Maggie's J‐POP論

その2 アレンジャーに恵まれた井上陽水の曲
井上陽水ほど,バラエティに富んだ曲を持ったアーティストはいないと思う。だいたいアーティストの曲って,パターンがどうしても似たり寄ったりになるものだ。サザンもユーミンもGLAYも,本人には大変失礼だが,曲を聴いて「あ,またこのパターンか」と思うことがよくあるではないか。
しかし井上陽水は,詩の独創性はもう天下一品という言葉すら陳腐なほど天才の域だが,プラス曲調がハウス,ロック,歌謡曲,ポップスなど幅があるおかげで,実に飽きの来ない才能豊かな作品ばかり発表している。99年リリースのベスト版『ゴールデンベスト』は,なるほどよく言ったもので,ホントにあのアルバムにはゴールデンなまでのいろんな種類の曲が入っている。
その作品の陰の功労者こそ,アレンジャーである。陽水氏といえば,ギター1本の弾き語りが印象深いが,ギター1本から紡ぎ出せる音なんぞたかが知れていると思う。もちろん,基本は陽水氏のメロディなわけだが,それに“色”をつける人間に彼は恵まれていると思うのだ。時にはその“色”をつける人間と共同作曲という形を取っていることからも,それは確信を得ていよう。
例えば『ゴールデンベスト』収録曲のクレジットを見てみる。一番多いのは,『いっそセレナーデ』『リバーサイドホテル』をはじめとした渋い系,安全地帯や浜田省吾のアレンジもやっている星勝氏のようだ。しかし,大ヒットした,ピアノとストリングスによる構成の『少年時代』は,平井夏美氏と共同作編曲。Puffyに提供した超個性的な曲『アジアの純真』は,言わずと知れた奥田民生氏と共同作曲。『なぜか上海』は高中正義氏によるロックと歌謡曲が合わさった編曲。『飾りじゃないのよ涙は』は,『もののけ姫』はじめ“宮崎作品”の音楽監督でおなじみの久石譲氏の編曲だが,これはその久石氏らしからぬ,バリバリに打ち込みの曲である。さらにここに収録されていないものも含めれば,まだ数人は挙がるだろう。
1人のアーティストにこれだけのアレンジャーが携わるのもすごい。アレンジャーって聞くと,言葉は悪いが,人の作った作品に“乗っかっている”だけのように思えることがあるが,彼らがいなければ,これまた巷がバラエティに乏しい曲の洪水になるのも事実。例えばあるアーティストがギターやピアノ1本である曲ができたとする。それそのままに発表していったところで,フォークソングやピアニストの域から永遠に出られないだろう。それでは何曲か出して消えていくのは目に見えている。
もちろん,その曲を作った本人には作曲の才能はあると言っていい。しかし,その原曲から例えばストリングスをくっつけるとか,もっとパーカッションを多投するとかして,よりクオリティの高い楽曲を何十回・何百回も作れるようになるには,素人考えだが,人間の限界を超えた才能がないと難しいのではないか。そんなに天は人に二物を与えはしないはずだ。
そこで,アレンジャーの存在が大きくクローズアップされてくる。アーティストのクレジットを見てみよう。「ストリングアレンジド・バイ…」「ホーンアレンジド・バイ…」「コーラスアレンジド・バイ…」などとチョコチョコと出てくると思う。要は「餅屋は餅屋」。それ専門のアレンジャーによって楽曲の質が高められているのである。
音楽以外の世界だって,例えばモデルの世界に「手タレ」「足タレ」と部位限定のモデルがいる。その手や足をより美しく見せるために,ずっと手袋をはめるとか,高い保険をかけるとかしているのだ。卑近な例を挙げれば,例えば何かを注文して送ってもらうとしよう。そこには少なくとも「電話オペレーター」「梱包係」「運転手」という専門職がいる。「注文してから数日できちんと何かが届く」のは簡単で当たり前なようでいて,大げさかもしれないが,彼ら専門職の1人1人がきちっと全力を出してこその結果なのだ。
話を戻す。一つの「素晴らしい楽曲」が仕上がるためには,アレンジャーという専門職は必要不可欠である。そして,その職種は世の中に多くいるほどいい。それは楽曲がパラエティにより富んだものになりやすいからで,アーティスト自身がより多くのジャンルのアレンジャーとタッグを組むほど,人々に多く受け入れられる曲を世にいくつも送り出すことができるのだ。(おわり)

戻る