしは先生の
 味方ですよ、こうなったら。大岡様だって、わかってくださるはずだ」
清「こっちは書いた証文があるんですから、負ける気遣いはねぇ」
家「ああ、書いた証文に口を利かせるがいい」
清「胸の肉はきっと貰うからな」

  ついに、清六は南町奉行所の大岡越前守へ「お畏れながら」と訴えに及びました。
  願書を読んだ大岡越前守。すぐに優秀な配下の者を使って調べました。清六のこと、
 女房のこと。安藤のこと、お藤のこと。期限であった七月八日のことは事細かに調べ、
 詰将棋の棋譜まで取り寄せて調べた。
  いよいよ、今日はその判決という。
奉「金貸し清六。そのほうの求めておる訴えは、まことに奇妙なものではあるが、筋は通
 っておる。従って、天下の法もそのほうのやり方を咎めることはできぬ。
 {安藤に}ということは、安藤似蔵」
安「はぁはー」
奉「そのほうの命はこの清六に握られておるわけじゃの」
安「は、はぁ」
奉「証文は認めるのじゃな」
安「は、はぁ」
奉「では、清六からの情け、慈悲を待つしかないのォ。
 {清六に}どうじゃ、清六」
清「私にそのような義理や務めがあるのですかな。是非、伺いたいものですな」
奉「清六。奉行はこう思うのじゃ。慈悲というものは義理や務めによって、強いられるも
 のではない。言わば、天より降り来たって、自ずから大地を潤す恵みの雨のようなもの
 じゃ。祝福は二つ重なっておっての。慈悲は与える者と受け取る者とを共に祝福する。
  これこそ、最上の者が所有しうる最上の物。天子にとっては三種の神器よりもふさわ
 しい天なる物の印じゃ。天子の手にする錦の御旗は、仮の世の権力を示すにすぎない。
 つまり、それは畏怖と尊厳を示すための現れであって、そこにあるのは天子に対する恐
 れの念でしかない。だが、慈悲というものは、この錦の御旗による権力支配を遥かに超
 え、天子たる者の心の玉座にあって人を治める。つまり、それは天にまします神ご自身
 の現れなのじゃ。従って、この世の権力が神の力に近づくのは、慈悲が正義を和らげる
 ときじゃ。
  だからこそ、清六。そのほうが正義を求めるのは、ようわかる。が、しかし。よう考
 えてみよ。頑なに正義ばかり求めれば、人間だれ一人、救いには与かれまい。そこで、
 我々は慈悲を施せと教えるのではなかろうかのォ。
  こういう話をするのも、清六。そのほうの求める正義を和らげようと思えばこそじゃ。
 だが、清六がどうしても『』と言うのであるならば、厳しいこの南町奉行所の白州は
 止むを得ず、そのほうの申し出通り、この医者に心痛苦痛なる裁きを下すことであろう」
清「その通りです。己れのしたことの泥は己れでかぶるもんです。私は正義と証文通りの
 借金のかたを求めております」
奉「さようか。
 {安藤に}安藤似蔵。そのほうは、その金を返すことはできぬのか」
安「わたくしにはございませんが、同じ長屋に住む者がこう言ってくれました。『すぐに
 立て替えてやってもいい。それも二倍にして、いや、それも不足だと言うのなら、十倍
 にしてでもいい。代わりに、手を、首を、心の蔵をカタにしてでも、必ず、工面して立
て替えてやる』とまで」
奉「そのほうは慈悲に溢れた長屋に住んでおって幸せ者じゃのォ」
安「はい」
家「あのォ…、差し出がましいようですが、お奉行さま」
奉「なんじゃ、大家、志兵衛」
家「清六は私の店子でございますので、清六をかばってやりたいのですが、とてもとても、
 かばえるような者ではございません。
  この返済金を十倍にしても、それでも不足だと言うのなら、この清六を動かしている
 のは、正義ではございません。悪意ということです。お願いします、お奉行さま。この
 度だけはお力を持って、天下の法を曲げてくださいませ。それは大きな善をなすための
 小さな悪にすぎません。この憎体な鬼の心をねじ曲げることですから」
奉「いや、それは許されぬぞ。この幕府におけるいかなる権力をもってしても、定められ
 し法を曲げることはできんのじゃ。それを通して前例となれば、それに倣って次々に不
 正が生じ、国の乱れの因ともなろう。そのようなことは断じてできぬ」
清「名奉行、板倉重宗さまの再来だ。板倉さまだ。歳はお若いが名奉行だ。この清六、お
 礼申し上げます」
奉「清六。奉行から改めて問う。仮に安藤似蔵が借りた金子の三倍にして返しても、その
 ほうは『否』と申すのか」
清「三倍にして受け取ったら、誓いはどうなります、誓いは。私は天に誓って証文をした
 ためました。証文は誓いです。お奉行さま。お手許の証文をよくご覧ください。誓いを
 破る罪を私の魂に負わせろとでも? とんでもない。この江戸市中のすべてと引き替え
 ても、お断わりいたします」
奉「さようか…。なるほど、返済期限はとうに切れておる。従って、清六が医者の心の蔵
 の近くの胸の肉、五百匁を切り取りたいと言うのは、法に則った求めである。だがのォ、
 清六。この安藤似蔵に慈悲をかけたら、どうじゃ。素直に三倍の金子を受け取り、この
 証文はこの越前に破らせてもらいたいものじゃのォ。どうじゃ」
清「速やかに、そこに書いてある通りにことが運び終えたら、破っていただきましょう。
 お見受けいしたところ、なかなか立派なお奉行さまだ。法というのもをよくご存じだし、
 その道理もしっかり弁えていらっしゃる。まさに法の柱石ってお方だ。ですから、その
 法によって、どうか、お裁きをお願いいたします。
  私は心に誓って申しますが、どんな者の舌も私の考えを変えることはできないでしょ
 う。私はあくまでも証文通りであることを求めますので」
安「お奉行さま…」
奉「なんじゃ、安藤似蔵」
安「わたくしからもお願いいたします。法に則ってお裁きくださいますよう」
奉「となると、いいかな、安藤似蔵。そのほうはその胸に包丁を受けるようになるのじゃ」
安「覚悟の上でござります」
清「ああ、立派なお奉行さま。お若いのに、偉い! 板倉重宗さまの再来だ」
奉「控えろ、清六ッ。法に則ってみれば、どこから見てもこの証文にしたためられている
 抵当の取り立ては、正当なものと認めざるをえない」
清「その通りでござります。ああ、なんてものわかりのよい、公明正大なお奉行さまだ。
 お顔に似合わず老熟した分別をお持ちのお方だ」
奉「{安藤に}安藤似蔵。そのほうの、その胸じゃ」
清「{安藤に}そう、その胸だ。証文にそう書いてある。
 {奉行に}そうですよね、お奉行さま。細かく言えば、心の蔵にもっとも近いところで
 す」
奉「その通りじゃ、清六。で、切り取る刃物は?」
清「そのつもりで、持参しております」
奉「切り取った肉を計る秤は?」
清「もちろん、持参しております」
奉「用意周到じゃの。体に刃物を入れるのである。医者の手配はしておるであろうの」
清「おや、私が医者の手筈を? そんなことが証文に書いてありましたかな」
奉「いや、見当たらぬ…。しかし、刃物、秤を持参した、そのほうじゃ。気を利かして医
 者の手配を」
清「するもんですか、そんな余計なこと。だいいち、こちらは医者なんですから、己れで
 手当てはするでしょう。できなかったら、医者じゃありませんよ」
奉「とは申せ、そのくらいの慈悲をかけてやるのは当然の話であろう」
清「よく証文を読んでくださいまし。見当たりませんでしょう、証文のどこにもそんな話
 は」
奉「確かに証文のどこを読んでも見当たらぬの…。
 {安藤に}安藤似蔵。なにか、言い残すことはないか」
安「別にございません…。充分に覚悟はできております…。抵当を取られる悲しみはあり
 ません。包丁がこの胸を少しでも深く刺されば、その分だけ喜んで胸の底から抵当を払
 うことができるということでしょうか」
清「お奉行さま。どうか、一刻も早くお裁きを」
奉「うん。一同、よく聞けッ。この安藤似蔵の胸の肉、五百匁は清六のものである。当奉
 行所、越前がそれを認め、天下の法がそれを与えるものなり」
清「公明正大なお奉行さまだ」
奉「清六。この医者の胸からその肉を切り取っても差し支えはない。天下の法がそれを許
 し、当奉行所、越前がそれを認めるものなり」
清「博学多識なお奉行さまだ。
 {安藤に}お裁きが出たぞ。聞いたか。安藤、似蔵。覚悟はいいな」
奉「これッ。支度をいたせ」

  白州の中ほどに、莚が敷かれます。安藤似蔵がそれへ横になって胸を広げます。合掌
 をしたあと、両手を腹にのせ、再び目を閉じました。
奉「清六。安藤似蔵はあのように待っておる。早よう肉を切り取れ」
清「はいはい、はいはい、はい。私はこのときの来るのを、横たわっている医者以上に待
 っておりました」
 {安藤に}安藤、似蔵め。今こそ、お前の胸の肉を切り取ってやるわい。この包丁はな。
 女房が自ら胸に突き立てたときのものだ。同じ包丁が今度はお前の胸の肉を切り取る。
 女房の苦しさを味わしてやる。そして、二年前の恨みを晴らす。おれは以前、魚屋に奉
 公してたことがあって、あらゆる海の、すべての川の魚を切ってきた。二枚下ろしに三
 枚下ろし。刺し身、叩きに腹開き。死んでるはずの魚がおっかながって、生き返ったほ
 どだ。ところが今日まで、髪の毛や爪は切ったことはあるが、人間の、しかも生きてる
 肉はまだ切ったことがなかった。そう、指の深爪はしたことがあるがね。さァ、切らし
 てもらおうか{振りかざす}」
奉「ヤ、待てッ。切り取る前に一言申し付けることがある」
清「は?」
奉「この証文によれば、したためられているのは[胸の肉、五百匁]だけである。胸の血
 は一滴たりとも与えるわけにはいかんぞ」
清「それは…? 肉を切れば血がでるのは当たり前のことで」
奉「黙れッ。証文には血まで与えるという文字は見当たらん。従って、安藤似蔵の血を一
 滴でも垂らしたとしたら、ただではすまされんぞ。そのほうの屋財家財、すべてを没収
 する。さよう、心得よッ」
清「それが、お奉行さまの言う天下の法ですか」
奉「さようッ。天下の法じゃ」
清「そんな馬鹿な法が」
奉「馬鹿とはなんじゃッ。己れの目で証文を改めて読んでみろ。そのほうはあくまでも法
 の下の頑なな正義を求めたのである。だからこそ、その正義を与えてやろうというのじ
 ゃ。それも、そのほうが望む以上に」
清「む……」
奉「どうじゃッ!」
清「む…、む……」
奉「どうじゃッ、どうじゃッ!」
清「天下の法とあれば、致し方ございません。先ほどの申し出を飲みます。三倍の返済金
 で手を打ちましょう」
奉「そうはいかぬッ。そのほうの受け取るのは頑なな正義だけじゃ、早まるな。証文に記
 された抵当以外はなにも受け取ることはできぬのじゃ」
清「は…」
奉「さ、早く肉を切り取るがいい。ただし、血を流してはならぬぞ。また、切り取る肉は
 正しく五百匁。それ以上でも以下でも許さぬ。仮に、五百匁以上、または以下の肉を切
 り取り、たとえ、その差が五百匁の千分の一、いや、そのまた二十分の一にすぎなくて
 も、とかく、秤が髪の毛の一筋ほどの傾きでも見せたとすれば、その身は死罪。それに、
 屋財家財はことごとく没収することに相なる」
清「ああ…」
奉「なにをためらっておる。抵当を受け取らぬか。いつまでも安藤似蔵を待たせるな」
清「三倍も要りません。元金だけ頂戴して引き下がりますので」
奉「それもならん。そのほうはこの白州において、頑なに断わってきたではないか。その
 正義と、証文に書かれた抵当のみを受け取るがいい」
清「では…、私は元金までも頂戴できませんので」
奉「そのほうの望み通りにしてやったのじゃ。抵当の胸の肉以外、なに一つ受け取っては
 ならん。それも清六自らの命を失うようなことをおかしてまでもじゃ。のう、清六」
清「私の命…? 亡くなるので…?」
奉「清六は知るまいが、天下の法にはそうしたためてある」
清「わかりました。もう、いつまでも下手な問答など、しちゃァいられません。私は家へ
 帰らしていただきます」
奉「待てッ。当白州はそのほうを帰すわけにはいかん。なぜならば、この裁きはまだ終わ
 ってはおらんッ。帰りたくば、抵当を受け取れ」
清「……、ですから、もう、抵当は要りません」
奉「ほー、要らんのか」
清「ええ、要りません」
奉「しかし、金子を貸し与え、期限までに返済なき場合、証文に書かれた通り、抵当を受
 け取るのが世の習いであるぞ。そのほうは世の習いを嫌うのであるか」
清「嫌います、もう、大嫌いでございます」
奉「どういうことじゃ」
清「わかり切ったことを訊かないでくださいまし」
奉「いや、奉行には一向にわからん。申せ。どういうことじゃ」
清「ですから、もう…、貸し借りはなかったことにしましょう。そうすれば、抵当もなか
 った…。私と医者との間には…、なにもなかった…、ってことになりましょう。そのほ
 うがさばさばしてよろしゅうございます。どうでしょうか、お奉行さま」
奉「うん、清六、悟ったな。さすが、清六じゃ。悟りを開いたのォ。お釈迦さまの再来で
 あるのォ」
清「ああ、私は幸い(再来)ではありません。急に不幸になりました」
奉「二人の間に貸し借りはなかったとすると、そのほうが横たわっている安藤似蔵のそば
 で包丁を振りかざしたのは、なんだったのであろうか…。まさか、噂に聞く、包丁の舞
 でもあるまい。
  この包丁振りかざしの一件、越前はなかったことにするわけにはいかん。貸し借りの
 もつれからではなく、包丁を持ち出したのであるならば、このまま見逃すわけにはいか
 ぬ。手にした包丁のキラリと光った中に殺意を見た。こうなると、手鎖百叩き所払
 い
ではすまぬぞ。どう安く見積もっても、遠島、あるいは磔であろう…。清六、どちら
 がよいか、好きなほうを〇で囲め」
清「へぇ…」
奉「たとえ、なにはあれ、人を恨むことはよくないことじゃ。この件だけではない。配下
 の者が調べたところ、胡散臭い事柄がいろいろと出てきたぞ、そのほうの身の回りに。
 それがために、多くの者が迷惑をこおむっておる。その罪は重い。そこで、屋財家財は
 没収する。このところ、幕府の公的資金も底をついてきた」
清「へぇ…」
奉「笑え、笑え」
清「へ、へ、へ、へ。{泣き声}」
奉「ほー、清六、嬉し泣きか」
清「悔し泣きです。{まだ、泣いている}」
奉「安藤似蔵。清六になにか申すことはないか」
安「財産の没収はできることなら、許してやってくださいまし。公的資金に回したところ
 で、どうせ、お偉方の懐に入ってしまうだけですから」
奉「そのほうは慈悲があるのォ。半分でもかわいそうか。では、四半分ということでは、
 どうじゃ。二割五分じゃ」
安「それでも、かわいそうでございます」
奉「ならば、清原の打率ぐらいでは。近々、二割を割りそうじゃぞ」
安「なろうことなら、没収はなしということで」
奉「さようか。没収は少し厳しすぎたかな…」
安「それに、借りた元金まで返さなくてよいというのでは、あたくし、寝覚めが悪ぅござ
 います。また、あとあと、金に恨みが絡みますと、再び騒ぎになるやも知れず。多少の
 利子を付けまして元金を返しとうございます」
奉「さようか。"金(鐘)に恨みは数々ござる"という唄があったの。この辺で、清六に
 道成(同情)寺。元金は清く〆て、"元金(安珍)清〆(清姫)"という洒落はどうじ
 ゃ」
安「おそれいりました」
奉「では、利子はどのくらいつけようかのォ。どうじゃ、銀行と同じ利子では?」
安「はい」
奉「{部下の者に}これ。今の銀行利子はいかほどであるか。なに、0.00%? そんな
 もんか。
 {安藤に}0.00%の利子を付けて返済せよ」
安「は、はァ」
奉「これ清六。そのほうは慈悲のある男と証文を交わし、よかったのォ。没収はなし。元
 金は戻る。しかも、0.00%の利子付きじゃ。安藤似蔵によぉく礼を申せ。そのほうに
 逆恨みされた安藤似蔵。並みの者なら、恨み返すはず。恨みが新たな恨みを生み、また、
 その上に恨みが重なり、終いにはすべてのことに、すべての者に恨みを向けることにな
 る。切ないのォ。ところが、どうじゃ、この安藤似蔵は恨みに対し、慈悲をもって、そ
 のほうに返したではないか。そのほうも礼をもって返さなければならんのォ」
清「はァ……」
奉「{思い出したように清六へ}清六。一つ、訊いておきたいことがある。期限であった
 七月八日の夜の詰将棋であるが、越前も将棋は好きでの。屋敷内では家来を相手にとき
 おり指すがの。調べついでにその詰将棋、やってみたが、なかなか難しい。だが、昨夜、
 やっと解いたぞ。五手目までは安藤似蔵と同じであるが、次の手が難しい。安藤似蔵も
 ここで梃子摺っておったのであろう。七手目、九二銀は、どうじゃ」
清「は」
奉「苦しゅうない、清六。あとをどう受ける。暗闇将棋じゃ」
清「……、同飛」
奉「九手目、九三角成」
清「…、同飛」
奉「九二角」
清「同飛」
奉「八四金まで。どうじゃ」
清「おそれいりました」
奉「これで、詰みじゃのォ。間違ってはいなかろう。以前より一度、白州で指してみたい
 と思っておった。どうじゃ、そのほう、まさか白州で指すとは思わなかったであろう。
 なかなか、面白かったのォ。
  そうじゃ。思い出したぞ。『詰むや詰まざるや、それが問題なり』と持て囃された将
 棋の本があったのォ。あの本の詰将棋はどれもこれもなかなか難解であった。
  それはそうと、ちと尋ねるが、あの夜、なぜ、難解な詰将棋に安藤似蔵を誘ったのじ
 ゃ」
清「は……?」
奉「誘いがなければ、金子の工面に歩くこともできた安藤似蔵を、なぜ足止めさせたのじ
 ゃ」
清「……」
奉「また、期限に端数を付けて、三ヶ月と十七日間にしたのは、なぜか
  借りに来たのが、三月二十一日。三ヶ月と十七日間の期限の翌日は七月九日。
  その前日、七月八日の夜。返済出来ぬ由を持って詫びに来た安藤似蔵を将棋に誘い、
 難解な詰将棋で夢中にさせ、安藤似蔵をその場に足止めさせたのは、なぜか。
  八日から九日に変った合図の九つの鐘を迎えるためではなかったか。
  なぜならば、翌七月九日は、亡き女房の三回忌にあたる。九つの鐘を待って、直ちに
 安藤似蔵の胸の肉を切る取る算段をしたのであろう、女房への供養として」
清「……」
奉「そのほうが女房を思う心中、ようわかる。しかし、女房が自ら包丁で胸を突いたとき、
 果たして女房は医者の安藤似蔵を恨んだであろうか。越前、思うに、女房の心の中は清
 六から必死の看病を受けたことに対する、謝礼の言葉でいっぱいであったに違いない。
 観世音菩薩を信仰しておった女房には、清六の姿が菩薩に見えたのではなかろうか。
  清六。あの夜、そのほうは菩薩であったのじゃ。観世音菩薩が人を恨むか。安藤似蔵
 を呪うか。さようなことがあれば、あの世の蓮の台で女房は泣き崩れ、その涙は池から
 溢れ出し、この世に悲しい大雨を降らすことであろう。それは慈悲によって降る恵みの
 雨とは違い、山を崩し、川を乱し、大地を削り、人々をも呑み込む残酷無二の雨である。
 それは清六が頑なな正義を和らげるまで降り続くことになろう。
  いや、これは越前の邪推かもしれぬ。下手な将棋が無駄に先の手を読むようなもんじ
 ゃ。つまらぬ話を聞かせてしまったな。
  ところで、指しながら気がついたのだが、将棋はいろいろ思いを込めて指すものじゃ
 のォ。聞くところによると、清六も、亡き女房とは仲良く指しておったようじゃの。し
 かし、女房亡き後、清六は人に恨みを持って指すようになったのではなかろうか。そし
 て、頑なな正義を掲げて指してしまったのォ。
  この越前もそのほうの望み通り、頑なに正義を持って指したのじゃが、清六。その頑
 なな正義はそのほうを救ってくれたか? そうとは言えまい。
  そこで、越前。この将棋、この裁きもそうじゃ。清六を相手に観世音菩薩の向こうを
 張って慈悲という妙手を指したつもりじゃ。どうじゃ、清六」
清「……、ありがたく投了いたします。あたしが、悪ぅございました。つまらぬ思い違い
 から、悔しさがつのり、恨みが骨髄にまで徹して、ついには、この体たらく…。もった
 いなくも、お奉行さまの前で、この医者の、いえ、安藤先生の胸の肉を、この包丁で切
 り捌いてやろうなどと……、とんでもないことを…」
奉「もう、よい。泣くな。清六、よくぞ、頑なな正義を和らげてくれたのォ。奉行、この
 上なく嬉しいぞ。わかってくれたな、清六。この奉行所の白州は恨みを持って、肉を捌
 くところではないことを」
清「はいッ。情けを持って、人を裁くところでございました」
奉「うん、よう申した。しかし、清六。人が人を裁くと、どうしても恨みが残る。そこで、
 この越前、人を裁くのは好まん」
清「と、申しますと」
奉「ほれ、今、そのほうと将棋を指したであろう。詰み(罪)を裁いたのじゃ」
[胸の肉]の梗概は、圓窓五百噺付録袋/圓窓五百噺ダイジェスト/胸の肉
[胸の肉]の関連頁は、圓窓HPクラブ/感想・意見・質問/[胸の肉]のキリストと観音の慈悲1