西洋文明終焉に応えるもの
◎素材(マテリアル)と理念(イデア)について
 文明評論家・太田龍氏は『自然医学誌(No.451・森下敬一氏主宰)』の中で面白いことを述べている。
 西洋人の哲学や思想はギリシャ文明から学んで来たものである。その西洋文明(近代科学文明)は、ギリシャの基礎文明を良く理解していないと太田氏は述べる。
                               
 中国革命の志士であった胡蘭成先生は西洋文明を評して、これを「無明(むみょう)」という。つまり「真理ではない」と評しているのである。
 西洋科学の基礎である「哲学」は、マテリアリズム(materialism)にあるとし、これは明治以来、日本にも入ってきて「唯物論・唯物主義」と翻訳された。

 古代ギリシャ人は「物理学・数学・医学」を立て、全てを「哲学(フィロソフィー=知を愛する学)の内に入れた」のである。そして言う。
 存在論(存在とは何か? 有とは何か? 無とは何か?)を問うもので、マテリアルとは「資料(素材)・材料」のことである。「マテリアルという存在に、エイドス(eidos)が働いて、物となる」としている。
【註】『広辞苑』には、アリストテレスは「エイドス(形相(けいそう))は個体の中に存在する。そのモデルは『種子』である」と紹介する。
                            
 だから「素材と形相(けいそう)は表裏一体」である。あたかも「柿の種子に素材と形相(けいそう)が隠れていて、発芽すると柿の大木になる」に似ているとする。

 ギリシャ以後の西洋唯物主義(マテリアリズム)は「資料=素材」が全てであるとするが、これは全て妄想であるから、西洋哲学としての「マテリアリズム(唯物論)」は哲学としては成立していない。
                 
 その一方に於いて近代西洋学は「アイデアリズム(観念論)」を立て理念(イデア)が主だとも主張したが、マテリアリズム(唯物論)を融合することなく、ギリシャ語の「エイドス(形相)はアイドロン(eidolon)=幻・幽霊・妖怪・理想のもの」という英語に化けてしまった。

 そして、その一方、唯物主義に立つ自然科学者達は、形相(エイドス)、つまり「心・精神・意志・情緒」などに秘められる力(パワー)を認めなくなった。
 この思想は、日本にも明治以後入り込み、伝統文化を破壊してきた。それは「伝統の形(型)を嫌う」と言う思想を発生せしめた。だから「男らしく、女らしく」などは否定され、その美しさを壊してしまった。この「らしさ」とは「種の中」に秘められる形相(けいそう)であるのに、敢えて教育とか刺激とかで「歪め」てしまい「女は女らしく、男は男らしく」を失わせてしまった。これが男女平等の民主化というものである。
 その延長線上に「教師と生徒(児童)は平等である」から「友達関係」でないといけないという奇妙な論理まで生んでしまった。

 特に「宇宙観」が、根本的におかしい。
 古来、日本は「宇宙は生物である。宇宙は一つの大生命体である。宇宙には意志と生命がある」という思想と宇宙観が当たり前であった。
 しかし、この思想は東洋の常識みたいなもので、中国広西省チョワン(壮)族自治区巴馬県は、国際的に認められた長寿地域である。ここの人々は、宇宙生命と共に生きてきた人々である。そうした認識が、今もしっかりとある人々の群である。これは「呼吸法・正しい食事・正しい精神」が守られている人々だからこそ長寿なのである。
【註】、以上は太田龍氏の論説に解説を混じえて解りよくしたものである。

◎民主主義の弊害・家族の崩壊

 昭和30年代後半のことである。山下汽船社長宅にホームステイをしていた米国人女性(大学生)のジュリー嬢は「家族が崩壊したアメリカに疑問を持ち、未だ家族制度が生きている日本研究に来たが、既にアメリカと同じになっているのを見て驚いた。私は大いなる失望の下に、インドに行ってみようと思う」と語ってくれた。

 その頃、我々日本人の多くは、その意味がよく解らなかったが、あれから40年近くを経てみると、東京帝大のW教授らが唱えた「家族の民主化」という変な思想に害されて「家父長権とか祭祀相続権者」とかいうものが「現民法」では絶滅しているのだから、「家督相続」なる語は「民法」には無く「両親の遺産は、子供らが均分相続」することになってしまい、その「均分法」が有りながら「均分」できない物をめぐって争う事が多くなり(宝物・系譜・墓所・仏壇・祖霊舎・経営理念・家訓・“しきたり”などを含むまで争われ、遂に「相続は争族」の発生となり、一代で礎いた「親の創生企業」が子供の時代には弱体化して「他人支配」になったという現象は山ほど見ている。然も、これは日本だけではなく、欧米民主主義国家に見られる現象である。

 これは「家族民主化」がもたらした一つの姿であるが、家族民主化では「親も子も平等」になってしまい、兄弟は全く平等であるばかりか、「権利=利権」という面では兄弟姉妹は「敵対する個人」という図になってしまっている。

 仲が良かった兄弟姉妹でも「遺産相続問題」が発生すると、大きな対立を生み出す。かくに「現代相続法」は日本人の家族観(家族愛)を破壊してしまったか明解である。まさに「全く愚かしい」事である。

 かく見てくると、戦後の民主主義とは「家族を崩壊させる時限爆弾であった」と言うことである。実にこれはマテリアリズム(唯物論)がエイドス(形相=種子・理念)を無視した結果である。つまり家系の素質が無視されていることは悲しいことである。

◎議員(立法委員)選挙に勝つには
 議員に立候補することは自由だが、当選するには幾年も前から「後援会組織」を立ち上げ、集票の基礎を作り上げないと当選などしない。
 ある場合、地方商工会、宗教団体、趣味の会、労働組合などの推薦を受け、それらの利益代表になることを表明することが必要で、さもなくば「親の跡を継ぐ二世・三世議員」でないと「地盤・看板(名声)」が確立しない。後は「蓋鞄(かばん)」だけである。そのためには強力な選挙参謀が必要である。

 普通、国会議員候補者には「県会議員10名、市町会議員100名、村会議員または後援会有力者1,000名」が基礎に求められている。とにかく「地方議員」は地方の事に精通したエキスパートである。また「10票から100票」を持つ後援会員も地方有力者である。それらの人々が資金援助もしてくれるのである。
 だから「思いつき立候補」では、これらの支援はなく、当選どころか1,000票を集めることも難しく、当選など不可能である。仮に、まぐれで当選しても「議会活動はもとより行政官僚を動かす」ことなどは出来はしないであろう。

 だから労働組合出身の候補者では、組合活動の報酬として一期(一回生)だけは務めさせてくれるが、次は別の人が立候補する順番になっているのだから、労組主体の政党では政治家など育つわけがない。
 民主党(菅直人代表)の組織は、玉石混淆の組合であり、統一思想・統一政策はありえないし、官僚を動かし得る人材もいるわけが無く、国家の未来を描くことは出来ない筈である。

 ある意味で「松下政経塾」の出身者(自民党が多い)が強いのは、選挙の「ノウ・ハウ」を勉強しているからである。中にはポーズだけを身に付けている者も多いが、先ず手始めに、市会(区会)議員を狙い、次は県会(都・府会)議員を狙い、最後が国会議員になる者が多い。どちらにしても「多くの人々に知ってもらうことが先決」である。

 そこで国民が、立候補者の選別をするに「議員に相応しいか? 真に国民の代表に相応しいか? 国家を背負う人材たり得るか? 国家の進路を委せ得るか? 占領憲法を改革する人材か?」などを見分けねばならないのだが、その殆どは「情愛がらみの支援」となっている。そこには「政治家の種子(エイドス)」を確認していないことになる。

 この姿を見ていると、戦国時代の国人領主が隣の国人領主を攻略または調略によって仲間にし、国人領主間の盟主になる政治行動とよく似ているのであり、かくに、国会議員選挙は地方議員(国人領主)の推薦を受けることから始めることが、最初の登竜門である。

 時に「市民運動家」が当選することがあるが、その殆どは社会党か民主党に入党して、やっと議員の顔をしていられるのだが「政策秘書」などは借りて来なければならないし、自分の議員歳費(総計4,377万円余)の内から、半分位は政党に献金をしていないといけない羽目になる。それだけではない「公設秘書の給与のピンハネ」も出てくる訳で、市民運動家などが「政治活動」など出来るものではない。

◎民主主義も唯物論である。だから欺瞞も当然である。
 また、この現象は世界の民主国家に発生している通常現象でもある。
 かくに「民主主義」という「唯物論・唯物主義」に基づく政治思想は、大いなる弊害を作ってきた。それをどうしても統一しようとすると「外敵を作って攻撃する戦争を起こさないと成立しない」のである。まさしく米国の歴史はこれを証明している。

 というわけで「平和=民主主義」の構図は完全に壊れているのである。もちろん「軍事組織国家」が良いと言っているわけではなく、どっちもどっちである。どっちが良いかと言えば「民主主義」なんだろうが「正義の規律」が明解ではなく、常に「利権にからむ謀略」と「欺瞞の行動」が演じられている。

 かくに民主主義という名の欺瞞思想は、誰かの謀略家達によって操作されているものだという事実も心得た上で、民主主義に代わるものを新しく確立するか、それに加える「何か」を探すことが必要である。
 その一例が英国型の「君主制度」でもあろうか? しかし「英国の姿に欺瞞政治がある」とすれば、日本古来の「天皇を中心とする思想国家」を作らねばならぬ。もしこれにも欺瞞性があるとしたら、欺瞞なき「君主教育」を考えていかねばならぬ。それには「太古神道の思想」が関与しなくてはなるまいということを強く提唱しておこう。これは「“もの”と心 = 心と身」が分離していない政治を求めるからである。

◎君主制民主主義国家日本にせよ
 いくら辞典を見ても「君主制民主主義国家」という言葉はない。しかし私(山蔭)は敢えて提唱する。
 『広辞苑』によると「君主とは世襲による国家の統治者・天子・皇帝」と述べる。
【註】、日本の天皇は2664年に及ぶ世襲君主であり祭祀王であられる。

 「君主制」とは、世襲君主による統治形態のことである。その中に、制限君主制(立憲君主制)と絶対君主制があると述べる。
 ニーチェは世襲君主に対して「貴族主義的道徳(同情・博愛・謙虚・宥和)」を君主の道徳を求めるが、日本の天皇は2664年の長きに及び、此の君主道徳が日常性として守られてきた。

 
昭和天皇御製 『我が庭の 官居に祭る 神々に
                世の平らぎを 祈る朝々』
 (昭和50年)

 勿論、日本の「貴族政治にも攝政」がいて、君主専制は厳しく制限されていた。
その平安時代の君主制度は、武家政治(676年間)にとって替わられ、天皇の君主権は「行政」に及ぶことなく、ひたすら「祭祀王」として、将軍以下の官人(武家大名を含む)に位階の授与・名誉の授与をするだけで、また全国主要神社に「官幣」を授けることをしてきただけである。

 民主主義とは、一国の主権が人民にあるとする主義である。この語源はギリシャ語の「デモクラティア(demokratia)」からきている。demos(人民)とkratia(権力)とを統合したもので、人民が権力を所有し、権力を自ら行使することができる。これがdemocracy(民主主義)という英語になった。

 素朴な民主主義は、ギリシアの都市国家で行われた「直接民主政治」を言うのだが、市民は限られた少数の公民であって、大部分が奴隷で構成されていたギリシャ社会では、現代民主主義とは全く異なる民主主義で、近世に至って起こった「市民革命」がもたらせた欧米型の民主主義は「基本的人権・自由権・平等権・多数決による法治主義を近世民主主義の属性とし、その実現が要請される」と『広辞苑』は述べる。
【註】、今、日本における憲法は「君主」という存在は許されておらず「象徴」とされている。即ち「国民総意の象徴」である。しかも国民総意の定義は、投票により選出された代議員(衆参両院の立法委員)の多数決により、これを国民の総意とする。その総意により「日本の天皇は、国民の象徴」なのである。

 「民主政治」とは、人民の意志(代議員の意志)に基づく政治のことであるが、この上に「君主制」なる語を冠せることは不可解なことなのだが、現在の天皇には「選挙権」が存在しない。と言うことは「天皇は国民ではない」のである。いや「特別の国民」である。それは、憲法第一章・第一条に定められる「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、その地位は主権の存する日本国民の総意に基く」とあるが、その「皇位継承者」は皇室典範の定める範囲の皇族であって、天皇と同じく「選挙権」は無い。これは「超越的な国民群」と定義してもよいのだろうか?

 ここまで考察すると「天皇は日本独自の君主(元首)」であられる。この「元首であられる天皇の性格」については明記されていないが『旧帝国憲法(大日本帝国憲法)の告文』には、
「皇朕謹ミ畏ミ 皇祖皇宗ノ祖霊ニ誥ケテ白サク」から始まる『告文』では、明らかに「祭祀王」の性格が明示されているが、『昭和憲法』にはそれが無い。もし「憲法改正」をするときは「天皇を祭祀王(宮中祭祀を国事)」として定めるような『前文または告文』を入れるべきである。かくて「君主制民主主義政体」ができ上がることになる。

◎国家学・国家論に日本民族の伝統思想を入れよ
 ここで、日本の伝統ということだが、ズバリ『日本神話』は日本の伝統であることを見直しをすることが「日本国家学」の基礎でなくてはならない。
 あまりにも、明治の日本人は「卑屈」になって、嘗て、日本に伝わっていた精神(日本の背骨精神)や文学を捨ててしまい「欧米化」を急ぎ過ぎた。勿論、これを急いだ理由は、欧米の植民地になることを防ぐための「富国強兵策」に端を発するものだが、あまりにも「英・独・仏」の価値観に溺れすぎた。だから戦前の「国学派学生」は優秀であったが「ドイツ学派(主に旧東京帝国大学系)の学生」からは軽蔑を受けていたことは否めない。

 皇學館大學(神宮皇學館)の卒業生は公務員として官幣社・国幣社の神職となり、莫大な国家予算をとり「神社建築」に力を注いだ。その一方、国民精神文化研究所のような研究所(主に官立大学系教授による)では「国家神道」を構築し「皇道学」などを唱えたのだが、国際的な論点(キリスト教との比較論)は構築することはなかった。かく明治以後の神道家・神道学者には国際感覚はなかった。
 つまり「神道国際化」が図られていない。その事は戦後になっても図られていないのが実情である。

 そこで「国際化」の定義だが、これは「キリスト教聖書」との比較でないと成立しない。ここのところを無視して「日本神道国際化」はあり得ないのである。それほどに「国際」とは「西洋思想の亜流」と言う意味なのである。今、民主主義を言うが、これだって「近世民主主義は西欧思想」であるから、これを認めるのなら、キリスト教の価値観の亜流に「先ず甘んずる」事をしなければ欧米人としは納得しない。其の結果、キリスト教に不足するものを指摘するなら、神道の優位性が確立するのである。
【註】、山蔭基央著『神道の現代的解義』は参考になろう。

 だから「国家学」も西洋思想の亜流となるが、そこから「日本国体学」を確立し、西洋国家学に不足するものを補う「国体学」でなくてはなるまい。嘗て「中国学(儒教)に認められない学問は成立しなかった」事を知るなら、今は西洋学(キリスト教神学)の亜流でないと学問が成立しない事実は知っておくべきである。その大きな理由に「人口比」がある。

 今や西欧人(及び西欧人系)の合計は約10億人位であろうか? その中でも「英語圏人」は強い。それに比べて日本人は1億2千万人である。譬え「経済力は世界第2位」と言っても「総合・合算した西欧人系の経済力は世界一」であり、日本は第4位〜第6位ぐらいに下がる。やはり、日本人は多数決の前では「少数勢力(マイノリティ)」である。

 西洋文明没落の時代だとは言え、日本文化が、それに代わり得る力ではないことを知るなら「日本国家学」は、先ず「亜流」としての「国家学」を立て、その不足を補うべきであろう。そうした意味で「アメリカの属国日本」という悲しい姿は避けられないのである。けれども西洋が没落している今、急遽、西洋近代学の欠陥を突くべきである。

 また、そうした視点で「日本神道」を解明し、更に、太古神道や古神道の伝承家の「家学」を解明するなら、壮大なる「神道宇宙論や人生論・国家論」が成立する。
 どうか古代からの「日本学」に対する毛嫌いや卑屈さを捨てて、明解に「古伝の家学」を現代学問の俎上にのせるべきである。
 勿論、ここでは「日本国体学の核心」に触れる論文は表示できないが、かく提唱だけしておくことにする。
       
(平成16年正月2日・記)


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