原宿の看板を見つけたのはお昼すぎ。このころになると、I'mがスマホを持つようになったこともあり、あまり昼食のことは考えずに歩いていました。目安として12時過ぎて、何かあったら食べよう、という感じ。記録によると東海道原宿東木戸(見附)跡が12時10分。そしてそこからお昼を食べたホームセンター「CAINZ HOME」まで一時間でした・・・・。この日は、すっごくお腹がすいた記憶が残っています。海ではしゃぎすぎたのかしら。 全国展開のホームセンターでの食事にIce相当不本意で、かなりの不機嫌でした。救いは、富士山のあまりの美しさ。この134キロの案内板の写真から2~300メートルでカインズホームがあるのですが、この道沿い、ずーっと富士山が見えるんです。わたしの印象としては原宿(沼津市)の富士山は『絶景の富士』・・・というより、『生活に馴染んだ、そこにあるのが当たり前な富士』の印象です。 そうこうしていると、やがて富士市に入りました。富士市というと東海道を歩いた今ではこのマンホールが一番に思い浮かぶと言っても過言ではありません。かぐや姫というと、京都や奈良の話だと思っていたのですが、ここ富士市にも伝説が残っているというのは、霊験あらたかな富士山のおひざ元なだけに、かなり納得です。 トイレはコンビニのトイレをお借りしていたのですが、旧東海道を歩いているとなかなかコンビニも見つからず(一号線にはあるんですよね・・・)今回、東田子の浦駅のトイレをお借りしました。田子の浦といえば、『百人一首』思い出します。 「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 山部赤人」 東田子の浦駅の向こうに素晴らしい富士山が見えました。最高の立地です! 駅の壁に描かれる富士山も素敵です。 再び旧東海道を少し離れ、海沿いの道を歩きました。昔の旅人もこんなふうに歩いたのかなと、思いを馳せるけれど、そんな旅人たちは砂浜を歩いていたかもしれません。防砂林越しに富士山も見え、そして防砂柵?(※未確認)か防風柵?(※未確認)が壁のように海に向かって立ちはだかっていました。また、津波避難タワーもあり、津波に備えていること実感します。 原宿の次にやってくる吉原宿はもともと、もっと海沿いにあったそうです。それが、徐々に内陸にうつっていったのは「漂砂」や「高潮」のせいだそうです。元吉原宿跡というのは、JRの線路を渡るあたりのようです。 1601年~1639年頃の旅人にとってはこのあたりが、吉原宿《元吉原》で、その後1682年頃までは左富士のあたりが吉原宿《中吉原》だったようです。(参考:パンフレット「富士市の東海道とウォーキングコース」) 東海道を歩いていると、史跡や碑は江戸時代のものが多くなります。左富士を越えたあたりには「平家越の碑」がありました。残念ながら、歩いている向い側に碑があったこともあり、写真を撮らなかったのですがここは、1180年に富士川の合戦の例の『水鳥飛び立ったから逃げちゃいました』事件の場所のようですね。 そこを越えて、ようやく本日の目的地新吉原宿跡でもある岳南鉄道吉原本町駅に到着しました。吉原本町駅にて、地元の方とお話をしました。岳南鉄道は昔は沼津までつながるはずだったということや、ほんの数年前(2013年より)まで存続が危うかったということなど。わたしたちのような旅人にとっては、かわいい鉄道♪昭和っぽい鉄道♪ノスタルジック♪なんて、軽い気持ちで乗る鉄道なのだけど、地元の方々にとっては、なくてはならない足なんだ、ということを実感しました。 記録によると、沼津から吉原まで17.6キロ歩いたようです。岳南鉄道に乗車して、JR吉原駅へ向かいました。 沼津駅の「沼津魚がし鮨」で夕飯を食べたのですが、ワタクシIceちょっとバテてしまい、しっかり食べることができず、残念・・・・・。
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