おねがい*ティーチャー SS (before story)

 「失われし日々」 〜 アバンタイトル 〜





【時空間変形総合研究所 研究グループ3】

カルーグはそう書かれたプレートの付いた研究室のドアを開けた。
わざわざこの為に合成されたきしみ音をたてて開くドアは、ここを訪れる数少ない訪問者に特別な感想をもたせるらしい。内部が数世紀前のインテリアを執拗に模写し、不安感を抱かせるようなうす暗い照明しか無い事もそれを補強する。
「メルカトルの幽霊屋敷」
この言葉から想像される以上に、室内の様相は非現実味を帯びていた。


「メッチ、どこにいる?」
幽霊屋敷のもう一人の住人である、相棒の名前を呼ぶ。だが返事はなかった。
カルーグは苦笑しながら奥に進んだ。相棒が返事をしないのは時々あることで、それは決まって何か面白いことを見付けたような時なのだ。

彼はいた。
そこだけが前世紀のインテリアからかけ離れた彼の机の周囲には、高速性能に特化した演算素子のブロックが山になって連なっており、それらの素子がそれぞれの結合から超分散処理をすることで、非常に効果的に演算を行う。
演算素子パッケージの山に囲まれた彼の仕事場を評して、皆は【メッチルケの電子の城壁】と称していた。
彼が殆ど趣味の知識で組み上げた物だが、この研究室では最速であることは間違いないし、予算が豊潤で新型高性能なモデルを使用している他の研究室を出し抜いて、論理演算スピードレースに優勝したことは一度や二度ではない。
一部では、滅多に姿を見せないその城の主を指して、「人間の姿をした電子部品」だと噂をするぐらい、中の様子は知られていない。

「入るぞ、メッチ」
カルーグが細心の注意をもってそびえ立つそれらのわずかな隙間をすり抜けるように近付いてゆくと、メッチはリクライニングした椅子にもたれて、半ば放心状態で、それでいてニヤケたような不思議な表情をしていた。

「どうした? 幽霊でも見たような顔をして」
「虚数空間に、実数の亡霊が出た・・・」
「何だそれは?」

メッチルケはカルーグにメインモニターの数式を示した。
ここ数日の間に二人がとりかかっていたのは、かつて理論で予測された11次元から成る高次空間の数学的表記だった。
これはビッグバン直後の超高温・超高圧のエネルギーのるつぼの中で宇宙が11次元として存在していた事を記述するもので、その後、なにかの原因でそれらの中の7次元分が無限小の広がりへと縮小し、それらが持っていたエネルギーが、現在我々が検知できる4次元空間に流出してインフレーション膨張を起こしたとする理論だ。だが、幾度となく数学的シュミレーションを重ねてもそれを実証する解は得られていなかった。
カルーグがモニターをのぞき込むと、そこに彼が設定したのは、重力ではなく斥力で歪んだ空間だった。

「なんだ、これは? こんな前提条件は有り得ないぞ」
「僕もそう思ってるさ、でも試しにセレスティアに計算させてみたらこんな解が出た」
かれはそう言うと、左手にはめた入力インターフェースを操作し、セレスティアと名付けられた彼の相棒が再び論理演算の演奏を奏ではじめた。
演算プロセスが進み、式が変形され、それはやがて一つの解の形に安定した。
式としては成り立ったが、空間の表現としては発散している。

「ここでな、こうやって」
更にメッチルケが式に条件を付加する。例えるなら、発散する空間の外側を逆の空間曲率の空間で2重に囲う。有限の広さの空間の中に、無限の質量と広がりを、無限小の大きさに内封する特異点。
それでいてその相互の空間に接点はなく、完全に独立している。

「式は成り立ったが、ハッキリ言って、判らん」
カルーグは端的に表現した。
「確かに」
簡単にメッチルケは同意した。


その後、二人でこの式の意味するところを求めて散々と式を変形してみたが、新しい解釈は得られなかった。



カルーグ・フェ・ラグルと、メッチルケ・ヴェルンの二人の研究はその後、サブスペースを経由した超高速通信と、星々の間の果てしなき虚空の距離を縮める超空間航法の基礎理論を発表した事で後の世に残る事になる。

だが、この時のディスカッションは論文には上がらなかった。


<続く>
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